疑うこと知った時に 自分の足で立った気がした
angela「DEAD SET」より
もっと早く、殺しておけばよかった。
右手で握りしめた剣を、アッシュは振り上げた。
力なくくずおれたレプリカを、吐き気がするほど作りが似ている顔を、見下ろして。
喉の奥で息が詰まる。
頭の芯が、じんと痺れたように熱を持っている。
もっと早く、殺しておけばよかった。
こんなレプリカなんて。
こんな、自分のレプリカなんて。
「死ね!!」
けれど振り下ろす直前、力いっぱい左腕が引かれて、それは叶わなかった。
「――やめてっ」
ヴァンの妹。レプリカの仲間。
「離せ! 俺はこいつをっ」
力任せに振り払おうとして、しがみつくように強められた力に思わず振り返った。
「殺さないで」
目があった。青い色。彼女の兄と、ヴァンと同じ、青い色。
「お願い。ルークを……殺さないで」
息が切れたようにひどく掠れた声で、ティアが懇願の言葉を吐く。
まろび出てきた青いチーグルが、完全に意識を失ったのか身動ぎ一つしない身体に縋りついて、ビー玉のような大きな瞳からぽろぽろと涙をこぼしている。
大きな空気のかたまりでも飲み込んでしまったかのように、喉の奥が詰まる。
息が詰まる。
アッシュはのろのろと剣を下ろしながら、一つ舌打ちをこぼした。
「……別に、今更こんな屑を殺す意味はねえ」
呟くように言いながら剣の黒い刃を、しゃらりと音を立てて鞘に収める。
そうだ。もう意味はなくなってしまったのだ。
今更だ。もう取り返しはつかないのだから。
もう過ぎてしまった、ことなのだから。
「くそっ」
今度こそティアの腕を振り解き、レプリカに背を向ける。
もっと早く、殺しておけばよかった。
そうしていたら、こんな。
「何で」
耳の奧で、静かな彼の声で響いている。
とうとう現実となってしまった、あの預言が。
なのに。
「何で"俺"だけが、のうのうと生き残ってんだよ……っ!!」
街とともに消滅するのではなかったのか。
なのに何故、生きている?
何故アクゼリュスが崩落した今もこうして、生き残っている?
ヴァンに唆されるまま超振動を使ってしまったレプリカも、そして本来その立場であったはずの自分も。
「こんなことのために、俺は」
あの預言が覆されることを望んだ。
死にたくないと思った。
死なせたくないと思った。
だから七年前、名前も家族も故郷も何もかもを投げ捨ててでも、この道を選んだのだ。
生きると約束したのだ。
だがそれは、こんな形で果たされたかったわけではない。
自分たちが望んでいたのは、こんな現実ではない。
「おまえはっ」
もっと早く、殺しておけばよかった。
肩越しに睥睨したレプリカの頬は、涙に濡れていて。
息が苦しかった。
熱すぎる喉の奥の空気を、アッシュは血を吐くように吐き捨てた。
DEAD SET
〜みどり色のガラス玉〜
綺麗な花が咲いていました。
彼がそう言ったのは、いつだったろうか。
天を外殻大地に覆われ、陽の射し込むことがない世界。比重の重い障気が立ちこめ、不気味な紫に染まった世界。二千年も前に建造されたユリアシティの他には、その大半が障気にまみれた汚泥の海しかない世界。
ユリアの預言のままに世界を動かし続ける監視者の街に、自分を決して連れていこうとしなかった彼が教えてくれたのは、ただそれだけだった。
「この花が、そうなのか」
閉鎖空間なので外というわけではないが、ベランダのような物なのだろう、この部屋から直に続く花畑には、小さな白い花が咲いていた。たくさん咲いていた。
セレニアの花。外殻大地では夜にしか花を開かないというだけの、ただの珍しい花でしかないが、魔界では唯一咲く花として愛されているという。ここだけに限らず、居住区の随所に植えられているという。
こうして初めて魔界に降りてきて、彼が語ろうとしなかった風景を目の当たりにして、たった一つ言葉にされた花を目にして、胃の奥で燻る不快感は何に対してのものか。
ガラス越しの花びらに、照明に映し出されたアッシュの姿と、チーグルに寄り添われ昏々と眠り続けるルークの姿が重なる。
どろどろに濁っていた怒りも、今は嘘のように空しかった。
結局、"聖なる焔の光"はその力で鉱山の街を消滅させた。ユリアの詠んだ預言のままに。預言から外れたことがあるとすれば、ルークもアッシュも街と共に消えなかったことだけだ。万を数える無辜の命は、跡形も残さず死に絶えた。
腰に佩いていた剣の柄を、左手できつく握りしめる。
アクゼリュスを滅ぼしたのは、レプリカであってルークであって。
――自分でも、あって。
何処かで間違えた。何かを間違えた。
それとも、初めから何もかも間違っていたのか。
何故と問い詰めた時の、彼の泣きそうな笑顔がちらついて仕方なくて、思わず唇を噛む。
自分たちが、自分と彼が望んでいたのは、こんな現実ではなかった。
誰が何を裏切った何が誰に裏切られた?
声にならない声で彼の名を呟いた、その刹那。
「アッシュ」
不意に掛けられた呼び声に、アッシュは弾かれたように部屋の出入り口である階段を振り返った。
「っ、――導師」
記憶の中の声と混ざりそうになって、思わず答える声が上擦る。
硬い表情のアニスとジェイドを伴って、困ったような沈んだような面持ちで、立ちつくしているような有様で、イオンが立っていたから。
「何の用だ」
タルタロスごと外殻大地へ戻る計画は、先ほどユリアシティに打診したばかりだ。検証が終わるには早すぎる。
「少し、お話しできませんか」
「俺には、おまえと話すことなど何もない」
アッシュはその抑え込んだ一言で終わりとばかりに、ついと顔を花畑の方へ背けるが。
「僕にはあるんです」
「ならば言い換えよう。俺はおまえと話をする気はない」
「ちょっとぉ! イオン様に何よ、その態度!」
突き放しきった物言いに、アニスが不機嫌な声で口を挟んだ。
「いくら本当はバチカルの貴族だからって、今は教団の人間でしょ!」
「まあ、あなたもイオン様をさんざん誘拐していた六神将の一人なのですから今更かもしれませんが、導師に対するには些か不敬が過ぎるのでは?」
次いでジェイドは、この状況を面白がっているかのように。
「おまえらには関係ない」
言い捨ててから、ガラスに映った鏡像を一瞥したアッシュは眉根を寄せた。二人の脇をすり抜けたイオンが、すぐ傍まで歩み寄ってきていて。
「少しだけでいいんです。これが最初で最後になって構わないので」
伏せがちの瞳は、昏い光を湛えていて。
無性に心がざわついて、忌々しくて、舌打ちをこぼした。
「……今回限りだぞ」
「ええ。ありがとうございます」
ようやくの了承を引き出したイオンは僅かに微笑むと、供をしていた二人に向き直る。
「すみません。話が終わるまで、お二人とも席を外していてもらえますか? 僕と彼だけで話をしたいんです」
「イオン様!?」
「大丈夫です、アニス」
しばらくアニスは膨れっ面でイオンとアッシュ、交互に視線を巡らせていたが、やがて萎れたように肩を落とした。
「はぁい、わかりましたぁ……」
「我が侭を言ってばかりで、すみません」
「でもでも! 何かあったら呼んでくださいね、ちゃんと!」
アニスちゃん超特急で駆けつけますから!
くつくつと喉の奥で笑うジェイドに渋々引きずられていくアニスへ、イオンは小さく手を振った。
「すみません。アニスにも悪気があるわけではないんです」
「敵だった奴を簡単に信用する方が、どうかしているだろうが」
年若くとも導師守護役である少女にすれば、敵か味方かも定かでない人間と導師を二人っきりにするなど言語道断だ。選定には見目も考慮されるが、守護役の呼び名は決して飾りなどではない。まして導師の傍に控える任を務める者にとって。
アッシュが肩を竦めて言うと、イオンはまた淡い笑みを浮かべた。
「そうですね、そうなりますね」
「で、話は何だ」
イオンのレプリカ。
その音だけは、ひどく潜めた囁きのような声で。
「ザオ遺跡に行く時にも一度言っておいたはずだがな。今までそうだったように、俺はおまえと関わる気は微塵もない」
ガラスに背を預け、アッシュは彷徨わせるように視線をイオンから外す。
「わかっています」
冷たいガラスに手を伸ばし、互い違いのように隣に立ったイオンが呟くように言った。
「バチカルで初めてあなたの顔を見た時、とても驚きました。でも、それがどういう意味なのかは、すぐにわかりました。だから、あなたに訊いたんです。どうして、と」
どうして。
たったそれだけしか、声には出来なかったけれど。
「一言、生きたいからだと、あなたは答えてくれましたよね」
肯く代わりに、アッシュは目蓋を伏せた。
同じようで同じでない声は、今でもはっきりと覚えている。
「ND2018。ローレライの力を継ぐ若者、人々を引き連れ鉱山の街へと向かう。そこで若者は力を災いとし、キムラスカの武器となって街とともに消滅す」
かつて彼が詠ったこの預言も、この七年間、忘れたことはない。
こうして諳んじることもひどく容易いほどに。
「それは、ユリアの預言、ですか……?」
咄嗟にアッシュが振り向いたのは、そう言ったイオンの声があまりにも愕然としていたからだ。
「どういう意味だ」
この預言は秘預言だ。知っているのは導師をはじめ教団幹部と、彼らから知らされたキムラスカの一握りの王族のみ。預言の監視者たる務めを果たすために知らされる者と、預言を現実とするために知らされることで踊らされる者のみだ。
「まさか」
「……はい。僕は、秘預言を知りません」
握りしめられたイオンの手が、白い。
「そういうこと、だったんですね。ルークの存在だけでは、アクゼリュスはあんなことにならなかったでしょう。ルークとヴァンだけでは、パッセージリングまで行くことは不可能だった。いくらルークの頼みでも、僕は断固として拒否しなければならなかった」
なのに。
「何も知らず、知ろうともしなかったのは、僕も同じですね……」
「何が言いたい」
影のような自嘲に彩られた横顔を、アッシュは睨みつけた。
「先ほどティアから、あなたがルークを殺そうとしたと聞きました」
「だったら何だ」
ちろちろと奥底で燻り始めた苛立ちに、声を荒げないように、そのために自制を総動員させていたけれど。
「それで訊かずにはいられなくなったんです。あなたに直接。――僕たちは」
僕たちは、あんなことのために作られたのでしょうか。
紡がれた声を、言葉として理解した瞬間。
「てめえっ!! 俺たちが、どんな想いで――っ!!」
アッシュの右手は、イオンの胸倉を掴んでいた。
「イオン様!?」
怒鳴り声を聞きつけたのか悲鳴じみたアニスの声が飛び込んできて、すんでのところでアッシュは続く言葉を喉の奥に飲み込む。
喉の奧が、灼けつきそうだった。
「くそっ」
そして突き放すようにイオンを放すと、叩きつけるように言葉を吐いた。
「そんな顔で! そんな声で! そんなことは二度と言うんじゃねぇ!!」
灼けつきそうな喉の痛みが、ひどく息苦しかった。
「イオン様! ちょっと、アッシュ!?」
蹌踉めくイオンに慌てて駆け寄って支えたアニスが怒りも露わに睨め上げるが、振り上げられかけた彼女の拳は、他ならぬイオンの手に包まれ押しとどめられた。
「いいんです、アニス」
「でもっ」
「いいえ。悪いのは僕なんです。だから」
「イオン様……」
懇願じみてすらいるイオンの静止に、折れたアニスが嘆息をこぼす。それでも憤懣やるかたないように、もう一度アッシュを睨みつけた。
「俺が降りたのは、正解だったようだな」
向けられる怒気も意に介さず、アッシュが鼻先であしらうように呟くと、イオンは苦笑を色濃く滲ませた。
「そうですね。今の僕では、あなたの苦痛にしかならないでしょう」
首を傾げたアニスが何かを言いかけたのを、すっと手で制して。
「ですが、アッシュ。そう言うのなら、あなたもまだ捨てないでください」
何を、とは言わなかったが。
「……いいだろう」
未だ眠り続ける自分のレプリカを、ルークを一瞥して、アッシュも肯いた。
「おや。済んだようですね」
「遅すぎ、大佐ー!」
ようやく悠々と顔を出したジェイドに、膨れっ面になったアニスが八つ当たりとばかりに矛先を向けた。
「そうはいっても、ダアトの内部事情に私が首を突っ込むわけにもいかないでしょう?」
「そうじゃなくてー!」
「そうではないのですか?」
アニスの言葉を振り替えるように、ジェイドがイオンに問いかける。
「まさかジェイド」
「いえいえ。盗み聞きしようにも階段の下まで近づけば、さすがにアッシュが気づくでしょう。ですから声はわかっても、何を話しているかまでは聞き取れませんでした」
それにアニスが横でひたすら愚痴ってくれていましたしねえ。
剣呑な視線を向けてきたアッシュを、戯けたように肩を竦めてジェイドは受け流す。
「まあ、あなたの怒鳴り声の後は別ですがね」
そして、ふと表情を隠すように眼鏡を正しながら。
「そういえば陛下から、何年か前にこんな話を聞いたことがありましたよ。ヴァン謡将が打ち立てた詠師位叙階の最年少記録を、たった数年で塗り替えてしまった者がいる、と。――そういうことでしたか」
ガラスの奥ですっと細められた紅い眼に、アッシュはついと視線を逸らし、イオンは困ったようなひどく曖昧な苦笑いを浮かべた。
二人とも、何も言わなかった。
「ほえ? 何のことですか大佐?」
「いえ何。昔いた、導師守護役のことですよ」
もうひとりの自分。裏切った自分。裏切られた、自分。
アッシュとルークは被験者とレプリカという関係からお互い自他の境界が曖昧になりがちで、特にアッシュは終盤ルーク自立に絡んでそれが言及されていたけれど、分身であるが故にルークへ矜持を求めるのなら、それと同じだけルークがルークの罪として背負っているものも、アッシュは自分のもののように受け止めているのかもしれない。
だからアッシュだけは、ユリアシティでルークの行いそのものを責めたのかもしれない。
だからその後しばらく、ルークの意識だけを連れていたのかもしれない。
※ be dead set 〜 = (on)〜を固く決意している。(against)〜に反対する決意をしている。
『宝石』設定。アッシュは元導師守護役。つまりアッシュとアリエッタは六神将になる前からの同僚。
当時の守護役は女性のみではなく、また先代の導師エベノス時代から引き続いてのベテラン守護役も大勢いました。現在はそのほとんどが異動もしくは退団し、女性のみの構成となり、しかも大半が新人守護役という状態に。