憎むことは容易い。
 だが、憎み続けることは苦しい。



 驚愕でか、それとも別の要因でか、くらりと視界が揺れる。
「……何、だと……?」
 手近の机に咄嗟に手をついて、アッシュはふらついた身体を支えた。
 最初に自覚したのは、こびりついたように残り続ける、僅かな疲労感。
「何だ、それは」
 妙に頻発するようになった、血の気の引くような酷い眩暈。
「何なんだよ」
 そして手からこぼれ落ちていくような、譜術の威力と精度の低下。
「大爆発、だと……!?」
 それは完全同位体の間で、いずれ必ず起こるとされている現象だという。
 前段階として被験者は自らの音素を緩やかに放出し、体力や譜力がじょじょに低下していくという。
 そして最終的には、すべての構成音素をレプリカ側にコンタミネーションすることで、吸収を果たすという。
 アッシュの自覚症状を聞いたスピノザは、その症状は大爆発現象の前段階と見てほぼ間違いないだろうと言った。
 つまり。
「そうか……そういうこと、なのか」
 自分には、何も残らないのだ。
 さらさらと、砂時計の砂が落ちていくように。







ガラスの砂時計


〜ひとつだけしかない名前〜







 感じたのは、おそらく生理的な嫌悪。
 何かとてつもない境界線を崩しかねない存在への、拒絶感。



 まるでただの物を扱うような無造作な所作でヴァンが連れて行く後ろ姿に、胃の奥に不快な何かが残った。
 よく似た模造品。レプリカ。
「あのレプリカが……僕が死んだ後、イオンと呼ばれるんですね」
「俺は真っ平だ」
 ぽつりとこぼされた呟きは埋め尽くしたように平坦なもので、思わず憮然として言い返すと、イオンはくすくすと笑った。少し嬉しそうに。
「でも、そういうわけにもいかないでしょう? だって」
「俺は導師守護役を降りる」
 遮って吐き出されたアッシュの言葉に、何かを言いかけていたイオンが僅かに瞠目した。
「――アッシュ」
「俺はおまえに、導師守護役に引っ張り込まれたんだ。おまえがいなくなった後まで居座り続ける理由が何処にある。もう師匠には転属の話もした」
 おそらくはヴァン直属の配下に組み込まれることになるだろう。本来そうなる予定だった通りに。
「とっとと帰るぞ」
 病状が進行するにつれて体力が衰え始めたイオンに、この火口に近い隠し研究所の熱気は毒だ。いくら預言された日まで死ぬことはないと当人が言い張っていても、無理を重ねていいという話にはならない。
 転移の譜陣がある方へ促すと、呆けたように突っ立っていたイオンが、ぱっと顔を輝かせてアッシュの隣に並んだ。
「そうですね。そろそろアリエッタが拗ねている頃かもしれませんし」
 地面の譜陣が輝いて、ふわりと一瞬だけ身体が浮き上がる感覚。次いで再び足の裏に地面を踏みしめる感覚を覚えて、アッシュはようやく隣を振り返った。
「どうする気だ」
 導師として必要な能力を受け継いだレプリカは、とうとう出来上がった。ならばイオンの死後、導師がレプリカにすり替えられることも確定したということだ。
 だから今更こんなことを問いかける。
「アリエッタには……何も言わないでいてください。せめて、こんな馬鹿げたことに自分で気づいてしまうまでは」
 先程までとは打って変わって少しひんやりとした霊廟の空気に、イオンの小さな声は思いの外よく通った。
「隠し通せると思ってるのか?」
 今後どれほど演技を仕込まれたところで、あのレプリカは『導師』にはなれても『イオン』にはなりえない。それこそヴァンが『ルーク』をすり替えた時のように、重度の記憶喪失とでも謀ることで『イオン』そのものを別人にしない限りは。
 アッシュは燻る苛立ちに任せて、荒々しく扉を開く。
「後のことはヴァンに頼んであります。アリエッタも導師守護役から外されて、彼の部下になるでしょう。状況が一変すれば、一番知られたくないことは気づかれにくくなる。そうしたらアッシュ、彼女のことを頼んでもいいですか? きっと寂しがるから」
 振り返って、階段を登り始めていた足を思わず止める。
 薄暗い陰りの中で背後を一瞥しほろ苦く笑った、イオンこそ寂しげに見えた。
 ここは霊廟だ。死者の祀られる。
 そして彼は。
「イオン」
「変な感じですよね。僕が死んでも『イオン』は死なない。死んでも僕には墓もない。僕の名前すら僕には残らない。僕の物はすべて、あのレプリカが持っていくんですね」
「だったら!! ……だったら、何で同意したんだ」
 レプリカなんかを作るという提案に。
「それが必要だからです」
 つと先程までの曖昧さは一瞬で振り払われ、強い意志を湛えた眼差しでイオンはきっぱりと言い切った。
「ユリアの預言を覆すには、どうしても必要になるはずなんです」
 と、すぐに表情を緩めて苦笑いに似たものを滲ませる。
「って一度は覚悟を決めたくせに、今更あんな泣き言は狡かったですね」
 ごめんなさい。
 階段を足早に駆け上がったイオンの、アッシュを追い抜きざまに囁かれた謝罪はただ苦いだけで。
「謝るな」
「今の、無しにしてください。そんなことを言いたかったんじゃなかった」
 とんっと踏みしめられた最後の足音が、いやに響いた。
「アッシュ。あなたも、こんな気持ちなんでしょうか」
 そうして立ち止まっても振り返らないままのイオンの後ろ姿を見つめて、アッシュが唇を噛む。
 遠くなりすぎた故郷にいるという、自分のレプリカ。
 取り替えられた『ルーク・フォン・ファブレ』は何も知らない、ただの人形。だがきっと自分も、預言のために何も知らされず生かされていた人形だったのだ。
「……俺はまだ、自分のレプリカって奴をこの目で見たことがないからな」
 肯定の言葉も否定の言葉も掴み取れなくて、結局はこんなことしか言えなかった。
「そうですね」
 と、イオンが再び歩き出して、アッシュもその後ろについて行く。
 この階段には誰もいない。歴代導師の霊廟の奧へ入るには導師の許しが必要だ。さもなくば扉を開くことすら叶わない。故にこの場所で、秘密の話を憚る必要もない。
「出会ったら、アッシュは何を思うんでしょう」
「自分のレプリカにか?」
 長い長い階段は、まだ終わらない。
「ええ」
「それは」
 預言の監視者として『ルーク』の剣の師としてファブレ邸に足繁く通っているヴァンから、バチカルの様子は何度となく聞かされている。
 両親のこと、婚約者であるナタリアのこと、そしてレプリカのこと。
 本当か嘘かも知れない、聞きたいのか聞きたくないのかもわからない、ただ自分で切り捨てることを選んだ、切り捨てるしかなかった、たくさんのものへの未練が今もあると自覚させられる。
 もし自分のレプリカを、この目で見たら。
 かつては自分のものだった、今は自分のものでなくなった、たくさんのものを持っている、自分のレプリカを見たら。
 その時、自分は何を。
「俺は、――っ」
 思わず足を止め、固く固く、目を瞑る。
 眼球の奧が、じくじくと痛む。
 たとえ預言のままに死ななくても。
 帰れない。帰るところもない。
 もう、何もない。
 捨てたのは自分だ。
 けれど、捨てられたのも自分だ。
 絶望したのは、自分だ。
「アッシュ」
 いつの間にか戻ってきていたイオンが、つと両手でアッシュの両頬を包み込むように捕まえた。
「イオン?」
 二人が立つ階段の段差で、身長差も今はほとんど関係なくなっている。
 すぐ目の前に、イオンがいる。
「僕が自分のレプリカを残そうと決めたのは、ヴァンの計画なんか関係ない。ただ僕が、僕の信じた希望を残したかったからです」
 穏やかに紡がれる言葉に、息を飲む。
「それが僕の答えです」
 まるで神聖な儀式のように、イオンがそっと額を触れあわせた。
「大丈夫。もう怖い夢は見ない」
 歌うように口ずさんでアッシュから離れたイオンは、無邪気な子供のように、なのに何処か悲しげな、まるで泣き出しそうな笑い方で笑った。
「僕の夢はもうじき終わる。死の病には勝てませんでした。でも、死の預言には勝てると信じています。だから」
 勝ってください。
「アッシュ。あなたは」



 生きてください。
 その声も言葉も彼の記憶すべて、十字架のようなものだった。
 何も残せなかったイオンがアッシュに残していった、十字架だった。
 絶望の底でそれでも生き続けていられたのは、自分が絶望していることを忘れていられたからだ。
 優しい嘘で塗り固めた日々の中で、嘘をついていることを時に思い出しては忘れる。
 騙すのは世界。そして自分。
 自分は生き残れる。死なずに、生きていける。
 そんなものは甘いだけの幻想かもしれない。それでもいつしか、ユリアの預言よりイオンの言葉をこそ信じていた。
 そして、確かに絶望し続けていた瞬間を経て尚、自分はこうして生きている。多くの犠牲は防げなかったが、生き続けている。
 あとは世界が死ななければよかった。
 そう思っていたのだ。
 けれど、結局。
「結局、俺は死ぬしかないのか」
 そう声に出して言ってみれば、刹那、無性に笑いが込み上げてきた。
 ひどく引きつれた、渇いた笑い。
 イオンが残したものは希望だった。
 レプリカという希望だった。
 結局、それすらも絶望でしかなかったのか。
「イオン……あの約束、守れそうにないらしい」
 結局。自分は何処までいっても裏切り者にしかなれないのか。
 長く影を引く夕暮れの、斜陽の光がひどく目に染みた。
 それでも『ルーク』は生き残る。
 ――同じことだ。
 あの夢は、この日から見ていない。



 さらさらと、砂時計の砂が落ちていくように。
 少しずつ少しずつ、反対側へと落ちていく。



 ありがとう。
 レプリカの口からその言葉を聞くのは、これが二度目だった。
「勘違いするな! 俺の目的のためにおまえを利用しているだけだ、おまえのためなんかじゃねえ!」
 腹部の痛みを噛み殺して、勢い任せに掴んだレプリカの胸倉を突き放す。
「二度とそんなこと言ってみろ。殺してやる!」
 受け取れない受け取りたくない受け取れるわけがない受け取ってたまるか。
 初めてこのレプリカを見た時に感じたのは、おそらく生理的な嫌悪。
 何かとてつもない境界線を崩しかねない存在への拒絶感。
 かつて自分のものだったものを持っている『自分』への憎悪。
 自分が得られなかったものを持っている『自分』への羨望。
 何よりも忘れていたい絶望が眼前にあるような苦痛。
 自分ではない『自分』への、強烈な否定。
 けれど今は。
「なあ、アッシュ! 一緒に師匠を止めに行かないか? おまえと俺で師匠を」
「断る!」
 最後まで言い終わる前にアッシュが拒否の言葉で遮ると、まるで叱られた子供のように眉根を寄せた。
「どうして!」
 そのまま半歩踏み出したところで、つと怪訝そうに緑の目を眇めたかと思うと刹那、はっと瞠目する。あまりにわかりやすい反応だった。
「アッシュ……まさか、傷が」
 一度は塞いだ傷口だったが完全に開いてしまったらしく、僅かな血臭が鼻をつく。これだけ近づかれれば、気づかれないわけがない。そもワイヨン鏡窟でアッシュがヴァンに斬られたことを、彼も知っているのだから。
「くそっ! こんな身体でなければ、とっくに俺がアブソーブゲートへ向かっている! おまえがヴァンを打ち損じた時は、俺が這ってでも奴を殺すがな」
 伸ばされようとした手を払いのけ、代わりに言葉を叩きつける。
 受け取れない受け取りたくない受け取れるわけがない受け取ってたまるか。
「……わかった。俺、必ず師匠を止める」
「止めるんじゃねえ! 倒すんだよっ!」
「わかった……」
 まだ何か言いたそうだった顔を無視して、背を向ける。
 よく知っている顔だ。痛みを堪える子供の顔だ。
「……なあ、ちょっと待てよ、その傷」
「開いただけだ、治療の当てもある。おまえらの手を借りるまでもねえ。わかったんなら、とっとと宿に戻れ、レプリカ」
 気後れしながらも呼び止めようとする声に振り返らず言い返せば、もう追っては来なかった。
 受け取れない与えられない。もう、何一つとして。
 大丈夫。もう怖い夢は見ない。
 そう言った自分。そう言ったレプリカ。
 あの日の夜、どうしてか、自分が人殺しの夢を見ていたように、レプリカも裏切り者の夢を見ていた。
 だからかもしれない。
 あの時、ありがとうなどと言い出したレプリカを拒む気にならなかったのも。
 自分から手を、伸ばしたのも。
 そうしたのは一瞬の気紛れでしかなかったが、自分でそうしたことも俄に信じがたかいが、何処かで、これでいいのかもしれないとも思っていた。
 自分のレプリカをこの目で見て、言いようのない怒りのような苛立ちのような嫌悪のような憎悪のような鋭い激情しか持てなかった。
 その存在を、拒絶しなければならなかった。否定しなければならなかった。
 だが、今はそれしかなくても、いつかは。
 いつかはイオンが言ったように。
 心の何処かで、そう思っていたのだ。
 なのに。
 鮮やかすぎる記憶の、イオンの泣きそうな笑顔がちらついて仕方なくて、色濃い自嘲を浮かべたアッシュは空を仰いだ。
 薄暗い灰色の雲の隙間に、朝焼けの光が見える。
 イオンが残したものは希望だった。
 レプリカという希望だった。
 生きる希望だったのだ。
 なのに結局、それすらも絶望でしかなかったのか。
 レプリカ。もうひとりの『ルーク』。
「俺が消えて、あいつが残る、か」
 何も残せないらしい自分が今すべきこと。
 南の果てへ行って、すべて終わらせて、それから。
 それから……?
「俺は、死ぬのか」



 それでも『ルーク』は生き残る。
 この世界と共に生き残る。
 ――同じことだ。



 さらさらと、砂時計の砂が落ちていくように。
 少しずつ少しずつ、反対側へと落ちていく。
 もう、止められない。



 死にたくない。
 そんな言葉は、声にならなかった。







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二つに別たれぬまま繋がったガラス。
もう怖い夢は見ない。夢を見なくなるのは誰?

アッシュにとってのルーク。否定と肯定。絶望と希望。二つと一つ。多重構造の二律背反。