砂漠の街で迎えた、それは最後の夜に。
 オレンジ色の小さな灯りの中で、大好きな大好きな主人はそっと筆を置いて本を閉じると、透き通った声で呟いた。
「これが最後のページになっちまうのかな」
 その言葉に思わず呼び声をこぼせば、うっすらと苦笑いして振り向いて。
「なあ。ひとつだけ頼んでいいか」
 小さく小さく、静かな声で。
「全部終わったら、その時に俺がいなかったら――」
 やわらかな穏やかな、ひどく優しい、優しすぎる微笑み方で、そう言った。

 微笑っているのに泣きそうな顔に見えて、泣きそうになった。







君が空だった







 彼が使っていたすべての物を、遺品などと呼ぶつもりはなかった。
 だからこうして彼の物を片づけているのは、彼の家に彼よりも先に帰らせておくため、ただそれだけのことだ。
 崩壊したエルドラントでは今もキムラスカ・マルクト連合軍の一部が懸命の捜索を続けているが、あの日から五日が経っても、ルークはおろかアッシュの痕跡すら何一つ見つかっていない。遺体すら見つかっていない。
 ジェイドはあの日の翌々日にグランコクマへ向けて出立した。連合軍が申し出た捜索については短すぎる許可の言葉を一つだけ返した以外、何も言わず終いだった。最後まで、無駄とも無意味とも言わなかった。
 ナタリアもその二日後にバチカルへ帰った。帰る前に一度だけ白い瓦礫の山が臨める場所まで足を運び、レプリカ救済のための法律の、草案作りに取りかかると言った。少しやつれた、けれどナタリアらしい晴れやかな笑顔で言った。
 アニスは捜索に名乗りを上げた大勢の兵士たちを見つめて、一度だけ何かを言いかけて、やめた。イオンが最後に遺した譜石の欠片を、笑いながら沈みながら、ずっと握り締めていたアニスも同じ日にダアトへ帰っていった。
 ガイは父親の形見だという剣を携えて、今もあの場所にいることだろう。今よりも後のことは七日という期限を迎えてしまってから考えると、ほろ苦い笑みの出来損ないを浮かべて言ったのは、ジェイドを見送った時だった。
 そして自分は、こんなところで、何かを待っている。何かが見つかるのを待っているのかもしれない。何も見つからないことを待っているのかもしれない。――本当は、何もしていないのかもしれない。
 絶望を明確に突きつけるものは何一つとして見つからない。
 だが、希望すら儚いものでしかない。
 今も繋いでいる望みなど、結局は奇蹟でしかない。
 それでも、どうしても信じていたかった。
 ルークは帰ってくると約束したから。だから。
「勝手に中を見たら、きっと怒るわね」
 ぽつりと呟いてティアは、硬い表紙をそっと撫でた。
 すっかり角が傷んだ、一冊の本。
 彼の日記。
 七年前から医師に言われて書くようになったというそれを、誘拐以前の記憶は障害によって失われたのではなく本当は白紙だったのだと判明した後も、彼はやめなかった。
 ずっとずっと書き続けていた。
 彼が見たすべて、聞いたすべて、感じたすべて。
 ここにあるのは一番新しい一冊だけなので、しかもこの一冊も半分近いページがまだ白紙なので、そんなに以前のことまでは書かれていない。彼の素直な気持ちだけでなく、出来事が事細かに順序立てて書かれていたのが少し意外で、そういう書き方が染みついているのはやはり記憶障害と思われていた頃の名残なのだろう。
 この日記の、最初に書かれているのは。
 ページをめくったティアの手が、びくりと震えた。
 祈るように書かれていた言葉。
 ――残りの日記が、いいことだけで埋まりますように。
「っ、相変わらず、下手な字ね」
 ティアは咄嗟に嗚咽へと変わりそうになった吐息を無理やりに飲み込んで、そんな言葉と共に吐き出す。
 けれど、出会った頃と比べて、少しだけ上手くなった。いや、字を丁寧に書くようになったのかもしれない。彼には七年分の経験しかないことを考えれば、充分に上手い部類に入るのかもしれない。
 出会ってから、ずっと見てると約束してから、まだ一年も経っていない。
 何より彼は、まだ七年しか生きていない。
 そうだ、七年だ。
 たった七年なのだ。
 日記を閉じて、胸に抱きしめる。
 これ以上、見てはいけないと思った。
 読んでしまったらきっと、何度も何度も後悔するだろう。あの時ああすれば良かった、こうすれば良かった、もっとそうしておけば良かった、そんな風に思わずにはいられないだろう。
 たとえば自分を無闇に卑下しないでという願いが彼になかなか通じなかったように、彼が自らを追い込まずにいられない気持ちを知り尽くしているわけではないから。
 そもそも彼の気持ちを、彼のことを、どれだけ理解できていただろうか。
 けれど、そんな後悔の仕方はしたくなかった。
 と、その時。
「ティアさん!?」
 ソーサラーリングを使ったのだろう、少しだけ開いた扉の隙間から滑り込んできたミュウが、大きな耳を吃驚させた。
 ガイと一緒にエルドラントに行っていたはずだが、戻ってきていたのか。そう思ってティアが窓の外を一瞥すると、いつの間にか空は茜色に染まっていた。
「それ、ご主人様のですの? どうしますの?」
「どうって……家に、持って帰ってあげないといけないでしょう。だから片付けようと思って」
 いつまでもケセドニアにはいられない。
 七日という期限が、明日という日が、このまま何も見つけられないまま過ぎてしまったら、その後は。
「ご主人様の家に行くですの?」
「ええ、出来るなら、そのつもりよ」
「ミュウ、ご主人様にお願いされたことがありますの」
 転がるように駆け寄ってきたミュウが、ティアの足下から必死な目で見上げてきた。
「え……?」
「ご主人様の今までの日記は全部、鍵の掛かった棚の中ですの。だから、それもそこに戻してあげるんですの。でないと」
 でないと。
「ご主人様が帰ってきた時、日記が見つけられなくて続きが書けないですの」
 そのミュウの言葉に、ティアは大きく息を飲む。
 もう一度日記の表紙に目を落として、それからゆっくりと息を吐き出した。
「……ええ、そうね。本当にそうだわ」
 日記を片手に、もう片手でミュウをすくい上げると、ティアは扉の隙間から部屋を飛び出した。
 もう、ガイも戻ってきているだろうか?



 ルークは帰ってくると約束した。
 皆と約束したのだ。だから。



「そう。あの子は帰ってくると約束したの」
 日記の表紙を愛おしげに撫でながら、シュザンヌが微笑んだ。
 泣き疲れて悄然とした色が、暗く色濃く影を落としていたけれど。
「はい」
「だったら少しくらい帰りが遅くなっても、待っていなくてはね」
 私はあの子の母親なのだから。
 今にも手折られそうなほど儚いのに、そう言い切った彼女の微笑みは眩しかった。
 痛いくらいに。



 だから、この約束は生きている。



「これですの」
 ルークの部屋に入ってすぐさまミュウが引っ張り出したのは、すっかり変色して端もよれた絵本だった。
「ああ、こいつは」
 のぞき込んだガイが、懐かしそうに目を細める。
「俺が一番読まされた絵本だよ」
「ご主人様が一番大事な本って言ってたですの」
 答える声がミュウと重なって、ガイが吐息のように笑った。
「そうなの?」
 少女と、ライオンと案山子とブリキ人形が旅をしている絵本は、ティアの目には男の子の物にしてはいささか可愛らしいように見えて、少し意外だったけれど。
「ああ。一年目くらいの頃だったか」
 まっさらだった七年前のルークが、ようやく言葉を使えるようになった頃だった。
 赤ん坊のように泣きわめくしか出来なかった時期を通り過ぎた後しばらくは、どうしてか声で駄々を捏ねることは少なくて、じっと黙り込んだまま、ただひたすら見上げてくる緑色の瞳と、服の裾を握りしめる小さな手だけが訴えていた。
 そんな昔語りをしながら分厚くて固いページをぱらぱらとめくるガイの目は、本当に優しげで。
「こんなぼろぼろなの、まだ残してたんだなぁ……」
 つと、その目が軽く見開かれて。
「こいつが鍵か」
 ひょいとページに挟まれていた細い鍵を、伸ばした指で摘み上げた。
 日記を鍵の掛かる場所に仕舞い込むようになったルークは、鍵の隠し場所をガイにも教えてはくれなかった。もともと記憶障害が再発した時に備えるための日記とはいえ、壊そうと思えば簡単に壊せる作りの扉だったので、ガイもルークの意志を尊重したという。
 ずらりと並べられた日記を見るのは、ガイすら初めてなのだ。
「こうして見ると、凄い数だな……」
「七年分だもの……大したものだわ……」
 開かれた本棚の前に屈んで、ティアもほうと息をついた。
 これがすべて、彼の日記。
「そういやティアは、中を見たか?」
 最後の――いや、途中の日記を取り出したガイが、唐突にそんなことを訊ねてきた。
 ティアが怪訝に目を眇めながら見上げると、ひどく困ったような不思議な苦笑いを滲ませていて。
「……少しだけ」
「最後のページは?」
「見てないわ」
 するとガイは日記を開いて、ティアの前に差し出した。
 あの日の夜に、最後に書かれたページ。
 夜の海でのこと。この日記を読まれるかもしれないと思っていること。
 そして、一番最後の行には。
「ルーク……」
 手渡された日記の、その言葉を指でなぞる。
 ルークの日記。
 ルークがずっとずっと書き続けていた。
 ルークが見たすべて、聞いたすべて、感じたすべて。
 ルークがルークとして生きて生き続けて存在し続けているという、証のように。
 思わずティアは、呆然と上を仰いだ。
 いったい何と言えばいいのだろう、こんな。
「ありがとう、なんて」
 大きな窓に切り取られた小さな空は何処までも青ざめていて、ひどく目に染みた。
 思う存分に泣けたら、少しだけ楽になれるのかもしれない。
 けれど一度でも泣いてしまったら、本当にすべてが過去になってしまうような気がした。
 だから泣くのは、奇蹟などありえないのだと突きつけられた時だけ。
 それだけで、いい。



 長すぎた2018年が終わって、彼の墓碑が立てられたと手紙が届いた。
 そこに、ルークの物は何一つ収められていない。














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お題no.14「きせき」。

在処の軌跡。奇蹟の在処。
さながら貴石のような、涙の粒は落とさない。