Prologue: エピローグの一ヶ月後



 天上都市消滅から半年。
 暗い冬が明ける気配はなく世界は凍てつく一方だったが、帰還を果たした元ソーディアンの面々の協力を得られたことで、地下都市遺跡は完全に再起動し、当面の水や食料の確保は目処が立つようになった。だがその供給ルートは不充分で、オベロン社の販売網とストレイライズ教団の活動基盤を頼みに、辛うじて地方にも物資が届いている状況。今後さらなる環境悪化に伴う難民の増加も予想されており、都市部での受け入れ体制を整えていかなければならないが、現時点での人口分布の詳細な調査も、モンスターの凶暴化で思うように進んでいない。
 だというに近頃は世界復興会議で、セインガルドとファンダリアの代表が国境上に位置する地下都市アウストリの権利の奪い合いを始めるようになり、リラとウッドロウは自国の議会の抑えに頭を悩ませていた。特にリラの方は、言い争いを吹っかけるのが主にセインガルドの側で、穏便な即位ではなかったリラが貴族を掌握し切れていない証のように見られるのも問題だった。
 実際リラ女王には軍部がついているが、議会との仲は冷え切っている状態。復興会議の議長も務めるアステルは「私の承認じゃやっぱり貴族を黙らせるには足りないか」と苦笑い。

 一方で、半年経ってもスタンの周囲は何故か相変わらず貴族たち付きまとわれ、相変わらずそっち方面に場慣れしないスタンに張りつかざるを得ないリオンも苦労が尽きない。
 こうも騒がれているのは世界復興会議の議長の甥だからなのか世界を救った英雄の一人だからなのか、地下都市遺跡の窓口だからなのか。うっすらとした疑問を忙殺で押し込めていたリオンにある日、ジョニーが忠告をささやく。


「あんたのお仕事」
「今の僕は、ロスマリヌスの人間だが?」
 ひょいと封筒を差し出しながら言われた言葉に、リオンは目を眇める。ロスマリヌスとアクアヴェイルは、関係としてはかなり友好的なものだ。特にシデン領とは、領主同士のつきあいも長いらしい。とはいえ。
「それくらいわかってるさ。だからこそ、だよ」
 少し危ない橋も渡ったんだからちゃんと役立ててくれよと冗談めかして笑いながら、ジョニーは分厚い封筒を押しつけた。
「これは忠告――いや、警告だ」


 封筒の中には、さらに二つの封筒が入っていた。一つに入っていたのは、かつてストレイライズ総本山で行われていた儀式の記録を写したらしい写本。しかもその儀式の中心人物、神託を受ける予言巫女として名が記されていたのはクリス・カトレット、母の名だった。
 その後、内密にフィリアと連絡を取ってダリルシェイド神殿に残る資料を探ってもらったものの、教団にクリスが所属していたことを示す物は何一つ見つからない。
 現大司教である母に訊ねようとするフィリアを止め、リオンはヒューゴを問いただす。するとヒューゴは一言、駆け落ちしたからだと答えた。そのことが大っぴらになると厄介なのでカトレットの名を隠させたのだと。


「私は、どれだけ償えるのだろうか」
 色褪せることなく微笑みかけてくる彼女に、語りかける。
 答えは返ってこない。返ってくるはずもない。
 もう、何処にも彼女はいない。
「まったく情けない限りだ」
 結局、守ることが出来なかった。
 一番大切な人だというのに。
「あいつも、肝心なことは何も伝えずに逝ってしまった」
 結局、生き残ったのは自分だけだった。
「クリス……私は」
 今更、許してくれなど言うつもりはなかった。
「あの子達を守れるだろうか?」


 もう一つの封筒には、ただ一枚、「ロスマリヌス領主の特殊性を認識しろ。あとアグライ・アキレギアには気をつけろ」と書かれた手紙が入っていた。
 アグライ・アキレギア、その名はセインガルドの貴族議会の代表である男の名であり、学校に通っているリリスの護衛を務める教団の僧兵シトラス・アキレギアの養父の名でもあった。




Prologue: 夢について



 ──気がつけば、闇の中にいた。
 目を落とすと、自分の手が見える。しかし地面は見えない。一面の黒には濃淡も何もない。何かに立っている感覚はあっても、踏みしめる感触は薄い。見渡す限り、自分の他には何もない。
「夢?」
 呟いた、自分の声は聞こえた。
 夢。非現実的な、これは夢なのだろうか。


 その頃、スタンは繰り返しある夢を見るようになっていた。
 真っ暗闇の夢。何処までもひたすら闇があるだけで、何もない夢。


 また、この夢か。
 ため息まじりにそう思いながら、スタンはふと顔を上げた。近いようで遠い、遠いようで近い、どうやっても手が届かない場所に、透き通った巨大な結晶があった。球形のそれは何かに似ているようで、だがそれが何かは思い出せなかった。
「こんなところに、来てはいけない」
 声は、上から降ってきた。
 巨大な結晶の上に、男が座っていた。静かな眼差しでスタンを見下ろしていた。両親によく似た、真っ青な双眸で。
「こんな、ところ?」
 何処からか、金属を弾いたような、甲高い音が響いてくる。
「飲み込まれたら、戻れなくなる。だから早く引き返すんだ」
 何度も、いくつも、音が響く。同じ音が。
 音はどんどん近づいてきて、男はどんどん遠ざかっていく。
「取り返しがつくうちに」
 目の前で、とうとう音が弾けた。


「待っ──
 伸ばした手は、暗い部屋の空気を虚しく掻いただけだった。
 やはり今度も夢だったのだ。
 だが耳の奥に、あの音がこびりついている。
 意味がわからなかった、男の忠告の声も。




Prologue: 謎の少女について



 目覚めは、突然だった。
 微睡みにたゆたう不確かな感覚は特に不快ではなかった。しかし脳が覚醒していくにつれ、最後の冷えた感覚さえ、まざまざと黄泉帰る。
「……」
 唇が確かな意志を持って震わせられるが、こぼれたのは、うっすらと白い吐息ばかり。
 声が、出ない。
 その認識は、ひどく静かに落ちてきた。
 今更。そう、こんなことは今更だ。
 今更、こんな場所で目覚めた。
 今更、こんな時に目覚めた。
 今更、声が奪われたことで取り乱すような気性は、あいにくと持ち合わせていない。
 今更になって目覚めたことすら驚けなければ、それ以上に、何があろうか。
 だが、今この時に目覚めたのだ。
 大切なものがあった。守りたいものもあった。
 翡翠色の双眸が、闇の向こうの届かぬ空を見据えた。


 ――もう一度会いたい人は、たくさんいた。


 その日、ルーティがその少女を見つけたのは偶然だった。ロス郊外、ヴェストリのゲートに近い森にいたその少女は、降り積もる雪の中、たった一人で彷徨い歩いていた。綺麗な金髪と緑の瞳をしたその少女は、八歳くらいの幼い姿だったが、その眼差しも表情もひどく大人びていた。少女は声を失っているらしく、ルーティの問いには首を振って答えるだけで、名前も何処から来たのかもわからなかった。
 とりあえず少女をロスに連れ帰ったルーティは、筆談を試みる。ディールライトの屋敷を見た時にはわずかに驚きを見せた少女だったが、ルーティの問いかけには帰るところも親もないと書いただけで、自分の名前も答えようとしなかった。ただ屋敷にあった鉢植えのアイリスの花をずっと見ていたので、結局ルーティは少女をその花の名前で呼ぶことにし、しばらくは孤児院で預かることに決めたのだった。







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