絶望的な希望の預言を残して消えていった、友のことを覚えている。
DEAD SET : reprise
〜結んだ指〜
「導師の慰霊祭は済んだのか」
その声はいつになく静かで、ルークは一瞬だけ息を飲んだ。
それから弾かれたように後ろを振り返った、ルークの横でナタリアも異口同音に驚きの声を上げる。
「アッシュ!」
礼拝堂の扉からまっすぐに説教壇へ向かって歩いてくるアッシュは、長さ一メートルはあろうかという長細い包みを片手に抱えていた。それは剣のように思えたが、ローレライの剣は腰に佩いている。
レムの塔で障気を中和した後に別れて以来だった。
「あの、アッシュも、お変わりありませんでしたか?」
その姿を見つけるなり駆け寄ったナタリアは彼の前でぴたりと足を止め、おずおずと問いかける。
「どうした」
ナタリアにあわせて立ち止まったアッシュが、怪訝そうに目を眇める。
「ですから、この前の障気の中和で、アッシュも超振動を使いましたでしょう。ルークはあの後ベルケンドで精密検査を受けましたけど、あなたは」
結果的にアッシュがルークに助力したことで二人がかりになったとはいえ、一人では命を落としかねない規模で発動させた超振動の制御に携わったのだ。そも音素乖離はレプリカだけに起こり得る現象ではない。
「それなら俺も受けさせられた。──あいつらがうるさくてな」
ため息まじりに答えたアッシュが、少しおかしくてルークは笑みをこぼした。
漆黒の翼の三人組も、レムの塔でアッシュのことをひどく心配していた。きっとあの後、無事を喜んで、心配させたことを怒って、問答無用でベルケンドに引っ張っていったのだろう。現地で出くわすことがなかったのは、良かったのか悪かったのか。
「そうですか」
ナタリアもほっと表情を緩めた。
「導師の慰霊祭に参列していたのか」
「ええ。アッシュもですか?」
その遠慮がちな声に、アッシュは肩に引っかけていた長細い包みに目を向けた。
「俺はこいつを返しに来ただけだ」
言って、ナタリアの横をすり抜けた彼は説教壇の前まで行くと、その上に立つトリトハイムを見上げる。
「詠師トリトハイム」
手にしていた包みの布がほどかれる。中から現れたのは、鞘に収められた一振りの黒い剣だった。ルークたちにも見覚えのある、それはアッシュがローレライの剣を手にする前に使っていた剣だ。
「遅くなったが、これをお返しする」
その剣をアッシュは、両手で差し上げた。
トリトハイムはそれを受け取ることもなく、しばし沈黙のままそれを見下ろしてから、ようやく口を開いた。
「何故ですか」
「導師もいない大詠師もいないとなれば、席次の高い詠師が代理を務める。今このダアトに詰めている詠師の中では貴殿が先任だったと記憶しているが」
「ええ、その通りですね。しかし私がお訊ねしているのは、あなたが何故その剣を返上するのかということです」
「この剣は、俺が詠師位に叙せられた時に導師から賜った物だ。今はただの背約者でしかない俺が、いつまでも持っているべきではないだろう」
何を当たり前なことをと言わんばかりに目を眇めて訝るアッシュに、トリトハイムは緩やかに微笑んだ。
「確かにあなたは、神託の盾騎士団の特務師団長からは罷免されています。ですが、ローレライ教団の詠師であることに今でも変わりありませんよ」
「……どうなってやがる」
呻くように吐き出された声は、地を這うように低い。
「詠師を廃せるのは導師のみだからです。イオン様は生前、あなたの廃位だけは留保していました。ですからあなたは今も、この教団の兄弟です」
目を瞠ったアッシュは刹那、痛むように顔をしかめた。
「俺を詠師に叙したのはイオンだ。そのイオンがいなくなった今、俺が教団にいる理由もない」
「あなたがどう考えていようと、その剣は受け取れません。あなたが持っていてください」
頑として譲る気配のないトリトハイムに、ついに諦めたのか、差し上げていた剣を下ろす。
「くそ」
ぽつんと落ちた悪態も、刺より拗ねたような色合いが勝っていて。
「俺はもう教団に戻らねえぞ」
「では気が変わったら戻ってきてください」
即座の切り返しに思わず絶句したアッシュは深々と嘆息をこぼすと、はたと何か思いついたか顔を上げた。
「イオンの墓はどうなった」
ルークがはっと目を瞠ってアッシュを見やる。イオンの墓。
「昨日、霊廟に」
「そうか」
「待ってアッシュ!」
トリトハイムから返答を受け取って、用は済んだとばかりに礼拝堂のさらに奥にある扉へ歩き始めたアッシュを、ルークよりナタリアより早く、アニスが呼び止めた。
「ねえ。あんた、導師守護役だったんでしょ」
ひどく硬い彼女の声は、ひび割れそうなのを必死で押しとどめている。
アッシュがひたりと足を止める。
「……昔の話だ」
「でも、被験者のイオン様の時だったんでしょ。六神将になるまで五年間、ずっと。アリエッタと一緒に」
初耳だ。ルークは咄嗟にガイの顔を見上げ、やはり目を丸くしているガイと共に、同じように顔を見合わせていたティアとナタリアを振り返った。結局ルークだけでなく、三人とも声もなく驚愕していて、一人だけ平然と成り行きを見守っていたジェイドに四人の視線が集中するはめになった。
それに気づいたジェイドが、無言の首肯のみを返す。
ならばアッシュは。
「その話か」
億劫そうに肩越しに振り向いて彼は、そこで奇妙な緊張を帯びて固まっているルークたちの空気にも気づいたのか、苦笑気味に鼻で笑った。
「あいつのことで、俺がおまえらに何か言う資格はねえよ」
「でも、私が殺したよ。アリエッタ」
「命を懸けた決闘の結果なんだろうが。言い出したのも負けたのも、アリエッタだ」
アニスの表情が目に見えて歪む。
「知って、たの……?」
「こないだラルゴの野郎に呼び出されてな。事情も全部聞いた。だから俺なんかに求めんじゃねえよ。それに──どうせ、もう長くなかった命だ」
「え……?」
ただただ冷静な声で言葉を並べた、その最後に付け足されたような呟きだけは消え入りそうに儚かった。
だがそれも一瞬だけで。
「全部投げ出した俺が言える義理じゃねえが、あいつが決めたことにつきあってくれたのは感謝している」
アニスに向き直ってそう言ったアッシュの声は、ひたすら静かだった。
呆然と立ちつくしていたアニスが不意に、堰を切ったように声を上げて泣き始めたのは、アッシュを追いかけて走り出したルークの後ろで扉が閉まった、すぐ後だった。
かつて、夢を見たことがあった。
自分のものではない、夢を見たことが。
ダアト教会の礼拝堂の隅には、普段は使われることのない通路がある。
曲がり角一つない直線の通路の先には、教会の裏に出られる扉があるだけだ。その出口の先には、墓地があるだけだ。この通路は礼拝堂で葬儀が行われた時のみ使われる。ダアト教会内部の礼拝堂で葬儀が行われるのは、合同葬儀などの特殊な場合を除けば詠師以上の者が死んだ時に限られる。その遺体は棺に収められたまま、この通路を通って墓地へ運ばれる。
だからこの道は、まっすぐ墓地へと続いている。
その道を歩きながらアッシュはふと、肩に引っかけていた黒の長剣を一瞥した。アッシュが十四の時、ヴァンがうち立てた過去最年少記録を塗り替えて詠師に叙階された時に与えられた、イオンがアッシュのためにあつらえさせた剣だ。
アッシュに詠師位を授けたのはイオンだった。オリジナルの。彼が死んで導師守護役を捨てた後にも残った、詠師位にまつわるすべてを与えたのは、イオンだった。
だから今まで、手放すには惜しかったのだろうか。そんな念が我知らず浮かんで、浮かんだことに気づいて、アッシュは自嘲をこぼす。
導師の慰霊祭が行われるとノワールに囁かれて、ふと自身のレプリカを見て寂しそうに笑ったイオンを思い出した。
墓も名前も、自分のものは何一つ残らないのだと嘆いたイオンは、それでも少なくないものをアッシュに残して逝った。レプリカではない、他の誰でもない、イオンが遺していったもの。それはこの剣という形あるものだったり、約束という形なきものだったりした。
だがそれももう、終わりになる。
アリエッタは死んだ。
結局、何も言えなかった。あの時間はもうとっくに取り戻せなくなっているのだと、言えなかった。言えないまま、彼女は逝ってしまった。
彼女は何を憎んでいたのだろう。本当は何を思って決闘に臨んだのだろう。ラルゴが預かっていた、今となっては遺言になってしまった伝言を聞かされて、覚えたのはおそらく後悔だった。
──病気がうつっても、一緒が良かった。
アリエッタはそう言ったという。それが何のことか、考えるまでもなかった。イオンは自力で起き上がることも出来なくなってから息を引き取るまでの時間を、アッシュと初めて出会ったあの聖地で過ごした。アッシュだけが付き添うことを、イオンは望んだ。そう告げられ泣きじゃくったアリエッタへの言い訳は、アリエッタにこの病気がうつったら死んでしまうかもしれないという、陳腐な代物だった。
病気。そう、死病だ。
墓地に続く道の、終わりが見えた。
あの時もイオンに会うため、この道を通った。
立ち止まることも振り返ることもないままアッシュは、後方へ意識だけを向ける。
短いような長いような距離を間に置いて、アッシュと似たような歩調で、けれど重なりきらない足音が一つ、付いてきている。そう、付いてきているだけだ。足音は忍ばせているつもりなのかもしれないが、まるでなっていない。あの時と同じように。
結局そのまま大扉の前まで辿り着いてしまって、アッシュは小さく息をついた。
あの時も、置き去りにされるのを嫌がり黙って後を付けてきた彼女に、そう、
「付いてくるなと──」
「わわ、ごめんっ」
一息で振り返って怒鳴りかけて、はたと止まった。
ぎゅっと目を閉じた子供が、首を竦ませている。赤毛の、図体ばかり大きな子供が。
──あの薄紅色でなく。
そう思って、そう思ったことに愕然とする。
イオンは死んだ。アリエッタも死んだ。
今更、感傷が過ぎる。
思わずアッシュは歯噛みした。
アッシュは夢を見たことがあった。
自分のものではない夢を、見たことがあった。
あたたかな手のひらの感触を、今でも覚えている。
血の色と死の臭いと、無数の命を沈めた黒い海を覚えている。
その瞬間の、灼けつくような痛みを覚えている。
つと途切れた怒号に、おそるおそるルークは目を開けた。
何の前触れもなく振り返ったアッシュに叱られそうになったのはほんの一瞬前だが、彼は既にルークを見ていなかった。ひととき曖昧に彷徨った視線は不意に顔ごと背けられ、間もなく舌打ちが聞こえた。
この舌打ちは、自分に向けられたものではない。
それにそう、アッシュは今さっき、何と言おうとしていた?
訝り目を瞬かせるルークに、アッシュがひどく苦い顔で向き直った。
「くそっ。……レプリカ、てめえ、いつまで付いてくるつもりだ」
「付いてっちゃ駄目なのか?」
「とっとと戻れ」
問い返せば即答されて、微かに俯いてルークは同じ顔を睨め上げる。
「嫌だ」
「仲間のところに戻れっつってんだ」
「でも、アッシュはお墓に行くんだろ」
一瞬だけ鼻白んでから、アッシュは眉根を寄せた。
「……何でそうなる」
「さっきイオンの墓のこと訊いてただろ。イオンの墓に行くんだろ」
最初は何故と思った。
だがアニスがアッシュを元・導師守護役と言って、ようやく繋がった。
「てめえに何の関係がある?」
そう言った声は突き放すように冷ややかで、静かなままだがひどく低い。怒鳴ってこそいないものの、不興を買ったことはそれだけで察せられる。
ルークは被験者のイオンを知らない。知っているのはレプリカのイオンだけだ。
それでも。
「俺は被験者のイオンとは関係ないかもしんねえけど、それじゃ行っちゃ駄目なのか?」
自分のオリジナルをまっすぐ見据えてルークは言い返す。目をそらせばそこで終わりだと思った。そのまましばらく無言で睨み合っていたが、ふとアッシュは舌打ち一つこぼして目を伏せた。
「勝手にしろ」
そうして呆れたように言い捨てた時にはもう、果てにある大扉に手を掛けていて。
「ああ。勝手にする」
投げやりにでも許しがもらえたことに少し嬉しくなって、アッシュが押し開けていった扉が閉まる前に、ルークも手を伸ばして滑り込む。
まっすぐ続くだけの、短いような長いような道を抜けた先は墓地だった。
教会の裏までは街もなく、ただ無数の墓石だけが整然と並んでいた。そのさらに向こう側は山裾の、切り立った崖が左右に伸びている。他には取り囲むように木々があるだけで、何もない。だから人けがない。墓地と崖の隙間を埋めている森からは鳥のさえずりが聞こえてくるほど、ここは静かだった。
静かだった。真上から少し傾いた陽射しも、緩く流れる風も今の季節はやわらかで、穏やかな静寂だけがあった。
ここは墓地だ。死者のための。
ルークは噛みしめるようにその言葉を胸中へ置いて、思わず立ち止まってしまっていた足をもう一度動かす。慌てる必要はなかった。追いかけるべき後ろ姿を、この場所で見失うことはない。
林立する灰色の墓石の、隙間を抜けていく真紅と黒の影はひときわ異彩を放っていた。
色鮮やかなのは、彼が生きているからだ。
待ってはくれないが、追い返されることもない。ルークは足早にアッシュとの距離を詰める。けれど近づきすぎる前に、歩調を緩めて合わせる。
前を行くアッシュの肩にはあの、被験者のイオンから授かったという剣が引っかけられたままだった。黒い長剣はアッシュが詠師になった祝いの意味もあったのだろうか、儀礼用の剣ほど華美に飾り立てられてはいないが、鞘や鍔に施された意匠は程良く上品に凝らされた物だ。むろん剣としても業物であることは言うまでもない。
だが、ただの剣だ。
そして、特別なものだ。
ルークはオリジナルのイオンを知らない。知っているのはレプリカのイオンだけだ。だが、この剣の意味は少しだけわかる気がした。その剣を持ってここに来た、アッシュの意図もわかるかもしれない。わかっていないかもしれない。知っているのは、ほんのひとときアッシュの目で世界を見ていたとき、アッシュがこの剣をどんな風に手入れしていたかだけだ。
知っていることなんて、本当に僅かなことだけだ。
ルークは少しだけ目を細めて、蒼い空を仰ぐ。
ここは墓地だ。死者のための場所。死者が眠るための場所。
ぞっとするほど穏やかな、静けさだった。
だから。
――覚悟、なのだ。これはきっと。
ルークは夢を見たことがあった。
自分のものではない夢を、見たことがあった。
やわらかな微笑みの感触を、今でも覚えている。
その唇が紡いだ、嘆いた、裏切り者という言葉を覚えている。
その瞬間の、突き刺さるような痛みを覚えている。
墓地の果ての、崖下に貼り付くように埋もれるように、その聖堂はあった。
こじんまりとした造りではあったが、その雰囲気はダアト教会総本山の礼拝堂とよく似ている。天井が高く重厚で荘厳、そして何より静謐という言葉が相応しい。
天窓が少ないために堂内は薄暗いが、不思議と果てまで見通せた。聖堂の最奥には鈍色の石柱が立てられ、両脇の壁面にはよく似た色の、無数のプレートが敷き詰められている。
ここは一つの境界線。
埋め尽くすような死者の沈黙に、ルークは深く息をのんだ。
「奥が初代導師ユリエル・ジュエの、壁のは歴代導師の、墓碑だ」
静けさに圧倒され立ちつくしていたルークに、ささめくような小声でアッシュが言った。目を見張って振り向けば、彼はルークを一瞥だけして左の壁の前に立つ。そこにはタイルのように並んでいるプレートの、切れ目があった。
「それがイオンの?」
追いかけて、その一点をまっすぐ見上げる背に投げた声が、静かな聖堂の中に響く。
振り返らないアッシュの隣まで行くと、ルークは真新しい墓碑に刻まれた文字を、指先で撫でた。
刻印された名前は、イオン。
生年は被験者のイオンのもの。没年はレプリカのイオンのもの。
ならばこの墓碑銘は、いったい誰のものなのだろう。
「そいつは、導師の遺体を焼いた灰を混ぜ込んで作られる」
またアッシュが、呟くように言った。
「じゃあ、これは被験者のイオンのなんだな」
レプリカのイオンはルークの腕の中で、跡形も残さず消えてしまったから。
音素乖離してしまったら、何も残らない。墓には何もない。それは目の当たりにした過去であり、そう遠くない未来でもあった。
だが。
「そいつはただの土くれだ」
「土くれ?」
言ったアッシュの、墓碑銘を見上げる横顔をルークは見やる。
「イオンの灰なんか入ってねえよ」
その声に混じった色は、嘲笑のようで怒りのようで、悲哀のようで、痛みのようで。
「何で」
たとい名前も何もかもをレプリカに明け渡してしまっても、記憶と身体は他の誰のものにもならないはずだ。
「……別のところに、お墓を隠した?」
だからこそ亡骸を隠さなければならなかったのかと、思いかけて。
「あいつは何も残さなかった。欠片も残さず消えた」
冷淡にも聞こえる響きで告げられて、眩暈がした、気がした。
「それって」
死んだことすら、なかったことにされて?
ヴァンやモースたちにはレプリカを利用されて?
彼のことを好きだったアリエッタにも知られずに悲しまれずに?
氷の固まりを飲み込んだように、ひやりとした感覚が喉の奥に詰まる。
──ああ、そんなのってないだろう。
生きることも死ぬことも、本当は、その人だけのものであるはずなのに。
「そんなんじゃ、そのイオンは……」
言いかけて、はたとルークは目の前にいる、自分のオリジナルを見つめた。
アッシュがここに来た、理由は何だ。
黒い剣の、意味は。
「……アッシュは、イオンのこと好きだったんだよな?」
「何だいきなり」
「オリジナルのイオンが死んだ時にそのこと誰も知らなかったら、そんなの悲しいじゃねえかっ」
怪訝な顔をするアッシュがもどかしくて、思わずルークは詰め寄った。便利通信網でも何でもいいからそっくりそのまま伝えらればいいのだが、頭突きをしたところでルークには無理な話だ。と、気圧されたように後ずさりかけたアッシュが、勢い込むルークの頭を前髪ごとくしゃりと押さえつけた。
「落ち着け。つか、てめえが何であいつのことで喚くんだよ」
「だって、イオンのオリジナルってことは俺にとってのアッシュと同じだろ!」
当たり前だろうと力説したルークを、憮然とした面もちでアッシュはしばし見つめていたが、やにわにその頭を押さえつけていた手で小突くように突き放した。
「うわ」
「何を言いてえのか、さっぱりだ」
「えー。そうかな」
嘆息まじりに一蹴されてしまったが、その声音に棘は感じられなくて、ルークは不満を素直に口にする。そうしてもう一度、言葉を選び直す。
「だから……ええと。俺はイオンと友達だけど、アッシュとオリジナルのイオンも友達なんだろ」
大切なのは、たぶんこれだけだ。
アッシュがもう一度、ため息をついた。
「だから何だ」
──ああ、否定しなかった。
「他に誰も本当のこと知らなくても、ここにお墓がなくても、アッシュがいるからオリジナルのイオンがちゃんといたって、俺にもわかる」
「……やっぱり、意味がわからん」
苦々しく睨みつけてくるが、それでも何処かやわらかに見えて、ルークは小さく笑った。
「なあ。その剣どうすんだ?」
言って、アッシュの持った黒い剣を見やる。
「おまえに教えてやる義理はねえ」
「アッシュが持ってるより相応しいのって、ないんじゃねえの」
だからトリトハイムも受け取ろうとしなかったのだ。
「余計なお世話だ」
ついと身を翻したアッシュは、まっすぐ聖堂の奥へ向かう。
「アッシュ?」
「おまえはここまでだ。ひとりで帰れよ。どんな莫迦でも迷いようがねえだろ」
そう言い残して、初代導師の墓碑の背後で立ち止まったアッシュの姿がかき消えた。ルークの位置から壇上の床は見えないが、おそらくそこに転送の譜陣があるのだろう。
「あーあ……」
ここまで。その意味を噛みしめて、ルークは何となくその場に立ちつくす。立ちつくしたまま、ポケットをまさぐる。硬い感触が指先に当たる。
「どんな人だったんだろうな。おまえのオリジナルって」
オリジナルのイオンは、アッシュと何を話していたのだろう。
何を夢見ていたのだろう。
そして何を約束したのだろう。
ルークがそれを知ることは、ないだろうけど。
「だからアッシュは、裏切ったりしないんだ」
自分はもうじき消えてしまうけれど。
残るものは、あるから。
この綺麗な世界は、残すから。
いつか、夢を見たことがあった。
自分のものではない、夢を。
焼きついた残像は万華鏡のようにちらつく、綺麗すぎる夢だった。
「僕は死ぬでしょう」
死の間際でも彼の声は、淀みなかった。
「でもあなたに希望を残せるなら、僕の命には意味があった。導師なんていうものだけでなく、イオンというひとりの人間として、生きた意味があった。誰が何と言おうと、僕がそう信じられる」
死の間際でも彼は、綺麗に微笑んでいた。
だから。
その瞬間の彼の眼差しも声も、覚えている。
「僕にとって、あなたは救いなんです。ルーク」
生きてください。
その、祝福であり呪いのような言葉を、覚えている。
高台の断崖からは、ダアトの総本山を一望できる。
七年前、ここでイオンと夕暮れのダアトを見下ろしながら、最初の約束を交わした。
嘘だらけのこの世界で、それは引っかき傷のような、ささやかな真実だった。
それでもそれが、救いだった。
アッシュは自嘲に染まった吐息を落とす。
振り返れば、かのユリアシティともパッセージリングとも何処かしら似通った遺跡が広がっている。最も古い、ローレライ教団の聖地。初代導師ユリエル・ジュエの遺志が眠る場所。開祖フランシス・ダアトが命を絶った場所。生物が通り抜けることの出来ない結界の内側に隠された、小さな小さな世界。
ここでイオンと最期の言葉を交わして、イオンの死を看取ってから。
「そろそろ三年、か」
小さな箱庭にうがたれた大きな穴の、あの時は削り取られたまま剥き出しだった土の断面も、今はすっかり雑草に浸食されていた。
その大穴の淵にアッシュは、ずっと手にしていた黒い剣を、かつてイオンからもらった剣を、深く突き立てる。それから空いた両手で取り出した小瓶の、中に詰められていたアリエッタの遺灰を、大穴の中にそそいだ。流れ落ちた灰が微かな風に舞いながら、大穴の内側にさらさらと広がっていく。
「これ以上、俺は持ってられねえからな。ここならいいだろ」
言って、アッシュは大穴の淵に座り込んだ。
三年前のことは、今でもはっきりと覚えている。
名前も墓も残せないのなら他に何を残すことも望まなかった彼は、亡骸すら残すことを望まなかった彼は、それでも彼がエベノスに与えられたように、アッシュに未来を残して死んでいった。簡素な寝台の上で、この手を取って彼は、死の預言を与えて、生きる約束を与えて、ひとりで死んでいった。
ぼんやりと自分の右手を見下ろしながら、アッシュは苦笑する。
今だって、こんなにもはっきりと思い出せる。
穏やかな彼の死に顔も、この腕で抱え上げた彼の亡骸の重さも、彼の亡骸を跡形もなく消した超振動の感覚も、何もかも覚えている。
そうしてイオンが残した希望も絶望さえも、アッシュを生かす祝福であり呪いだった。それは影のように付きまとい、決して別たれることのないものだった。
けれど、残された死の影に取り憑かれることも、もうじき終わる。
とうに喪われていた生の影を追いかけていた彼女も、一足先に終わってしまった。
彼が残していった、すべてが終わろうとしている。
それでも。
「なあ、イオン。おまえはこれで、許してくれるか……?」
自分はもうじき消えてしまうけれど。
残るものは、あるから。
約束も、守れるから。
「ちゃんと『ルーク』は生き残る」
大丈夫。もうじき怖い夢は見なくなる。
もうじき夢は終わる。
「ルーク」
ふと響いた声に、ルークは聖堂の入口を振り返った。
開かれた扉から射し込むほのかな逆光に、ティアが一人で立っている。
「あれ。ティア?」
「アッシュと話、出来たの?」
彼女は規則正しい靴音を鳴らして歩み寄って、聖堂の左右に整然と並ぶ柱の一つに背を預けて床に座り込んでいた、ルークの顔を上から覗き込む。
「うん」
「そう、良かったわね」
「うん」
もう一度ルークが肯くと、ティアも微笑み返して隣に腰を下ろした。
「ここって導師のお墓なんだな」
「ええ。歴代の導師全員、火葬した御遺体はここに納められているらしいわ」
「でもイオンは、名前だけだ」
刻印された名前は、イオン。
けれど、ここには誰の亡骸もない。
ならばこの墓碑銘は、誰のものでもないのだろう。
「俺は、どうなるのかな」
「──ルーク」
とがめるような彼女の声が、悲痛な色を帯びている。
「変な意味はねえって。俺もティアもみんなも、生きてるんだからいつかは死ぬだろ」
「そう、だけど……」
「俺のお墓って、どうなるのかなって思ったんだ。ここにあるのは導師のお墓だけど、どっちのイオンの墓でもねえし。俺もルークだけど、アッシュだって本当はルークだろ」
「そんなこと考えてたの?」
気が抜けたように、ティアが小さく笑った。
「世の中には同姓同名の人だっているし、王族や貴族だって家族の名前を受け継いだりするじゃない。歴史の勉強でさんざん困らせられたわよ? だから別にいいじゃない、あなたたちの、同じ名前のお墓が二つあったって。誰もあなたとアッシュを間違えたりしないわ」
ルーク。
その声は、たとえ同じ音でも、たった一人だけを呼ぶものだ。
アッシュが呼ぶイオンと、ルークが呼ぶイオンが、必ずしも重ならないように。
「そっか」
「そうよ。イオン様のことは……そうね、知ってる人が少ないし、おおっぴらにも出来ないから仕方がないんでしょうけど、でもこれは導師のお墓だから……」
「決めた」
困ったように続く言葉を濁すティアを遮って、ルークは勢いよく立ち上がると、ずっと握りしめていた手のひらを緩めた。小さな一つの響律符が、その手に跡を付けていた。
「ルーク?」
「アッシュはきっとオリジナルのイオンのお墓作ってるから、俺もイオンのお墓作る」
出会ったばかりの時にイオンからもらった響律符は、指で真上に弾くと、ぴんと綺麗な音がした。
無くなっても 砕け散っても 記憶として残るのなら
angela「DEAD SET」より
大丈夫。もう怖い夢は見ない。
死んだら、夢を見ることもなくなるから。
そして宝石の夢は夜を越えてゆく。
ルークは生き残る。