夢について ~ double ~
最初に気づいたのは、息苦しいほどの圧迫感だった。
上も下も、右も左も真っ暗闇で、何一つ見えない。
だが、知っている。
──この先に、行ってはいけない。
知っている。これが何なのかを。
「呼ぶな……」
この先に、何があるのかも。
ひどく遠いこの闇の向こうから、それが呼んでいることも。
「俺を、呼ぶな……!」
耳を塞いでも拒んでも、呼び声は遠ざからない。
──この先に、行ってはいけない。
逃げるように後ずさった刹那、左手が白い手に掴まれた。
「誰だ?」
懐かしい、花の匂いがした。
「──ディム、ロス?」
目を開けた瞬間に目があってしまって、驚いたらしいアトワイトの左手が、額に触れる寸前で止まった。
「アトワイト……?」
彼女の右手は、ディムロスの左手首を掴んでいた。あの夢の、最後と同じように。
「そう、か……アトワイトだったのか」
その目線に気づいて、アトワイトは弾かれたように手を離す。
「な、何?」
「いや」
「そう。大丈夫? 顔色かなり悪いけれど」
「ああ。引き戻してもらったから、問題ない」
怪訝そうに目を眇めた彼女に、ディムロスは小さく苦笑した。
「昔も何度かあったからな。大したことじゃない。夢見が悪かったようなもんだ」
覚醒
ある日、リリスやチェルシーたちが通っている学園が謀反人に占拠され、多くの学生が人質に囚われる。
要求はリラ女王に対するディールライトの否認。セインガルド国王の即位式における戴冠の儀はその過程でロス領主の承認を必要とするが、それは形式的なものにとどまらず、ロス領主は国王を廃位させる権限を持つ。逆にロスの承認を得られれば王家の血筋にかかわらず国王になることも可能で、リラが廃した先王もその前の王とは直接の血縁関係になく、代替わりの背景も穏やかなものではなかったという。
その頃、正体不明の犯人たちは少数の見張りを残し、学長室で何かを探していた。
人質の学生は貴族子女が多く、国軍による武力突入は断念。さらに人質が集められている学園の本部棟が奇妙な植物のツタに覆われ、封鎖されてしまった。秘かに破片を採取し調べた結果、かつてストレイライズ総本山を襲ったサイフリスと同じ株であるとクレメンテは断言。しかも暴走しておらず、完全にコントロールされている。このサイフリスの出所を探るためにも、スタンとリオンが交渉に出向く際、ディムロスとシャルティエも同行することに。
犯人のリーダーはスタンを一目見て、お父上そっくりだと言う。かつてシオンが学園主導で行われていたアウストリの地上部分の遺跡調査に携わっていた頃、自分もこの学園に通っていた元貴族だと名乗った。先王ラヴァンデルに追い落とされた先々王ナーシサス派で、国を追われた一人だという。その復讐でこんなことをしたのかと問い返すスタンに「もう一つの目的は探し物です」と答えた男は、かつてここにあった青い宝剣の行方を問う。
四人とも剣のことを知らず、サイフリスの宿主もわからぬまま、いったん戻ることに。
青い剣については、祖父が当時の学長を務めていたというアッシュが知っていた。それはセインガルド建国当時からダグ家に代々伝わる聖剣『青水<せいすい>』のことかもしれないと。
柄も刀身も青いその剣にはソーディアンのコアクリスタルにも近い高純度レンズが組み込まれていて、単なる宝剣ではなかった。明らかに天地戦争時代の産物なのだが、シャルロットにも見覚えがなく、おそらくは戦後十数年に造られた物だろうと言った。ただ半年前、神の眼の破壊に際してソーディアンの代わりに使った物と構造が似ているという。おそらくそれに近い出力もあるだろうと。
由来が何にせよ、この純度のレンズを悪用されたら大変なことになる。
最終的に国軍で学園敷地を包囲後、アトワイトとクレメンテがサイフリスを瞬時に枯死させると同時に、象力という異能を最大限に押し出して制圧することに。人質の安全もだが、犯人から情報を引き出すために殺すわけにはいかない。
一度中に入ったことで、犯人グループのおおよその人数はリオンが把握している。
学園内の見取り図もアッシュが持ってきて、計画の詳細が詰められていく。
リリスにはヒエンがついているから、彼女の周りで万が一は起こらない。落ち着かない様子のスタンに、その肩にいる金色の龍ヒギリを指してディムロスが言う。ヒギリとヒエンは象力体で、守るべきものと命じられた存在を全力で守り抜く守護者だ。最悪の時でも生き残る運命を引き寄せてしまうと、彼は少し寂しそうに微笑んだ。
チェルシーの咄嗟の機転で教職員と共に閉じ込められるだけで済んだ護衛役のマリーや、やはり学生のフリをして殺害を免れていたリリスの護衛で教団僧兵のシトラスという内部からの協力も得て、人質は全員、無事に救出された。
犯人たちももはや人質は無視し、アッシュから借りた青水を持っているスタンだけをターゲットに絞ってくる。
そして。
ひどい立ちくらみにも似た、意識を闇に引きずり込まれてしまいそうな、底の抜けた感覚。
狂った平衡感覚にたまらずスタンはその場に、片膝をついた。
霞む視界に、目の前で振りかぶられた剣が見えた。
剣を握った右手は──動かない。
リリスたちを安全な外まで逃がし終え、急いで中に戻ろうとしていたリオンとシャルティエの前で、突如として本部棟を轟音が揺るがす。スタンが犯人たちを引きつけているはずのホールの天井を突き破って、膨大な光の爆発が柱のように立ち上った。
「シャルティ!」
何かがあったのだ。すぐさま向かおうとしたリオンの手を、シャルティエが捉えて引き止めた。
「君は、行かない方がいいかもしれない」
光を見つめるシャルティエの表情は険しい。
「あれは、象力だ」
「ディムロスのか?」
「違う。たぶん、スタン君だ。力が暴走してる」
確かに大きな力を持っているが、だからこそディムロスが今更、象力を暴発させることはないはずだから。
だがソーディアンはもうない。あの青水という剣はレンズこそ持っているが、今までスタンたちはソーディアンを介した晶術の使い方しか知らなかった。自分だけで力を発動させる術など知るはずがない。
何より、まさか千年も経過したこの時代に、これだけの力が受け継がれているなんて。
「強すぎる、かもしれない……」
迂闊だった。
ディムロスは真っ赤に染まった床に駆け寄って、歯噛みした。
咄嗟に形成した壁で力の及ぶ範囲を最小に抑え込むことは出来たが、その中心は、凄惨なありさまだった。
呆然と目の前を見つめているスタンも、その周りも、死体から吹き出した大量の鮮血でべっとりと濡れていた。
死体の、腰から上は消滅していた。暴発した象力が直撃したのだから無理もない。
「スタン」
彼は振り返らなかった。
赤くまだらに染まった金髪を、真っ赤な水滴がいくつもいくつも滑り落ちて、床の水たまりに音を立てて混じっていく。
「おまえが悪いんじゃないから」
迂闊だった。
スタンは、あのシオンの息子なのだ。千年の間に薄れていたはずの血が、濃く強く出ていたシオンの。シオンはヘリオール因子を発現させていた。神の眼に同調できるだけの素質があった。ならばスタンが、自分たちと同程度の力を秘めていてもおかしくなかったはずなのだ。
迂闊だった。
もっと早く気づいていれば、こんな最悪の覚醒は、避けられたかもしれないのに。
「おまえは悪くない、おまえのせいじゃない」
死体を見つめる目を覆うように前に屈んで、血に濡れた頭を抱き込んで、ディムロスは懇願のようにささやく。
母親を亡くしたディムロスに象力の扱い方を教えてくれたのは、カーレルとハロルドだった。
象力のありさまとは心のありさまを映す鏡なのだと、いつか彼らは言っていた。
一年ほどの短い期間に激しく晶力を使ったことで、血の奥に眠っていた象力の感覚が呼び起こされたのかもしれない。一足先に地下都市へ帰還したイクティノスから報告を受けたリトラーは、難しい顔でスタンの覚醒をそう推測した。
何にせよ、いったん覚醒してしまった象力を、このまま放置するわけにはいかない。落ち着いたら制御訓練をする必要がある。
だが問題はそれだけではなかった。
象力は純粋に血で受け継がれる。
やはりソーディアンと親和性が高かった現代のマスターたちはもちろん、スタンの妹であるリリスも力を秘めている可能性がある。そして彼と同じように、命の危機が迫った時に、暴走という形で覚醒する危険性も。
叛乱組織の影
玉座。それは、王位の証。
しかし、彼女はそこではない場所にいることが多かった。
「これは……」
セインガルド王城内に数多くある会議室の一つで、驚愕の声がこぼれる。呼び出されたセインガルド王国七将軍という役職につく二人は、目前の机上に置かれた書類に目を瞠った。
いくつかは、学園占拠事件で拘束された犯人の調書だ。結局サイフリスの宿主はわからなかった。リーダーの男は何か知っていたかもしれないが、象力の暴発に巻き込まれ死亡した以上、残った死体から彼自身が宿主ではないという確認が出来ただけだ。
だが、散らばった書類はそれだけではなく。
「これはまだ世界会議だけで内緒話してることなのですけれど」
こうもあっさりと告げるには、その内容はただごとではない。
直面した世界的危機は、去った。緩慢に訪れるだろう危機への対処も、ある程度は順調に進んでいる。
それでも結局、すべて人間がつくりだすのだ。
どんな時代であっても。
「ブルーム・イスアード、ロベルト・リーン両名に、極秘の任務を命じます。先のグレバム・バーンハルトが起こした事件について、彼の者に高度な古代知識を与えた人物を、なんとしても見つけ出しなさい」
一年前のあの悲劇も、多くのことが闇に消えていたけれど。
「どう見る?」
背後から投げられた声に、リラは振り返らずにため息で応じた。
「あらまぁ、アクアヴェイルの人間が勝手にセインガルドの玉座の間などに入ってきて、どうしますの」
「そう固いこと言わずに、仲良くしようぜ。俺も、最悪の事態にだけはなってほしくないしな」
軽く笑うジョニーの、アクアヴェイル連邦におけるポジションを考えれば、おそらく先ほどリラが下した命令に関わるものを、大王と再びなった彼の父から受けているはずだ。
「私はここ、嫌いですわ」
誰もいない玉座の前で、リラは呟くように言った。
「この国さえ、本当は、好きではないのかもしれません」
数えきれないほどの謀り事。拭いきれないほどの赤い罪。
わかっていた。だから立ったのだけれど。
「自分が何をしたいのかは、わかってんだろう?」
リラは肯定も否定も返さず、ただ自嘲気味な微笑を浮かべた。
世界各国に不穏分子は存在している。粉塵による世界全体の寒冷化が深刻になっている今も、消えることはなかった。
特に今は、どの地域でも難民問題が大きくなりつつあった。食料も燃料も備蓄と国からの配給だけが頼りだが、その配給も行き渡っているとは言えず、さらには横流しや略奪が発生している。もともと貧しかった地域は生活が成り立たなくなって他国や都市部に流れ込むも、そこでも厳しい生活を強いられることに変わりない。そういった難民が、少なからず地下組織に流れ込んでいるという。
セインガルドは女王リラへの反発が貴族の中にあるだけでなく、広大な国土から最も多くの難民を抱えて治安を悪化している現状に対して、特に都市部で不満が強くなっている。
アクアヴェイルでも長年敵対していたセインガルドとの友好に不満を持つ者は少なくなかった。さらにはティベリウスを支援していた有力者がその後の冷遇を恨み、新たなトウケイ領主との亀裂が問題になっている。
ファンダリアにおいても長年続いた内乱の火が未だ燻っており、そこへさらにグレバム事件の追い打ちもあって、疲弊した国は厳しい状況が続いていた。
そしてセインガルドの支配からの解放と報復を求めているカルバレイスの根は深い。
だが各地でばらばらに存在していたそれら不穏分子が近頃、様子を変えている。
それだけの人数を養う余力があるとも思えないが、難民の多い地域でとにかく人をかき集めているグループがあるという。一方で、貴族や資産家から資金を集めているグループからは、さらに何処かへ資金が流れている。
そうした動きが各国ごとにとどまらず世界規模で起きていることから、三国の王は不穏分子を統率する力を持った何者かが出現し、組織化されつつあると判断した。
学園占拠事件のバックにも、その叛乱組織がついている可能性がある。
そしてもしかしたら、グレバムとも関わりがあったかもしれない。
神の眼をコントロールするには、サイフリスが必要不可欠だ。暴走すれば際限なくツタを増殖させ、寄生対象の脳を破壊してしまうが、本来サイフリスは神の眼とコントローラーの接続媒体として、そしてコントローラーを支配するための拘束として開発されたものである。
グレバムの娘は、神の眼を探していたミクトランの支配するサイフリスに寄生され、事故で脳を損傷してしまった。だがその後の抜け殻と化した娘や強奪した神の眼、イクティノスを支配するために利用したサイフリスは、グレバムの支配下になくてはならない。つまりグレバム自身が宿主であったはずなのだが、ミクトランはサイフリスを渡していない。何者かがグレバムにサイフリスの種子を植え付け、扱い方を教授し、娘の復讐をそそのかしたかもしれないのだ。
剣の末裔
吹雪がやんだある日、アッシュは雪に埋もれかかった墓地に来ていた。
ここには兄フィンレイ・ダグの墓がある。
先の事件で犯人グループが青水を狙った目的はサイフリスの出所同様、死んだ男だけが知っていたらしく不明のままだった。
青水はただの宝剣ではない。先代の継承者だった母はアッシュが幼い頃に病で死んでいたこともあり、青水の秘密をアッシュに教えてくれたのは、歳の離れた兄フィンレイだった。
天地戦争の伝承とはまた別の、女神とそれを守護する八人の騎士の物語。いにしえの時代、女神は世界の涯てに滅びをもたらす絶望を封じ込め、扉を閉ざした。そしてその扉に、騎士たちはそれぞれの剣で鍵を掛けたという。ストレイライズ教団でもお伽噺として語っているが、その剣の一つが青水なのだとフィンレイは語った。だからダグ家は代々、騎士王の末裔であるディールライト家に仕え、主家と剣を命を懸けて守らなければいけないと。
かつてフィンレイはその言葉どおり、ある事件で自分の婚約者よりも主家を優先した。だがその事件で受けた暴行がもとで心を病んだ彼女は、それから一年後、自ら命を絶ってしまった。
アッシュの知る兄は、とても生真面目な人間だった。それ故に使命を選んだフィンレイに彼女は、ライラは、自分が捨てられる理由があるという思い込みを捨てられず、信頼と疑心の狭間で苦しんでいたという。
かつて彼女の父ラヴァンデル王がナーシサス王を追い落として玉座を手に入れた後、命を狙われていたナーシサス家の者を、フィンレイは同じ剣の末裔としてダグ家に
匿っていた時期があった。だがそれを父が密告したことで、激しい言い争いの末、手に掛けてしまったのだ。まだ十代だったが既に鬼神のごとき強さを誇っていたフィンレイに、逆上した父が襲いかかったことが原因だった。この事件は公表されなかったが、彼女は王女として知っていた。
そのフィンレイが暗殺されてしまって、アッシュは家督とともに青水と使命を受け継いだ。
剣のことは末裔にのみ伝えられる。もし死んだ男が叛乱組織から青水の奪取を命じられていたなら、組織と剣の末裔は繋がっている可能性がある。
アッシュが知る他の剣の末裔はリーン家とシデン家だけだが、どちらも使命を忠実に守っている。
しかしディールライトに伝わっていた王の剣はリコリスの惨劇以来、行方がわからなくなっていた。ナーシサスも、フィンレイが逃がした数ヶ月後にカルバレイスで夫妻の遺体のみが発見されたらしいが、剣の行方は彼らの娘と共に知れない。
もし何者かが、滅びの扉の伝承の真実を知って、剣を集めているとしたら。扉に封じられた『絶望』を利用しようとしていたら。それは剣の末裔として、剣を受け継いだ者として、必ず阻止しなければならないことだった。
フィンレイの墓の前には、先客がいた。
まるで喪服のような黒いドレスに身を包んだ女性だった。無言で目礼を交わし、アッシュと入れ違いに彼女は墓地を去る。
その燃えるような朱色の髪を、アッシュはいつか何処かで見たような気がしていた。