夢を見て 目が覚めて 君がいなくて
  さがしかけて 気がついて
  少しだけ笑って







「そう、か」
 彷徨うだけの右手を引き戻して短い前髪をくしゃりと掻きあげて、ガイは口の端を笑みのように歪めた。
 伸ばしかけて、伸ばす先を見つけられない手は空っぽで、きつくきつく握りしめても空っぽで、何も掴めない。
 行く前と変わらない、四人部屋。
 行く前は一つだけ空いていた四つのベッドは今は、一つは自分がいて一つは既にもぬけの殻になっていて、残りの二つは綺麗なまま空いていた。
 空っぽのまま、夜が明けようとしている。
「もう朝だぞ」
 軽く立てた膝に額を押しつけるように項垂れて、窓の外から目を背けた。
 四角い空は真っ白で、眩しすぎて、ひどく目に染みた。
「ルーク」
 呼んでも、かえってこない。







ゆめのすこしあと


〜君が空だった〜







 まっさらになった子供は、とかく触れていることを好んでいた。
 それももう、昔のことだが。
 自力で不自由なく歩けるようになっても何かと手を繋ぎたがっていたし、抱き上げたりするとほっとしたように笑っていた。
 そして、夜をひどく怖がっていた。
 笑うことを覚え、名前を覚え、言葉を覚え、歩くことを覚え、生意気盛りに使用人たちの手を焼かすようになっても変わらず、夜という不安に怯えていた。
 母屋から隔絶された離れの子供部屋では、たとえ泣いたとしても誰にも聞こえない。泣きながら呼んだとしても、誰も気づいてくれない。
 ──誰も助けに来ない。
 そんな確信が、子供の中にあったのかもしれない。
 子供に与えられるのは、自分ではない誰かを探す眼差し、一方的な憐れみとやわらかな拒絶、不確かで気紛れな優しさ。
 だから子供はいつも、絶対的なものを求めていたのかもしれない。
 まっさらになった子供は、不安に襲われた夜、手を繋ぎたがっていた。
 それももう、昔のことだが。
 ガイは左手で枕元の剣を掴んでベッドを降りると、引きずるような足取りで窓の前に立つ。
 夜が明ける。夜が終わる。
 半ば開けっ放しになっていたカーテンから、東の空が見える。
 青ざめた白とオレンジが混ざり合った、うっすらとした夜明けの空の色。
 右手で窓を押し開ける。
 流れ込んできた、ざらついた砂っぽい風とべたついた潮っぽい風は相変わらず入り混じっていて、ひどく乾いていて渇いていて、張りつきそうな口の中で粘ついた唾を無理やりに飲み込んだ。
 上手く声が出せない、自信があった。
 声を出す、必要も今はないのだろうけど。
 だって。
 何の意味もない、自分の右手をガイは見下ろした。
 左手は形見の剣をまだ掴んだままで、ひどく重たかった。
 右手には、何もない。
 どれだけ望んでも叶わないことがあると、知っていた。



 おびただしい瓦礫を見上げて、ガイは思わず右手を額にかざす。
 見上げた空は真っ青で、眩しすぎて、ひどく目に染みた。
 エルドラント。
 ホドのレプリカ。
 それは今や、白い瓦礫の山だった。
 ヴァンが蘇らせたかった故郷の、残骸。
 懐かしくも遠くなりすぎた故郷の、廃墟だった残骸。
 ここに来ようと思ったのは、他にどうしようもなかったからかもしれない。
 ただ、血に染まり廃墟となり果てた美しい故郷の姿を、かつての自分はこの目で見ることはなかった。まして、こうも崩れ落ちた姿など。幼かった自分の記憶は姉たちの最期で途切れ、次に目が覚めた時にはもう、ペールに連れられて故郷を離れていた。遠ざかるキムラスカとファブレ家の旗と、幾筋もの黒い煙しか覚えていない。
 しかし今、緑の草はらに横たわった白い瓦礫に対するこの奇妙な感慨は、懐かしいというものには程遠くて、何処か他人事のように冷ややかだった。
 だからこれは、あの日の自分が喪った故郷ではないのだろう。
 ヴァンはこんなものを作って、何をしたかったのだろうか。
 こんなものは喪ったことを突きつけるばかりで、美しかった故郷の、想い出の墓標にしかならないだろうに。
 あの時なくしてしまったものは、こんな形のものではなかったはずなのに。
 この場所の記憶は、昨日の記憶だ。
 ガイは左手に掴んでいた剣を、すらりと右手で鞘から滑らせ、半身だけを晒す。
 家名を冠した宝剣は、父が携えていた記憶よりも父の仇の家に飾られていた記憶の方が長くて、復讐を誓う旗でありながら、復讐を捨てる賭けの旗でもあった。
 この剣を、振り下ろすかそれとも捧げるか。
 そんな賭けをしてまで保たなければならないほど既に復讐心は揺らいでいたのだろうと、吹っ切った、吹っ切ることを選べた決めれた今なら思える。
 復讐を遂げることも捨てることも自力で選べなかった自分は、すべてを賭けにすり替えることで、何も知らないルークに押しつけて、自分を誤魔化したのだ。
 七年前にルークと、まっさらなあの子供と出会った頃から、時が流れゆくにつれて記憶が薄れてゆくことに、恐怖するようになった。
 喪ってしまった人たちは与えてくれた優しい温もりの想い出だけを残して、なのにどんな表情でどんな仕草でその温もりを与えてくれていたのか、少しずつ思い出せなくなっていくことが恐かった。
 自分よりも小さな、やわらかな手を握るたびに。
 その残酷なまでに無邪気すぎる温もりに、触れるたびに。
 その温もりを握り返すたびに。
 その恐さが和らいでいくことすら、怖くてたまらなかった。
 その温もりは、いずれ喪われなければいけないもの、だったから。
 なのに、ようやく喪わないと選べたのに決められたのに、やはり失ってしまうのだろうか、自分は。
 ――いつかは家族のように、あの子供のことすら、ぞっとするほど美しい記憶にしてしまうのだろうか、自分は。
 きらりと光を弾いた刃に映る自分の顔がひどく情けなくて、こんな情けない奴が親友でゴメンと今更、苦笑のような自嘲がみっともなく歪む。
 そうして、残るものは何もないのだ。
 ずっと繋いでいた手は、とてつもなく重たい何かに自分を繋ぎ止めてくれていた。
 しゃらりと微かな音を立てて、剣を鞘に隠す。
 夕暮れのオレンジの中で崩れ落ちてゆく白亜と、彼が空に立てた光の柱。
 この世界は滅びを免れたが、放り出されたこの手は空っぽだ。
 彷徨ってばかりで、何も見つけられない。
 左手に掴んだ、形見の剣が重たかった。
 右手には、何もない。
 掴めなくて守れなくて何も出来なくて失って、何もなくなった。
 どれだけ望んでも叶わないことがあると、知っている。
 そうと知っていながら、それを彼だって知っていることも知っていながら、あのとき約束をした。
 言葉にして声にすることは、ただ想うだけよりも、意志を伴うから。
 その言葉が声が繋ぎ止めることも、あるから。
 だからどうかと、祈るような縋るような想いで約束をした。
 それは信じるための約束だった。
 なのに、こうして思い知らされてしまう。
 どれだけ望んでも叶わないことがあると、知っている。
 何の迷いもなく信じ続けるには、きっと自分は優しすぎる人たちの血を浴びすぎた。
 見上げた空は真っ青で、眩しすぎて、ひどく目に染みた。



 ひゅっと風を切る音を反射的にかわして受け止めたのは、何処かで気づいていたからだろうか。
 自分の手の中でふらふら水と重心の揺れる軍用水筒と、それを投げつけてきた腕がゆっくりと落ちていくのを、ぼんやりとガイは眺めた。
「あの瓦礫の山から、捜索したいそうですよ」
 静かな声に、ジェイドの言葉に、ガイは真昼の空気を深く吸う。
 ――さがす? 誰が? 何を?
 立っていたジェイドは相も変わらず見慣れた青い軍服姿で、それでも。
「結局エルドラント突入作戦は実行されず終いになってしまいましたから、実質これがマルクトとキムラスカ両軍の、初の共同作戦ということになるのですかね。何にしても解体作業は必要なので、すぐに始まるでしょう」
 見慣れない彼らしくない皮肉った色のない、ほろ苦いだけの苦笑を滲ませながら、瓦礫を見上げていた。
「あなたは、ここに、何を?」
 そう問われて、ガイはのろのろと瓦礫の山に向き直る。
 真っ白な瓦礫の山を見上げながら息を吸うと、渇いた喉がひどく痛んだ。
「穴、なんだろうな」
 そう呟くと、ジェイドがちらりと視線を向けてきたのがわかった。
「ごっそり抉られたような、穴が空いたような感じなんだ」
 やはり枯れた喉から声は上手く出せなくて、ひどく嗄れていた。
「あんまりでっかく空きすぎて、大きさもわからないくらいでさ」
 家族が殺された時はすぐに憎しみで埋めてしまえたのに、今は何もない。
 右手は伸ばす先を見つけられずに、彷徨うばかりで。
 この手は、空っぽで。
 いつだって温もりの残滓しかなくて。
「そうか、さがすのか」
「ええ。七日間」
 七日間。
 水筒の口をほどいて、ガイは一気に飲み干した。
「あんたは、何が見つかると思う?」
 そして振り返って、問いかけた。
 少し掠れた、けれど声は滑らかに出た。
「……何も」
 少し躊躇ったように逡巡し、軽く目を伏したジェイドはほんの僅かに首を横に振った。
「いえ、何かが見つかってしまうことを、恐れているのかもしれません」
 もしもこの場所から、何かが見つかるとしたら。
 それは。
「もしも何かが見つかったら、見つかってほしいものより、見つかってほしくないものである可能性の方が高い?」
 ゆらりゆらりと、回りくどいほどの言葉を綴りながらガイは、手にしていた剣を腰に佩いて、まっすぐに瓦礫へ歩み寄る。
「そうですね。少なくとも私の理論では」
「だったらいっそ何も見つからなければいいってのは、また随分と寂しいもんじゃないか?」
「そう、でしょうね」
 ぞっとするほど彼らしくない色合いで、ジェイドは寂しげに苦笑した。
 だから、続けられた言葉がそれなりに本気だったのだろうと、理解できた。
「恨みますか」
「何をだい」
「たとえば、世界とか」
 私とか。
「あんたでも、そういう莫迦なことを言うんだな」
 理解できたからこそ、呆れ果てるしかなかった。
「莫迦ですか」
「莫迦だろ。大莫迦」
 緑の草はらで、真っ白な瓦礫の前に立って、そこから見上げた空は真っ青で。
 真昼の空は、何処までも真っ青で。
 あまりに眩しすぎて、ひどく目に染みた。
 ルークが、障気の晴れたバチカルの空を見上げていたのを覚えている。
 まっさらな子供だった頃のように、外に出たことのなかった頃のように、ひたすらに見上げていたことを覚えている。
 何か見えるのかと問いかけたら、綺麗だからと笑った、笑い方を覚えている。
 この世界は決して、彼に優しくなかっただろう。
 それでも、覚えている。
 この世界がとても綺麗だと笑う、彼の笑顔。
 ひどく綺麗な笑い方で、ひどく切なくて、だからこそ。
 何もかも、ひどく愛しかった。














「で、実際どう見てるんだ?」
「二人の遺体は決して見つからないでしょう」
「……二人の、遺体は?」
「ええ。それ以上のことは、それこそローレライにでも訊いてみなければ」
「神のみぞってか」
「それもありますが、いろいろあるのですよ、完全同位体というのは」
「ルークと……アッシュ、か。でも」
「ローレライともです。故に、あの二人は第七音素に等しい存在でもあった。アッシュは命を落とし、ルークも致命的な音素乖離を発症していた。ローレライ解放の際に第七音素の奔流に引きずられ、音譜帯への上昇に巻き込まれた可能性もありますね」
「だったら、あいつは音譜帯にいるかもしれないのか」
 肩を落として、ひたすらに真上を仰いだ。
「ええ、まあ……連れてかれちゃいましたかねえ」
「何てこった」
 底抜けに晴れた、綺麗な空。
 腹が立つほど、綺麗な。
「ローレライのあほー」
 死者の音素は音譜帯へ還るなんて、言うけれど。
 死者でもない人を、そんな遠すぎるところへ連れていかないで。
「はっはっは。聞こえちゃいますよ」
「音譜帯までか?」
「もともと音素というものは時間も距離も超越した性質を持っていますから。現に譜術士は、あんなところにある音譜帯を利用して譜術を発動させているではありませんか」
「言われてみれば、そうか」
 そう納得しかけて。
「ん? 距離はともかく、時間もなのか」
「そうですねぇ。預言において過去も未来もなかったように、音素にはそういった変化の概念がないと言われています」
「そりゃ参ったな」
「何がですか」
「あいつのことだ。何年待たされることになるやら」
 肩を竦めて言うと、ジェイドも困ったように苦笑した。
「そればかりは、祈るしかありませんね」
「まったくだ」



 こんな遠すぎる空に、伸ばした手は届かないけれど。
 この声は、届くでしょうか。







  夢を見て 目が覚めて 君はいないけれど
  二人生きてた世界に 輝きあふれる


青木佳乃「ゆめのすこしあと」より







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夢から覚めて。

自分の嘘と自分の真実と世界の嘘と世界の真実。飲み込んだ言葉、声に出した言葉。
続出するインタビューショックですっかり迷走したものの、結局、一番最初に書いた原案に戻ってきました。
どっか気の抜けた声で「ローレライのあほー」