最後まで後ろを気にしていたガイに笑って手を振って送り出せば、辺りは一気に静まり返った。






逝者の手






 すぐ後ろは海なのに、波の音もしない。
 キノコがぽふんと胞子を吐き出す音すら、はっきりと聞こえる。
 もう、誰の背中も見えない。
 くたりと力を失って沈んでいく腕の重みに任せて枯れ果てた倒木に腰を落とせば、降り積もっていた胞子が何年分もの埃のように、もうもうと舞い上がった。
「ご主人様ぁ」
「ん? あー、わりぃわりぃ」
 足下でけほけほと咳き込みながら情けない悲鳴を上げたミュウを、ルークは苦笑して膝の上に抱き上げる。
 煙るような大量の胞子は、視界すら不気味な色に染めてしまう。チーグルの青い毛に絡んだ胞子を軽く払ってやると、ミュウはくすぐったそうに小さく首をすくめた。
「何ニヤニヤしてんだよ」
「みゅっ、してないーですのー!」
「ウソつけ」
 頭を撫でていた手に少しだけ押さえ込むような力を込めると、ぐりぐり振り回される頭にミュウがわたわたしながら逃げようとするが、そもルークの膝の上に座り込んだままでは、それもあまりに無駄な努力だ。
 きゃあきゃあと今度は間の抜けた悲鳴を上げているミュウに、ルークも声を立てて笑っていたが。
「みゅ?」
 それが、唐突に途切れて。
 ふつりと動きを止めてしまった手に、ミュウがきょとんと振り仰ぐ。
 ルークの視線はミュウに落ちているようで、ひどく遠くて。
「ご主人様?」
 どうして一瞬で、笑顔も何もかもすべて消えてしまうの。
 どうして、そんな。
「――何でおめーが、んな変な顔してんだっつのっ」
 と、弾かれたように吹き出したルークが、くしゃくしゃと荒っぽくミュウの頭を掻き回した。
「みゅうううぅぅぅ」
 じわりと手に残る、ぬくもり。
 こんなに小さくても指先に伝わる、体温、それに鼓動。
 生き物が生きている証。
 ルークは恐る恐る両目を閉じる。
 真っ暗になる。
 何も見えなくなる。喉の奥にこびりついていくような障気の、色も何もかも。
 今も膝の上に抱いている小さな小さな体温がなければ、凍えてしまいそうなほどに。
「みんな、何処まで行ってんだろうなぁ……」
 急いで目を開いてそんなことを呟いたのは、少しだけ寒かったから。
「ここからだと、ちょっと遠いかもしれませんですの」
「そうなのか?」
「海のすぐ近くにはないはずですの」
「へえ。ってか、もしかしなくても、おまえ知ってんのかよ?」
 長ったらしい名前のキノコ――確かそう、ルグニカ紅テングダケとかいう名前のキノコの、ありそうな場所を。
「ミュウはこっちの方の森に住んでたですの。だから知ってるですの」
「あー、そっか、ここら辺ってあの森からは北になんのか……」
 あのチーグルの森を初めて訪れて、まだ半年しか経っていないのに、ひどく遠ざかってしまった気がする。
「ボクも一度だけ見たことあるですの。紅くて大っきなキノコですの」
「じゃあ、見つけやすいんだな」
「でも、そっくりで、もっと大きいキノコもありますの。そっちには毒があるですの」
「げ、マジかよ」
 膝の上で、短い手をめいっぱい振り回して説明するミュウのこの言葉に、さすがに一抹の不安が過ぎったが。
「アッシュは知ってんのかなぁ、あいつなら知ってそうだなぁ」
 こんなところにまで、来れるくらいだし。
「つーかさ、おまえもついてった方が良かったんじゃねぇの……?」
「みゅ? でもご主人様はここにいるですの」
 心底きょとんとした風に振り仰いできたミュウにとって、ルークと行動を共にすることは絶対的らしい。
「……ありがとな。でもそれ、アッシュには内緒だぞ?」
 彼が知ったら、さんざん皆にからかわれた後だし、さすがに怒らせてしまうかもしれないから。
 思わず苦笑いしながらルークは言った。
 一刻を争うほど差し迫っているわけではないとはいえ、出来ることなら少しでも早く母の元に薬を届けたい。それはもちろんルークも思っていることだが、母の状況を何処からか聞き知って、こんな秘境に駆けつけてきたアッシュの想いの深さは如何ほどのものだろう。
「みゅうう……ボク、行った方が良かったですの?」
「ま、大丈夫だろ。きっと。でっかいのに毒があるんなら、でっかくなきゃいいんだし。ジェイドだって一緒だし」
 難しい顔で考え込み始めたミュウの頭を、ぽんぽんと叩くように撫でて。
「俺も、ひとりで待ってなくてよくなったし」
 へらりと力なく笑い返した。
 自分のものではない誰かの体温、それに鼓動。
 それは、ひどく優しいものだ。
 だからこそ、この手から少しずつ、止めどなく失われていった重みの感触が、今もまざまざと染みついているのだろうか。
 嫌というほど知っていた。嫌というほど殺してきた。
 生きていることが跡絶えれば、鼓動が止まって、熱が失われて、かつて生きていた生き物は死体を遺す。
 けれど、彼は。
 死の沈黙も冷たさも残すことなく、ただやわらかな穏やかな微笑みだけを遺して、この手から淡い光になって消えてしまった。
 レプリカだから。
 すべての生体レプリカがそう死ぬとは限らないのかもしれない。彼の消滅は第七音素の乖離によるものだ。その乖離は惑星預言を詠まされたことで引き起こされたものだ。
 だが、それをジェイドに訊ねるのは、どうしてか憚られた。
 きっとジェイドは答えをくれるだろう。この上なく正しい答えを。
 それでも躊躇うのは、答えを聞きたくないからだろうか。
 それとも、問うことそのものが。
 そんなことを考えていると、知られることが。
 自分すら気づいていない、その奥にあるかもしれない何かを見抜かれることが?
 障気は消せる。
 大勢であっても世界の全員ではない数の命を殺して、自分の命を引き替えにして。
 彼は――イオンは、イオンのレプリカは、最期まで微笑んで消えていった。自身がレプリカであることを利用して、それ故の音素の乖離現象を利用して、ティアの命を蝕んでいた障気を道連れに。ルークに、ルークのレプリカである自分に、未来の一つを残して、微笑んで逝ってしまった。
 どうして彼は、あんな生き方あんな死に方を選べたのだろう。
 微笑んで、消えれたのだろう。逝けたのだろう。
 何の、ために。
 話をしたかった。声を聞きたかった。
 もっとずっとたくさん、たくさんの時間が欲しかった。



 けれどもう二度と、そんなことは叶わない。
 この声も手も、届かない。
 それが消えるということで、そして死ぬということなのだから。



 草や枯れ木を踏む音が近づいてくる。
「ご主人様!」
 ぱっと顔を輝かせたミュウが膝の上で小さく跳ねる。
 森の影から真っ先に見えたアッシュが眉間の皺を深くする。
 ほっと笑顔を浮かべたガイが小走りに駆け寄ってくる。
 ティアもナタリアもアニスもジェイドもいる。
 ――ああ、もう帰らなければ。
 のろのろと立ち上がると視界の端を、森の外の色が掠めていった。
 途切れた陸地の先にある、狭い空も海も、青くない。












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お題no.4「届かないと知りながら」。

死の淵に佇む人。死の淵を覗く人。死の淵に見つめられた人。
逝者。生者。聖者。逝った人。逝く人。来ぬ人。伸ばされた手は、いずれのものか。

※ dead hand = 死者の影響力。生者への圧迫感。