それを思い立ったのは、もう日付も変わり、平日には充分に深夜と呼べる時間だった。
緊急の連絡が入った時のために立ち上げっぱなしにしてあったパソコンの前に座り、キーボードの脇に置いてあったゴーグル型のFMD<フェイス・マウント・ディスプレイ>を被る。専用コントローラーを動かして、スリープモードが解除されたデスクトップに現れた『ザ・ワールド』のアイコンをクリックし、そして――ログイン。
最後にログアウトしたΛ<ラムダ>サーバーのルートタウン、文明都市カルミナ・ガデリカのカオスゲートに降り立つとすぐさま、仲間の名前が並ぶメンバーリストを開くと、少し考えて数人に宛てて、藁にも縋る思いでメンバーコールを送った。
The World
〜現実的非現実世界〜
即座に届いた返信は、相手が現在ログイン中ではないことを知らせるシステムメッセージが数通のみだった。
望みを託せるとすればパソコンを立ち上げてはいるらしい現時点で無反応の面々だが、席を外しているのは間違いない。
「はぁ……」
深々とついたため息も、マイクは律儀に拾い上げてくれたようだ。
放置していると、自分の分身たるPC<プレイヤーキャラクター>はぴょんぴょんと跳ねるアクションを繰り返す。そのたびに石畳を叩く音がスピーカーから聞こえて、ふと今の自分は何をやっているのだろうと途方に暮れてきた。
他にはありえない緋色のPC、しかもその鮮やかな色合いも相まって、このPCは自分が思っている以上に目立つらしいと、いい加減わかってきた。こんな店もない行き止まりをちらちらと見に来るPCがいるのは、おそらく自分の姿を見つけたせいだろうと察しがつくくらいには。
平日深夜ということで翌日が休日である日に比べれば閑散としているが、それでも人は多い。寸暇を惜しみ、睡眠時間を削って中毒のように接続している者も少なくはないと聞く。それは奇妙なトラブルが相次ぎ、秘やかに意識不明者の噂が流れる今でも、皆無になることはないらしい。
カオスゲートのある大通りから目線を外し眺めた背景――ファンタジックな摩天楼に色とりどりの輝きが煌めくカルミナ・ガデリカの夜景は、しばらく前から虫食いのような無惨な姿に変わり果てていた。今『カイト』が立っている石畳さえ、それは同じことで。
グラフィックもBGMも欠落して、本来の姿は今、この『世界』の何処にもない。
ふと、もう一度メンバーリストを開いた。ずらりと並んだ名前の中から、リストの最初にある名前を選択する。
カイトが初めて交換したメンバーアドレス。
カイトをこの『世界』へと誘った、親友のもの。
けれど、どんなメッセージを送っても、返ってくるのは変わり映えしない、不在を告げるシステムメッセージのみ。いつも。
それはそうだ、だって彼は、病院にいるのだから。
病院のベッドで、あの日からずっと、眠り続けているのだから。
――昏睡を知らされた、あの時の寒気がまた、首筋を撫でた気がして。
急いでFMDを外して立ち上がり、カーテンを乱暴に引っ張って窓を開ければ、十二月になって冷え込んだ夜気が、やはり寒かった。
ゆっくりと大きく息を吐く。
こんな寒さは、どうということもない。
何となく苛立ってきて、八つ当たり気味に窓を乱暴に閉めてみたが、少しくらい大きな音を立てたところで誰に咎められることもない。あるはずがない。
パソコンに戻る前に、机の上に置き去りにしていた、現時点における最大の難敵を拾う。キーボードの上でぱらぱらとページをめくってはみたが、すぐにひっくり返してしまうとFMDを被り直した。
「あーあ……」
そうして、気がつけば十分が経過していた。
こうなっては腹を括るしかない。
泣きたくなるような思いで覚悟を決めようとした、その時。
ぽん、と軽快なチャイムが、メンバーコールの着信を告げた。
「まだいるか?」
返ってきた遠慮がちのコールは、複数の意味だろう。まだ必要なメンバーは不足して待機しているのか。もう一つは、今もログインしているのか。待ちわびた返信であったが、そのメッセージの主に目をやって、コールを返すことに一瞬の躊躇が生じる。だが、背に腹は替えられない。自力では、もはやお手上げだった。
「まだいるよ。実は助けてほしいことがあるんだ。僕はカルミナ・ガデリカの、プチグソ屋の反対側にいるから」
そう返事を送って、視界をカオスゲートの方に向ける。
間もなく、彼は姿を現した。
身に纏った鎧も少しはねた髪も、そして翼も、それらのほとんどが白で彩られた剣士のPC。
――バルムンク。
彼と和解できたのは、それほど前のことではない。だが、顔を合わせるだけであれば随分と前から何度もあったし、今では自他共に認める相棒のブラックローズ同様に、頻繁に連絡を取り合うこともパーティを組むことも多かった。意識不明に陥ってしまった、カイトにとっては親友を、バルムンクにとっては相棒を、助けたいと思う気持ちは同じなのだ。今はもう、以前の亀裂や、ぎこちなさを引きずるような空気はない。
が、距離が縮まったからこそ、理解したこともある。
彼の性格は生真面目で、不正を嫌い、また潔癖であるということ。そして、『ザ・ワールド』内で無闇にリアルに触れる話を口にすることを、好ましく思っていないらしいということ。
その彼が、こんな頼み事を引き受けてくれる自信はなかった。むしろ断られる可能性の方が遥かに高いだろうと予想している。
「実はさ、バルムンクって僕より年上だと思うんだけど」
それでも今は、言ってみるしかない。
「もし今から時間が大丈夫だったら……」
時計の長針は今日に入って一周目を、もうじき終える。
意を決し、息を吸い込むと、カイトは頭を下げた。
たまたま、だった。
そのコールが届いた時、パソコンの前を離れていた。
いや、部屋にもいなかったのだ。
ティーバッグを放り込んだカップに沸かしたての湯を注いで、こんな夜遅くにストレートも何だからと、茶葉を上げた後に少し牛乳を足した。やかんを火に掛ける時間、紅茶を抽出する時間、あわせて十分程度だろうか。既に眠りについている家族を起こさないよう静かに後始末をして、湯気を立てるカップを片手に自室に引き上げて。
ミルクティを口に含みながら、デスクトップを覆っていたスクリーンセイバーを、マウスを小突いて解除する。と、青い枠に乗ったステータスやシステムウィンドウに囲まれて、緻密なCGグラフィックで描かれた夕暮れの草原が画面いっぱいに現れた。
その手前には、天使のような真っ白い翼を背負った、手甲と足甲の紺青以外は白ずくめの青年剣士が突っ立っている。
これが『ザ・ワールド』における自分。
だが、真っ先に目を引いたのは見慣れた分身ではなく、ログだった。
メンバーコールの受信を告げるログ。
もともと積極的にアドレス交換をする性格ではなかった。人付き合いに達者であると言えないのも、人当たりが良いと言えるわけでもないのも、自覚している。
しかも、相棒のオルカと難関イベントをクリアし、その一部始終を目撃した人物から『フィアナの末裔』と名付けられて以来、二人は『ザ・ワールド』でも指折りの有名PCとなってしまったのだ。元から社交的だったオルカはともかく、下手な交流は無用のトラブルを招きかねないこともあって、孤高に寄ることを選んだ。
それ故に、バルムンクにメンバーコールを送ることが出来る人物は、非常に限られている。
案の定そのコールの送り主は、このところ暇さえあればパソコンを立ち上げっぱなしの上『ザ・ワールド』にもログインしっぱなしにしておく理由と、最も深く関わっている人物だった。
タイムスタンプを確認すると、もう十分も経過している。
慌ててまだ中身の残っているカップを傍らのデスクに置くと、FMDを被った。そして返信を送り――折り返し助けてほしいと頼まれ、急ぎルート・タウンに、カルミナ・ガデリカに向かったのだが。
「勉強、教えてほしいんだ!」
鮮やかな緋色の少年双剣士が挨拶もそこそこに発した、これは予想外だった。
あまりにも。
「何……?」
あまりにも予想外の内容に、バルムンクは声が上擦るのを押さえきれない。
「小テストがあるんだけど、実はどうしてもわからないところがあって」
PCのグラフィックは一定の型にはまった範囲でしかない。最も如実にプレイヤーの感情を伝えるのは、電話とは比べものにならないほどクリアに響く、この生々しい声音だ。たとえ変声機を通しても、声を発しているのは人間なのだから。
ただ立ち尽くしているだけのPCの、声が切羽詰まっているように。
「……始めに、言っておきたいことがある」
少しの間を思案に費やしてから、再び口を開いた。
慎重に言葉を選びながら念頭に置くのは、過去何度となく言われたことがある相棒の言葉――物言いが無駄にストレートできついと。性分とはいえ、どうにも話をこじらせやすいことはカイトと初めて出会った時の件でも痛感している。
その自分が上手く言えるか、不安もあったが。
「俺は、ゲームの中には、あまりリアルを持ち込みたくない」
「やっぱり、そうだよね……」
再び訪れた、どうしようもないほどの沈黙が重苦しい。
沈黙はログに現れない。そのまま両者のキャラクターは待機状態のモーションに移ったので、何も動いていないわけではない。BGMは流れ続けているので無音でもない。
だが、この数十秒は、沈黙以外の何物でもなかった。
「えっと」
――失敗したと、悟った。
「ごめん、いきなり変なこと言っちゃって……」
無理に笑ったような、たどたどしい笑い方で。
「親には訊けないのか?」
咄嗟に返した問いは、紛れもなくリアルを問う内容だったが、腹を括る。今は相手を限定してメッセージを送っているのだから、タウンの中だろうが他人に内容が漏れるわけでもない。
「うちは、その、いつも帰ってくるのも夜遅くて」
「そうだったのか」
つまり、今のカイトは家に一人か、それとも親は寝静まった後か。
そう推測したのだが。
「だからヤス――オルカがあんなことになったのに、僕の母さんはまだ何も知らないから、こうして自由にゲームが出来るんだけどね。クラスには結構、親にやめさせられてるって言ってた人が多いんだよ。CC社の公式発表が何だって、未帰還者は増えてるし、身近にそんな人が出たら不安になるのも仕方ないしね。でも僕の方も、成績があんまり落ちると母さんに怪しまれて、気づかれるかもしれなくて、それで」
いつにない早口でカイトが捲し立てる内容に、漠然とながらバルムンクは引っかかりを覚えた。
「おまえは確か、中二だったな。オルカと同じで」
そして思い出したのは、ここ最近のカイトの接続時間だった。
昨日今日と立て続けに情報が舞い込んできたので、ウィルスバグが多数発生しているエリアの調査に、夜遅くまでこの少年が掛かりきりでだったということを。たとえ志を同じくする仲間がどれだけ増えようと、ウィルスバグに対処できるのは『腕輪』所持者であるカイトただ一人、これだけは揺るがし得ないことだ。そのカイトの助けになりたいと思って、バルムンクは協力することを選んだ。
だが、長時間の束縛が彼のリアルに与える負担を考えたことがあっただろうか。本来はリアルに無理が出ないように遊ぶのがゲームだが、今の状況は、それを許してくれるほど甘くはない。
「う、うん、そうだけど」
考え込んでいるうちにすっかり落ち着きを取り戻したバルムンクに対して、今はカイトの声の方が狼狽をはらんでいる。常ならば相手が正体不明のハッカーだろうがシステム管理者だろうが、まったく物怖じせずに凛と交渉を展開する彼が、ここまで萎縮するのも珍しいような気がした。
そんなことを思ったところで、バルムンクは何に対してか苦笑じみたため息を一つつくと、
「で、教科は何なんだ?」
FMDの影で口の端に笑みを浮かべた。
「先に言っておくが、俺は人に物を教えるのはかなり下手だからな、期待はするんじゃないぞ」
苦笑いのような照れ笑いのような、曖昧な笑みを含んだバルムンクの声が聞こえる。
「え?」
その言葉の意味が理解できたら、ひどく間抜けな声がカイトの口をついて出ていた。FMD内蔵のマイクは短い音も拾い漏らさなかったようで、会話ログにもしっかりと残ってしまっている。
「ええっと、数学、です」
自分はこんなにも呆然としているのに、その自分の頭の何処かは、ちゃんと答えを返していることが不思議だった。
「単元は何をやってるんだ?」
「あ、ええと……証明、図形の……」
慌てて放り投げていた数学の教科書を拾い上げると、折り目を付けていたページを探し出す。前半の辺りと違って何の書き込みもされていない、まっさらなページを。
「証明か、だったらコツを掴めば楽勝だ。あれはパターンだからな」
「そうなの?」
「まあな。そろそろ行くぞ、ここに長居は出来ん」
バルムンクに促されて、カイトも思い出した。
カルミナ・ガデリカのこの場所は、店の大半がある辺りとはカオス・ゲートを挟んだ反対側で、こちら側にはプチグソ屋しか存在しない。そのため待ち合わせなどにも利用されやすい場所なのだが、今この周辺にたむろしている何人ものプレイヤーは、ほぼ間違いなく、そういった類ではないだろう。しかもバルムンクが来る前より、随分と増えているようにカイトには思えた。
さもありなん、こんな時間まで繋いでいるようなプレイヤーで『フィアナの末裔』を知らぬ者は、皆無と言っても過言ではないだろう。それでなくても一目でバルムンクとわかる、彼だけが持つ真っ白な翼のグラフィックは目立つのだ。
そして、そのバルムンクと一緒にいるのが、いつの間にか知る人ぞ知る有名PCになりつつあるという、これもまた目立ちやすいイリーガルな緋色を纏ったカイトなのだから。
「とにかく適当なワードに入ってしまおう」
「そうだね」
素早く二人パーティを組むと、タウンの中心にあるカオスゲートまで走り抜ける。なるべく高レベルで実入りが乏しいフィールドになるワードを選ぶのは、万が一にも他のプレイヤーが入ってこないためにだ。
「有名税も結構大変だね」
晴れた夜の草原に降り立って開口一番、カイトが笑った。
「まったくだ」
さすがにバルムンクは物見高いプレイヤーから注目を集めることにも慣れているが、平気なわけではない。有名PCという存在に好意的ではない者は、日本の『ザ・ワールド』に接続する数百万人というプレイヤーの中にもいるのだ。嫉み妬みもあればミーハーじみた理由もあるが、面と向かっての不躾な態度に不愉快な思いをした経験も一度や二度ではなかった。人づてに聞きつけて集まっている者の中に、そういったプレイヤーがいないとは言い切れない。
『ザ・ワールド』を始めたその日にこんな大事件に巻き込まれてしまったカイトには、無理かもしれないが、いきなりそんな煩わしい思いはしてほしくないと、今更バルムンクは思う。
オルカがいないことも、カイトがゲームをゲームとして心から楽しめないでいることも。
こんなはずではなかったことが、今、たくさんある。
そう。この『世界』は、『ザ・ワールド』はゲームだが、今抱えている問題は単なるゲームのクエストなどではないのだ。
「終わったー!」
思いっきり伸びをしたカイトの背後でチェアの背もたれがぎしりと音を立てたが、高性能なFMDのマイクはノイズをログには拾わなかったようだった。
「すっごく良くわかったよ、本当にありがとう! バルムンクって頭良いんだね、優等生?」
「こら。声がでかいぞ」
浮かれる気持ちもわかるがとバルムンクが一応程度にたしなめる。
二時も間近という時間は、かなりの深夜だ。
「平気平気。家、誰もいないから」
「こんな時間なのにか?」
「僕は一人っ子だし、母さんは仕事が忙しくて滅多に帰って来れないから、仕方ないんだ」
何でもないことのような軽い口振りとは裏腹の内容に、バルムンクは咄嗟に父親はと訊ねそうになった言葉を飲み込むことは出来たが、咄嗟に場を繋げられるような話題も思いつかず、そのまま喉を凍りつかせてしまった。
「バルムンク?」
突然の不自然な沈黙に訝った刹那、カイト自身も口を滑らせたことに気づいた。
自分が中学二年だということは今や仲間の大半に周知になりつつあるので、年上の仲間から親に何か言われたりしないのかと気遣われたことは、今までにも何度かある。
いつもは、平気だよと笑って誤魔化していたのだが。
「いつものことだから、気にしないで」
このことは、ブラックローズにも内緒だよ。
子供のたわいない内緒話のように、笑いながらささやく。
「ああ、触れ回るつもりはない。だが気にはなるよ」
FMDがなければ頭を抱えたいところだと、バルムンクは自嘲した。
「カイト。おまえ、ちゃんと授業を受けているのか?」
教えているうちに気づいたことだが、カイトは決して飲み込みが悪いわけではない。むしろ良い方に入るだろう。少々の手がかりを教授しただけで解法を見つけ出していくのは、以前に級友から教え方が無茶苦茶だと評されたことのあるバルムンクにとっても心地よいほどだった。
だがしかし、これだけの理解力があれば学校で問題はないはずである。
案の定、乾いた笑いが返ってきた。
「あ、ちょっとだけ……ちょっと、眠くなることはある、かな」
「ちょっとどころじゃないんじゃないのか」
今夜ざっと勉強を見た範囲は、一つの単元丸ごとに近い。ほんの数回の授業で習い終えるものではないはずだ。躓いているのが数学だけではないことも、想像に難くなかった。
「無理はするな、というのも無理かもしれないが、さすがに心配になる。家におまえ一人しかいない日が多いのなら、なおさらだ」
でも、と弱々しい声を彼のマイクが拾ったのに気づいて、バルムンクは無性にもどかしさを感じた。
「少しでも早くオルカたちを助けたいという気持ちは俺だって同じだ。焦りたくなる気持ちもわかるつもりだ」
声しか、届かないのだ。
「だが、そのためにカイトが背負い込みすぎるのは、駄目だ」
この『目』には確かに見えるのに、たとえば手を伸ばしても、何も触れない。
何の感触もない、何処にも実在しない『ザ・ワールド』。
それでも、この『世界』が繋いでいる。
「ちゃんと自分のことも大切にしてくれないか。オルカが今のおまえを知ったら、まず間違いなく心配するぞ。俺も、ゲームとリアルの線引きなんかより今は、カイトのために出来る限りのことをしたいと思う」
「僕の、ために……?」
「そうだ」
だから。
「俺に出来ることなら、『ザ・ワールド』以外のことでも手伝いたい」
この『世界』は、繋がっている。
現実と虚構の境界線は、何処にあるのだろう。
いったい何を虚構と呼べばいいのだろう。
今の自分達は、何処にいるのだろう。
この虚構世界で起きている、すべては現実なのに。
すべては、現実でしかないのに。
ありがとう、と。
そう言ったつもりだったのに、それはちゃんとした言葉として声にはなっていなかった。
「カイト?」
言葉の代わりにこみ上げた嗚咽で、初めて自分の頬を伝うものに気づいた。視界がぼやけて滲んで、何も見えなくなっていたことに気づいた。
――ずっと息がしにくくて、苦しくなっていたことに気づいた。
カイトは邪魔なFMDを外すと、手で乱暴に目元を拭う。
それでも止まらなくて、どうしようもなくて仕方がなくて、部屋にほったらかしだったバスタオルを引き寄せて、顔を埋めた。
止まらない。生温い涙が、染み込んだ痕は少し冷たかった。
ずっと泣いたことはなかったのに。
あの時も、意識を失って病院に運ばれたと電話で知らされた時も、たった一人で真っ白な病室で眠っているのを見た時も、泣いたことはなかったのに。
ただ、寒かった、だけなのに。
しんと静まり返った部屋の中で、自分のくぐもった嗚咽とパソコンの微かなカリキュレーションノイズがうるさくて、それでもその小さな小さな声は、はっきりと聞こえた。
「大丈夫」
FMDのイヤホンに耳を寄せる。
「大丈夫だ」
何が、とはバルムンクは言わなかった。
ただそれだけを、ひどく優しく聞こえる声で、何度も何度も繰り返していた。
「ごめん」
しばらくして、ようやく落ち着いて、FMDを被りなおす。
「何を謝ることがある」
「泣いたから」
ずっと泣いたことはなかったのに。
どうして涙が止まらなかったのだろう。
ただ、ひどく寒かった、それだけなのに。
「おまえが謝らなくていい」
そして唐突に、バルムンクが今からメールを送ると言った。
「番号を送る」
「何の?」
「俺の携帯。無理に掛けなくていい。何かあったら、カイトが掛けたくなったら掛けてくれれば、それでいい」
「どうして……」
それがリアルのことを話すとか、そんなレベルではないことはカイトにも理解できる。名前だとか、何歳かとか、男か女かとか、どんな家族がいるかとか、何処に住んでいるかとか、今日どんなことがあったかとか、そんなレベルではないと。
だって、たとえばブラックローズのことだって、本名も知らない。
知っているのは、そう、今は病院で眠り続けている親友の――
「とっておきのおまじない、なんだそうだ」
その時、メールの着信を告げるチャイムが鳴った。
永い永い夜が明けるまで、もう少し。
お題no.8「境界」。混じりあう現実と非現実の境界。曖昧な境界線。リアルの定義。
意識不明になり病院で眠る未帰還者、自我を持ち思考するAI、アウラがカイトに託した『黄昏の腕輪』。エマが書き残した未完成の『黄昏の碑文』、ハロルドが愛したエマ、ハロルドが『黄昏の碑文』を基に作り上げた『ザ・ワールド』、その『ザ・ワールド』で生まれた『娘』、『Twilight』の意味、『ザ・ワールド』の本当のルール。
そして、バトンを受け取った者、『黄昏』事件に関わったパーティ、後に云う『ドットハッカーズ』。
この話を最初に思いついたのは去年、vol.3発売後でvol.4発売前の頃。この話の時期も、その頃。
「SIGN」の司もアニメ版「腕伝」のシューゴも父子家庭なので、それに倣ってカイトを母子家庭に。これはこの話を最初に書いた時から考えていたので、別にデジモンの影響ではないです。今更でも最後まで書き上げてみようと思ったのは、映画「ぼくらのウォーゲーム!」に触発されたかなとは思うんですが(笑) でも小説「AI buster」を読み直した以外ほとんど当時の記憶を頼りに書いたので、ゲームの設定とか間違っているところもあるかもしれません。
話の締め方は決めてなかったので、改めてvol.4以降の二人の関係を考えながら書いてみました。ED以前の二人にリアルでの交流が出来たら、バルムンクもオルカのお見舞い行けるなぁとか思いながら。
>小説用設定
カイトの家は、中流の上くらいで広い家を想定。ほとんどの時間を一人で過ごすには少し広すぎるかもしれないくらい、普通に立派な家。金銭面ではまったく不自由なし。母親は若くてパワフルで仕事人間。
バルムンクの頭の出来は、いわゆる「見たらわかっちゃう」に近い天才タイプで、そのせいで答えに至る過程を上手く順序立てて説明できない人。イメージ的に帰国子女。
>おまじない
「SIGN」でクリムが、不安定だった頃の昴にそう言って電話番号を教えました。