ごめんね。何も出来なくて、ごめん。



 沈むように溶けるように、真っ暗闇の底無しへ、ずぶりずぶりと沈みゆく感覚。
「――きさん!!」
 水の向こう側から響くような、音が聞こえる。
 あまり馴染みのない、だが知っている声。
 誰だったっけ。
 思い出したのは、赤い色。それから。
 それから青い、青い色……?
「吹雪さん!!」
 ぐるりと天地が入れ替わる感覚、それとも奈落へ足を踏み外した感覚。
 眠りに落ちる一瞬のような途方もない浮遊感が、血のように生温い水がどろりと凝ったような、息苦しくて不快な感覚に変わる。
 その刹那。



 不意に背中に強い衝撃が走って、咄嗟に着いた両手でも支えきれず、吹雪は固い地面に顔から突っ込んだ。






for Little


失ってはならないもの







「い、ッたぁ……、――あ、あれ?」
 御影石より黒い漆黒の、地面は真っ平らで冷たくもないが金属のように硬質で、なのに水面のような波紋がいくつも浮かんでは消えていく。
 そしてその表面に、まるで鏡のようにくっきりと映っている、わけがわからず間の抜けた顔で鼻を押さえる吹雪自身と、引きつった顔で固まっているヨハンと、無表情で何故か片足を持ち上げている亮の姿。
「よし、起きたな」
 そう言った、亮の声すら無感動で。
 その瞬間、吹雪はすべてを理解した。
「全然よくない!! 今、僕の背中蹴ったでしょ!? おかげで地面にめいっぱい顔ぶつけたじゃないか僕の鼻が潰れたらどーしてくれるんだい!」
 弾かれたように立ち上がって振り返って、吹雪は亮の胸倉を掴むと一息で捲し立てた。しかし詰め寄られた方は平然とした顔で見返すと。
「どうもなってないぞ」
「もしもの話! っていうか、どうもなってなくても痛いって!」
「ま、まあまあ!」
 はたと我に返った、ヨハンが大慌てで吹雪と亮の間に割って入った。
「吹雪さんの目が覚めて良かったよ、本っ当に!」
 その妙に力のこもった声に切実な何かを感じて、吹雪は訝りながらも渋々黒いコートを解放する。
「それで……ここは何なんだい」
「ダークネスに取り込まれた」
「ああ、そうだっけ」
 そうだった、藤原にデュエルで負けてしまったのだった。
 亮に即答されて吹雪は、改めて周囲を見回した。
 真っ平らな地面、真っ平らな地平線。まるで真っ黒な水のような真っ暗闇の地面は、凪の海にしか見えなくて今にも飲み込まれそうなのに、足場としてまったく問題なかった。
 それでも、もしかしたら蹴り起こされる寸前まで溺れていたのは、この海なのかもしれない。
「ってことは……今の僕らって消化不良……?」
 デュエル中に交わした藤原との会話が思い出されて、思わず吹雪は呻くように呟く。
「何の話だ」
 何とも言えない顔で黙り込んだヨハンの横で、亮が怪訝そうに目を眇める。
「うーん……僕にもよくわからないし、ここで考えても仕方ないから、いいよ」
 何にせよ、ここに十代はいない。
 今はそれで充分だ。
「そうか。何でもないのなら行くぞ」
 ずるずるずる。
「うん――え、えぇ?」
 応じようとして、思わず吹雪はぎょっと目を見開いた。
 さっさと歩き出した、亮の後ろに何かがぶら下がっている。
 というか、引きずられている。
 黒いコートの後ろ襟をしっかと掴まれて、しくしくと泣き濡らしながら仰向けでずるずると引きずられている……
「あの、ヨハンくん」
 ひとしきり立ちつくしてから吹雪が振り向くと、ヨハンは素早くあさっての方向に視線をそらしてしまう。
 ――こうなれば本人に直接訊くしかない。
 吹雪は小走りで追いつくと、意を決して黒コートの背に声を掛けた。
「亮」
「何だ」
「それ、どうしたの」
 立ち止まって面倒くさそうに吹雪を振り返った亮が、吹雪の指し示すまま視線を向けた。すぐ後ろに。
「藤原がどうかしたか」
 彼が後ろ手に引きずっている、眠りこけたまま泣いている藤原に。
「それ、何で引きずってんの」
「置き去りにするわけにはいかないだろう」
「引きずるのはいいの?」
「どうやっても起きないものはしょうがない」
「起きないんだ、藤原……」
 ああ、ということは藤原もしっかり蹴られたに違いない。しかもおそらく、一回では済んでいないに違いない。
「うぅ……オネストぉ……ぐす」
 幸か不幸か、本人は夢の中だから気づいていないだろうけど。だから目覚めない藤原が泣きっぱなしなのも、亮に蹴られたからとかではなくて、きっと泣きたくなるような夢を見ているからだ。
 ああ、藤原はあの天使の精霊と、ちゃんと仲直りできただろうか?
「話はそれだけか」
「え、あ、うん」
「なら俺は行くぞ。まだ翔が見つかってない」
 ずるずるずる。
 吹雪との会話をすっぱり片付けてしまうと、涙まじりの寝言を垂れ流す藤原を引きずりながら、亮は再び歩き出す。
 ――あれ、もしかして僕が拾われたのも翔くんを捜してたついで?
 ふとそう思ったが、しかし吹雪は口に出すことをやめた。考えることもやめた。
 とりあえず明日香を捜そうと思うだけにとどめた。
 きっとそれが正しいのだ。
 と。
「あのさ吹雪さん」
 こっそり吹雪の袖を引いて、小声で囁いてきたヨハンはやけに神妙な顔をしていた。
「何だい」
「ヘルカイザーってあんなんだっけ? なんか俺が半年くらい前に見たのと全然違う気がするんだけど」
「あー、亮はねえ……」
 半年前というとレインボー・ドラゴンのカードを異世界に送り届けるために行われたデュエルのことだろうか。しかもデュエルとなれば、亮のテンションはすっかりヘルカイザーになっているはずだ。
「何て言うか、まあ、もともとはああいう感じなんだよ。ヨハンくんも蹴られたのかい?」
「俺はすぐ目ぇ覚めたからギリギリセーフ。でもあいつは……」
 何処か申し訳なさそうな、憐れむような眼差しをヨハンが、引きずられている藤原へ送る。
 きっとヨハンも、何も出来なかったに違いない。
「あれって、怒ってんのかな」
「そういうんじゃないと思うよ、亮がさっき言ってたとおりで」
 そう、亮には藤原への悪意などないだろう。
 これっぽっちもないだろう。
 吹雪は背中に残る、微かな痛みに深くため息を落とした。
 無事に元の世界へ戻れた時、果たしてこの記憶は残っているのだろうか。
「オネストぉ……」
 ずるずるずる。
 死にかけから奇蹟的な回復を果たした病み上がりの分際で、ひと一人を引きずって歩く亮の足取りは、至って普通で快調だった。
「……ごめん、藤原」
 吹雪も、これ以上は突っ込めそうになかった。















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しかし実際は、亮は藤原を蹴ってなどいなかったのです。
吹雪さんは膝をついて座ってる体勢(だから蹴られて顔面ダイブ)で、蹴りやすかったから蹴っただけなのです。あえて理由を付け加えるなら、片手は藤原で塞がってるし、かといって藤原を下ろすのも面倒だったので、足が出ただけなのです。

胎児のポーズで丸まって転がっていた藤原は、とりあえず胸倉掴んで往復ビンタ。