その石に、はっきりとその名前が刻まれていたわけではなかった。
 夜が明けたばかりの朝靄の中、静まり返った墓地にそれを見つけ出して、ユーリは思わず足を止めた。その横をすり抜け一足先に駆け寄ったラピードが、咥えた煙管の先でこつりと石を小突く。
「ああ。──こいつか」
 ちらりとだけ振り返ったラピードが何も言わず石の傍らに腰を下ろしたので、残っていた中途半端な距離を詰めてユーリも、彼が空けてくれた石の前に片膝をついた。
 その飾り気のない石に刻まれていたのは、探していた名前ではなく、四年前を示す年数と一つの紋様だった。紋様はまるでギルドのマークのようだが、そうではないと知っている。
 何故ならこの石は。この墓碑は。
「今更、墓参りできるなんてな」
 思ってもいなかった。呟けば、苦笑が滲んだ。
 あの頃から四年も経った。いろいろあった。ありすぎた。
 ふと目を落とせば、墓前には百合が一輪だけ供えられていた。真っ白なその花はまだ瑞々しく新しく、どうやら先客がいたらしい。いや、その言い方は正しくないかもしれない。息を吐くように小さく笑って、ユーリは墓碑に向ける苦笑を強めた。
「俺はやっぱり騎士団を出ちまったけど、フレンの奴、とうとう団長まで昇り詰めたんだぜ。それに強い味方ってのも出来た」
 騎士団長となる彼だけでなく、もうじき皇帝に即位するヨーデルも、副帝に就くエステルもいる。トップが変わればすぐさま生まれ変われるほど帝国の抱える歪みは容易くないだろうが、すべてが今すぐにまったく良い形へ変わらなくても、少しずつでも良い方へ変わり続けていけばいい。強大な力をもって支配することで世界を思うまま造りかえようとしたアレクセイは、その妄執によって破滅した。
「あいつらならきっと、あんたが言ってた流れってのを作ってくれる」
 だから。
 くしゃりと紙切れを握りつぶす音が、手のひらからこぼれ落ちる。
「だから変なもんに躓いたりしないように、フレンたちのこと見守ってやってくれよな」
 物言わぬ冷たい石を見つめたままユーリは、小さく小さくささやいた。
 刹那、石畳に散った土をざらりと踏みにじる音がした。
「まるで他人事のように言うのだな」
「他人事だろ。政治なんざ俺の出る幕じゃねえし」
 低く響いた女の声を肩越しに振り返り、ユーリが口の端をゆるくつり上げる。
「意外なところで会ったな」
「あの方の使いだ。──あなたを待っていた」
 墓地の果てに並ぶ木々の狭間に立って、ソディアはひどく静かに告げた。その声にもユーリをまっすぐ見る眼差しにも、怯えるような気配はすっかり消え失せていて、しかし居直ったと言うほどふてぶてしくもない。
 ああ、吹っ切ったのか。立ち上がりながらユーリは、わずかに目を細めた。
 遠くから、鐘の音が聞こえた。



 いくつもの鐘が鳴る。朝一番の、開門の合図だ。







誰がために鐘は鳴る
Ring A Bell







「あなたにはこっち」
 依頼主に会うため久しぶりに帝都ザーフィアスへ戻ってきた夜、翌日の予定を訊ねたユーリにジュディスが微笑み差し出したのは、折りたたまれただけの紙切れだった。
 開いてみれば、書き付けられていたのは共同墓地の一区画を示す地図だった。しかもそこには親友の筆跡で、ひどく懐かしい名前が一つ、添えられてあって。
「お、おい」
「明日の朝、明けの鐘までにですって」
 慌てるユーリに取り合うことなく言伝だけを返した彼女の声はやわらかだったが、綺麗すぎて底知れぬ笑顔には静かな圧力がこめられていた。
「ジュディ?」
「あなたもたまには、重責を背負って立つ親友の愚痴の一つくらい聞いてあげてもいいと思うの」
 それじゃ、おやすみなさい。言ってジュディスは、何か言い返す間を与えることなく、ユーリにするりと背を向けてしまったのだ。
 だから。
「あいつが来るのかと思った」
 握り潰した地図を軽く手のひらで弄びながらユーリがうそぶけば、墓を一瞥したソディアからは呆れたような苦笑が返ってきた。
「ここで立ち話をするわけにもいくまい。時間はあるのだろう?」
「まあな。回りくどい招待状を戴いたせいで、昼まで休暇をもらっちまったよ」
 依頼主との面会とかで、カロルとジュディスもこんな早朝から出ている。今日の昼前には戻る予定らしいが、久しぶりの帝都なんだからゆっくり話してこいと、仕事の話は何も教えてもらえなかったのだ。
「案内する」
 言って墓地の出口に向かって歩き出したソディアが、しかしすれ違いざまユーリの目の前で足を止めた。
「あの方も呆れておられた。下町の井戸が完成してすぐ何も言わず姿を消して、そのまま二ヶ月も音沙汰なしなんて」
 ごく小さくひそめられた彼女の声は、咎めるような響きを帯びていた。
「今日もこれくらいしなければ、顔を見せる気もなかったのではないか?」
「お忙しいところを邪魔しちゃ悪いしな。それにこの二ヶ月だって、こっちもギルドをユニオンに通したり向こうを手伝ったり、いろいろ忙しかったんだぜ。うちの優秀な首領に全部押しつけたら可哀想だろ」
「その間に、こちらもいろいろあった」
「らしいな」
「ラゴウの裁判もやり直された」
 早口でささやかれ、ユーリがわずかに目を瞠る。
「大量の証拠を積み上げられたこともあって、評議会も黙らざるをえなくなった。今度こそ然るべき判決が下された」
「……そっか」
 ゆっくり目を閉じて、ほうと息を吐く。
 あの日には出来なかったことが、今は出来るようになったのだ。フレンはそれだけの力を手に入れつつある。
「あいつもしっかり頑張ってんだな」
 なあラピード。傍らの相棒に振れば、彼は満足げにワンと一声吠えて応えた。
 そしてユーリは歩き出す前に一度だけ、名前のない墓を振り返った。



 あの頃、目の前には理不尽ばかりあって、その何もかもに自分たちは無力だった。
 必死に伸ばした手が握り返されることはなく、必死に訴えた言葉は踏みにじられた。
 助けられなかった。
 それどころか、守られていた。
 何も出来ず、守られているだけだった。
 そして閉ざされた扉の外に追いやられた自分たちは、終わりを見届けることすら叶わなかった。



 それも、これで終わる。



 夜明けの鐘と同時にザーフィアスの市民街では、大通りの朝市が一気に賑わい始める。
 鐘の音が貴族街と市民街、市民街と下町をそれぞれ隔てている城壁の、開門の合図だからだ。閉門後の深夜であっても別に通用門があるので人間は通り抜けられるが、馬車などが城壁を越えることは出来なくなる。例外は緊急時における騎士団くらいのものであろう。故に朝の開門には、昨夜の閉門に間に合わなかった馬車が一気に流れ込む。物の行き来が増えた近頃は、どの街も馬車が増えた。だが帝都は、それにも増して。
「前より人が増えたか?」
 貴族街に通じる大階段から高架下の朝市を振り返って、ユーリは前を歩くソディアに声を投げた。
「ああ、今は建築関係の人員が結構な規模で入っているはずだ。東の河口で港の建設が始まったから」
「そりゃ初耳だな」
 彼女の答えにユーリは軽く視線を巡らせた。昨夜は到着が遅かったので下町の近況もまだ詳しくは聞けていなかったのだが、言われてみれば往来にはよく日に焼けた職人風の男が多く見かけられる。
「ヘリオードの南に出来た仮設の港から木材を運び出して、帝都とオルニオンの近くに新しく大きな港を造る計画だぞ。騎士団とユニオン合同で行われている大事業なのに、本当に聞いたことがないのか」
「あー、それならオルニオンのは知ってる。入り江に造るって話だろ」
 今まではシルトブラスティアの有無によって難しいとされていた様々なことが、ブラスティアが失われてからは活発に行われるようになった。今回の計画もそういった一つだ。周辺都市含め多くの住民を抱える帝都としても、世界規模で物資の流通を取り仕切っているギルド・ド・マルシェとしても、大型の貨物船を着けられるザーフィアス最寄りの港がカプワ・ノールしかないのは問題だったのだ。これまで大きな都市がなかったために港湾設備が整っていないヒピオニア大陸の、オルニオンについては言うまでもない。
「しっかし次から次へとよくやるよな。帝国はもっと腰が重たいもんだと思ってたが」
 ほんの少し前まで帝国もギルドも、水道や焜炉、照明など都市生活で必須の諸設備を、機能停止したブラスティアから原始的な代替技術へ切り替えるために大忙しだったはずだ。それでなくても、愚にもつかぬことを延々と言いあって時間を浪費しながら、自身の権益を確保する隙をうかがっているのが評議会の連中だと思っていた。
 貴族街への門をくぐり、城を見上げながら感嘆を込めてユーリが呟けば、ソディアが嘆息まじりの苦笑いをこぼした。
「おかげで睨まれっぱなしだ。城内では息が詰まって仕方がない。──ここだ」
 言って彼女が立ち止まったのは、城門のすぐ側に建てられた屋敷の前だった。
 基本的に貴族街では、地位が高い貴族ほど中心にあるザーフィアス城に近い土地を所有する。その意味では外輪に面したここは最も低い土地の一つになるのだが、ここはザーフィアス城正門前に続く通りに面しているので、騎士の家系がよく家を持っている区画だ。
 何より。
「なんだよ、ブラスティア泥棒の家じゃねえか」
 ユーリは屋敷を見やって目を眇める。
 モルディオの名を騙って下町から水道ブラスティアを盗んだ、あの男を追いかけて最初に辿り着いた屋敷だ。もう一つ言えば、庭に鎮座する石像の下にはザーフィアス城内へ通じる隠し通路まであるような、とんでもない屋敷でもあるが。
「泥棒の屋敷のわけがあるか」
 呆れた声で言いながらソディアは大きく扉を開いてユーリたちを中へ招き入れると、すぐさま鍵を掛けた。
「ここは昔、レギン皇弟殿下が踏査団の本部としてお使いだった屋敷だ。確かに殿下が薨去なされて以降は使われていなかったので、最低限の手入れしかされていなかったが」
「空き家同然だったってか」
 それを一瞥して、ユーリはホールの奥にある階段を振り返った。絨毯が飲み込みきれない足音がかすかに聞こえたのだ。果たしてその先にいたのは。
「おかげで思いっきり悪用されてたぞ」
「ですが、そのおかげであなたとエステリーゼがここの抜け道を使えたのですから、見逃してください」
 ユーリの皮肉に応えて、階段を下りてきたヨーデルが悪びれず言い放つ。
「それに今は、ちゃんと私の秘密基地です」
 悪戯めいた笑みを含ませ、内緒話でもするように潜めた声で。
 一瞬ユーリは目をまたたくと、口の端でにやりと笑みを刻んだ。
「んじゃ仕方ねえな。未来の皇帝陛下直々のお願いを聞いてやるのも悪かねえ」
「ありがとうございます」
 嬉しそうに言ってヨーデルは、いつものようにやわらかに微笑んだ。
「話もついたところで、すっかり順序が逆になってしまいましたが、おはようございます、ユーリさん。お元気そうで何よりです。いきなりザーフィアスからいなくなって、フレンがふさぎ込んでいましたよ」
「またそれかよ」
 そのことを言われるのは今日だけでソディアに続いて二度目だ。さすがに苦笑がこぼれる。
「さすがに見ていて可哀想になったので、ああいうのはなしにしてあげてください」
「考えとく」
「お願いします。そんなわけでフレンも今頃は部屋で待ちかねているでしょうし、あまり私がここで引き止めても悪いので、後で少しお時間をいただけませんか? とっておきのケーキを用意してありますので、軽くお茶でもしながらお話ししたいことがあるのですが」
「そりゃ構わねえけど……俺に話? あんたが?」
 延び延びになっていた即位の式典が近づいて、ヨーデルは多忙を極めていると少し前にエステルから聞いた覚えがある。そんな状況で、直接にはほとんど交流のないユーリに何の用があるというのか。
「ええ。私が、ユーリさんにです。怖い話ではありませんよ」
「そうあってほしいな」
「フレンも同席しますから、ご安心ください」
 ヨーデルはおっとりと笑みを浮かべ、一歩後ろに下がる。そしてユーリの背後に控えていたソディアに向けて、話は終わったとばかりに頷いてみせた。それにソディアは深々と敬礼を返す。
「失礼いたします。──ではユーリ殿、こちらへ」
 まっすぐ伸びた廊下を足早に奥へ進み、彼女は一番手前にあるドアを開いた。



 その室内は、普通の執務室の造りをしていた。
 右手側の壁には書棚が並び、中央手前には簡易の応接セット、奥には大きな平机が居座っている。そしてその机に肘をついて頭を抱えて眉間に皺を寄せて、手にした書類を睨みつけているフレンの姿があった。邪魔な鎧は着込んでおらず、鎧下だけの軽装だ。
 ぱたり。ユーリとラピードの後ろで、乾いた音を立てて部屋の扉が閉まる。その音に気づいたフレンが顔を上げ、難しい表情をほっとしたものに緩めた。
「ユーリ!」
「フレン様。ユーリ殿をお連れしました」
「ありがとう、ソディア」
 軽く手を挙げて応えるフレンにソディアは一礼すると、そのまま閉じたドアの前で護衛のように直立の姿勢を取った。
 一方フレンは机を回り込んで前に出てくると、ラピードに手を伸ばす。
「二ヶ月ぶりかな。来てくれて嬉しいよ。ラピードも元気にしていたかい」
「よう。おまえはこんな朝っぱらから忙しそうだな。俺なんかに構ってていいのかよ」
「昼までには戻るから大丈夫。緊急時には連絡が付くように手配もしてあるしね」
 ラピードを少し荒っぽく撫でながら、少しくらい息抜きしたいんだよとフレンが笑う。
 貴族達に睨まれて城内では息苦しいと、あの生真面目なソディアさえこぼしたのだ。騎士団内部にも貴族は少なくない。騎士団長として前に立たねばならないフレンの苦労も、生半可なものではないのだろう。
「ここにはよく来てんのか?」
 言いながらユーリは室内を見回す。
 右側の書棚には綴じただけの書類の束から立派な装丁の学術書や図鑑までが詰め込まれ、左側の壁には一面に何枚もの地図が貼り付けられている。世界地図だけでなく各大陸、地域ごとの地図や海図まで、その種類は様々だ。冒険王の異名を持つレギンが存命中に使っていた屋敷の一つらしいが、ここにはその当時の面影が残っているのだろうか。外の匂いが強く染みついていた。
 カロルあたりなら目を輝かせるかもしれない。そんな念が脳裏をよぎった。
「あまり頻繁には城を抜け出せないよ」
「あの墓には」
「僕は行けない」
 フレンはほろ苦い笑みを滲ませ、やんわりと首を振った。
 予想はしていたことだった。あの名前は、四年前から禁忌になってしまった。あの墓碑に名前そのものが刻まれていなくても、やはり騎士団長になるフレンが近づくことは難しいはずだ。
「どうだった」
「綺麗にしてあった」
「そうか。僕も行きたいけど、今は僕の分もユーリに行ってもらうしかなくて残念だな」
「任せとけ。晴れて騎士団長になったフレンが変な奴らに足下すくわれねえよう見ててやってくれって、ちゃんと頼んどいた」
 ユーリがにやりと笑ってささやくと、フレンは困ったように苦笑を強めた。
「ありがとう。あの人に迷惑かけないためにも、足下にはよく気をつけることにする」
 そうしていい加減立ちっぱなしもなんだからとユーリにすぐ傍のソファを勧めた。それに軽く片手で応えて、ふとユーリは気になっていたことを思い出す。
「ああ。そういや何処から見つけたんだ、あの場所?」
「それならドレイク殿が……団長就任の祝儀代わりだって、突然」
 ちゃんと内密にだけど。向かいのソファに腰掛けながら答えたフレンの声は、もはやクセなのか不必要に潜められていた。
「おいおい、まさか全部ご存知ってか……?」
「かもね。時間がなくてあまり詳しくは聞けなかったんだが、あの墓を建てたのは、あの人の昔の同僚らしい」
 あのじじい。ユーリは憮然と眉をひそめ、どかりと座り込む。
 言われてみればドレイクは、騎士団在籍当時のユーリのことを覚えているような節があった。下町出身で在籍期間も短く、さらにはトラブルばかり起こしていたような小僧のことを、何故か。その時はフレンやエステルのせいだろうと深く考えることなく片付けていたが、そもそもエステルの剣の師を務めたりなど皇族と縁の深い騎士ならば、もしかするのかもしれない。
 二人が座ったのを見てか隣に悠々と伏したラピードに目を向けて、小さく息をついた。
「ま、ここで言ってもどうにもならねえか」
「そのうち機会があったら聞き出してみてくれ」
「そうだな」
 今はオルニオンに居を構えているドレイクには、ユーリの方がまみえる機会もあるだろう。
 これでその話は終わりだとばかりに、フレンが声の調子を戻した。
「それでユーリは、あれからずっとダングレストにいたのかい?」
「ちょいちょい仕事で出たりはあったけどな。うちのギルドもようやく落ち着いたところだ」
「向こうに戻るんなら一言くらい言ってほしかったよ」
「あー、悪かったって。さっき天然殿下にも釘差されてきたんだよ、フレンが腐ってたってな」
「親友にあんな扱いされたら腐りたくもなるさ」
「胸張って言うことかよ騎士団長様が」
「ユーリがひどいんだよ。こっちは味方が少なくて本当に辛いのに」
 ぼやくようにフレンが言う。
「まだ、状況は良くないのか」
「ぎりぎりかな。レイヴン殿の口添えのおかげもあってシュヴァーン隊の人たちがいろいろと良くしてくれてるから、騎士団はなんとか上手く回ってる。でも貴族とやりあうのにはあまり、頼るわけにはいかないから」
「政治やんのも大変だな。さっさと使える部下増やせよ」
「そうしたいのは山々だけど、信用できる人はなかなか見つからなくて」
「ま、そりゃそうだ」
 笑いながらユーリは、似たようなことをオルニオンでも言ったことを思い出す。
 あの時ユーリの仲間たちを羨むように話したフレンにも、入団当時の同期に気心の知れた友人はいる。だが異例の大出世を果たしたフレンと違って、その多くは小隊長にもなっておらず、政治とは無縁の職務だ。いきなり巻き込めるわけでもない。地位の隔たりへの気後れもあるだろう。
 ふと気づくと、じっと睨むように見つめられていた。
「……そんな見つめられても何にも出ねえぞ」
 その視線に妙な圧迫感を覚えて、逃げるように視線を外すとユーリは口の端に苦笑を浮かべた。と。
「せっかくだから、一回くらいは本気で冗談を言ってみようかと思って」
「おまえの冗談は笑えねえことが多いんだよなぁ……」
 不穏な気配を感じ取って、わざとらしく表情を歪めてみせる。
 しかし。
「なあ、ユーリ。騎士団に戻ってこないか」
 重々しさも軽々しさもない、平坦な声だった。
 けれど何の誤魔化しも利かない誘いの言葉でしかなくて、ユーリは額を抑えて呻く。
「本当に言いやがった……」
 冗談としてフレンがそれを口にすることは今までにもあった。帝都の下町で井戸を掘っていた頃は、慌ただしかったが顔を合わせる機会も多かったのだ。フレンにしても、一つところにとどまっていないレイヴンに繋ぎを付けるには、彼が一回りして帰ってくる場所で捕まえるのが手っ取り早かったという仕事上の名目もあった。そうしてユーリに進捗状況をぼやきながら、リタが設計しカロルが造った釣瓶のカラクリに感嘆のため息を落としながら、フレンは言うだけ無駄だと諦めきった独り言として、ありえないこととして言っていたのだ。
 だというのに。
「駄目もとで言えるくらい切羽詰まってるんだと解釈してくれ」
「だから開き直るなっつの」
 あまりにも捨て鉢な開き直り方に、強く文句を言う気も失せる。
 なのに言い出した方は、妙に強気だ。
「返事は」
「いや、まあ、……おまえにそこまで買ってもらってること自体は悪い気しねえよ」
 だが形はどうあれ、面と向かって本当に言われてしまったからには答えなければならない。
 少しの居心地の悪さを感じながら、ユーリは居住まいを正してフレンの目を見返す。そうして彼の目の下に、うっすら隈が出来ていることに気がついた。疲れているのだろう。あまりゆっくり眠れていないのかもしれない。
「あのエステルのお師匠さんからもそんなことを言われたような気がするし、騎士団長の責任なんて俺には想像もつかねえけど、とにかく尋常じゃねえってのは今のおまえを見てたら何となくわかった。でも俺は、騎士団には戻らない」
「その理由を、君の口から聞いておきたいんだ」
 それは少し奇妙な願いにも聞こえたが、ユーリを見るフレンの眼差しは真剣なものだった。
「変なこと言う奴だな。──まず俺の性にあわねえ」
「うん」
「それに騎士団だけじゃ、俺たちの夢も半分しか叶わねえだろ? おまえは帝国を変えることであの夢を目指して、俺は俺の場所であの夢を目指す。違う場所にいても、目指すものは同じってな。騎士団でおまえを手伝ってやることは出来ねえけど、外にいるから出来ることもあるさ」
 だいたい。
 続ける言葉を探しながら、潜めざるを得ない言葉が濁る。
「俺なんか取り立てて、もし貴族の奴らに余計なこと嗅ぎつけられでもしたら、おまえの立場が本気で洒落になんねえだろうが」
「ああ、君がラゴウとキュモールを殺したこと?」
「おいっ」
 ユーリがぎょっと目を瞠る。
 何の含みもなくフレンがあっさりと口にした、それは決して明かされてはいけない秘密だ。あの二人を殺害したのがユーリであることもだがそれ以上に、その真相をフレンが知っているということ。
 せっかくここまで昇り詰めた、フレンたちの足場はまだ出来たばかりで盤石のものとは言いがたい。
「心配しなくても、ここに余計な人間はいないよ。ヨーデル殿下の隠れ家なんだから。それに」
 言いさし、フレンはつと天井の方へ視線を彷徨わせた。
「そうか、ユーリはまだ知らないのか」
「何を」
「アレクセイの裁判結果」



「まあエステリーゼ様もわざわざご自分から話題にはなさらないだろうし、無理もないか」
 そう独り言ちてフレンが嘆息する。
「フレン?」
 どうしていきなり、アレクセイの話が出てくるのか。
 ユーリが問うように怪訝な顔を向けると、言葉を探すように彼はわずかに目を伏せた。
「ザウデから落ちた君が行方不明になっている間に、帝都ではアレクセイの騎士団法会議が開かれた。アレクセイ当人はザウデで死んだが、反逆行為や死亡に至る経緯の確認も含め、騎士団長から正式に解任する手続きとして必要だからだ」
「ああ」
「その過程でアレクセイとリヴァイアサンの爪は徹底的に調べられた。おかげで奴らが利用していたラゴウの所業も明らかになった」
「ラゴウの裁判もそれでやり直せたのか」
「そうだ。そっちは聞いていたんだな」
「ついさっきだけどな」
 少し笑ってみせると、フレンがゆっくりと目を閉じて、開いた。
「ユーリはラゴウを、ダングレストの橋の上で斬り捨てて、川に落としただろう」
「結果的にな。落とそうとして落としたわけじゃねえよ」
「おかしいと思わなかったか? あれだけの大きな罪を誤魔化せるほどの権力を持った貴族に、君が簡単に近づけて、殺せたこと」
「それは……まあでも、ダングレストだったしな」
「だからこそだ。ラゴウは騎士団とユニオンを潰しあわせようとして罠にはめたような男なんだ、ギルド側の怒りも半端じゃなかった。どんな報復があってもおかしくなかった。だからアレクセイの命令で騎士団の厳重な警護がついている──はずだった」
「んなもん俺は見てねえぞ」
 そのはずだった。だが事実は違う。
 片手で数えられる程度の、わずかな護衛の姿しかユーリは見ていない。
「そうなんだ。ユーリ一人でも騒ぎにならずに済んだ程度の警護しかいなかったことが、そもそもおかしいんだ。いつ襲われてもおかしくない街で、そんなわずかな供だけを連れて外に出るなんて、殺してくれと言っているようなものだろう」
「だがラゴウの奴は、それをしたな」
 こうして言われてみれば、あの夜の異常さはよくわかる。
 ユーリもあの橋の上でラゴウに出くわしたのは偶然だったが、騎士団のただ中に忍び込んで隙をうかがうまでもなく暗殺を行えたのは、あの状況があってこそだ。深夜でも厳重な警護に囲まれた屋内であれば、あんなにも容易く殺せなかっただろう。
 フレンは一つ肯いて、険しい表情で再び口を開いた。
「あの晩、リヴァイアサンの爪がラゴウを呼び出していた」
「赤目どもが?」
「リヴァイアサンの爪も、用済みになって、むしろ邪魔になってきたラゴウを始末する計画を立てていたんだよ」
 吐き出された息の重さは、ため息にも似ていた。
「ユーリはたまたまそこにかち合った。君が気づかなかったってことは、奴らは静観を選んだわけだ」
「そういうことか……」
 額を押さえてユーリは呻く。
 あの夜の自分が平静でいられたとは言えない。ラピードも連れていなかったので、あの暗殺者たちが完全に隠伏していたら、自分でその気配に気づくことは無理だろう。
「にしても、まるで見てきたように言うじゃねえか」
 つまり、それが出来るだけの証拠が手に入っているのだ。よほどの情報源を得られたらしい。
 するとフレンは、うっすらと苦笑いを滲ませた。
「イエガーが死んで、リヴァイアサンは急速に荒れていっているそうだね。特に暗殺業の方は酷いらしい」
「そうだな……あの野郎がいなくなってからは、すっかり何とかに刃物っつーか。最近はユニオンでも問題になってるぜ」
 リヴァイアサンの爪の崩壊に等しい惨状は、ちらりとだがユーリも目にしている。
 暗殺も結局それを利用する有力者があって成り立つ事業であり、殺戮そのものに酔っていたのはザギのような雇われのはぐれ者だけで、イエガーがいた頃はギルドの構成員が暴走することはなかったという。
 しかし今はすっかり組織としての理性と統率を失ってしまったのか、既にいくつもの過激な事件を起こしている。もはやギルドの掟が保たれているかさえも怪しく、そうなってしまってはギルドでも何でもない、ただの賊の群れだ。リヴァイアサンの爪の根城と距離が近いダングレストにとっては看過できない事態である。
「近いうちに討伐が掛かるんじゃねえかって噂もある」
「それなら僕も聞いてる。で、そうなることを予見していたのかイエガーが死んで間もなく、アレクセイが裏でやってきたことの情報と引き替えに、帝国の保護を願い出る者が現れた」
「そいつがネタ元ってわけか」
 得心がいったユーリの呟きに、フレンが曖昧な笑みのように、碧眼を細めた。
「ああ。リヴァイアサンの爪の幹部だった男だ。イエガーの腹心のようなポジションで、留守を預かることも多かったらしい。ただ、どうやらラゴウを殺したのが君であることを知っているのは、奴らの中でも限られたごく一部だったみたいだ。結果的にラゴウが死んだことには違いないからかな」
「そうなのか? イエガーは俺がやったって知ってたような口振りだったぜ」
「ギルドの首領だから当然イエガーは知っていただろうね。ラゴウを始末するはずだった暗殺者はイエガーに君のことを報告し、でもイエガーはその情報を形には残さなかった、のかな」
「残さなかった? どういう意味だ」
 するとフレンの視線がユーリを離れ、奥の机へと向けられた。
「帝国に保護を求めたその男は、自分と他少女二人の身の安全と罪の減免とを引き換えに、リヴァイアサンの爪が関わったすべての犯罪行為の証人となることを引き受け、物証としてリヴァイアサンの爪の活動記録を差し出した」
 読み上げるように言いながら、席を立ったフレンは机の上に置いてあった分厚い綴じ本を一冊取り上げる。
「これがその写しの一部だ。このとおり、計画書も実行後の報告書もことごとく揃っていた」
 そのまま手渡されたそれを、中を見て構わないと受け取ってユーリは適当に開く。分冊の後半らしく、内容はユーリも見知った事件が多かった。すべてを見渡した視点から、表と裏の事実が克明に記されている。
「ふーん、ご丁寧なこって」
 本人はふざけた言動ばかりだったが、彼もレイヴンと同様に道化の仮面を被っていたのだろうか。
 フレンの話では、この記録を持ち込んだ幹部当人のみならず、少女二人も取引の対象になっているとのことだが、おそらくはイエガーにくっついていたあの二人のことだろう。彼女らはあくまでイエガー個人を慕っていたようで、彼の死後はギルドを離れて二人だけで行動していた。あの救児院のこともあるので今後は帝国と接触することもあるかもしれないが、この分だと面倒事が発生することはなさそうだ。
「意外とマメな奴だったのな」
「そのおかげでこの記録が証拠として不足なく、書かれていることが事実であると公的にも認められたわけだ。でも」
 つとユーリから綴じ本を取り上げたフレンの手が、素早くページを進めていく。そうして見つけ出した一枚を、改めてユーリの前に差し出した。
 それはラゴウ暗殺の報告書で。
「でもここに、君のことは書かれていなかった」
「……おい」
 まさか。思い至った瞬間、腰が浮いた。
「提出された報告書に、君のことは何も書かれていなかったんだ。そして証人になった男は、君がラゴウを殺したと知らなかったか、もしくは知っていても言わなかった。この記録と彼の証言で帝国は、ラゴウ暗殺はリヴァイアサンの爪による犯行と断定した」
「ちょっと待て!」
 弾かれたように立ち上がると、ユーリはフレンの腕を掴む。
 だが彼は、ユーリから視線を外すことなく言葉を続けた。
「だから帝国がラゴウ殺害の罪状で君を裁くことは、ありえなくなった。犯人は君じゃないって、もう決まったから」
 さながら審判の結果を告げるように、冷厳に。



「ユーリ、手を離して」
 愕然と凍りついたユーリの手を、フレンがそっと外す。とうにその手に力は込められていない。気遣うようなその声はもう、穏やかな響きになっていた。
「じゃあ……キュモールのことは」
 いつの間にか項垂れていた顔を持ち上げて、ユーリは呟くように問うた。
「そっちは今更だよ」
 だが微かに苦笑を返され、怪訝に目を眇める。
「ノードポリカを制圧した二日後に、キュモール行方不明のまま騎士団法会議が開かれて即日結審。指揮権濫用の罪で死刑が確定している」
 騎士団法の下、罪を犯したと訴えられた騎士団員への審判は、結審まできわめて速やかに執り行われる。隊長以上であれば尚更だ。早急に制裁を下すことで、騎士団内の秩序を保つことが最も優先されるべき事項なのだ。
 そして一度下った審判が覆ることは、ない。
「直後に一族全員から貴族の地位も剥奪された。その時点で、生きていようが死んでいようがキュモールは貴族たちの汚点になったんだ。アレクセイが黒幕だとわかった今でもそれは変わらない。一度は終わった話を掘り返して、わざわざ関わり合いになるような真似、貴族は誰もしたくないんだよ。キュモールのことは、アレクセイに利用されたあげく切り捨てられ葬られた、愚かな罪人という結論で終わらせたいんだ」
「でもおまえは、あの場にいただろうが。何も言わなかったのかよ」
「そうだね。キュモールが足を滑らせて流砂に落ちたような話を、聞いたかもしれない」
「らしくねえ詭弁だな、おい」
 力が入らないまま皮肉ったユーリに、フレンが肩をすくめた。
「僕はあの晩、キュモールを見ていない。隊の報告書にサインしただけで、僕は会議で証言を求められることもなかった。そもそも僕がマンタイクに派遣されたのだって、アレクセイが出した捕縛命令を受けてだったんだから。もし僕が奴を捕まえていても、余計なことを喋る前に口を封じる算段は用意されていた。ラゴウの時と同じだよ」
 結局はそうなのだ。
「そうかよ。──ったく、ひっでえ茶番だな、おい。つまり俺は、いちいちアレクセイの先回りして捨て駒を片づけてやってたってことか」
 ヨームゲンで化けの皮を現した彼が、嘲笑っていたように。
 がくりと力が抜けた身体をやわらかなソファに投げて、ユーリはぼんやりと天井を仰いだ。
「しかもその罪も、なかったことになりましたってか」
 そして向かいのソファでなく机の縁に浅く腰掛けた、フレンの気配に目を細める。
「なあ、フレン……おまえはこんな結果で、いいのかよ」
「いいよ」
 即答だった。
 慌てて振り向いたユーリに、フレンはおかしそうに笑った。
「少し前にも似たようなことを聞かれた気がする」
「いや……結構違うと思うぜ?」
 口の端を引きつらせてユーリが苦笑を形作る。
 あれはそう、ザウデであったことはわかっていて黙っているのだとフレンが宣言した時だ。その時のフレンは、ユーリが生きていればそれでいいと言い切っていたが。
「同じだよ。僕にとって大問題だったのは、君が人を殺してしまったことだから」
「何だそりゃ」
「だから、僕はたぶんラゴウやキュモールが死んだことは結構どうでもいいんだ。ただ、そいつらを殺したのがユーリで、ユーリに殺すしか方法がないと思わせてしまったことが、とにかく悔しくて仕方なかった」
「おいこら、ぶっちゃけすぎだぞ騎士団長」
 ユーリが渋い顔で大仰にため息をついてみせれば、フレンは何故か拗ねたように口を尖らせた。
「ぶっちゃけたくもなるよ」
「何だよ」
「何だろうね」
「気になるだろうが」
 そんな言い方。思わずユーリが姿勢を前に乗り出すと。
「帝国に裁かれた方が、気が楽?」
 刹那、冷えた声を突きつけられて、息が詰まった。
 それをゆっくり飲み込んで、顔をのろのろと上げて、ぎこちなく強張った笑みをフレンに向ける。
「いちいち嫌な言い方するよな、おまえ」
「ユーリの方こそ、帝国が誰なのかもよくわかってない誰かを真犯人だと決め込んだだけで、ショックを受けすぎだよ」
「だけってな……」
「真実がそんなものでもいいじゃないか。確かに僕たちは本当の真実を知っているかもしれない。でも」
 言いさして、つとフレンは視線を横に流した。その先には地図で埋め尽くされた壁があるだけだったが。
「あの証拠が確定した時に、エステリーゼ様が仰っていたんだ。ユーリだけにすべての責任を押しつけてしまうくらいなら、そんな真実はいらないって」
 僕もそう思う。吐息のように小さく、フレンがささやいた。
「俺の罪は俺のしたことなんだ、押しつけるとかそんなんじゃないだろ」
「今の僕はユーリの功績と、ユーリの罪を踏み台にしてあるのに?」
 硬く強張ったそれは、今にもひび割れそうなほど不安定な響きで。
 思わずユーリは首を振った。
「何、バカなこと言ってんだよ。おまえが出世する足がかりになれんなら、俺なんかの手柄になるよりよっぽど役に立つじゃねえか。それこそ勝手に勘違いでも何でもさせとけよ。それにおまえ以外の隊長が片っ端からいなくなったのも、仕方のないことなんだ」
 アレクセイもキュモールも死んだ。シュヴァーンは生きてこそいるが、その立場は曖昧なままで、かつ本人がシュヴァーンとして生きていくつもりはないらしい。新任の隊長だったフレンが一気に騎士団長にまで駆け上がれたのは、フレンの能力と功績もあるが、他に適当な人物が誰もいないからというこの状況が大きかった。だがそうでもなければ、若すぎるフレンがこんなにも早く権力を握る機会はなかっただろう。
「俺を踏み台にしてるなんて考えすぎだ。悪いのは俺で、おまえが後ろめたく思うようなことなんか何もねえよ」
「でもユーリがあの時にラゴウを殺してなかったら、僕は今ここにいなかったかもしれない」
 早口で言われた、その瞬間。
 冷たい氷を飲み込んだような、ひやりとしたものが隙間に差し込まれた気がして、ユーリは息を飲む。
「そ、んなこと」
 考えたこともなかった。
 しかしそもそも行方不明になったヨーデルを捜索していたフレンの小隊は、拉致した犯人であるラゴウの放った暗殺者に命を狙われていたのだ。あの夜とて、ラゴウはリヴァイアサンの爪と何を話す気でいたのか。
 何も言えることが見つけられなくて、薄く唇を噛んだ。
 フレンがほうと息を吐く。重たく。
「わかってる。ごめん、今のは忘れてくれ。僕もそんなつもりじゃないんだ」
 冷たくて、灼けつきそうなほどに熱い。
 だからユーリは、握りしめた左手に強く力を込めた。
「俺は……もしおまえが告発するなら、それもいいかと思ってた」
「どうして」
「俺が悪いことしたから」
「もし裁判になっていたらユーリも死んでいたよ。あの人みたいに」
 ごとり。くぐもった重い音が何処からか聞こえた、気がした。
「かもな」
 事が露見してしまえば命はないだろうと、考えたことがなかったわけではない。ユーリが帝国を離れてギルドに身を置くことを選んでいても、ラゴウもキュモールも帝国の人間なのだ。帝国は大罪人の引き渡しを要求するだろう。捕まればおそらく、フレンが言ったとおりになる。
 今の帝国でユーリの行った暗殺が裁かれることはすなわち、ユーリの死刑が確定することに等しい。
 貴族が平民を殺すより、貴族が貴族を殺すより、平民が平民を殺すより、平民が貴族を殺すことが重い罪になる。それはラゴウやキュモール個人に関係なく、貴族が貴族であるために必要な強さであり弱さだ。故に、たとえラゴウやキュモールの非道こそが原因だとしても、平民によって貴族という聖域を犯されたと見なされてしまうだろう。それ以外の事実はすべて些末事に押しやられる。
 そうなってしまえば皇族であっても止めることは出来ないだろう。副帝になるエステルも皇帝になるヨーデルでさえも、一人の平民が貴族を二人も暗殺した罪に恩赦を与えられるような、貴族たちを抑え込める権力を持つには至っていない。
 ユーリの罪は、露見した時点ですべてが終わってしまう。
 それでも。
 乾いた自嘲を色濃く滲ませたユーリに、しかし返されたのは睨むような厳しい視線だった。
「本気で、そんな風に思っていたのか?」
「ああ」
「それでユーリは僕に、黙って見殺しにしろとでも言うつもりだったのか」
 フレンは呟くように詰るように、吐き捨てた。
 ひどく見知ったその痛みを、しかしユーリは目を伏せてやりすごす。
「それが法だろ」
「でも僕たちはユーリがラゴウを殺したくて殺したわけじゃないのもわかっているし、あの時の僕にもエステリーゼ様にもラゴウに太刀打ちする権力なんてなかった現実もわかっているんだ。殺したのが君の罪なら、無力を嘆くだけで何も出来なかった僕は何だ?」
「だからおまえは上に行って、この国を変えるんだろうが!」
 フレンが何を思って、騎士団に残り続けて昇り詰めることに拘ったのか。
 エステルが何を思って、ヨーデルの誘いを受けて副帝に就くことを決意したのか。
「おまえもあいつも、あんなことを繰り返させないために帝国を変えるんだろうが!」
「だからって、君だけが犠牲になってもいいなんて思わない」
「犠牲じゃねえよ。当然の報いだ」
 自分は罪人なのだ。
 人を殺した、罪人なのだ。だから。
「ユーリはそれで満足なのかもしれないけど、周りの気持ちは置いてけぼりじゃないか……!」
 ひどくもどかしげに掠れた声が嘆いて。
 フレンの碧眼が、炎が灯ったように凍ったように、ぎらりと色を変えた。
「君の仲間の気持ちも、──僕の気持ちも!」



「本当に君は、肝心なことがわかってないんだよ……!」
 苛立たしげに言い捨てたフレンが、不意にユーリの胸ぐらを掴んで引き上げた。
「なっ──、フレン?」
「君を今日ここに呼んだ本題がまだだったことを思い出した」
「お、おう」
 今にもキレそうな気配が剣呑な表情から漂ってくる。
 それでも激情に任せただけの、大声で怒鳴り散らすような真似はしない。だからこそ妙な迫力を感じてしまう。物心ついたときから一緒に生きて、彼を見ていた。彼の怒り方はよく知っている。
 気圧されながらもユーリはフレンの腕を掴み返してみたが、腰を浮かした半端な姿勢では、腕力に勝る彼の手を振りほどけそうになかった。
「ソディアが騎士をやめると言い出したんだ」
「はぁっ!?」
 閉め切ったドアを背に嫌味なほど姿勢正しく立っているソディアを、ユーリは思わず振り返った。そして今更、彼女がいる前でひどい話をしていたことに気がついたが、それはひとまず意識の外に追いやる。今はそれどころではない。
 彼女はつんと取り澄ました表情で、目を閉じたまま何も言わない。
「何で、おまえ」
 思い詰めるあまり自分を刺してしまったほど、騎士としてのフレンに心酔していた彼女が。
「ご実家から帰ってこいと言われたようなんだけど、一番の原因は君のせいだ」
「何で俺のせいなんだよ」
 するとフレンはこれ見よがしに、深々とため息をついてみせた。
「ユーリ。罪人の自分は僕の傍にいていい人間じゃない、だからもっと相応しい人間が現れるまでの代役だって、言ったんだって?」
 起伏を抑え込んだようなフレンの声が、いやに低く響く。
「……あいつが言ったのか」
「ああ、ソディアが教えてくれた」
 余計なことを。胸ぐらを掴まれたままユーリは横目で睨みつけるが、彼女は相変わらずこちらを見てもいなかった。
「ユーリは罪人だから僕の傍にいる資格がないと言った。ならばザウデでユーリを殺そうとしてしまった自分も罪人なのは同じで、僕の部下でいる資格がない、騎士団にいるべきでないとソディアは言ったんだ」
 フレンは奇妙なほど淀みなく、淡々と話を続ける。
「でも僕としては、彼女に今いなくなられると非常に困るんだ。僕は騎士団長になるのが早すぎた。まだ僕の味方は多くない。だから」
 フレンがユーリの双眸を覗き込むように、さらに間近に詰め寄った。
 そして。
「撤回しろ。僕と彼女の目の前で。あんなふざけた言葉、今すぐに」
 ──勘違いだった。とっくにキレていた。
 抑圧されていてもなお色鮮やかな怒号を叩きつけてフレンは、ようやくユーリを解放する。
 だがその碧眼はひたりとユーリを見据えたまま、動かない。
 逃げられない。
 目の前にはフレンが仁王立ちしていて、後ろの扉にはソディアが張りついている。ソファの影のラピードは落ち着き払った顔で、成り行きを見守っているようだった。
 いったいこれは、何の冗談だろう。フレンに気づかれないように少しずつ、そっと身を引くつもりだったのに、何故か自分を排除しようとしていたはずの人物にそれをバラされて、今こうして二人がかりで撤回を迫られている。
 ユーリは眉根を寄せて、嘆息しながら自分の長い髪をかき上げ後ろに流した。
「フレン。……俺は生きてる。俺とそいつは同じじゃないだろ」
「君が助かったのは、ただの幸運な結果に過ぎない。ソディア本人が、刺した瞬間は殺意に等しいものがあったと認めている。それともユーリ、君はたとえば斬られて川に落ちたラゴウが実は一命を取り留めていたとか、キュモールが実は地下の空洞に落ちて助かっていたとか、そんな結果になっていたら自分の行いを罪とは感じないのか?」
「どんな屁理屈だよ」
「屁理屈ならお互い様だ。ユーリが運良く助かったから、ソディアのしたことは取り返しがついたかもしれない。その上で君が彼女を罪に問う気がないのなら、僕もそれで別に構わない。今はもう彼女も反省しているいるし、自分のしたことが間違いだったとわかっている。でも帝国の法に裁かれることが罪の有無を決めるんじゃないことは、君だってよくわかっているはずだ。だから君は、ソディアの罪を否定できない」
 ゆらゆらと碧い色が、炎のように揺れていた。
 怒りのような悲しみのような、けれど怖ろしくまっすぐな。
「ユーリ。君は奴らを殺すことを決意した時点で、罪を背負う覚悟を決めていたんじゃないのか。それは結果で変わるような、薄っぺらい覚悟だったのか?」
 突きつけられた眼差しに、深く息を飲む。
 ずっと握りしめていた空っぽの左手を、きつくきつく力を込めてから、ふっとほどく。
 罪は消えない。
 この罪は、為した時点で罪なのだ。裁かれなくても許されても、罪は消えないのだ。
 殺すという手段を最初に選んだ時に、腹を決めたはずだった。そしてエステルに知られてしまったあの夜、差し出された彼女の手に、己が決めた覚悟の本当の重さを思い知らされたはずだった。
 だから、どんなに許されたとしても、なかったことにはならないのだ。
 そんなことは、誰にも出来ない。
「……返す言葉もねえわ」
 降参。弱りきった苦笑が滲む。
 するとふっとフレンの表情がゆるんで、ほろ苦い笑みに変わった。
「君の悪いクセだよ」
「ん?」
「昔からユーリは自分のことになると妙に軽々しく扱って、それで自分が辛い思いをしても平然と笑ってる。でもそうやって自分だけ分けて考えてるから、こういう落とし穴にはまるんだよ」
 悔しかったらそのクセ直せ。
 勝ち誇った子供のように楽しげに、フレンがささやく。
「あーくそっ、まさかおまえに口で負けちまうなんて……」
 肩を落としてユーリは、だらしなくソファの上にくずおれた。
 じわりじわりとこみ上げてきたのは、たぶん気恥ずかしさだった。
「こないだ剣で負けたから、たまには勝っておかないと負けが込むじゃないか」
「なんだよ、今まで手ぇ抜いてたってのか?」
「まさか。ユーリがさっき言ったとおり、単に屁理屈こねるのが上手くなっただけだよ。いつものユーリのやり方だったら僕は言い返しても言い返さなくても負けた気分になるけど、こういうことなら口先だらけの貴族相手にやり合ってる僕の方に分がある」
「へえへえ、騎士団長様はたいそう口が上手くおなりで」
「ユーリから負け惜しみが聞けるのもなかなか悪くないね」
 隣からユーリを見下ろすフレンが、満足そうに笑んだ。
「ほざいてろ」
 口元を手のひらで隠すように頬杖をつき、口を尖らせてユーリは明後日の方向を向いた。が。
「でも負けを認めたなら、早く敗北宣言を聞きたいんだけど」
「……何が」
 白旗ならさっき振ったぞ。半眼でフレンを見上げる。
「往生際が悪い。この期に及んで誤魔化そうとする気か?」
「う」
 思わず喉の奥から呻きが漏れる。
 だが彼が望んでいる言葉はすぐには続かない。焦れたように、フレンがにじり寄ってきた。
「撤回、してくれるんだろう?」
 それはもはや質問でも何でもなかった。
 肯定の返答以外を、まったく許していないのだから。
「ああそうだな、俺が莫迦だったよ。こんな性格悪い奴の親友やってける物好きなんか、他にいねーよ。誰も代わってくれないんじゃ、俺が一生つきあってやるしかないな」
 ユーリは声を立てて笑う。笑いすぎてほんの少し涙が滲んだ。
 それから茶番の片棒を担いだソディアを振り返る。
「あんたも大変だな」
 フレンの十八番は体当たりだ。彼女の騎士団をやめるという発言も、きっと最初は本気だっただろうに。
 すると彼女は挑むような眼差しで微笑んで、きつく結んでいた唇をほころばせた。
「あなたこそ、満更でもないくせに」
 面食らって目を丸くしたユーリに、今度はフレンが遠慮なく笑い出した。







and then...