今から約千年前、人の満ちたこの星に、巨大な彗星が衝突した。
大地は砕け、突き上げられた海は波濤と化し、あらゆる物を破壊し、ことごとくを飲み干していった。この彗星一つのために、栄華を極めていた人類はその大半を瞬く間に失ったという。
落下の衝撃と津波によって天高く巻き上げられた粉塵は、そのまま沈むことなく空を黒く閉ざし、地上は長く暗い冬の時代を迎えた。一筋の光も射し込まなくなった世界で、彗星の落下を辛くも生き延びた人類はさらに半数、命を落とした。
凍りついた地獄の底で、それでも命を繋いだ僅かな者たちは太陽の光を求め、大地を捨て、遥かな天空に新たな都市を造り上げた。しかしその都市へと移れた者は、選ばれた者のみであった。自らを天上人と称した彼らは地上に取り残された大多数の者たちを強大な武力によって虐げ、私欲のままに圧政を敷くようになった。
地上の人々は冷たい闇と空から降る雷に苦しめられながらも、息を潜めて生き長らえていたが、ある時、ついに天上に対し一斉蜂起を決行する。
そして始まった戦いは、十数年の長きを経て、堕天使が地上にもたらした神の剣により地上の勝利で終わりを迎えた。
この天と地を分かつ戦争は、後の時代に、天地戦争と伝えられる。
そして現在。
本来の姿を取り戻した青い空の下で、古の戦争はもはや御伽話でしかなかった。
この時代を生きる、大多数の人々にとっては。
ごとり。重く硬いものが、わずかに顔を出していた床へと転がり落ちた。白く乾いたそれは、再び緑の蔦に巻き取られ、飲み込まれていく。
今や飛行竜の船内は、太い蔦に埋め尽くされていた。かつて人であったものが、至る所で蔦に絡まれ、干涸らびている。すでに白骨化しているものも少なくない。
《ルミナ・ドラコニス! ルミナ・ドラコニス、応答せよ!》
通信機のスピーカーから繰り返される声が、艦橋に虚しく響く。と、不意に蔦がざわざわと艦橋から退き、露わになった床に人影が一つ、ふわりと降り立った。その人影はしばらく通信機を見つめていたが、不意にその手が虫を払うように振られた刹那、通信機は火花を散らして沈黙した。
「どうやら飛行竜は陽動だったようです」
ここにはいない誰かに向けて、人影は言葉を発する。抑揚や感情の一切が欠け落ちた、およそ人間らしくない、しかしそれは確かに年若い少女の声だった。
「仰せのままに」
冷たい黒の瞳が、船内を見渡した。
ロスマリヌスからダリルシェイドへの帰路にあった飛行竜はこの日、その消息を絶った。
一章 初めての再会
見渡す限りの銀世界。鋭い山脈を包む雪が、光に鈍く輝いている。
春を告げる北からの風が吹いても、おおかたの雪が消えるのはまだまだ先のことだ。そして遅い春に雪が溶け緑に覆われても、それから幾月も経たぬうちに再び雪の季節を迎えることになる。この地域はセインガルド王国とファンダリア王国の国境上に位置するが、気候はまだファンダリアに近く雪深い。
ファンダリア王国。その一年の大半を雪と氷に覆われている、大陸の南半分を占める大国だ。大陸の南北を分断する山脈を隔てて、北半分を占めている温暖なセインガルド王国とは非常に異なった、寒冷な気候の国である。
歴史の長さではセインガルドに勝るとも劣らず、ほぼ同時代に興されたという記録も残されている。だが、かつて大陸中に蔓延した流行病とそれによる飢饉で、被害の大きかったファンダリアは国力の低下が否めない。
「とはいっても、今は平和なものよ」
「そうですね。あ、あれって雪だるまですよね! 大きいなあ」
言って、小さな子供のように瞳を輝かせているスタンに、仕方ないなといったようにラティルスは苦笑する。
ファンダリアの景色は、彼にとって新鮮なのだ。ロスマリヌスから一日で渡りきれる距離の海しか隔てていないが、雪などスタンが生まれてからは数えるほどしかなかったロスマリヌスにずっといたのでは、これも仕方ないだろう。
「このまま何事もなく終わればいいんだけど……」
二両連なった後ろの車に軽く背を預けて、そっとため息を落とす。
ロスマリヌスから船で、この国境の港町ジェノスに戻ったのが昨夜のことだった。そして共犯者の手腕によるものだろう、見事に密航を果たしたスタンが姿を現したのも。
彼をこんな強硬手段に駆り立てた、理由に心当たりがないわけではない。出来うる限り尊重してやりたいとラティルスも思う。
今回の仕事はさして長い道のりではなく、何事もなければ数日でセインガルドの王都ダリルシェイドに到着する。その後しばらく滞在して、一月後にはこのジェノスに戻ってくる予定だった。だからラティルスも、決して一人にならないことを厳命するにとどめ、無理にスタンを追い返すことを諦めたのだ。
もし思いあまって飛び出されることに比べれば、目の届くところにいてくれるだけ、ずっと良いだろう。そう考えて一度は同行を許可したものの、決して小さくない不安要素もあった。
分厚い麻布にくるまれた長細いケースを、ラティルスはちらりと見やる。
今回の旅の主役。ロスマリヌス領内にある古代遺跡で眠り続けていた遺物だ。
遺跡調査と、発見した物を研究のため一時的に持ち出すという要請までは断りきれなかったが、領主代行はいくつかの条件をセインガルドに承諾させていた。その一つが、ラティルスがロスマリヌス自治領の使節として運搬と貸与中の管理を担うというものだった。そろそろカビが生えていそうなラティルスの実家の権限も、こんな時には役に立つ。
今になってあの遺跡を求めたセインガルド王室の目的はわからない。だが昨夜ようやくケースの解錠に成功して確かめることの叶った遺物の正体は、その一月すら許せなくなるかもしれない。
「ラティ。気にしているのか?」
最後の荷物を積み込んだフラックスがその足でアステルの隣にまで来ると、潜めた声で問いかけてきた。
あの中身のことを知っているのは、一行の中では今のところラティルスの他には、夫である彼しかいない。同じロスマリヌス出身の仲間たちにも、これは話しておかねばならないだろう。皆同じように、セインガルドへの怒りをこぼすのだろうか。
「まあ、ね。揃いすぎたカードは、やっぱり疑ってかかっとかないと」
今回の遺跡調査にはセインガルド王室のみならず、あのオベロン社が絡んでいる。
オベロン社は、大昔に落下した彗星の核から造り出されたエネルギー発生体の結晶、レンズを独占的に扱っている、世界一の大企業である。十数年前に現れた一人の男が、今でも他の数十年は先を行くと言われている高度なレンズ技術を携えて、一代でそのすべてを築き上げた。創始者であり現総帥であるその男は、今ではセインガルドの国王に相談役として城に招かれているほどの重鎮である。
あのケースの中身を、古代の遺物を求めているのは、あるいは彼なのかもしれない。
「だがまあ、あれを他所に渡すのは正直いい気がしないな」
肩を竦めて、フラックスが囁く。
「同感。いったい何処から嗅ぎつけたわけ」
「それを確かめるためにも、俺たちのことを勘づかれるわけにはいかない、だろう?」
「それはそうだけど」
不安を誤魔化すようにラティルスは口を尖らせるが、
「……でも、そうね。別に、まだ何か起こると決まったわけじゃないわ」
隣を見上げて、笑みをつくった。
何事もなければ、恐れることも何もない。
そう、あの日からこの七年間、ずっと何もなかったのだから。
「ねえ、もうちょっと、もう少し、上がらない?」
外から聞こえてきた耳慣れない少女の声に、スタンは荷箱を固定する手を休め、ひょいと荷台から顔を出した。
「だぁめ。上がらない」
荷箱に足を組んで腰掛け腕も組み、ラティルスが笑顔で首を横に振る。どうやら交渉事のようだ。
彼女に対する二人組みのうち、黒髪の少女の方はスタンとさほど変わらないか、少し下に見えた。それに、一目でわかる。妹と同じように、かなり気が強い少女だろう。あっさりと返されむっとした少女が薄黄の外套を大きな挙動で翻す仕草に、それが如実に現れていた。
「ちょっと、見る目ないんじゃないの? 競りにかけたら軽く二万ガルドはいっちゃうような代物よ!」
左手に持った銀色の女神像を指さし息巻いた、少女の腕が当たらないように隣の女性が一歩下がる。こちらは二十代半ば辺りだろうか、燃えるような明るい赤の髪をポニーテールにしている。少女の連れらしいが、どうも交渉の成り行きにはあまり関心がないらしく、励む少女とは対照的に何処か暢気そうに少女を見守っていた。目線も時折、荷造りを進める馬車の方へ、もの珍しそうに彷徨っている。
「二万ねえ」
何処がと言ったようなラティルスに、少女がさらに言い募ろうとしたとき、
「やめときな、元気なお嬢ちゃん。普通のハンターがラティルスさん相手に古物で勝てるもんかい。この人は考古学者の資格も持ってるんだから」
つい先ほどファンダリア側から合流してきたラティルスの仲間の一人が、荷箱を抱えて傍を通りがかりざま、笑いかけた。その言葉に、周囲にいた他の仲間たちからもどっと笑いが起きて、少女が不愉快そうな膨れっ面になる。
「スタン。ちょっといらっしゃいな」
と、見ていたことにいつから気づいていたのか、振り向いたラティルスがにこやかな笑顔で、スタンに手招きをした。
「へ? 俺?」
思わず問い返すと、うんうんと肯いてきたので、スタンは訝りながらも外套の合わせを閉じ直し、荷台から車外へ降りる。大勢に踏みならされて固まった雪に足を取られないよう気をつけながら彼女のもとへ駆け寄ると、ラティルスが少女の手にある女神像をすっと抜き取って掲げてみせた。
「これ。十段階評価にしたら、どう?」
「これを、十段階で?」
「そう」
彼女の意図は読めないが、スタンは言われた通りに女神像に目を向ける。
彫像の状態は悪くないだろう。特殊な金属で作られた、壊れやすそうな細い腕も、滑らかなドレスのひだも、傷一つない。だが。
「……七、かなあ」
「えええー!?」
「そうよねえ」
その答えを聞いて露骨な不満の声を長く伸ばす少女に対して、ラティルスは満足そうに笑う。そして、平らな女神像の額を指先で軽く撫でながら、
「メインの、ティアラになってる指輪がなくなってちゃイイトコ一万ね。それ以上は出せないわ」
「う……」
一歩たりと譲らないとばかりの不敵な笑みを湛え、きっぱりと言い放った。
小さな呻きが少女から漏れる。
「どう? これでもジェノスにあるどの店より高い値だと思うけど」
「うう……」
続けられた言葉に、再び呻きが漏れた。図星なのだろう。難しい顔で黙り込んだ少女は、しばらく目線だけを周囲に彷徨わせていたが、不意にぱんと手を打った。
「じゃ、じゃあ、その代わり、途中まで乗せてってよ。ここで支度してるってことは北に行くんでしょ?」
すぐそこに見える街の北門を目で指して、少女が笑顔を浮かべる。
「それぐらいなら構わないわよ。モンスターは手伝ってもらうけど」
「やった、交渉成立♪」
笑ってラティルスはこの付近の地図を取り出して、少女に見えるよう広げた。
「私たちは街道沿いにハーメンツの方へ抜けて、ダリルシェイドに向かうわ」
「んじゃ、あたしたちは、この辺りまで」
ラティルスの指が、ジェノスから北西に向かって道なりに緩やかなカーブを描いていき、一番近くにある地名に辿り着いて止まるのを見て、少女はその一番近い街との中間辺りを指差す。
「遺跡?」
スタンがぽつりと口に出すと、少女は意外そうに彼の方を振り向いた。
「結構詳しいわけ?」
「いや、そんなんじゃないけどさ」
父の書斎で見たことのある地図に大きく×印が書き込まれていた辺りだったから、とは言葉にならなかった。少女はまあいいわ、と話を打ち切り、
「しばらくよろしく。あたしはルーティ。あっちはマリーよ」
ルーティと名乗った少女に名前を呼ばれ、赤毛の女性も慌てて意識をこちらに戻して、会釈する。
「あら。あなた、あの悪名高い金の亡者さんだったの」
少女の名前を聞いたラティルスが、愉しそうに笑った。
「ちょっと、もうっ、なんなのよ!」
大声で愚痴をこぼしながら、ルーティが逆手に持った大きめの短刀でモンスターを深々と切りいたく。基本以外はほとんど我流の型のようだったが、急所は的確に突いている。
「これで最後!? もう出てこないでよね!!」
霧散したモンスターの残滓を振り払うように音を立てて短刀を振るうと、ルーティは肩をいからせながら辺りを見回す。
「あんまり騒ぐと、またモンスターたちが寄ってくるかもしれないぞ。私は別に構わないが、ルーティはもう嫌なのだろう?」
と、軽々と大剣を担いだマリーに横から突っ込まれ、いそいそとしゃがみかけていたルーティがひくりと肩をひきつらせた。
「それは、そう、だけど……!」
そんな二人のやりとりに、周囲のそこかしこで、護衛役を担当している隊商の面々が笑いを抑え切れていない。
「見てて飽きないわねえ、あの子たち」
「ちょっと! ぼーっと突っ立ってないで、レンズ拾うの手伝ってよ!」
ラティルスとスタンも馬車の中と外で顔を見合わせ、こっそり笑いをこぼす。と、そこへ本日何度めかのお呼びが掛かり、剣を鞘に収めたスタンが軽く肩をすくめた。出会ったばかりの小柄な少女に、すでに顎で使われてしまっている。
モンスターの体内にはレンズと呼ばれる特殊な鉱物があり、死んで肉体が崩壊し霧散すると、そのレンズだけが後に残る。そのレンズはオベロン社が有料回収しているので、モンスターを狩ってそれで食べていくことも可能だ。
そうして生計を立てている者のことをレンズハンターと呼ぶが、ルーティたちは、世界各地に点在する遺跡から古代の遺物を見つけ出し、それを古物商や古美術の収集家に売り捌く稼業と兼ねているという。
千年前の天地戦争時代やそれ以前の物は現代より高度な遺失文明の産物で、まず王室の管理下にあるため手が出せないが、それ以降の物となると野放しにされている物が大半だ。特に、現代にも続くセインガルドとファンダリアの二大国が成立した時代は世界的な混乱期にあったといわれ、そういった時代の遺物には、その時代特有の物も多い。
先ほどラティルスが買い取った銀色の女神像も、そういった類の古い神殿で発見した物らしい。
「でも、気をつけなさいよ? あの辺りにある王室管理のに入ったら、問答無用で捕まえられるわよ」
「ご忠告ありがとうございます、ちゃーんと気をつけてますって♪」
車中での談笑の中、ラティルスの冗談めかした本気の忠告にも笑顔のままのルーティは、何処か危なっかしく映った。何に気をつけてるのやら、とは聞かないでおいたが。
セインガルド王国は、天地戦争時代の遺跡の管理に厳しい。国内に残存している遺跡が少ないためあまり知られていないが、その点はファンダリア王国も同じだ。両国の王室は代々、遺跡から発掘される物の価値をよく承知している。どちらも、そう在らねばならない国だからだ。そのことを、ラティルスたちもよく知っている。
だが、あの少女はどうだろうか。おそらく並の遺跡荒らしとは比較にならないほどの詳しい知識を持っているだろう。真実、あの剣の所有者であるならば。だが、その意味を理解しているかはまた別の問題だ。
ラティルスは有り物の小型ケースに収めた、銀の女神像を引き寄せる。
所有者に物理的な危害が加えられようとした時に発動し、加害者を弾き飛ばして砕け散る、身代わり人形だ。現代にも製造技術は伝えられているが、この女神像のように凝った加工を施す術は失われてしまっている。
この女神像は、おそらく二大国建国期の時代に作られた物だろう。もし指輪が欠けていなければ、彼女の言い値を遥かに上回る高額で取引される代物だ。指輪があれば、発動する守護の力は格段に強力となる。
小型ケースの蓋を開けて、布に横たわる女神像の胸元で祈るように重ねられた手に、ラティルスは自分の人差し指を押し当てる。音を伴わない、声を刻みつける。
昔、これと同じ物を持っている人がいた。だから、それを見たことあるスタンも、すぐ指輪の欠落に気づいたのだろう。
ラティルスは顔を上げると、馬車の窓枠に腕をついて、外へ身を乗り出した。
「そろそろ戻ってらっしゃい!」
レンズ拾いの手伝いに駆り出されたスタンはすっかりルーティのペースに巻き込まれているらしい。賑やかな様子が、ひどく懐かしく思えてラティルスは目を細めた。
失ったものは取り戻せない。もう、還ってこない。だからこそ、残されたものまで奪わせはしない。
ああだこうだと騒ぎながらレンズを拾い集め、馬車に戻ってくる間もルーティはストレス発散とでも言いたげに騒ぎ続けている。
「もう、マリー! 今回のが終わったらもうセインガルドに戻るわよ! こんなとこじゃ貴重な時間の無駄だわ、やってらんない!」
「そうか、ファンダリアを出るのか」
「出る! 寒いのはもう嫌!」
「ルーティは寒がりだな」
「何度も言ってるけど、あたしは普通。マリーが平気すぎんの」
「ああ、そうだったな」
「そうよ。ったく、寒いわ、ろくすっぽ儲けなしだわ、最悪ね。あっちに戻ったら、あんのガセまみれの情報屋から慰謝料でもふんだくってやろうかしら」
「はい、御苦労様」
この場にいない情報屋とやらに向けて毒づくルーティと、その後ろをにこにこと付き従うマリー、そして最後にスタンを、ラティルスは扉を開けて出迎えてやる。
真っ先に馬車のステップを駆け上がったルーティは、荒々しく一番奥の席に腰を下ろした。その拍子に、彼女の剣が音を立てる。
「それ、良い剣ね」
ドアを閉めたラティルスは振り返りざま、ルーティに目を向ける。
「こいつ?」
ラティルスの視線を察して、ルーティが腰の後ろに帯びていた剣を鞘ごと外し、手前に持ってくる。大型ナイフより一回り大きい程度の剣だ。
「ええ、その剣。売ってくれない? 言い値で買うわ」
曲刀は先の戦闘でも存分にモンスターを切り裂いていたが、その凝った装飾をつぶさに鑑定するまでもなく立派に古物である。
「えっと、これは……言い値ってのに物凄く飛びつきたいのは山々なんだけど……」
隊列に出発の号令が掛かり、中断していた歩みが再開される。動き始めた窓ガラスの向こうに目を泳がせながら、打って変わってしどろもどろになる彼女に、小さくラティルスは吹き出した。
「ごめんなさい、冗談。だから、そんなに困らないで」
「じょ、冗談?」
「言ってみただけ。高値つけるだけの価値があるっていうのは本当だけど、あなたに売る気なんて欠片もないでしょ。――大切になさい。手放したりしちゃ、絶対に駄目よ」
ひらひらと手を振りながら言うと、胸を撫で下ろしたルーティは、はにかむように笑った。
白い雪を咲かす枝の先に、音もなく人影は降り立った。
その漆黒の瞳は、目標を捉えていた。
雪道を行く、馬車の列。
「――……」
微かな囁きが雪に消える。と、軋むような音を立てて、空気を歪めながら膨れ上がる何かの圧力に、押しのけられた周囲の樹々が大きくしなっていく。
そして臨界点を越えた歪みが、ついに爆発した。
「あれ、雪が……」
何気なく向いた視線の先に、真っ白な雪が一つ、また一つ、舞い降りてくる。
「あら本当。珍しいわね、この時期にこの辺りで降るなんて」
スタン越しに、ラティルスも空を見上げて。
「今年の春は遅いかもね」
続けられた呟きは、スタンの記憶にはなかった。
何の色にも染まっていない光が、弾けて。
冷たい。これは、雪の冷たさ。
あたたかい。これは、手のあたたかさ。
懐かしかった。何もかもが。
けれど、悲しかった。何もかもが。
気がつけば、雪の上にいた。
「……何、が」
頭に響く鈍い痛みを振り払い、身体を起こす。俯せに倒れていたせいで、雪に押し当てられていた頬が刺すように痛む。
「スタン」
聞こえた、やわらかな声に顔を上げた。
雪が降っている。
投げ捨てられた人形のようなラティルスが、スタンを見つめていた。微笑んで。
「こっちに来なさい」
声に呼ばれるまま雪の上を這い寄って近づいた、彼女の向こうには、大きな残骸が見える。
――少しずつ、意識がはっきりする。
空気に色濃く混じった臭いが、口の中いっぱいに広がる。
「え……?」
呆然としていた時間は一瞬。
舌の上にひどく不快な、味がする。
不快だ。
不快、いや、気持ち悪い。
気持ち悪かった。吐き気がするほどに。濃く。
だからこれは、同じなのだ。
ラティルスの額から流れ落ちる、赤い色にスタンは目を瞠る。
あの時と同じだと、何かが囁いていた。
「無事、なのね」
ラティルスは微笑んで、スタンの頬に冷えた指を滑らせた。そうしてその指で、突き放すように肩を押す。
「あなたは、いきなさい」
同じだ。
あの時と、同じだ。
真っ白な雪。真っ赤な血。たくさんの赤い血。
いくつも転がった人間。血に染まった人間。
「で、でも……」
「いきなさい」
言って、ぐらりと力尽きたように傾いだ彼女の上体を、スタンは咄嗟に受け止める。
「ラティルスさん……っ」
「……言うことを、ききなさい。でないと」
ゆっくりと規則正しく近づいてきた、雪を踏みしめる音に、スタンは後ろを振り返った。
黒い人影が、立っていた。
それは二人にはまったく関心を向けることもなく、残骸の中に転がっていた長細い箱に手を伸ばす。だが、指先が触れるか触れないかのところで、突然手を止めた。
くすんだ黒い双眸が振り向いた。若い女だった。
「……そうか、そういうことか」
ぞっとするほど、冷たい声だった。
何かが目の前に立ち塞がって、何かを貫く音がして、あの時と同じように。
同じように、生温い何かが、こぼれ落ちて。
つと、ふわりと誰かの腕に抱かれた。
何故か泣きたくなるほどに、あたたかくて優しい。
「おまえは、いきなさい」
声。誰かの。誰の?
これは誰の声だった?
狂おしいほど答えたいのに、思い出せない。
これが誰の声なのか知っている、はずなのに。
とても、よく知っているはずなのに。
どうしても思い出せなくて、何も言えない。
駆け寄りたいのに、何も見えない。
どんなに手を伸ばしても、届かない。
ほら。また、ふわりと離れて、消えて。
「あ……」
何かを掴もうとした手が、空しく宙を切る。
今はもう何を掴もうとしたのかすら思い出せなくても、それが仕方のないことだけは覚えている。
仕方がないのだ。届かない。
胸元に空っぽの手を引き寄せて、ゆるゆると握りしめる。
血に濡れた手。自分のものではない、赤い色。
ただ一つの言葉だけが耳の奧に響いている。何度も何度も。
いきなさい、そう言った、繰り返し繰り返し、女の声で、男の声で、遠くから近くから。
わななく唇を押さえつけるように噛んで、走り出す前にもう一度だけ後ろを振り返る。
もう、誰もいないと知っていても。
通り過ぎた、後ろを振り返る。
聞こえた獣の唸る声の主は、濁った氷のような色をした、四肢の長いトカゲのような化け物だった。だが大きさはトカゲはもちろん、熊などとも比べものにならないほど大きく、顎からは人の腕ほどもある牙がのぞいている。
モンスター。レンズを飲み込み、その力に狂わされて異形と化した、かつては動物だった生物。モンスターは人間を襲う。それが本能だ。その目は明らかに、スタンを見定めていた。
「何か、武器……!」
剣は何処にも見当たらず、細い日用ナイフしかない。モンスター相手に、それもあんな巨体相手に、貧弱なナイフ一本で戦うのは無謀だ。モンスターとはまだ距離がある。武器を探しても間に合うと信じたかった。
そこまで考えると無意識に、そうであるのが当たり前のように、スタンの視線がすっとその場所に辿り着く。そこには、雪を抉るようにして角を埋めている、一つの壊れかけたケースが横たわっていた。鎖で厳重に封印されたらしいケースの蓋がずれて、中に収められていた紅い柄の長剣が見える。
「これだ!」
ナイフで鎖を壊すと、スタンは紅い剣を掴んだ。
「うっわ……古くさい剣……」
手に取ったその剣を間近で見ると、古物であると力説しているような装飾様式に、思わずそんな言葉が口をついて出た。と。
『古くさいとは何だ。また、いきなり失礼な奴だな』
何処からか、若い男の声が聞こえた。
「え? ――誰だ!?」
周りには誰もいない。生きている人間は、誰もいない。
『私はディムロスだ。……お前が手にしている、古くさい剣とやらだが』
ぎょっと身を強張らせてスタンが周囲に視線を巡らせていると、古くさいという単語に微妙なアクセントをつけて、再び声が響く。
「は? 剣? ──け、剣が喋った?」
スタンは呆気にとられた表情で、手にしている剣に、声がディムロスと名乗った剣に目を落とす。
『そうだ』
一瞬の間。そして。
「ええっ、何で!? 剣だろ!?」
当然の疑問をスタンは叫んだ。
『ふむ……今それに答えてやっても構わんが、いいのか。もうすぐそこまで来ているぞ、後ろに』
「後ろ?」
ディムロスに言われるまま後ろを振り向くと、先ほどのモンスターが、もう間近まできていた。
「──やべっ」
振り下ろされた鉤爪付きの太い腕を、スタンは間一髪で後ろに跳んで避ける。
「っとと」
これだけの太い腕なら、力はかなり強いだろう。当たったときのことは考えたくもないが、この振りの大きさならば見切るのも難しくない。
そう考え、一気に間合いを詰めようとしたとき。
『おい』
「な、何だよ、いったい」
唐突に声が掛けられ、出鼻を挫かれたスタンは非難がましい声を手元に向ける。
『よく聞け。あのモンスターに、ただの剣では効かない』
「何で!?」
『いちいち大声を出すな。天地戦争の伝説ぐらいは知っているな? あれはその時代の生物兵器だ。おまえが知っている、そんじょそこらの野生化したモンスターとは訳が違う』
「何でそんなこと知ってるんだよ?」
話を続けながらも、モンスターから目は離さない。鈍重な動作で再び繰り出されてきた腕は、危なげなく避けきった。
『私もその時代に生まれた兵器だからだ。いいか、いったんモンスターと距離を取れ。説明する時間が欲しい』
「わかった!」
三度振るわれてきた腕をかいくぐって、そのままモンスターの脇を駆け抜ける。
『ああ、そういえば、まだおまえの名前を聞いていなかったな』
と、不意にディムロスが問うてきた。
「こんな時に訊いてくるか、普通?」
その緊迫感も危機感もない声音に呆れて苦笑をこぼしつつ、モンスターの背後へと抜ける。すれ違いざま、ついでとばかりに浅く斬りつけてみたが、ディムロスの言うとおり傷一つつけられずに剣はあっさりと弾かれた。
「スタン。スタン・エルロンだよ」
『――スタン? そう、か……』
何処か感慨深げに響く声音に、スタンはその理由を訊いてみたくなったが、すぐにディムロスが話を続けたのでそのタイミングを逸してしまった。
『スタン、私の力を貸してやろう。いいか、意識を一点に集中しろ。やりにくかったら、自分の手か私を焦点にすればいい』
「え、な、何だって?」
言われて、スタンはゆっくりと身体を反転させているモンスターを一瞥した。悠長に意識をそらしていられるほど、状況は甘くない。
『いいからやれ!』
「ああもう! 怒鳴るなよ!」
怒鳴られて、半ばやけくそでスタンはその場に立ち止まる。
「やればいいんだろ! やれば!」
そうして閉じた視界の中、つと、手の中のディムロスが視えた。
(――え?)
息を飲んだ、その瞬間、何かが流れ込んでくる。そう表現するのが一番近い。そんな、今までの十八年間でまったく覚えのない、不可思議な感覚だった。しかし、なぜだか不快感はまるでなく、ずっと失くしていた、欠けていた何かを見つけたような安心感が染み渡ってきた。
そして、弾けるように脳裏にイメージが浮かぶ。
(……紅い、炎!)
『そうだ、それでいい!』
ディムロスの声に、すっと、閉じていた目を開く。
「燃えてる……!」
そこに、炎があった。ディムロスの刀身に、大きな炎が揺らめいていた。すぐ近くにあるはずのスタンの手は、熱さなど少しも感じていないというのに。
紅い火球は、見る間に大きく膨れあがっていく。
『いけっ!!』
「いっけぇっ!!」
二人の声が重なる。
その確たる意志に応えて、紅く燃え盛る炎は刀身から放れると一直線にモンスターに突き進んでいく。炸裂した炎のかたまりはモンスターを包み込んで、天高く火柱を吹き上げながら、その内に跡形も残さず焼き尽くした。
「――やった、のか……?」
雪が蒸発した湯気をもうもうと立ち上らせているだけの、モンスターがいた場所を見つめたまま、呆けたようにスタンが呟く。
『そうだ』
「今の、は……?」
『晶術という。私のような剣、ソーディアンに埋め込まれている特殊なレンズを利用した、いわば魔法のようなものだ。初めてにしては上出来だな、今の感覚を覚えておけ――っと、ちゃんと、聞いているのか』
話の途中で、スタンの注意が離れていくことに気づいたディムロスが、呆れた声で呼び止めようとするが。
『スタン? ……おい? スタン! こんなところで倒れる奴があるか!』
ディムロスの呼び声は、とても遠いところからのように聞こえた。
目の前に、雪の上に、小さな銀色が見えた。銀色の指輪が落ちていた。知っている物だった。自分の物だった。自分の物ではなかった。手を伸ばそうとして、けれど意識は容赦なく闇に沈んでいく。
手が、届かない。
(……父、さん……?)
最後に思い出したのは、何故か。
幼い記憶にしかない、おぼろげな父の姿だった。
雪の上には、思わず目を背けたくなる光景が広がっていた。
「マリー、あんた、よく近寄れるわね……」
口と鼻を手で被い、横転した馬車の上からルーティが呻いた。やはり、こういうものは生理的に受けつけないものがある。あちこちに死体が倒れているこの光景が、まるで違うものでありながら、奥底から古い記憶を呼び起こそうとしてしまうのも、ひどく不快だった。
「ん? なんだ、ルーティ?」
死体の確認をしていたマリーが、ルーティの呻き声を耳にして振り返る。
「……もう、いい……」
どす黒く変色した皮膚。苦悶のこびりついた顔。そんな記憶、もうずっとずっと前のことなのに。どうしてか、ちらついてしまう。
「そうか?」
マリーはなおも不思議そうな顔をしていたが、すぐに作業に戻った。
ひしゃげて転がっていた馬車の影で気がついた時は、なにが何やらまるで見当もつかない状況だった。ただ現前に、この凄惨な有り様だけがばらまかれていた。
(明日は我が身、っていうけどね……)
胃の辺りが重たく痛む。死が遠い生活ではない。だがこんな光景は、死が蔓延していたあの頃を否応にも思い出させる。
ひっきりなしに人が斃れていた、地獄のようだった、あの頃。
どす黒く変色した皮膚。苦悶のこびりついた顔。たくさんの人が死んでいった。大人も子供も死んでいった。穴の中で折り重なった死体、肉の燃える嫌な匂い、毎日、毎日。
「どうした、ルーティ?」
はっとルーティが我に返ると、いつの間に戻ってきていたのか、マリーがルーティの顔を覗き込んでいる。心配そうな彼女の表情に、嫌な顔になっていたかとルーティは慌てて笑顔をつくろった。
「ううん、何でもないの。んで?」
「急に馬車が吹っ飛ばされた原因はわからないが、隊商の人たちを殺したのは大型のモンスターのようだ。あと、あの金髪の男の死体は見当たらなかった」
「え? ああ、あの……スタンだっけ、あいつ」
「そうだ。モンスターは彼が倒したのかもしれん」
森の奥へ向かって、人間の足跡と大きな足跡が続いている。それを指し示し、マリーが言った。
「一回りしてきたが近くに姿はなかったから、もう何処かへ行ってしまったのだろう。意識を失っていた私たちが生き残れたのも、周りにこれだけ死体があったことと、上手く馬車の影に入り込んだせいで、モンスターにも見つからなかった偶然というだけだろうからな」
「そっか。んじゃ仕方ないか。縁があったら、また何処かで会うこともあるかしらね。──ん?」
ルーティはとんっと馬車の中に飛び込み、外套を引っぱり出す。と、ことりという軽く小さな音を耳にして、その小箱に気がついた。
あの日は、稀にみる大雪だった。
ロスマリヌスも何もかも、静かな雪に包まれていた。
誰もいなくなってしまった、村だった場所も。
街外れに広がった森も。
森の中の、たった一つだけの墓石も。
降り続く雪に埋もれていた。
「ここにいたんだ」
白い雪の上で、灰色の石の前で、幼い少女がうずくまっていた。
鈍く輝く少女の金髪は、冷たく濡れていた。
その髪に手を伸ばしかけた、その手は届く前に力なく落ちる。
「リリス」
手の代わりに触れた声に、青金石の瞳に涙を浮かべて少女は振り向いた。
「お兄、ちゃん……」
少女は弾かれたように駆け寄ってきて、しがみつくように抱きつく。
「何処にも行かないよね……? お兄ちゃんは、私を置いて、いなくいったりしないよね……?」
泣きじゃくる、冷え切った少女を抱きしめたまま、墓石に目を向けた。
ずっと前に刻まれていた、父の名前。
刻まれたばかりの、母の名前。
「俺は、何処にも行かないよ。約束したから。──守るから」
首に掛かった細い紐の先で揺れている、指輪を思わず握りしめた。
悪い夢だと、泣きたかった。
けれど、もう泣かないと、約束していたから。
目を開けた刹那、飛び込んできたランプの眩しい光に、思わず目を眇める。
覚えてはいないけれども夢見の悪さだけが重苦しく尾を引いていて、決して良いとは言えない寝起きと相まって、しばらく視界も思考もぼんやりと霧がかっていたが、目が光に慣れるにつれ、意識もはっきりとしてくる。
「ここは……?」
見える天井からすると、丸太組みの小屋のようだった。
気怠さの残る上体をなんとか起こし、スタンは周囲を見渡す。質素な部屋の中は、室内装飾らしいものはほとんど見あたらない。壁に掛けられている、やわらかいタッチと淡い色で描かれた緑の丘の絵が唯一それらしいと言えるだけだ。
ただ、この場所にまったく見覚えがないことだけは確かだった。
何がどうなって、ここにいることと繋がるのか。だが、意識を失っていた間のことなど、いくら考えたところで推測の域を出ない。とりあえず誰か人を見つけなければと思い、ベッドを下りようと身体を捻った時。
「あ、気がつきましたぁ?」
可愛らしい少女の声が聞こえ、ついでスタンの顔をひょいっと覗き込んだ。その拍子に、頭の上で二つに分けて括られていた、少女の淡い紅の髪がさらりとスタンの目の前にこぼれてくる。ほどけばかなり長いだろう。
「あっと、ごめんなさい。さっきまで、なんだかとってもうなされてたみたいですけど、大丈夫ですか? 悪い夢見てる人は途中で起こさない方がいいっていいますよね? でも、起こした方が良かったでしょうか?」
そう一気にまくしたてる少女は、なにやら分厚い本を胸に抱いている。布の張られた表紙も板のような堅さがある物のようで、十二、三歳ぐらいだろう目の前の少女が持つ本にしては少々不釣り合いにも見えた。
「ちょ、ちょっと待った!」
「はい?」
少女が引っ込んだ、その隙にスタンは一息ついて頭の中に浮かんだ疑問を並べる。
「えっとさ、ここは何処なのかな? 何が何だか、俺にはさっぱりなんだけど」
すると少女はにっこりと笑顔を浮かべた。
「はい! ここは、わたしのお祖父ちゃんの山小屋です。ジェノスからちょっと東に、山の方へ入ったところにあります。あなたはジェノスとハーメンツの間の街道の外れに倒れていらしたのを、通りがかったウッドロウ様が見つけて、ここまで運んできたんですよ。あっと、申し遅れましたが、わたしはチェルシー・トーンと申します。せんえつながら、以後お見知りおきを。ええと、他に何かありますか?」
チェルシーと名乗った少女は無邪気な笑顔で、しかし畳みかけるように答えを並べた。その勢いに飲まれたスタンから、はぁと生返事がこぼれたところに、
「気がついたか」
つと男の声が割り込んで、振り返ったチェルシーがぱっと笑顔を輝かせる。
「あ、ウッドロウ様!」
彼女の呼んだ名前が、先ほどの話の中で雪の中に倒れていた自分を助けてくれた人として挙がっていたものと気づいて、スタンは慌てて背筋を伸ばし頭を下げた。
「どうもありがとうございます。助けていただいたみたいで……」
「いや、大事がなくて良かった」
ウッドロウと呼ばれた男が落ち着いた笑みを浮かべて答える。肩にかかるほどの銀髪が、長身のまとう濃い藍色によく映えていた。スタンよりも歳は上だろう。呼び名ももちろんだが、チェルシーと兄妹と言うには歳が離れすぎているし、容姿にも似通ったところが見られない。
「凍傷はなかったと思うが、痛みなどはないかね?」
「ええと……はい、大丈夫みたいです」
「そうか。チェルシー」
「あ、はい、わかりました!」
そのウッドロウが廊下の奥を目で指して、チェルシーに何事かを言いつける。彼女はぱっと顔を輝かすと、ぱたぱたと足音を立てて、部屋の外に消えた。しばらくして戻ってきたときには、湯気を立てるココアを大事そうに持っていた。
「はい、どうぞ。熱いので気をつけてくださいね」
「あ、ありがとう」
受け取った、しっかり熱を持ったカップが痛いくらい熱い。
「君を見つけた時は少し体温が下がり始めていたが、もう大丈夫のようだな。今日はゆっくり休んでいきたまえ。明日、ジェノスまで送ろう」
「ありがとうございます。──あ」
話を終えたウッドロウが立ち上がって、その背後の机に置かれていた、折り畳まれた青い外套とその上の紅い剣、ディムロスがスタンの視界に入った。
「ああ、それはスタン君の物だろう」
「はい。……あれ? 俺、名前、言いましたっけ?」
そういえばとスタンとチェルシーは思わず顔を見合わせたが、ウッドロウは小さく笑うだけだった。
「さて、どうだったかな」
ふとスタンは、視線を再び紅い剣へ向ける。
あれだけ聞こえていた彼の声も、意識を失う寸前まであれだけ鮮やかに聞こえていた声も、今は何も聞こえない。
だが意識を澄ませば、火種のように輝く灯りを感じられる。あの瞬間、何かが流れ込んできた、自分であって自分でない奥底に。
「良い剣だな」
「ディムロス、ですか?」
その視線を追いかけてきたウッドロウを、スタンが見上げる。
「スタン君にとって、非常に大きな意味を持つことになるだろう。君の運命そのものと言えるかもしれない」
「俺の……?」
「機会があれば、彼に聞いてみるといい」
深い笑みを湛えて、彼は言った。
しかし、ディムロスは黙したまま、何も語ろうとはしなかった。
昨日の朝発ったジェノスに、夕刻になった今、戻ってきた。
昨日は大勢の人といたが、今は独りだけ。いや。
「なあ、何で山小屋ではずっと黙ってたんだ?」
街の外壁沿いに生えている大きな樹の陰で、スタンはディムロスに話しかけた。用事があるついでだからとここまで送ってくれたウッドロウとは、すでに街の入り口で別れている。
『あの男、どうやら私に気づいていたようだったな』
「ん? ああ、そうみたいだったけど、それがどうかしたのか?」
『……ところで普通の人間に私の声は聞こえないからな。あまり堂々と私と会話していると、危ない奴に見えるぞ』
スタンの問いには答えぬまま、さらりと別のことを言ってきた。
「なっ! そういうことは先に言えっての!」
慌てて樹のさらに陰に隠れ、声も小さく潜めてから、たっぷり非難を込めてスタンは言い返す。
『今まではそれどころではなかっただろうが。というわけで、私の存在を他人には知られないよう気をつけておけ』
「なぁにが、というわけなんだよ……」
剣のくせに無茶苦茶で強引な話の展開をするものだと、思わずスタンは憮然とする。
『細かいことは気にするな。おまえだって、わざわざ余計なトラブルを呼び込みたくないだろう。そんなことよりスタン。おまえ、これからどうするつもりだ?』
「……どうしよう」
幾分複雑なものが混じった表情で、ぽつりと呟く。
まだ帰れない。まだ何も果たせていない。帰るべきなのかもしれない。だが、帰って次があるとも知れない。だったら。
「なら、あたしたちと行かない?」
その途端、不意に背後から掛けられた声は、スタンの聞き覚えがある声だった。もしやと思って振り返ると、そこにはやはり二人組の女性の姿。
「君は……ルーティ、だっけ。それと」
「マリーだ」
ルーティは満足げに一度頷いて、続ける。
「やっぱり生きてたんだ。しかもまさか、マスターだったとはねえ」
「マスター?」
「だってそれ、ソーディアンでしょ? あ、あたしには隠さなくっていいわよー、さっきまでの話は全部立ち聞きしてたから」
ディムロスを指さし、笑いながらルーティが言う。
「ソーディアンの使い手のことを、ソーディアンマスターって言うのよ。あんた、そんなことも知らないの?」
「まだ、なりたてなんだよ」
少し小馬鹿にしたようなルーティに、スタンも少しむっとなる。
「なりたてって……ん? そういえば昨日、あたしたちといた時は普通の剣だったっけ。ということは、あたしたちと別れた後に」
そこまで考えを口に出したところで、ルーティの顔色がさっと変わった。彼女の思い至ったことは、想像に難くない。
「二人も無事で良かったよ。もう駄目だと思ってたんだ。俺を助けてくれた人も、誰も見つからなかったって言ってたし」
作り物めいたスタンの淡い笑みからルーティが咄嗟に目を背け、揺れそうになった声を無理やり抑え込む。
「――か、勝手に殺さないでよね。気づいてなかったんじゃなきゃ、あたしたちを置き去りにしてくれたこと、締めてたわよ」
「うん、ごめん」
憎まれ口に対して素直に返された謝罪に、さらに何かを言いかけたルーティはしかし苦い顔で口を噤んだ。
『ごめんなさいね。本当なら私たちがお礼を言わなきゃいけないくらいなのに。ルーティも後悔するくらいなら、もう少し言葉に気をつけたらどう』
「後悔って何よ!」
弾かれたようにルーティが、自分の腰の辺りに向かって怒鳴った。そこには彼女の剣が差してある。
『その声……まさか、アトワイトか?』
つとディムロスが驚愕に染まった声で口を挟む。
『ええ。お久しぶりね、ディムロス』
その声に答えて、やわらかな女性の声が再び響いた。問いかけるようなスタンの視線に、ルーティは腰に帯びていた剣を忌々しげに指し示す。彼女の曲刀が、この声の主であるソーディアンらしい。
『おまえも、この時代で新たなマスターを得ていたとはな……』
『それはお互い様。私もまさか、あなたとこんなところで再会できるなんて思ってなかったもの』
「あーらアトワイトさん、何だかとっても嬉しそうですけど、もしかして、そういう御関係ってわけ?」
にまりと意地の悪い笑みを浮かべたルーティが、アトワイトを持ち上げて刃の根元にある銀色の丸みを小突いた。
『あなたね……何、莫迦なこと言ってるの。初めて昔の仲間に再会できたんだから、嬉しいに決まってるでしょ。ばらばらに封印されていたソーディアンが、たまたま同じ時代にマスターを得て、しかも出会う確率なんて、どれだけ低いと思ってるの』
「はいはい、わかったわかったから。運命的な再会ってわけね」
『何か引っかかるわね……』
「伝説の超兵器様が細かいこと気にしないの」
一転して機嫌良く笑って、ルーティがぱっとスタンの手を取った。
「まあそういうわけで、アトワイトもこう言ってることだし、あたしたちと一緒に来る気、ない? 馬車であんたダリルシェイドに行くって言ってたけど、あたしたちも寄り道した後はそのつもりだったのよ。急ぐ旅っていうんじゃないなら、一人より組んでる方が何かと便利でしょ」
「スタン、一緒に行こう。旅は大勢の方が楽しいぞ」
ソーディアンが交じった会話の間は不思議そうな顔をしていたマリーも、重ねて誘ってきた。
「……いいのか?」
目を瞠るスタンを脈有りと踏んでか、ルーティが明るい笑みを強める。
「誘ってるのはこっちよ? それとも何、このあたしのお誘いを断ろうっての?」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、でも迷惑じゃないか?」
「んー、剣の腕も悪くないみたいだし、しかもソーディアンマスターなら足手纏いになりそうでもなし。それにね、女二人、それもこーんな美人な女が二人だけってのは、何かと面倒なこともあんのよ。そういうとこ、お互い様で利用しあうって感じでさ。ほら、あたしってば、か弱い美少女だしー」
『か弱い美少女、ねえ』
「うっさい年増」
『誰が年増よ』
「ええー、お姉様ってガラ? うっそマジ?」
『違うでしょ!』
小気味よいルーティとアトワイトのやり合いに、スタンは思わず吹き出した。おそらく彼女たちは長いつきあいなのだろう。
「わかった。一緒に行こう。俺もこのまま帰るってのも、な」
ずっと、ダリルシェイドへ行きたかった。
「いいだろ、ディムロス?」
『…………』
「ディムロス?」
無言のままのディムロスに、スタンが怪訝そうにもう一度呼びかけた。
『――あ、ああ、私は別に反対する理由もない。おまえのしたいようにすればいい』
「どうしたんだよ?」
『大したことではない。気にするな』
「そう。じゃあ、決まりね!」
ルーティが明るく言い放った。
真っ暗な通路を、小さな灯りが三つ揺れ動く。
「……こんな遺跡なんか来て、そもそもルーティの目的って、何?」
雪山に半ば埋もれかけているこの遺跡は、雪の重さに潰れる気配もなく建造物としての形を保っているが、かなり古い時代の物だ。
「お金よ、お・か・ね。それも、はした金じゃなくって大金♪」
「金の亡者っての、本当みたいだな」
ルーティの踊るような声に、苦笑しつつスタンは肩を竦める。
『そうなのよね。お金のためなら、かなり危ない橋も渡ってるみたいなの。くれぐれも気をつけてね、スタン君。後悔は、したときにはもう遅いのよ』
「アトワイト! で、そういうあんたは?」
スタンよりも背の低いルーティは自然、上向き加減になる。覗き込まれるような感じになって、思わずスタンは視線を彷徨うようにそらしてから、口を開いた。
「俺? そうだなあ、ダリルシェイドに行ってみたかったから、かな……でも、外に出てみたかったっていうのが一番かもしれない」
「ふうん、外にねえ……ねえ、あんたって何処から来たの?」
「ああ、リーネ」
「何処それ」
「ロ――フィッツガルドの北の方にある村」
一瞬の間、そして。
「何だ……ただの田舎者か」
たった一言、冷たく言い放たれた。
「――なっ、なんだよ、それ!?」
「ちょっと! いきなり大声出さないでよ! 響いてうるさいったらありゃしない!」
山の中腹辺りの斜面に半ば埋もれた、全面が石造りになっている細長い通路だ。構造上、内側の反響は凄まじいものがある。
「それに! フィッツガルドなんて栄えてんのは南のノイシュタットだけじゃない。ほーら、やっぱり田舎者よ」
「じゃあ、そういうルーティは? 何処の出身なのさ?」
勝ち誇ったように続けるルーティに、さすがにむっとしたスタンは多少棘のある声で問い返す。と。
「え? あたしは」
ルーティの松明がぐらりと揺れる。
「あ、あたしは由緒正しきセインガルド生まれよ!」
『何を慌てているのかしら、ルーティったら』
「黙っててよアトワイト! どうでもいいでしょ、そんなこと!」
『うるさいと言った本人が一番の大声だな』
「そうだな」
「そこも! 黙んなさい!」
ルーティは空いている手を勢いよく突きつけてくるが、スタンは取り合わず殿を務めていたマリーを振り返った。
「マリーさんは? どうして旅をしてるんですか?」
「私か? 私は……実は、私は名前以外、何も覚えていないのだ。今の私は、ルーティと出会ってからの記憶がすべてでな。だからある意味、自分捜しの旅と言えるかな」
「そうなんですか!?」
「なくした記憶の、唯一の手がかりがこの剣なのだ。気がついたとき、私が持っていた、ただ一つの物だから」
自分の大剣の柄に手を添え、彫り込まれた紋章をスタンに見えるよう軽く持ち上げると、マリーは遠くを見るように目を細めた。
「すみません。俺、変なこと訊いちゃったみたいで……」
気まずげに項垂れたスタンに、しかしマリーは緩やかに笑う。
「気にしなくていい。私は気にしてない。それに、記憶喪失というのも案外楽しいものだぞ。なにしろ、見るもの、聞くもの、行くところ、すべてが新鮮に感じられる。スタンも一度なってみればわかる」
「え、それは――あの、遠慮しときます……」
どう返せばいいのかわからず、スタンが戸惑うと。
「ふふふ、それが賢明だろうな」
冗談だとマリーは付け加えた。
「何もないみたいね」
奥の広間まで出て、ぐるりと周囲を見回したルーティがつまらなそうに呟いた。
どういう仕掛けはわからないが、この部屋は壁自体が薄く光を放っていて、晴れた夜のような、ほのかな光が満ちている。視界良好とはいえないが、だだっ広いこの真四角の広間に何もないことは、一目瞭然だった。
「そうだな……」
つとスタンは奥の壁に歩み寄って、うっすらとついた埃を払い落とした。
「何やってるのよ?」
「いや、なんか彫ってあるのが見えたから」
視線は壁のままに答えて、スタンは払った部分に指を這わせる。人為的な刻印が薄明かりにも見て取れた。
『おまえ、こんなものに興味あるのか?』
「俺は……別に、そんなんじゃないよ。そういうのは父さんの方で。まあ、本とか、ちょっと覗いたりしたことはあるけど」
父さんのようにこの道に生きようとは思わないな、と呟く。
「あ、本当、何か彫ってある。これ……何? 絵?」
同じように壁に張りついたルーティが、手を滑らせ怪訝に眉をひそめた。ただの傷にしては深く刻まれた、線のみで構成された小さな模様が、横に連なっている。
「絵っていうより……文字っぽくないか?」
『スタン君、当たり。この時代にはもう伝わってないんじゃない? 私たちの時代でも、ほとんど使われなくなっていた旧時代の文字ですもの』
「読める?」
そのまま何の気なしに訊ねてみる。
『えっと……、いつか――』
『いつか見た夢は終わりなき日々の終わりにしかなく、神の祝福とは呪詛である、心せよ、我が子供たち』
アトワイトのたどたどしい声に被さって、詩文めいたその文句を、ディムロスは滑らかに読み上げた。
『どうして修辞してある文をあなたがすらすら読めるわけ』
彼女の声が、多少不満げな色を帯びる。
『……別にいいだろう』
「神の祝福が呪詛って……どういう意味だ?」
『そこまではわからんな。この遺跡が、もともと何だったのか』
『とにかく、ここにはルーティの好む宝物はなさそうね』
「ええ! それじゃこの辺りのは全部スカだったってことじゃないの!」
ルーティは忌々しげに壁を蹴り飛ばす。目立った収穫がないまま早一ヶ月を浪費していると、道すがら愚痴っていたことからすれば当然だろうか。
「スタン、マリー、とっとと帰るわよ、もう!」
そのまま踵を返し、すたすたと広間を出ていこうとする。が、
「――誰か来る」
広間の中央辺りにさしかかった頃、マリーが低い声で制止を発する。
「え?」
立ち止まった二人の視線がマリーに集まった、そのとき。
「おい、貴様ら、ここで何をしている!?」
長く暗い回廊から男が三人、現れた。
「事と次第によっては、ただではおかんぞ!」
広間に出てくるなり大声で怒鳴りつけてきた男たちは、警戒も露わにこちらにじりじりと近づいてくる。と、ただでさえ不機嫌だったルーティが、じとりとした目で彼らを睨みつけると、腰に手を当てて胸を張りながら啖呵を切った。
「はん、あんたたち、人のお宝を横取りする野盗か何か? だったら、とっとと尻尾まいて帰んなさい。あんたらじゃ、あたしたちには勝てないわよ!」
「な、野盗だとっ!!」
小柄な少女でしかないルーティの挑発に、男たちが色めき立つ。
「ルーティ、そんな、わざと相手を怒らすような……」
「うっさいわよ!」
『八つ当たりね』
『だな』
宥めに入ったスタンもルーティは一蹴し、その手元でソーディアン二人が呆れたように囁き交わす。
「おい、女! 我々はセインガルド兵だ。野盗などではない。王国管理の遺跡に不法侵入した輩がいるとの通報があり、急ぎ駆けつけたのだが……どうやら貴様らのことのようだな」
「え、――ええっ?!」
先頭に立つ男の言葉に驚いたのはスタンだ。いや、スタンだけ、だった。
「ちょ、ちょっと、ルーティ! どういうことだよ!?」
マリーは、状況をわかっているのかわかっていないのか、のほほんと常の態度を崩さない。
「ねえ、スタン。あなた、知ってた?」
ルーティはあっさりとスタンの言葉を無視し、逆に問いかける。
「知ってるわけないだろ!」
場車内での会話を、やばいことはしないと取っていたのだから。
「あら、そう。ってことで、知らなかったのよ。だから、今回は許してほしいなぁ?」
両手を胸の前で組むと、ルーティは媚びるようにしなをつくってみせた。
『全っ然可愛くないわね』
またもこっそりと、アトワイトが冷めた声で吐き捨てる。
「知っていようがいまいが、とにかく一度我々と来てもらおうか」
問答無用とばかりに男の一人が言い放つと、ルーティは鬱陶しそうに眉をひそめ、自分の位置と男たちの位置、そしてそれぞれと出口との距離を目で測った。そして、押し殺した小声で囁いた。
「スタン、マリー」
「な、何?」
「逃げるわよ!」
高らかに叫ぶと同時にルーティはアトワイトを鞘ごと引き抜いて、リーダー格らしい男を思いっきり殴り飛ばす。
「た、隊長!」
そして、倒れてきた隊長に押し潰された部下は無視し、一気に広間の出口に走った。
「ル、ルーティ!」
慌てて追いかけるスタンと、よく似た事態は何度かあったのだろう、慣れたものといった様子のマリーが後に続く。
「早く追いかけんか!」
広間を出る直前、足を止めたルーティがくるりと振り返ると、殴られた男が激高し、自分が下敷きにした部下をどやしている滑稽な様が目に留まった。
してやったりとばかりに、にまりとした笑みが口元に浮かぶ。
「じゃあねぇ♪」
そして小馬鹿にしたように手をひらひらさせて、追いついてきた二人と共に回廊へ飛び込んだ。
「残念だが、ここは通さんぞ!」
しかし回廊に出た途端、後ろの男たちと同じ格好をした兵士五人に行く手を阻まれてしまった。
回廊はたいして広いわけではなく、大の男が五人も横に並べば通り抜けることは難しい。
「げ、待ち伏せ」
前の兵士に押し戻される形で、三人は広間に後ずさる。
「どうすんだよ、挟まれたぞ! それに、これはどういう事なんだよ!?」
『もう、仕方ないわね』
頭を抱えるスタンの横で、アトワイトがあっさりと諦めの嘆息をこぼし。
『覚悟を決めるしかないな』
続けて、ディムロスが飄々と言い放ち。
「こうなったら強行突破! 行っちゃえ!」
「さあ、来るなら来い!」
「……ごめんなリリス。俺、もう家に帰れないかもしれない」
話が勝手にまとまってしまった横で、いっそ泣きたい気持ちすら覚えながら、やっとスタンも覚悟を決めた。
三人がそれぞれ剣を抜いたのを見て、前と後ろの兵士七人も抜刀する。
「抵抗するというのであれば、痛い目を見ることになるぞ」
一人だけ抜刀しなかった、頬に痣が浮かんできた隊長のお喋りの途中で、スタンとルーティが前に、マリーが後ろに飛び込む。それを見て慌てて兵士たちが身構えるが、既に遅く、勝負は一瞬で片づいてしまった。ルーティよりも早く駆け込んだスタンが兵士四人を素早くディムロスの石突きで打ちのめし、マリーも同様にして三人を叩き伏せたのだ。
「やるじゃない!」
いったんディムロスを下げて息を一つ吐いたスタンに、ルーティが弾んだ声を上げた。
「まあ、実際に通用するかはともかく、結構鍛えられてたからな」
スタンは答えて、モンスター相手ならともかく人間相手の実戦経験はなかったので不安はあったが、この分なら何とかなりそうだと小さく安堵をこぼした。
「ええい、何をやってるんだ! 相手はたかが三人だろうに!」
あまりにも情けない惨状に、一人起きている隊長が地団駄を踏んでいるが、もう立て直せるような状況ではない。
「あれはどうする?」
「ここでお寝んねしといてもらいましょっか」
マリーの問いにルーティが肩を竦めた、そのとき。
「国軍の兵ともあろうものが、情けない」
外から呆れた声が響く。まだ若いだろう男の声だ。次いで、広間に溢れる淡い光の中へ滲み出るように、声の主が現れた。
淡紫色のマントを肩から流した少年は、辺りの様子を一瞥すると短く嘆息をこぼす。
まだいくらかの幼さを残した顔立ちながらも、長めの黒髪に見え隠れする、切れ上がった紫の瞳はひどく冷ややかだ。まだ身長が伸びきっていないらしい小柄な体格を包んでいるのは軍服とは異なっているため国軍の兵士ではないようだが、この状況で通りすがりということもないだろう。
「何よ、また新手?」
ルーティが苦々しく呟く。
「マグナス様! な、何故こちらに!?」
『……何?』
『あら』
ソーディアン二人が不意に、顔を見合わせたかのように小さく声を囁き交わした。
「別件だ。だが、これも捨て置けんな。――おい、いつまで寝ているつもりだ。とっとと起きろ。邪魔だ」
少年の言葉に、当たり所がよかったらしい者が数人、慌ててまだ目を回している仲間を引きずって脇に寄せる。スタンやルーティよりも年下にしか見えないこの少年の方が、彼ら兵士よりも地位が上らしい。少年は兵士たちに一瞥も暮れず、尊大な態度でスタンたちを見据えた。
「国軍に反抗する馬鹿どもが。大人しくするというのなら、わざわざ手荒な真似をするつもりはないが」
「ふん、ガキは引っ込んでなさいよ」
不愉快そうに目を眇めると、低めた声音でルーティが吐き捨てた。少年の見下した態度が気に障ったのだ。だが、その彼女の態度に、少年も同じものを感じたらしい。
「警告に従わないというのなら、それでも構わない」
冷淡に言い放って少年が、腰にはいていた曲剣を左手で抜き放つ。そして、薄刃の切っ先を三人の方へまっすぐ突きつけた。
「実力に訴える」
淡い光を、曇りない刀身が弾いた。