たとえ絶望にすっかりとりつかれても、あたかも希望を抱いているかのように振る舞わなければならない。
さもなくば、自殺しなければならなくなる。







断章


〜夜の底の宝石〜







 出会いすら記憶されていたのなら、なんて出来すぎた必然。



 それは、部屋の扉が自分ではない誰かの手によって開けられた、ただそれだけのことだったのだけれど。
 ぺらりと頁をめくる音すらくっきりと聞こえるような、誰もいない静かすぎる部屋で、だからこそその音は恐ろしいほど大きく響いた。
 思わず息を飲むと、扉を開けた方も先客の存在に驚いたように目を見張ったが、すぐにやわらかな笑顔になった。
「ここで、初めて他の人を見ました」
 どことなく嬉しそうに、そう言って。
「……俺もだ」
 やっとの思いでそれだけを返すと、そんな戸惑いと混乱に気づいているのか、にっこりと向けられる笑みが強まった。
「でも、ここは一般信徒は立入禁止ですよ?」
 二つ三つは年下に見えるその子供が、その歳と声音には似合わぬ大人びた口調で、笑顔のままで言う。
「ここに行けと言われたんだ」
 真実を、自分で確かめたいのならば。
 たとい師と仰いだ彼の言葉でも、俄には信じられなかった。信じたくなかった。
 だから彼の指し示すままに、扉を開けた。
 答えを返しながら、この子供は何故ここにいるのだろうと思った。
 だって、ここは。
「そうですか。譜石を見てたんですね」
 ゆったりとした足取りで歩み寄ってきた子供の姿が、古代文字の刻まれた結晶体に映り込む。
「ここにある譜石が何なのか知ってますか?」
 まるで貼りつけたような笑顔で。
 本当に、子供らしからぬ。
「ユリアの預言の一部だろう。ちょうどここ十数年頃の」
 確かめたいことは、ここにある。
 表面を撫でるように指を滑らせたのは、ようやく見つけた時代を示す数字の連なり。
 すると、子供は右の手のひらを譜石の表面に押し当てて。
「――ND2018。ローレライの力を継ぐ若者、人々を引き連れ鉱山の街へと向かう。そこで若者は力を災いとし、キムラスカの武器となって街とともに消滅す」
 ごっそりと笑みの剥がれ落ちた顔で、詠うように呟いた。
 それはまさしく自分が触れたところに刻まれた、自分が辿り着いた、自分が読み解いているさなかの一文に違いなくて。
「おまえ、は……」
 呆然と呟きながら、ふと子供の左手にも譜石の欠片が握りしめられていることに気づいた。
 きつく、手の皮膚が白んで見えるほどに、きつく。
「ローレライ教団の導師は就任前に、伝えられているすべての秘預言を知らなければいけないんです。この、ダアトの霊廟で」
 その中には、導師以外の誰も知ることの許されぬ預言さえ、存在するから。
「この預言もその一つです」
 だからこんな古代遺跡の奥で、誰もいない霊廟の奧で、たった一人。
「最もこれは、キムラスカ王家には知らされている預言ですけど」
「そう、か……そういうことか」
 氷を飲み込んだように、喉が灼ける。
 冷たすぎる痛みが染み込んで、冷えていく手足が重たくて、重力に引かれるままその場にくずおれると、がくりと項垂れた影で口の端だけを嘲笑に歪めた。
「俺は、七年後に、死ぬのか」
 ――だから父は自分を愛してくれなかった? 最初から捨てられていた?
 長く紅い髪がこぼれて、視界に流れ込む。
 生誕の預言にも詠われた紅い髪。
 王族たる証の一つでもあったその色が、誇らしかったその色が、今は。
「もしかして」
 すぐ傍らに膝を屈めて言った子供の声は、ぞっとするほど虚ろな。
「あなたが、聖なる焔の光<ルーク>?」
 何かがごっそりと抜け落ちたような、そんなぞっとするほど虚ろな響きで。
 ただ、恐る恐るといったように触れてきた、震えたやわらかな指に誘われるように少しだけ顔を上げれば、大きく見開いた双眸すら震わせながら、子供はまるで形を確かめるように、包み込むように両手を頬に這わせた。
「あなたが、ルーク」
 予め定められた、犠牲。
 真実なんて、知らないままでいられればよかった?
 その刹那、堰を切ったように溢れ出したのは、とてつもない恐怖だった。



 そして世界はひっくり返る。



 ルークと呼んだ、聞き慣れた低い声に、師と慕った男の声に、どうしてか震えた。
「世界は預言の呪縛から解放されねばならぬ」
 自分と、自分もろとも捧げられる無辜の民の、屍の上に祖国は繁栄を約束されていたのだ。
「人が生まれながらにして犠牲となることすら宿命づけられ、それを当然のこととするユリアの預言など、あってはならぬものだ」
 それが、生まれた時から定められていた運命だったのだ。
「ユリアの預言から脱却すれば、未来は人々の手に取り戻される。しかしそれこそが、本来あるべき世界の姿なのだ」
 まるで歌のようだった。滑稽な悲劇のように愚かな喜劇のように舞台の上で。
「さもなくばユリアの預言のままに、世界は滅びゆくしかない」
 どうして。
 そんなものは言葉にも声にすらなり損なった、掠れた吐息だったけれど。
「私にはおまえが必要だ。ユリアの預言を完全に断ち切るには、おまえの力が不可欠なのだ。おまえを死なせるわけにはゆかぬ。故に、おまえを贋物とすり替えた」
 贋物。その言葉に顔を上げると、彼は何故か満足げに頷いた。
「おまえの屋敷には今、その贋物がいる。あれは出来損ないのレプリカに過ぎぬが、それがおまえの代わりにルークとして存在している限り、あの忌々しい預言は外れるのだ。そして」
 大きな固い手のひらが、嘘みたいに優しく髪を撫で上げた。
「おまえは死なぬ」
 逃れるように再び視線を床に落とす。
 返す言葉は見つけられない。何もない。
 死ななくても。それでも。
 帰れない。帰るところもない。
 もう、何もない。



 それは、たった一つの、純粋な



 ――ふと目が覚めた。
 窓から射し込む朝の光すら、色褪せたモノクロームのようだった。
 見慣れないような見知ったような天井。
 握ったシーツの感触は少し硬くて、夢うつつが引き剥がされる。
 また夜は明けた。
 だからこれはもう、現実でしかない。
 深く深く、奥底から湿った息を絞り出す。と。
「おはようございます」
 わざわざ真上から覗き込んで、深緑の髪を揺らして彼は笑った。
「イオン」
 するりと名前は出てくる。
 弱冠八歳にして、ローレライ教団の導師となることが定められた子供。
 導師となることが許される血を引いた、ただ一人の子供。
「今日は大詠師たちが霊廟に来るそうなので、その間ルークは奥に隠れててくださいね。見つかるといろいろ面倒ですから」
「ああ、ここは立入禁止なんだったか」
 ルークはまだ覚醒しきっていない身体を起こし、茫漠と窓の外に視線を向けた。緑の茂る木々の中に滑らかな石の柱がいくつ見えても、風が揺らす木の葉の音や鳥の声がどれだけしても、人の気配はしない。
 歴代導師の霊廟のさらに奥に隠されている、ダアトの霊廟。二千年前の遺跡であるその内部にあるこの小さな小さな館は、初代導師の名を取ってユリエルの館と呼ばれているらしい。導師の参籠が行われる聖地だ。
「どうせ来るのは昼頃でしょうけど」
 素っ気ない寝室を出て、短い廊下を並んで歩いて。
「譜石のある場所はたぶん不味いです。モースは根っからの預言信奉者ですから」
 うんざりとしたイオンの声に、ルークが薄い苦笑をこぼす。
「エベノスが死んでしまったばかりの頃に、預言では僕はまだ先だからと言ったら、ころっと態度変わったくらいに預言預言預言」
「嘘なのか?」
「さあ、知りません。そんな預言があるのかどうかも」
 ――ただ。
「ただ昔エベノスが教えてくれた預言があって、それが今年だったんです」
 だからこの年まで引き延ばさせた。
「預言?」
 怪訝に目を眇めたルークを見上げて、今度はイオンが苦笑した。
「とても小さなことですけど、僕には意味があったんです。そんなことより」
 広くはない、けれど明るい食堂には白木のテーブルと椅子。向かい合って座って、揃って手を合わせて、いただきます。
「そういえば、何で毎日二人分用意されるんだ?」
 ここには一人しかいないことになっているのに。
「今更そんなことを訊くんですね」
「……ここに来てからのこと、よく覚えてなくてな」
 記憶すら、ひどくあやふやなもので。
 もう十日ですよというイオンの言葉を受け取っても、実感は伴わなかった。
「食事は――まあ、霊廟の側にある森にはチーグルが生息してるので、それでちょっとオトモダチになったことにでも」
「……俺はチーグルなのか」
「それは半分冗談ですけど。まあ適当にヴァンが誤魔化してくれてますよ」
 本当に口が上手い人ですから。
「今いる詠師の中じゃ一番若いというか詠師叙階の最年少記録ですけど、なったばかりでも後ろ盾がとてつもなく強力ですしね。ルークの身元とかも上手いことしてくれてるでしょう」
「俺の?」
「ええ。神託の騎士団に入ってもらいますから」
 満面の笑顔でイオンが言った。
「そんなことが本当に出来るのか」
 思わず眉根を寄せる。イオンの地位もヴァンの地位も理解はしている。だが。
「ホド出身者で誤魔化すつもりみたいですよ。エベノスはホドの難民保護に熱心だったので今もその方針は残ってますし、ヴァンもホド出身だから、ちょうどいいんでしょう」
 と、手から滑り落ちたフォークが皿にぶつかって、耳障りな音を立てた。
「ルーク?」
「師匠が、ホド出身……?」
「そうですよ。知りませんでしたか?」
 きょとんと首を傾げるイオンに、ルークは深々とため息をつく。
「ホド戦争であったこと、おまえだって知ってるだろう……?」
「確かキムラスカ軍がホドを占領した後、島が崩落したんですよね」
「そこじゃなくて。そのキムラスカ軍の大将は」
「秘預言に関わる部分なら嫌々覚えましたけど、歴史とか政治とか細かいことには期待しないでください」
 威張って言うことかと思ったが、そんな気分にはなれなかった。
「……俺の父上が、ホド占領軍の大将だったんだ」
 言いながら、震えてしまうかもしれないと思ったら、咄嗟に指を握っていた。
 屋敷のエントランスホールに飾られている、ホド領主の首級と共に持ち帰ったという美しい宝剣が脳裏を過ぎる。
 いつだったか、ヴァンがあの剣を見つめていたことを、覚えている。
「そうなんですか? でも、もしもそれでヴァンがルークの父上を恨んでるとしても、順位は低いと思いますよ」
「……低い?」
「ヴァンは預言と、預言に従ってホドを見殺しにした人たちを一番憎んでます。その次に自分を。だから世界が預言通りに進むよう監視する教団にいながら、裏では預言を崩そうと企んでる」
 僕も共犯ですけどねと笑うイオンには、さすがに絶句したけれど。
「ルークだって僕の"仲間"なんですよ?」
 そう言って、あまりにも楽しそうに笑うから、次第にルークもつられて吐息のような笑みをこぼした。
 ちんっとイオンが食器を鳴らす。
「今日はよく喋るんですね」
「そうか」
「そうですよ」
 揃って手を合わせて、ごちそうさま。



 言葉はどうやって紡いでいたでしょうか。
 歌はどうやって詠っていたでしょうか。
 どうやって笑っていたでしょうか。
 どうやって怒っていたでしょうか。
 どうやって泣いていたでしょうか。
 どうやって、今まで生きていたでしょうか。



「そうだ」
 特徴的な総本山の尖塔を見上げていたイオンが、つと振り返った。
「勉強、教えてくださいよ。政治と歴史。僕はローレライ教の教義を教えますから」
 パダミヤ大陸は狭いながら起伏に富んでいて、総本山ダアトは周りを森と高地に囲まれた場所にある。霊廟は総本山よりも高い場所にある。
 だから、街は見下ろせる。
「ローレライ教の?」
 しかし、あの中央に立てられた尖塔だけは見下ろせない。
「教義の理解者たる面も必要なんですよ、ヴァンのように教団の中枢に食い込むなら。位階を叙されなければ権力はたかが知れています。そういう場所ですから」
 ルークは僅かに目を細めた。
「俺に、どうしろと」
 傾きかけた空の光は、少しずつ朱を帯びていた。
「僕たちがここを出る日が決まりました。一ヶ月後です」
 ここは空が近い。
 けれど、まだ遠すぎる。



 言葉は形なき形だ。
 形なきものに形を与えるものだ。
 まやかしかもしれない。
 誤魔化しかもしれない。
 そんなもの、何処にもないのかもしれない。
 それでもだからこそ、他のすべてに見放されたとき、縋れるのは言葉しかない。



「名前」
 いつも突然だと思わされる。
「何だ?」
「あなたの名前。ここを出た後は何て呼びましょう?」
 外に出たら、もうルークと呼べなくなってしまいますね。
 寝台の端に腰掛けて、少しつまらなさそうに足をぶらぶらさせながらイオンは言った。
「そう、か」
 すっかり馴染んだ寝台に身体を投げてルークは、すっかり見慣れた天井を見上げた。
「イオンが適当に決めてくれ」
「嫌です。自分の嘘くらい自分で決めてください」
 どうしてか軽く睨まれた。
「嘘か」
「ええ、嘘です」
 嘘。そう、これから嘘をつくのだ。
 預言に、故郷に、世界に、すべてに。
「――じゃあ、アッシュ」
 大きな大きな嘘をつくのだ。
「え?」
「"Ash"。俺の焔はもう消えたんだ。だったら残ったのは、燃え滓だろう?」
 言い切ってから、妙に滑稽な気がして口の端を自嘲に歪めた。
 こんな嘘の言葉にまで意味を求めて、これは感傷だろうか。
「アッシュ、ですか」
「ああ」
 自分の名前。これから名前になる音。
「わかりました。でも、名前は"Asch"と綴ってくださいね」
「見たことない単語だな。どういう意味だ?」
 上体を起こしたルークが問い返すと、イオンは楽しそうに笑った。
「いつか気が向いたら探してみてください。見つけるのはとても大変だと思いますけど」
「……意地が悪いな」
「ええ、そうですよ。今更気づいたんですか?」
「いいや。改めて思っただけだ」
 そうして二人、声を立てて笑いあった。最後の夜。



「まだ誰にも秘密にしててくださいね。これを僕が知ってるってことは」
 そう言ってイオンは、とっておきの秘密を耳元で囁いた。
 きらきら光を弾く譜石の欠片を押しつけた手は少し冷たくて、震えていた。
 だからだろうか、かつて見た、古い古い本の一節を思い出した。
 そう。これはきっと、たった一つだけの純粋な。
「ルーク。――いえ、アッシュ」
 微笑んでいた。初めて会った日のように、寂しそうに、悲しそうに。
「あなたにとって預言は、祝福でしたか。呪いでしたか」
 ほんの少しだけ、幸せそうに。
「……たぶん、絶望だった」
 頷いた。
「そうですね」
 まるで、泣き笑いのようだった。



 言葉はどうやって紡いでいたでしょうか。
 歌はどうやって詠っていたでしょうか。
 どうやって笑っていたでしょうか。
 どうやって怒っていたでしょうか。
 どうやって泣いていたでしょうか。
 どうやって、今まで生きていたでしょうか。



 ――私は、ちゃんと思い出せているでしょうか?



 雲一つない晴れた空の下の、一本道を降りていく大人しい後ろ姿がひどく嘘くさくて、おかしかった。
「思っていたより元気そうだな」
 驚いているのか呆れているのか、隣に立ったヴァンは小さく笑ってそう言った。
「まだ、生きていますから」
 あと七年。
「ほう?」
 割り切ったかという独り言のような声を、肯定も否定もしなかったが、彼は気にも留めなかったらしい。
「既にイオン様より話は聞いているとは思うが、おまえはこれからホド縁の者と素姓を偽って、騎士団に身を置いてもらう。これから主立った者との顔合わせを済ませ、おまえの実力を披露することとなろう」
「わかっています」
 差し出された細身の剣を受け取って、すらりと刃を滑らせる。
 握りにも重量にも、重心にも問題ない。今の自分の身長や筋力に適した、分相応な小振りの剣。この抜け目のなさは、さすが剣の師なればこそか。
 家には帰れない。
 いや、たといバチカルのあの屋敷に戻ることが出来たとしても、もう帰れないのだ。
 それはひどく奇妙な確信だったが。
 ひどく奇妙なほどに受容してしまっている。
 だから進むしかない。縋るしかないのだ。
 死なぬと言った、この人に。
「ゆくぞ、ルーク」
「アッシュ」
 向けられた背に、呼ばれた名を改める。
 昨日の夜に生まれた、自分で呼び、イオンに呼ばれた名前。
「アッシュです。俺は」
 ゆっくりと振り返ったヴァンは、今度こそ驚いたようだった。
「そうか、アッシュか」
 大きな固い手のひらが、嘘みたいに優しく髪を撫でた。



 さあ、嘘つきな顔で笑ってみせよう。
 世界中のすべてに、忘れた振りをしてみせよう。







絶望が純粋なのは、たった一つの場合でしかない。
それは死刑の宣告を受けた時である。

――カミュ







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死を思い続け、死に続けながら、生き続け。
遠くて近い、死は常に眼前に在り続ける。

ヴァンに誘拐され自分の死期を知らされた頃のアッシュと、今は亡き被験者イオン。
これから七年間、ユリアの預言という大罪と死の宣告を背負いながら生き続けてゆくアッシュですが、そのうちの五年間を、同じ絶望を抱えるイオンと生きたことになります。

※ 断章 = 詩や文章の断片。詩や文章から抜き出した一部分。
※ フラグメント(fragment) = 破片。断片。欠片。断章。




*含まれている捏造設定について。
霊廟の設定に関しては、この話においては「二人っきりの隔絶された場所」という以外には特に意味がないのですが、もし『宝石』シリーズが続けられそうなら今後も使っていく予定なので織り込んでいます。
初代導師についても、教団において「開祖ダアト」であり「始祖ユリア」であり、ユリアが立て直した後の教団を、アルバートと共にホドへ行くユリアに代わって引き受けた存在として「初代導師ユリエル」を設定しました。ユリエル・ジュエ。捻りもなく弟です。