いつもの見慣れた、遠く青い空。
 いつもの見慣れた、この丘の上。
 澄んだ風に乗って、白い翼がはばたいた。
「空、か……」
 ふわりと、汚れなき純白が輝く。


 やわらかな陽光。
 透き通った青空。
 色鮮やかな大地。
 輝き煌めく碧海。
 終わりなき世界。


 この先には、何があるのだろう?
 まだ見ぬ世界に馳せる想い。


 自分には、何ができるのだろう?
 いつか約束した言葉の意味。






序章 風翔る時






 南北に伸びるフィッツガルド大陸の北部の中心、南部の大都市の華やかさとは大きく趣の異なる、穏やかな港街ロスマリヌス。南に比べて、歴史はさほど長くない。海に大きくせり出した二つの岬に囲まれた、天然の良港を有している。
 それでいてさほど発展しなかったのは、ひとえに移民団のリーダー格だった名家の意向が大きいと言われている。いわく、光は強ければ強いほど濃い陰を生む、と。権力争いに明け暮れる祖国を去る決意をした者の、それは本音であった。
 それを受け入れるか否かは、共にここへやってきた者たちの自由だった。
 そして、時は流れ、答えは形となっている。


 ロスマリヌスの街より西に――内陸へ向かうと、緩やかな丘が続く。
 緑に輝く樹々の間を流れるせせらぎに沿うようにまた、小道も続く。
 小道は、ロスマリヌスと丘向こうの村をつなぐもの。
 丘と山裾の森に挟まれた、小さな村。
 村の名は、リーネといった。


 茂りだした草に包まれた丘の頂に、ロスマリヌスにあるどれよりも高く大きな老樹はある。
 腕を伸ばした大人でも数人いないと囲めないような、ごつごつとした太い幹。
 少々人が乗ったところで楽に支えられるであろう、しっかりとした枝。
 どこまでも深く美しい緑色の、すらりとした葉。
 子供たちの、大人たちの特別な場所。
 遠くまで見渡せる樹の枝は、特等席だった。
 それは、この少年にとっても例外ではなかった。
 かなり上の方の枝から、果てしなく広がる青へとまっすぐな眼差しを向ける少年の冴えた瑠璃の瞳は、深くに憧憬の色をたたえていた。
 駆け抜けるやわらかな風に、少年の――スタンの髪がなびく。両親と同じ彼の輝く金髪は、無造作に伸ばされ、背に流されていた。
 いつもと同じ。
 リーネを抜け出しては、この丘の上で、この樹の上で風に吹かれ、そして遥かな空と海を望む。
 澄み切った山からの風は、いつもと同じように、少し冷たかった。


 それは、轟音と突風と共にやってきた。
 不意に乱れた風に、はっと顔を上げたと同時に空をさえぎった黒い影。大きな音を立て、岩山のような巨体から広げられた翼がはばたく。
 それは、リーネの北、連なる山脈の向こうからロスマリヌスの外れへと。
 しばし呆然としていたスタンは我に返ると、枝からするりと下り、ロスマリヌスの方へと向かった。
 ロスマリヌスの街の北部には一段小高くなっている台地がある。ロスマリヌスの中でも特に大きな屋敷が並ぶ辺りだ。
 そこに建つ、古いが立派な屋敷の前で、スタンの足が少し遅くなる。人が住んでいる気配はない。だが、手入れだけはしっかりと行き届いていた。
 その住宅街よりも北西に行くと、広々とした草原が始まる。丘に続くその場所には今は黒い岩山が伏していた。
 古に棲む竜の姿を模したそれから少し離れたところで、揃いの格好をした者たちが数人いた。竜から出てきた、おそらく乗組員だろう。十数個の木箱を無造作に積み上げ、いらだたしげに何かを待っている。
 そのさらに周り、街が途切れる辺りで、不快さも露わにロスマリヌスの住人はそれらを遠巻きに囲む。
「あら、スタンじゃない?!」
 その人だかりの後方に、スタンがひょいと顔を出した刹那のこと。
「え?」
 慌てて後ろを振り向くと、見知った顔があった。
「ラティルスさん!」
 片手を大きくこちらに振る女性のもう片手は、小さな馬車を引く馬の手綱を引いている。確か彼女は隊商の長をやっていた。早くに亡くなったスタンの両親とも旧知で、スタンや彼の妹を可愛がってくれた人の一人だ。
「あらまぁ、しばらく見ないうちに背が伸びたわねぇ。
 確か、こないだ十八になったんだっけか。それでも相変わらず華奢で可愛い顔してるけど。ま、あの二人に似たんじゃあね」
 ラティルスが、自分を頭半分追い越した彼の額を軽くこづいた。そして、スタンが何か言う前に再び口を開く。
「いいの、こんなところまで出てきて?」
 からかうような彼女のセリフに、
「あ、いや――えっと……やっぱ、まずいかな………」
 スタンはばつの悪そうな笑顔で答えた。


「あれが飛行竜!?」
 竜の岩山を指さし、スタンがおうむ返しに声を上げる。
「そーよ。お隣の大陸にあるセインガルド王国と、こっちのフィッツガルド。海路だとけっこう遠いでしょ。だから、貨物運搬にセインガルドはあんな発掘品を使ってるのよね。
 まぁ、もっぱら南のノイシュタットとの間でだけだったのが、なんでいきなりこっちに来たのかは知らないけどね」
 言って、ラティルスは、飛行竜の出入り口付近にいる、飛行竜の船員とは違った服装の一団に視線を走らせた。
「で、補充にラティルスさんが?」
 そんな彼女の様子には気づかず、彼女の背後の荷馬車を眼で指し、問う。
「そうそ。たまたま里帰りしようと思ってたところにね。手間のわりに弾んでくれるってから受けちゃったのよ☆」
 スタンに向き直り、朗らかな笑顔で彼女は言う。
「そろそろ行かないといけないかな。あんまりお待たせしたら怒りだしそうだしね。  ちょうどいいから、あんた手伝いなさい。その代わり、あの二人への言い訳は手伝ってあげるからさ」
 確かにこのまま帰っては、祖父はともかく、監視が厳しい叔母や妹には何を言われるかわからない。
「え、かまいませんけど…フラックスさんは?」
 てっきりいつものように荷台で寝ているのかと思っていた、ラティルスの夫であるフラックスはここには来ていないのだろうか。
「港の方にいるよ。次の仕事の準備。物を運ぶのよ」


「遅いではないか!」
 どこかピリピリした船員が、ラティルスを見るなり怒鳴る。
「仕方ないだろ、そっちが予定より早いんだから!」
 彼女も負けじと不満を怒鳴る。
「あくまで予定だ、早まることもある!」
 船員は、数人と連れだって荷箱を搬入にかかる。同時に、代わりに出てきた、おそらく空の荷箱が馬車のそばに十数個、積まれた。
 船員は、最後にラティルスにずっしりとした袋を渡す。
 どの船員も、始終、何かにいらだっていた。
 荷物の積み込みも終わり、船員がすべて飛行竜の中に入る。ずっと伏せていた竜の首がゆっくりと持ち上げられるのに、遠巻きにしていた人の輪は、散り散りになって街中へ消えていった。
 数度翼を羽ばたかせると、すぐに重い身体が浮かび上がる。瞬く間に空高くまで上昇し、東に向けて竜は飛び去った。
 それを見送った後しばらくして、
「あれ、これ、中に何か入ってません?」
 空き箱を荷台に積んでいたスタンが訝しげにつぶやく。
 長細い箱。ずっしりと腕に重みがかかってくる。
「えぇ? …おおかた、ゴミか、間違えたんだろ。
 もう行っちゃったしね……ゴミじゃなかったら、しばらく預かっておいて、何も言ってこなかったら適当に捌いちゃおうか」
 言いながら、ラティルスはその木箱を一番奥へ置いた。


 波止場には、朝市の漁のおこぼれにあずかる海鳥たちが集っていた。馴れたもので、人がそばに来てもそうそう逃げたりはしない。
「外の世界に興味あるんだろう?」
 ふと、高くなってきた陽の光を眩しげに仰いでいたラティルスが、なんの前触れもなく問うてきた。
「――な、なんで……?」
 スタンは驚いて、見透かされた理由を問い返す。
「あの二人の――あんたの親の若い頃と同じような目をしてるもの。あんたが生まれる前の、旅ばかりだった頃の二人とね」
 言った彼女の顔は、どこ哀しげだった。
「連れ出してやろうか? 外へ」
 周りで、海鳥たちが一斉に飛び立つ。
「ただし―――」
 白い雪といくつもの羽音の中、それは刻み込まれた。


 僕が母さんとリリスを守るよ。
 父さんと約束したんだ。
 だから、もう泣かないで。
 僕も、泣かないから。


 忘れないで。


 もうじき高い昼の陽。
 鳥たちを空高くへ導く風が吹くのも、この時間だったろうか。
「行ってしまったか?」
 海辺にたたずむ女性に、一人の老人が声をかけた。
「……ええ。行っちゃいましたよ」
 陽の光に煌めく海を眺めたまま、女性は答える。
「…行かせてよかったのか?
 あの二人と同じ運命を歩んでいくかもしれんぞ?」
 老人の言葉に、女性がくるりと踵を返す。
「あら、お義父様。それなら大丈夫よ」
 そして、笑顔で、自信を持って、女性は言った。
「あの子は、私たちが育てたんですもの」


 真っ白な若い海鳥が、二人のずっと上を、陸から海へとはばたいた。
 遠い空を目指して。
 純真な想いは空を夢見る。
 空高く翔る鳥のように。
 遙か彼方へ。


 夢の彼方へ。












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