あの日も、風が吹いていた。




 初めて見たのは、父の腕の中からだった。
 一番高いこの樹の頂上から、こんな風に故郷を見た。箱庭のような、小さな世界を。
 この大きな世界の、青い空は遠すぎて、青い海は広すぎて、小さな故郷はまるで、世界でたった一つだけのようだった。
 青い空と青い海の溶けあう場所の、ずっと向こうがあることが、不思議だった。
 この故郷の、外があることが不思議だった。
 だから、手を伸ばした。
 この向こうの空へ、何処までも涯てしない空へ、手を伸ばした。
 この手が届けば、きっと声も届くような、そんな気がした。
 あの日くしゃりと頭を撫でて離れていった、大きな手に。
 まだ、あの頃は。




 いつからか、夢を見ていた。
 あまりに遠すぎて手が届かない、遙かな空に。
 あの日するりと落ちていってしまった、優しい手に。
 いつからか、祈るように、夢を見ていた。  だって、この手は決して届かない。




 ぐるりと世界が回って、自分のものではない誰かの泣き声が聞こえてきて、また遠ざかってしまった空に、もう一度手を伸ばす。
 何も掴めない、手を。








序章 遠い空








 南北に長く弧を描いたレナーテ大陸北部に、ロスマリヌス自治領はあった。
 自治領と同名の港湾都市と周辺村落を抱えた、隣の大陸の大国セインガルド王国の属領である。四方を峻厳な山脈と海に囲まれているため海路以外に外界との接点はなく、人々が争うほどに莫大な利潤を生み出す産業があるわけでもない。本国の首都からも遠く、しかしそれ故にか、この地への入植が始まった頃から変わらず統治している貴家の庭とも呼ばれるほど、俗世とは切り離されたかのように小さな平穏が守られていた。
 今年の冬もまた、雪は高地や山間部に降り積もるのみで終わりを迎えつつある。次にまた冬が訪れるまで、もう雪害の心配は不要だろう。季節の境目を駆け抜ける風は、身を切るような鋭さをすでに持ち合わせてはいない。老樹の節くれ立った太い枝に身を預けると、吹かれるままに乱される金糸を申し訳程度に手で押さえながら、彼は青金石の色に輝く双眸で、見慣れた故郷を見渡した。
 初めて見た日と変わらない、故郷の姿があった。
 今はもう朝と呼ぶにはいくぶん遅い時間で、ここからは東にあるロスマリヌス都を見ても、太陽の光は目を刺してこない。都市と接する大きな港も、湾を抱き込むようにせり出した二つの岬も、その先にそびえる白い灯台も、よく見えた。
 この丘は、東の平野と西の山脈のほぼ中間に位置している。冬枯れ色に染まった小高い丘は細まった末に崖で途切れ、その先端に座する老樹はさながら海を背景にロスマリヌスを見守る古老だった。この地に生まれ育った者は誰しも、一度は共に故郷を望むだろう。
 後ろを振り返れば、ぽつりぽつりと常緑の色が、冬枯れの中に交じっていた。ロスマリヌス都より西、内陸へ向かうと、緩やかな丘陵地帯が続いている。
 そのさらに奥の山岳地帯にほど近くにも、村がいくつかあった。西は南から連なる山脈に占められているが、人々はその裾野にまで住処を広げているのだ。合間の森や川に沿うように、自治領に属す村落がまばらに点在している。
 その一つに、リーネという名の村があった。春を迎えれば幾重にも重なった薄紅に埋もれる森の傍にある、透き通った池の畔にある、小さな村だ。
 両親はいなくても、家には祖父と叔母と妹がいた。村には幼い頃から知っている人たちばかりがいた。
 とてもあたたかくて、とても綺麗な、とても大切な場所。
 とても小さな、優しい世界。
 けれど。
 ――ほら。どんなに伸ばしても、この手は空にも、誰にも、届かない。




「僕がみんなを守るから」
 いつのことだっただろうか。幼い自分が、そう誓ったのは。




「おーい、スタン、見えるかー?」
 足よりもさらに下から聞こえてきた声に、枝の上で器用にバランスを取りながら北の方角を凝視していたスタンは、老樹の根本を見下ろすと声を張り上げた。
「ああ、見える! バッカスの言った通りだ!」
 枝から降りる前に、もう一度スタンは振り返る。
 森の向こう側に広がる村落もない平原、その西端に黒い岩山が出現している。つい先日まで、そんなものは何処にも存在していなかった。
 あんな巨大な岩山が、突然現れるはずがない。
 そもそも岩山に、翼などあるはずがない。
「あれが、飛行竜」
 飛行能力を持った、機械であると同時に人工生物でもある遺失技術の結晶だ。現在も稼働している飛行竜はセインガルド王室が所有している一体のみなので、それと見て間違いないだろう。ロスマリヌス自治領よりもずっと南の、フィッツガルドと本国との間で稀少品の貨物運搬に利用されているという話を聞いたことはあったが、実物をこの目で見るのは初めてだった。
「でも、何で」
 飛行竜がロスマリヌスに飛来したことなど、スタンが生まれてから十八年、一度もなかったのである。この地方には格別に高価な産出品もないのだから、わざわざ世界唯一の飛行竜を使う利もない。
 訝りながら姿勢を整え、スタンは枝の上から直接地面へ飛び降りる。深く折り曲げた膝で着地の衝撃を殺すと、不意に目の前の地面が陰った。
「おまえ、よくやるよな……」
「へ?」
 見上げると、バッカスが呆れたような、痛そうに眇めた目で見下ろしている。
「高いところはまあ、俺が駄目なだけだけどよ、それだって――いや、やっぱいい」
「鍛え方が違うんだよ」
「言ってろ」
 あえて軽く笑って言い返すスタンに、バッカスが苦い顔をした。確かにバッカスが高所恐怖症になった原因が誰であれ、今のスタンが見上げるような高所からでも平気で飛び降りることが出来るのは事実だ。
 スタンは祖父から剣術を学び、またそれだけにとどまらない鍛錬を課している。年若い彼がロスマリヌスにある自警団の実力者と比べても引けを取らないのは、別に自警団のレベルが低いからではない。
 だがスタンとバッカスの違いは、能力の高低ではなく舞台の違いだ。
「俺には俺の鍛え方があるんだっつの。そんなことより今は、あれのことだ」
 バッカスは手にしていた二つ折りの紙片を指に挟んで、ぴっと立てる。
「飛行竜を動かすには王室の承認がいるし、当然乗組員も全員国軍だ。いつもは貨物船同然でも、そんなのがわざわざやってくるなんざ、絶対に普通じゃねえ」
「まあな。で?」
 膝を何度か屈伸させて立ち上がると、スタンは先を促した。
「親父たちの話じゃ、ロスへの進入許可の申請に出された目的、古代遺跡の調査なんだ」
「古代遺跡って、あの西の地下遺跡? 今更?」
「ああ、今更だよな。何で今更セインガルドが、飛行竜なんか大層な物を持ち出してまで来るのかっていうと、なんでも本国で最近」
 言いながら、手にしていた紙片をスタンの手のひらに押しつける。
「その筋じゃ非常に高名だった、ある考古学者の私的な研究記録の一部が出てきて、それに王室も動きたくなるような何かが書かれてたから、らしい」
 スタンが折り畳まれていた紙片を開くと、そこには読み取りにくいほど乱雑な走り書きで、それでも何と書いてあるかすぐにわかる、人の名前が一つだけ書かれていた。
「これって……!」
「親父に、これだけは絶対おまえに言うなって言われちまってよ」
 驚愕に目を瞠るスタンに、バッカスは別に口では言ってないしなと嘯きながら、困ったように笑って頭を掻いた。続けて照れ隠しにか、ちゃんと証拠隠滅しとけよと冗談めかして囁く。
「いいのか?」
「何年おまえの友達やってると思ってんだ。黙っとけねえだろ。それに」
 不意にバッカスは笑みを消すと、薄く唇を噛んだ。
「今朝の船で、急にラティルスさん達が帰ってきたんだよ」




「僕が母さんとリリスを守るから」
 いつのことだっただろうか。幼い自分が、約束したのは。




 最後に会ったのは、二年前だった。
 夫婦で隊商の長を務めており、ロスマリヌス自治領の東の大陸にある二大国、セインガルド王国やファンダリア王国を主に回っている。ここに帰ってくるのは、年に数回程度だ。
 スタンの両親とも旧知らしく、自身は子供に恵まれなかったこともあってだろうか、両親を亡くしたスタンと妹のリリスをとても可愛がってくれていた。たまの帰郷の時には遅くとも前日までには先触れの連絡が届いていて、スタンもリリスと一緒に彼女らを港で出迎えていたものだ。今回のような急な帰郷は、スタンたちの知る限り、初めてのことだった。
「絶対に何かある。俺の勘がそう言ってんだ!」
 それも、あの飛行竜がやってきた翌朝になのだ。バッカスの力説に、スタンが苦笑を滲ませる。
「勘、なあ」
「何だっていいだろ。わざわざ飛行竜を出してくるほどの価値があるものっていったら、古代の遺産しかねえって。セインガルドの国土に存在する、すべての古代遺跡や遺物は王室の管理下にあり所有物であり、それを王室の許可なく侵犯することは国家反逆罪に問われるって、あるだろ。で、ロスマリヌス自治領も名目上は一応、セインガルド王国の属領だ」
「それとラティルスさんが、どう関係するんだよ」
 さりげなく潜めた声で淀みなく喋っていたバッカスが、少し眉根を寄せた。
「おまえ、もうちょっと考えろって。だからセインガルドの奴らは、それを振りかざしてあの遺跡に何かを探しに来たんだ。ラティルスさんはそれが何なのかを知ってて、慌てて追いかけてきた」
「わかったって。でも何かって、今更あの遺跡に何があるんだ? 再調査したいなんて今までずっとなかったくせに」
「あそこがずっと見向きもされなかったのは、何十年も昔に調査記録が国に提出されてるからだよ。何てったって、おまえのじ」
 と、スタンが突然バッカスの腕を掴んで後ろに引っ張ったので、言葉が途切れた。その直後、バッカスの鼻先を箱を満載した荷車が騒がしく走り抜ける。
「歩きながら喋るのはいいけど、おまえは、もうちょっと前見た方がいいと思うぞ」
「……気ぃつけるわ」
 げんなりと肩を落とすバッカスを軽く笑って、スタンはぐるりと周囲を見回した。
「にしても今日って、人、多すぎないか?」
 この辺りはかなり港と近いので今の時間帯に活気があって然りだが、スタンが前に来たときとは桁違いの人出だ。
「昨日から定期船団が入ってるんだよ。来週の出航まで賑やかだぜ」
「そうなんだ」
「月一だぞ。いい加減、覚えろよ」
「俺は滅多にこっち来れないから、すぐに忘れるんだよ」
 スタンは悪びれず肩を竦めて笑う。
「まあ、それもそうだろうけどさ――おっ」
 素早く立ち直ったバッカスが、今度はスタンの肩を小突いた。
「セインガルドの奴ら、あの格好のまま出歩いてら」
 人混みでごった返す中から目敏く、白い軍服を見つけ出したのだ。指差すような真似は決してしないが、的確に位置を伝えてスタンの視線を誘導する。
「へえ、本当にあそこの軍服って白ずくめなんだ」
 あの飛行竜の船員だろう。二人組のセインガルド軍人は、何やら値引き交渉に難航しているようだった。
「まったく御苦労なこった」
 軍人に近づくような真似はせず、賑やかな往来を器用にすり抜けていくバッカスに、スタンも半ば引っ張られるようにしてついていく。
 そうして港に一番近い大通りを抜けて、倉庫街の手前で一本外れると、準備中の札が掛かった酒場の前で、二人立ち止まった。
 扉はぴったりと閉ざされている。バッカスは扉に取りつくと耳を押し当てて、中から話し声も聞こえてこないことを確かめると、音を立てないようにそっと扉を開けて、隙間から中の様子を覗こうとする。が、その途端に内側から開かれた。
「口の軽い馬鹿息子だな」
 急に扉がなくなって前のめりにつんのめったバッカスを呆れ果てた目で見下ろし、厳めしい顔つきの中年男性は深い嘆息と拳骨を落とした。
「ってえ! いきなり何すんだよ親父。俺はただ」
「ラティルスさんが帰ってきたって聞いたんで」
 殴られた頭を押さえながら父親に怒鳴り返すバッカスの言葉をスタンが途中で奪うと、彼は店内に招き入れるように身体をずらしてスタンを通し、次いで蹲っていたバッカスの首根っこを捕まえて中に放り込んだ。
「今、何処にいるんですか?」
 店内には三人の他に誰もいないようだが、ロスマリヌスにいる限り、バッカスの父がその所在を知らないはずがない。ぶつぶつと文句を呟いているバッカスの後ろで再び閉められる扉を眺めながらスタンが問うと、親友の父親は首を振った。
「奥にいるが、今は駄目だ」
「どうして」
「君の叔母上殿がいらしている。話が終わるまで誰も通すなと」
 言われて、目線を落としたスタンは僅かに眉根を寄せる。
「何かあったんですか」
「あったと言うほどのことでもない。――向こうで見つかった遺品の返還請求をしようというだけだ」
 その言葉に、はたと気づいた。
 ならば、ラティルスは。
 困ったように村へ帰りなさいと言われたのも、上の空だった。
 彼女は行くのだ。
 これから、行くのだ。あの場所へ。




「守るって、父さんと約束したから」
 いつのことだったろうか。父と、約束を交わしたのは。




 波止場には、朝の漁のおこぼれに与る海鳥たちが、まだ大勢残っていた。馴れたもので、人が少々近くに寄ったところで逃げ去ったりはしない。
 遠くの桟橋に、大きな船が碇泊しているのが見えた。大型帆船が二隻と、中型帆船が三隻、どれも帆を畳んでいて描かれた紋章を見ることは出来ない。マストの先では、濃い青色と薄い紫色で染め上げられた旗や、船の持ち主の家紋を掲げた小降りの旗が、海風を受けて、引っ張られたようにはためいていた。
「なあ」
 その船に視線を固定したまま、バッカスが再び口を開いた。
「何だよ」
 風が少し強いと、思った。
「おまえ、行くのか?」
 二人が座っている波止場の縁には、海からの風を遮る物など何もない。
「外に。セインガルドに」
 この海の向こうに。
「……うん」
 明確すぎる問いかけに、返せたのは曖昧な首肯だけだった。
 これは迷いでは、ないけれど。
「リリスちゃん、怒るぞ」
「うん」
「泣くかもしんねえぞ」
「……うん」
「おまえを止めようと思ったら俺には、いくらでも方法はあるぞ」
「だろうな」
「でも、たぶん、止めらんねえんだろうな」
 肩を落として小さく笑う様は、寂しげにも見えた。
「……バッカス」
 スタンは俯く。バッカスは知っている。だから、こんな風に笑う。
「だから俺が何とかしてやる。ジェノスに着くまでは、絶対に見つかるなよ。でもその後は、ちゃんとラティルスさんたちに見つかれよ。絶対におまえ一人だけになるなよ」
「ああ、わかった」
「そんで何があっても、絶対に帰って来いよ」
「約束する」
 つとスタンに振り向いたバッカスが、遠くを見つめるように褐色の目を細めた。
「なあ。きっと、何にもないぞ」
 セインガルド王国には。そしてその王都ダリルシェイドには。
「それならそれで、いいんだ。たぶん」
 苦笑いのようなものを滲ませたスタンは、真上に広がる高い空を仰いだ。
 大きな白い雲が海の方へ、速い風に押し流されていくのが見える。
「俺、見てみたいんだ。一度でいいから」
 雲の向こうから零れた光に、思わず目を細めて。
 吐き出した言葉は何故か、泣き言のように震えた。




「だからもう、泣かないで」
 いつのことだったろうか。母が、静かに泣いていたのは。
「僕ももう、泣かないから」
 いつのことだったろうか。自分が、最後に泣いたのは。




 いつからか、夢を見ていた。
 あまりに遠すぎて手が届かない、遙かな空に。
 あまりに広すぎて声も届かない、海の彼方に。
 いつからか、祈るように、夢を見ていた。
 遠すぎる空と広すぎる海の、真っ青な色に。




 もしも世界の涯てまで行けたなら、この想いは届くだろうか。








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