エベノスは、およそ導師には相応しくない、優しく繊細な人だった。
 預言を知る自分が何かしら行動を起こすことでもしかしたら悲劇を免れる人がいたかもしれなくても、預言に従って見殺しにすることに、そうして見殺しにすることすら預言のままであることに、とても耐えられないような人だった。
 ホド戦争によって世界にぽっかりと口を開けた奈落は、壊れつつあったエベノスの精神にまで穴を開けていった。
 その後キムラスカとマルクトの休戦が成ってしばらくした頃、エベノスは"言ってはいけないこと"を言ってしまいそうになって、何度も言ってしまいそうになって、とうとう外に出られなくなってしまった。
 だから覚えているのは、薄暗い部屋の中で消えてしまいそうな、悲しそうな、疲れたような、諦めたような、笑い方。
 それと。



「……エベノス」
 椅子に力なく身体を預けていた男は、呼び声に応えてゆっくりと目蓋を持ち上げた。
 穏やかな微笑には、深く色濃く影が差していた。
「イオン。私の時間はもう、ほとんど残されていないようだ」
「僕はなりたくない」
 導師になんて。
「だが、このまま私がおまえを導師とする預言を明かさなくとも、ユリエルの血を引き、ダアトの秘蹟を受けられる者はもうおまえしか残っていない。鍵は、約束の時まで受け継がれていなければならない。これは定めなんだ、預言と同じように」
「導師なんかに意味はあるの。ユリアの預言にしか価値なんてないのに」
 何を選ぶことも出来ないのに。
 導師も教団も、予め定められた預言という手順のとおりに駒を動かすだけなのに。
 そこには、救いも何もない。
「おまえの言うとおり、虚しいことだ。何を求めても、私たちに未来はないのだろう。でもね、イオン」
 与えなさい。
「求めることが虚しいのなら、与えなさい」
「与える……?」
「そうだ。おまえはいつか出会う。おまえが惜しみなく与えられる人に」
 エベノスは一つ肯いて、手招きをした。誘われるままイオンがすぐ傍まで近づくと、彼はその小さな身体を膝の上に抱き上げた。
「今の私が与えられるのは、預言しかないけれど」
 ――八つになった頃、おまえは小さな光を見いだすだろう。
 そう呟くように囁いてイオンを抱きしめると、そっと額を触れあわせた。
「だから与えなさい。それがきっと、おまえの救いにも繋がってゆく」
 怖い、怖い底無しの夢を見た時のように。
 かつては常にエベノスの傍らにあった女性が、導師守護役だった女性が、してくれたように。そして彼女に返していたように。
「大丈夫。もう怖い夢は見ない」
 エベノスの表情は穏やかだった。
 だからイオンも目を閉じて、その言葉を口ずさむ。
「……大丈夫。もう怖い夢は見ない」
 触れた額はかさかさに乾き果てて温もりを感じられなかったけれど、その表情はひどく穏やかだったのだ。
 もう、エベノスが失くした彼女の夢を見ることもない。底無しの深淵の夢を見ることもない。エベノスの知っているイオンが、底無しの深淵の夢を見ることもない。
 エベノスはもう、夢を見ない。
「おまえと、おまえが出会うすべてを、私は祝福しよう」
 だから生き続けなさい。
 たとえ、どんなことがあっても。
「私たちにだって、意味はある。きっとね」
 小さな譜石の欠片をイオンの手に握らせて、エベノスは微笑んだ。
 どうしてか、幸せそうに。



 その日、夕暮れの光の中で、エベノスは静かに息を引き取った。
 エベノスは最後まで、次の導師就任を告げる預言を誰にも明かさなかった。
 永い眠りに落ちるその瞬間まで、何も言わず微笑み続けた。



 その笑い方を、今でもはっきりと覚えている。







暮れる世界


〜オレンジ色に光る地平線〜







 だからその言葉は、祝福であり、呪いだった。



 黒地に臙脂の装飾が施された法服を纏った彼は、誰もいない礼拝堂に立っていた。
 ユリアのステンドグラスの前で、跪いて祈ることもなく、ただ剣のように、真っ直ぐに立っていた。
 だからイオンは、笑ってその背に声を掛けた。
「アッシュ」
 ちらりと肩越しに振り返ったアッシュの表情は逆光に隠れていたが、少しだけ肩の力を抜いたのがわかった。
「アッシュに、会わせたい子がいるんです」
「会わせたい子?」
 反芻しながら祭壇を降りてきて、怪訝に目を眇める様すら、はっきりと見て取れる。
「ええ。今までベルケンドの研究所に預かってもらっていたんですけど、これから迎えに行くんです」
 それを聞いたアッシュは、困ったように眉をひそめた。
「……ベルケンドは、まずいだろう」
 そこはキムラスカ領であり、彼の父であるファブレ公爵の領地だから。
「大丈夫ですよ」
 たっと床を蹴ってイオンはアッシュの隣まで駆けると、その手を取った。
「あそこの研究所は、表向きには研究の委託という形ですけど、実際は完全にヴァンの支配下になっちゃってますから」
 フォミクリーの禁忌に手を出した負い目。手を出さずにいられなかった、禁忌の誘惑に屈した負い目。すべてに口を噤むことで、己の所業からも目を背けている街。
 罪を犯すことすら預言のままなら、世界はなんと罪深い。
「いや、でも」
「つべこべ言わずに来てください。アッシュは僕の導師守護役でしょう?」
 イオンが満面の笑顔を貼りつけて言い放つと、アッシュは苦虫を噛み潰したような表情を滲ませた。
「だいたい、そこからして俺はどうかと思うんだが」
 初めて出会って一ヶ月を共に過ごした後、イオンは正式に導師に就任して、アッシュはヴァンに連れられ神託の盾騎士団に入団し――導師の就任式が終わるなりヴァンもろとも呼びつけたイオンが、その場で導師守護役に任じたのは、まだほんの数日前の話だ。
「まあ、さすがのヴァンも呆気にとられてましたね」
「……師匠があんな顔したの、俺は初めて見た」
「僕もです。ずっとヴァンにも内緒にしておいた甲斐がありました」
 そう言うとアッシュが憮然とした顔をしたので、イオンは喉の奥だけで笑った。
 ヴァンは預言などなくとも怖ろしいほど出来事の先を読み、人心を読み、それを巧みに操って思い通りの結果へと転がしていくが、さしもの彼も、イオンがここまでアッシュに執着するとは予想外だったらしい。
「でも、あのヴァンの秘蔵っ子として突然現れて、それこそ鳴り物入りで入団しちゃったんですよ。ヴァンはダアトを離れていることが多いですし、普通の部隊にいたら面倒なことになるに決まってるじゃないですか。これが一番、いろんなことが丸く収まるんです」
 それに導師と一兵卒とでは、どうしても会いにくい。
 そんな本音は、声には乗せないけれど。
「悪目立ちしたのは、わかるが……」
 そこで続く言葉を濁した、アッシュの言いたいことはわかる。
「大丈夫ですって。僕の我が儘でいきなり導師守護役に取り立てられたのは、アッシュで二人目なんですから」
「そうなのか?」
「ええ。話題性では彼女も負けてませんよ。むしろアッシュの方が"普通"です。僕の導師守護役として、アッシュなら年齢も能力も文句なしですし」
 一ヶ月前まで、大国キムラスカの王族として最高峰の教育を受けていたのだ。当然、修めている教養も礼儀作法も、教団の幼年学校に在籍するどの子供より遥かに優秀で比ぶべくもなく、唯一不安のあった教義の理解すらあの一ヶ月で物にした。
 実際、相次ぐ唐突な任命に疑義を挟んだ他の詠師たちを最後に黙らせたのは、アッシュの実力に他ならないのだ。
 先代導師エベノスから引き継いだ導師守護役は経験豊かな年長者たちで、イオンもよく知っている馴染みの顔触ればかりだが、肝心の幼年学校からの選出はとうとう新導師就任に間に合わなかった。そんなところに舞い込んだ逸材は、これ幸いとばかりに賛同を得られたのである。
「一人目がちょっと突拍子なさ過ぎたからか、アッシュのことは吃驚するくらいあっさり認めてもらえましたね」
「だったら、俺に会わせたいってのは」
「ええ、その子です」
 繋いだままだった手を引くと、今度は嫌がらなかった。
 礼拝堂の前には昔馴染みの導師守護役たちを数人待たせている。これから出迎えに行くのだ。彼女を。
 今までにも何度も通った道のりが、不思議なくらい落ち着かない。
「ああほら、早く行かないと、アリエッタの乗った船が港に着いてしまいます」
「……待て」
「何ですか?」
「その、おまえが言っている奴が、ベルケンドから帰ってくるから、ダアト港に迎えに行くって話か?」
「そうですよ。僕がユリエルの館にいた間、ベルケンドの研究所内にある医療施設で預かってもらっていたんです」
 途端にアッシュが辟易とした顔になったのは、気づかないふりをした。
「医療施設って、病気か何かか」
「病気、になるのかもしれないですね」
 参籠を始める前に見送った、少女の不安そうな泣きそうな顔を思い出す。拙い発音と貧しい語彙でたどたどしく紡がれる彼女の言葉は、イオンかヴァンの名前を呼んでいてばかりで、意志を伝えるのは声音と表情と仕草だけだった。
「アリエッタは、魔物に育てられた子なんです」
 彼女は、アッシュの名前を呼んでくれるだろうか。
 そんなことばかり考えている自分が、たまらなくおかしい。



 アリエッタは、後にアリエッタと名付けたその少女は、イオンが初めて出会った時、およそ人間と呼べる生き物には見えなかった。
 手足は枯れ枝のように細く乾いていて、色褪せた髪は鬣のように逆立っていた。喉から発せられる唸り声は濁っていて、双眸はぎらぎらと輝いていた。
 人間は人間として正しく育てられなければ人間には成り得ない。しかし魔物に育てられても魔物には成り得ない。少女を育てたコロニーの女王たるライガ・クィーンに向けて、そうヴァンが言ったのを覚えている。
 今年の初め、ルグニカ北部の森で、凶暴な魔物であるライガの群の中で、ライガの仔と等しくライガの仔として育てられた少女が発見された。
 その報せにヴァンが興味を持ち、自ら足を運んだ理由をイオンは聞かなかったが、ヴァンが申し出たその少女の保護を許可した理由は、他ならぬイオン自身が興味を持った理由は、エベノスの遺言があったからに他ならなかった。
 エベノスの没した去年が終わって始まった今年、イオンは八歳になった。その少女が預言された存在かもしれないという、期待がなかったとは言えない。
 そう、確かに、未知の存在に期待していたのだ。
 果たして少女は、今までイオンが見たことのない存在だった。
 停滞したまま緩慢に死へと向かうダアトでは、見たことのない存在だった。
 ユリアの秘宝を伝える聖獣チーグルの助力を得てライガ・クィーンとの交渉に臨んだヴァンは、少女が人としての幸せを得るために、少女を人の群へ返すことが必要だと訴えていた。だが、たとえその幸せが得られたとしても、決して長くは望めないだろうとイオンには思えた。
 わざわざ預言を詠むまでもなく、少女に落とされた死の影は明らかだった。
 その時、同じだと思ったのかもしれない。
 だからなのかもしれない。イオンがライガの巣穴に足を踏み入れたのは。
 ライガ・クィーンが少女のことを、大きな波に流された白い島に取り残されていた赤子だと言った時、ヴァンがやはりフェレスかと呟いたことを覚えている。
 だからなのかもしれない。イオンがライガの巣穴に足を踏み入れたのは。
 フェレス。
 ヴァンの故郷でもあるホド本島が崩落した時、発生した大津波に巻き込まれて滅んだ、ホド領の島の名だ。
 そしてエベノスが愛した導師守護役の、家族が暮らしていた島だった。
 エベノスがヴァンのことをどう思っていたか、イオンは知らない。ホドの崩落をもたらすと秘預言に示されていたのはヴァンであり、やはり崩落させたのはヴァンだった。そのヴァンを詠師にまで取り立てたのは、エベノスだった。ヴァンが抱いているユリアの預言ひいては世界への怒りも憎しみも絶望も、すべて知った上で。
 ──もしかしたら、エベノスも憎んでいたのだろうか。絶望していたのだろうか。
 そんな疑念への肯定も否定も、今となっては空しいものでしかないけれど。
 死んでしまったエベノスの答えなど、もう何処にもないのだから。
 彼が正気と狂気を行き来しながら、ホドの難民の救済に余生のすべてを懸けていた理由も、もはや想像しか出来ない。
 だから、それを受け継ぎようもないけれど。
 ただイオンにとって少女は、深淵の断崖に立っている存在だった。
 だから、巣の奧でうずくまる少女に、手を差し出した。



 見渡す限り、真っ青な空は散らばる譜石が見えるほど透き通っていた。
 見下ろした真っ青な海は、無数の白い光を弾いて煌めいていた。
 冬はすっかり遠ざかり、追いやられていた太陽が近づいて、冷たさの消え失せた海風は何処までもやわらかく肌を撫でる。
 何と言うこともない、春の海。
 この季節、高速艇ならばベルケンドからダアトまで数日とかからない。天候にも恵まれて、船旅はすこぶる順調だろう。しかし預言で航路の天候を見通していれば、そもそも悪天候に見舞われるはずもない。
 空は静かに晴れ、波は穏やかに揺れ、それは何と言うこともない春の日和だった。
 ダアト港の事務所の屋上から、イオンは眩しすぎる空と海を見つめた。
 青い絵の具をぶちまけたような真っ青は、それでも輝いている。
 沈みゆく世界は、光に満ちている。
 残酷なほどに。
「最初はアリエッタのことかと思ったんです」
 可哀想なアリエッタ。ホドの崩落に巻き込まれて、赤ん坊の時に家族をすべて失って、魔物に育てられて、魔物のように生きて、それでも魔物になれなかった彼女は結局、長くは生きられない人間になってしまった。自分の命以外のすべてを波にさらわれて、唯一残された命もひどく短いものとなってしまったのだ。
 人間としての正常な発達を著しく阻害された彼女の身体は、欠陥だらけだった。人間らしい心と言葉を学習して人間の子供になれたとしても、人間でなかった数年間は取り返しがつかない後遺症を彼女に残した。
 二十年は生きられないだろうと医師は言った。
「アリエッタも僕と同じかと思ったんです。長く生きられないと宣告されて。けれど彼女は、僕がいればいいと言うんです。――僕は、そんな風には思えない」
 彼女の目に映る世界は、ぞっとするほど狭かった。
 それは信じられないほどの愚かさであり、羨むほどの一途さであり、眩しいほどの純粋さだった。
「どうせ十二で死ぬのなら、今すぐ死んだって同じじゃないかって、何度も思いました」
「何となく、わかる」
 アッシュが小さく、言った。
「死んでしまえば、すべて終われるんだ」
「でも、死ねなかった。死ねば楽になると思う、そのたびにエベノスの預言に引き止められるんです。どうしても、未来に期待してしまう」
 イオンは両手を祈るように重ねて、きつく握りしめる。
 足下の影を知らないでいられた頃には、気がついても忘れていられた頃には、もう二度と戻れない。日没が近づくにつれ、黒い影は長く大きく伸びていく。
 なのに。
「期待してしまったら、生きるのに平気な振りをしてしまう。死の預言を、忘れられるわけもないのに」
 求めるものは何もない。望みはとうに絶たれている。
「死の預言は、絶望だったのに」
 未来はとうに絶たれている。
 死の預言は、未来ですらなかった。
 それでも。
「エベノスの預言は、僕にとって、祝福であり呪いだった」
 彼が遺したあの預言は、生きることへの祝福であり、生きることへの呪縛だった。
「でも、だから今は──」



 これから初めて、何かを選ぶことが出来る。



「イオンさま!」
 薄紅色の髪を揺らして、か細い足でステップを転がるように駆け下りて、か細い腕を伸ばしたアリエッタがイオンに飛びついてきた。
「アリエッタ。いい子にしてましたか?」
 少し重心を落としてイオンは、少女の軽すぎる身体を受け止める。
「いい子、みんな言う、したよ!」
「そうですか」
「イオンさま、バイバイ終わり?」
「ええ、終わりました。だから、また一緒です」
「ほんと? イオンさまとアリエッタとライガとフリスベルグ、一緒?」
 目を輝かせながら勢い込んで顔を近づける少女に、イオンは笑う。
「もうひとり、一緒が増えるんですよ。──アッシュ」
 そうして彼女と左手を結んで、彼に右手を伸ばした。



 初めて、海からの風を気持ちいいと思った。
 初めて、空と海の青を美しいと思った。
 結んだ誰かの手を、初めて愛おしいと思った。



 そんなことばかり考えている自分が、たまらなくおかしい。



 本当におかしいことだらけだ。
「何か言いたそうですね」
 いつも余裕綽々の態度を崩さないヴァンが、おかしなくらい神妙な顔をしていた。
「イオン様。何をお考えですか」
「だから言ったじゃないですか。導師就任のお祝いをくださいって」
「──お戯れを」
 そう言うヴァンの声に混じっているのは苦笑か呆れか、それとも。
「あなたの計画の、邪魔はしてないつもりですけど?」
 吐き出された嘆息は、まるで子供の悪戯を咎めるような、そんな色で。
「しかしアッシュは、アリエッタとは違います」
「ええ、違いますね」
 おかしくておかしくて、思わず吹き出しそうになった。
 この男は世界を滅ぼすという。
 何をせずとも自らの重みで崩れゆくこの世界を、あえてその手で壊すという。
 その時が訪れるより前に、自分は死ぬ。
 その後に何も遺さず遺せず、死ぬ。
 だからこの男の、復讐と理想と愛憎が綯い交ぜになった計画に、手を貸してもいいかと思った。
 けれど。
「だからこそ、なんですけどね」
 ヴァンが訝しげに目を眇めたが、イオンはそれ以上、何を言うつもりもなかった。
 だってこれは、とっておきの秘密。
 宝石箱の中にそっと隠して、埋めてしまうのだ。
「イオン、時間だ。そろそろ戻らねえと」
「イオンさま、じかん」
 二人が黙り込んだまま動かなくなったのを見計らってか、離れていたアッシュが声を張り上げた。と、アリエッタがたどたどしくその言葉を真似る。
「今、行きます」
「――導師イオン」
 ここから二人を振り返れば、その向こうの西日が眩しくて、オレンジ色の光はひどく目に染みた。
 だからもう一度だけ太陽に背を向けて、長く大きな影に沈んだヴァンに言い放つ。
「ヴァン。あなたはこれから、バチカルの監視を命じられているのでしょう?」
 だからここで、お別れだ。
「アッシュ、アリエッタ。私たちは帰りましょう」
 イオンは手を伸ばしてもう一度、二人と手を結ぶ。アリエッタは嬉しそうにしがみついてきたし、アッシュは呆れたように小さく笑ったが振り解こうとはしなかった。
 もうじき沈む太陽は、眩しくて眩しくて、涙が滲みそうになった。
 この絶望しかない世界は、何も変わらない。
 それでも、変わるものはあった。



 生まれて初めて、生きていて良かったと思える。







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お題no.16「生きとし生けるものの幸福」。

逃れえぬ死を見つめ続け、死にながら生きていく人。
死に続ける日々を、生きることの価値。死に続ける日々の中で、何かを愛する気持ち。

ここから始まる、三人で過ごす蜜月の日々。長くて短い、夕暮れの五年間。
オレンジ色に輝く地平線の、その向こうには何が見えるだろう。