傷ついて初めて 痛みを知った
裏切り者!
「――っ」
バネ仕掛けのように跳ね起きて、ぜえぜえと喘ぐ。
息を吸う。息を吐く。上手く出来ていなかったのがどちらかはわからないが、意識して何度も何度も繰り返せば、少しずつ気怠い感覚が戻ってきた。
ぬるりと目元から両方の頬を伝った生温い水が、顎の先からシーツにぽつりと落ちて、薄暗い染みを作る。
わからない。
どうしてかわからないけれど、何かが突き刺さったように痛くて、締めつけられるように痛くて、ひどく痛くて、ひどく苦しい。
今までにも何度も何度も悪夢は見たけれど、自分が殺した数え切れない人を数え続けていたけれど、こんな夢は初めてだった。
どんな夢だったかはよくわからない。
わからない、けれど。
ただ、どうしようもなく痛くて苦しくて。
血のようにぬめる涙を拭って、ルークはそろりとベッドを抜け出した。
傷あと
〜かけらの夢〜
研究者の街というだけあってか、ベルケンドの夜は街のすべてが寝静まったりはしないらしい。
さすがに市街地の方ともなればほのかな街灯だけしかないが、音機関研究区画は大きな事故があったという一角を除いて、そこかしこに皓々とした明かりがぽつりぽつりと灯っていた。
陸橋の階段を上がったルークは、頭上の夜空を仰ぎ、耳を澄ますように瞼を伏せる。
とても静かな、静かすぎる夜。それでも、死んだように眠ることはない街。
深く息を吸うと喉の奥まで冷えていきそうで、その冷たさが高ぶった神経と身体に少し心地よくて、少しだけ落ち着けた気がする。
やはり眠れそうにはないが、見つからないうちに、そろそろ戻ろうか。
そう思って片足を浮かせかけた刹那、自分のものではない足音が先に響いた。
「こんな夜中に、何をしている」
次いで聞こえた声は静かで、ひどく呆れた声で、ルークも知っている声だった。
細い月明かりが落とす淡い逆光の中で、かつりかつりと反対側の階段を上がってくる彼の歩みに合わせて、ふわりふわりと赤い髪が揺れている。その緩慢な動きも何もかもが、ひどく不思議なもののような気がした。
「……アッシュ?」
吐息のような声は、それでも届いたのだろうか。
アッシュは階段を上りきったところで足を止めると、斜めに僅かに俯く。
「怖い夢でも見たか」
その言葉は揶揄でしかありえないだろうに、どうしてかそうは聞こえなくて、自分たちらしからぬ穏やかな響きがほろ苦くて、ルークは全部引っくるめて苦笑した。
きっと今の自分は、とても酷い顔をしている。
「そう、かも」
あまりに近すぎて遠すぎる、レプリカである自分にとってのオリジナル。
初めて彼を目の当たりにしたあの雨の日は、全身が彼の存在を拒絶して嘔吐すらした。
次に砂漠の地下で会った時は、自分と同じ呼吸で剣を振るう彼に戦慄した。
その次に会ったのは、何もかもが崩れ落ちた時で。
そうして堕ちるだけ堕ちた先にいたのも、やはり彼だった。
「何か、変なの」
「何がだ」
「おまえと、こんな風に話してるの」
こんな感じはオアシスで言い争いにならなかった時とも少し違う気がして、それを不思議に思ったこととも少し違う気がして。
きっと、彼と意識が繋がったまま彼の瞳でこの世界を見ていた、あの短い時間に似ている。
「うん、でも、話してみたかったんだ」
言いたかったことがあったから。
小さく笑って言うと、アッシュは怪訝そうに目を眇めた。
オアシスの時はケセドニアの崩落で慌ただしくて、伝えるどころか思い出す暇すらなかったけれど。
きっとこんな時でもなければ、言えないだろう。
「おまえは俺のことなんて大嫌いだろうし、俺もおまえのこと好きじゃねえけど、でも、おまえのおかげだから」
何を考えてあんなことをしたのかは、今でも全然わからないけれど。
あの時、一緒に連れて行って、見せてくれたから。
「どんな理由があっても、ユリアシティからしばらくアッシュが繋ぎっぱなしでいてくれたから、俺こうしていられると思うから」
堕ちるだけ堕ちた先で、奈落の底で、己の罪の重さに耐えかねて俯いていた自分の顔を上げさせたのは、アッシュだった。
だから。
「ありがとうって、言いたかったんだ」
言った刹那、いつもと違って下ろされている前髪の影で、アッシュが一瞬だけ目を見張ったのが見て取れた。
こんな夜闇の中でも、陸橋の端と端に立っていても、見えた。
と、瞠目していた目が不意に、すっと細められて。
「だったら、少しはマシになれたんだろうな?」
「え? えーと、あの、俺って前がすっげえ駄目すぎだったから、そっから比べたら少しくらい、なら……たぶん……」
まさか言葉を受け取ってもらえるとは思わず、ルークは慌てて答えを返す。
だが、だんだん言い訳をしているような情けない気持ちになってきて、一度そう思い始めたら声もどんどん消え入りそうになっていくばかりで、きっと怒らせてしまうのだろうと思って、終いには。
「その……努力は、してるんだけど」
アッシュの様子をうかがうように上目で見上げた、その時。
「なら、いい」
微笑んだ、のだろうか。
皮肉ったものでも嘲笑でもなく、ひどく淡く、それでも。
すっかり驚いて呆けたように立ちつくしていると、するりと距離を縮めてきたアッシュが、今度はルークの隣で足を止めた。
「おまえは俺のレプリカなんだからな」
「う、うん」
ふと、バチカルで彼にルークと名を呼んでもらえた時のことを思い出した。
あの時はあの場の勢いもあっただろう。だが、たとえ勢いでも任せていいと思ってもらえる程度には、認めてもらえたのだろうか。
そんな風に、自惚れてしまってもいいのだろうか。
そんなことを思ったら、渇いているのに、どうしてか泣きたいような気がした。
「変な顔してんじゃねえ」
「うん」
目敏いなあと苦笑いがこぼれた。
「とっとと、おまえも寝直せ」
「ん、うん」
ほんの僅かだけ躊躇ってから肯いてみせると、つと不機嫌そうに目を眇められた。
「寝ろと言ったぞ」
次いで落とされた低い声は呆れた色に染まっていて、それはつまり、見抜かれているということなのだろうか。
「ばれっか」
夢を見た後は、その日の夜はもう、眠れないことなんて。
「おまえの顔はわかりやすすぎて迷惑だ」
「おまえと同じ顔なんだけどなー」
ルークが誤魔化すように軽く混ぜ返すと、今度は辟易と深いため息をつかれた。
その顔が、不意に覗き込むように近づいてきて。
「"人殺し"、か」
目の前の自分と同じ顔が、自分と同じ表情で、まるで鏡のようで。
「え?」
「おまえがそうなら、俺もそうなんだろうな」
その時ようやく、ルークにもあの夢の意味が少しだけわかった気がした。
「じゃあ、俺も"裏切り者"なのかな」
無辜のアクゼリュスを滅ぼした、辜。
だったら彼の痛みは、いったい何だろう。
「……さあな」
苦笑のような微かな息をこぼしたアッシュの、すっと伸ばされた右手がルークの頭をぞんざいに捕まえた。
「あんな夢、おまえは忘れろ」
そしてそのまま引き寄せ、まるで熱を見る時のように、額と額をくっつけて。
「――"大丈夫。もう怖い夢は見ない"」
それはまるで、呪文のように祈りのように詠われた。
どうしてなのか。
わからない、けれど。
どうすればいいのかは、知っていた。
「――"大丈夫。もう怖い夢は見ない"」
アッシュが囁いた言葉を、ルークも繰り返す。
そうして、いつの間にか閉じていた瞼に力を込めて、込み上げてきた何かを奥歯で噛み潰しながら笑みを作った。
「ガイとおんなじだ」
わけのわからない、途方もない不安に押し潰されそうだった夜、泣きやまない子供をあやしてくれたのは彼だったから。
「ガイと?」
ルークの呟きに、額を離したアッシュが表情を奇妙に歪める。嫌そうとは違うが、ひどく複雑そうな、何かを考え込んでいるような。
「……俺は、違うぞ。おまえは会ったこともない奴だ」
「そっか」
たまたま同じ。不思議な縁もあるものだとルークが笑うと、アッシュはいい加減に寝ろと小声で怒鳴った。
「うん」
眠れる。そんな気がした。
これから眠って朝になって目が覚めて、そうしたらきっと自分も彼も、わからない夢から覚める。
それでもいつか、自分の知らない誰かの話を聞かせてくれる日は来るだろうか。
レプリカとそのオリジナル。
とてつもなく同じに近いのに、とてつもなくわからない存在。
アッシュのことをわかったと思えたことなんて、ただの一度もない。
ただ、あの夢の声を、どうしてか知っているような気がした。
生きてることの重さを知って いつか人に優しくなりたい
angela「Pain」より
傷の痕。傷の後。傷ついた痛み。塞がらない傷の痛み。
自分の傷と、もうひとりの傷。自分の痛みと、もうひとりの痛み。
知らない夢。知ってしまった夢。知ったのは、同じなのに知らないことだらけということ。
湿原越え後のベルケンド、アッシュがイオンから預かってきた禁書を、ジェイドが解読中。バチカルでの大立ち回りと脱出の際のルークとアッシュの会話、そしてベルケンドでのヴァンとの遭遇でルークが手酷くあしらわれた、その後。
アッシュにとってルークは「大嫌いな身内」。心底「大嫌い」には違いないけれど「身内」にも違いない。
決して「他人」にはならない。それは意識下では小さくても、無意識では小さくない。
悪夢を見ない、おまじない。
誰が誰に大丈夫と言って、誰が誰にもう悪夢を見ないと言っているのか。