その瞬間、死にたくないと思った。
だから伸ばされたその手を、強く強く、掴み返した。
Overture
~ Prologue to "Be the Light" ~
行ってきます。ぺこりと小さく頭を下げたエステリーゼは、仲間たちとともに慌ただしく部屋を飛び出していった。フレンと言い争った末、先に部屋を出て行ってしまったユーリを追いかけるために。
ユーリをまっすぐ追いかけられる彼女たちの背中を黙って見送る、フレンは動けない。それが彼の選んだもので、同じものを選ばなかったユーリはまだ何かもわからない何かを探している。そのことを歯痒く思いながら、きっと期待もしている。
「二人は相変わらず仲が良いですね」
見ていて懐かしくなりました。そう笑いかけると、振り向いたフレンは困ったような笑みを滲ませた。
「殿下にもお恥ずかしいところをお見せしてしまいました。私もあいつも、ついムキになってしまって──」
息をするように何もかも当たり前らしい返事が、つと途切れた。
続く言葉と息を飲み込んだフレンの、ヨーデルを見る目は驚愕とも困惑ともつかぬ色に染まっていく。
何かを言いかけた、それは形にもならない。
だからヨーデルは今さら、踏み出した。
「フレン。私は四年前のあなたたちを覚えています。あなたも本当はそうなのでしょう」
かつて言い出せなかったこの言葉は、問いかけではなく確認でしかない。それでも今まで、こんなところに来るまで言い出せなかった。
「……忘れられるはずがありません」
そう呻くように一つ肯いて、嘆息のようにフレンが大きく息を吐き出した。緊張と動揺が緩んだ声には、かすかに恨めしいような色も混じっている。
「ずっとわかっていて、黙っておられたのですか」
「そうなりますね。フレンはいつから私に気づいていたんですか?」
「お母上の御葬儀で、殿下のお姿を拝見していましたから」
「ではやはり、エステリーゼに引き合わされたときにはもう全部わかっていたのですね」
あれは思いがけない再会だった。エステリーゼが紹介してくれた騎士の友人というのがまさか、かつて自分も慕っていた騎士の一人だったなんて。
思わず目を瞠ったかもしれない。息を飲んだかもしれない。だがあの時、長い空白にエステリーゼが訝しげに首を傾げたから、誤魔化すようにフレンが頭を垂れて初対面の挨拶を口にしたのだ。だから我に返ったヨーデルも、笑みを貼り付けてそれを受け取った。
「申し訳ございませんでした。あれは、なかったことにしろという意味だと思いましたので」
「謝らないでください。私から何も言わなかった以上、フレンがそう解釈して知らないふりを通したのは間違っていません。あなたたちと母や私の間には、何の関係もないはずなのですから」
そう、何の関係もあるはずがないのだ。入団して間もない平民の騎士が、皇族と面識を持つなどありえない。皇族が城外にある騎士団の詰め所に足繁く通っているなどありえない。何の関係もなければ、その死とも関係あるはずがない。だからあの時も、罪に問われたのは一人だけだった。
「正直なところ、私もどうしたらいいかわからなかったんです。何も知らないエステリーゼの前で言うわけにもいきませんでしたし、それに、あの頃を思い出しても辛いだけだと思って」
だから彼女のいないところで、フレンを追いかける勇気もなかった。
母の名は血に染まってしまって、まだ懐かしむことも出来ない。
「それでは、どうして今」
「もう死ぬんだと思ったところをユーリさんに助けられて、そしたらそこにフレンも一緒にいたから、かもしれません」
言ってヨーデルは、自分の右手のひらに目を落とした。
この手を掴んで、命をすくいあげてくれた人。
「フレンがずっと一人だったからそんな気はしていましたが、ユーリさんは騎士団を辞めていたんですね」
「はい。──あの裁判が終わった後に」
小さく肯いたフレンはそのまま、寂しそうに哀しそうに目を伏せた。
「もう騎士団にはいられないからと、ラピードを連れて下町に帰ったんです」
「戻ってきてほしいですか」
四年前も、二人はずっと一緒だった。
「そうですね、今でもまだ、昔のように一緒にやっていけたらという気持ちはあります。でもユーリが騎士団には戻れないことも、わかっているつもりです」
「ただ納得は出来ていない?」
「かもしれません。燻ったまま押し潰されてしまいそうなあいつを見ているのは辛いです」
この旅で、何か良い方に変われたらと思っていますが。祈るようなフレンの言葉はかぼそい。あるかも知れないものを探し求めることは、存在しないという絶望の輪郭をなぞるような行為だから。
「きっと大丈夫ですよ。私はユーリさんに光を感じましたから」
「光、ですか……?」
「あの人は諦めていません。私はずっと諦めていたから、わかります」
おびただしい血にまみれた、無残な母の亡骸を見たときから。かの騎士が大罪人として首を落とされ、墓もなく葬り捨てられたと聞かされたときから。
「ずっと、評議会と騎士団の争いなんてどうでもいいと思っていました。どうなったところで結局、私たちは利用されて終わるのだからと諦めて、ずっと投げやりになっていました」
ヨーデルの母が暗殺され、成人した皇族が一人もいなくなってしまってからのこの四年間、騎士団がヨーデルを次期皇帝に推し、評議会がエステリーゼを推し、皇帝不在の帝国中枢は歯止めの利かない権力争いを激化させてきた。宙の戒典が行方不明で新たな皇帝の即位を行えない今、当事者であるはずの皇族を置き去りにしたそれは、騎士団と評議会の代理戦争でしかない。
「船が燃え始めたときも、このまま死ねば楽になれるだろうかと思ったんです」
「……死んでしまいたかったですか」
責めるより嘆くようなその響きに、ヨーデルは苦い笑みを滲ませた。
「たぶん、怖かったんです。周囲の思惑に翻弄されるばかりで、自分がいつ、どうなるかもわからない状況が。死んでしまえば逃げられる、そんな風にしか考えられなくなっていたんです。でも」
声が聞こえたのだ。開かない扉の向こう側から、聞き覚えのある懐かしい声が。だから思わず誰何の声を上げていた。答えを求めていた。
そうして周りが火に包まれて、海水が流れ込んできて、けれどそのどちらかに飲み込まれてしまうより早く、ヨーデルの腕は船室に飛び込んできたユーリに掴まれていた。
「あの時、初めて……死にたくないと思ったんです」
生きたいと思った。
だから伸ばされた彼の手を、強く強く、掴み返したのだ。
「不思議なくらい、あの時は怖くなかった」
上も下も見失いそうなほど暗く濁った海で、それでもその手に引かれた先に、ゆらゆら光る水面が見えた。届く前に意識は薄れてしまったが、船の上で目が覚めて、眩しいほど明るい空の下で深く息をして、目の前にいる二人の姿を見つけて、涙が滲むほど喜んでいる自分を見つけたのだ。
「私を捜しに来てくれたのがフレンで良かった。こうしてあなたと話すことが出来て、ユーリさんにも会えて」
二人があの中隊に配属されてから壊されて終わってしまうまで一年にも満たない短い間だったが、あの時間を共有して今も残っているのは、もう二人だけだ。ほかは誰もいなくなってしまった。
その二人がヨーデルをすくい上げた、この巡り合わせに感じたのはきっと奇蹟や運命と呼べるような、失ったものが結んで残してくれた、とても綺麗な何かだ。
噛みしめるような響きになったその意味を真実理解できなくても、フレンは少し決まり悪そうにユーリが去っていった扉に一瞥くれた。
「……引き止めた方がよかったでしょうか」
「でもユーリさんは、私に全然気づいてないでしょう?」
冷え切ったユーリの目は、帝国に対する根深い不信感や嫌悪感を映していただけで、ヨーデル個人を見てはいなかった。
「そうですね、僕にも何も言ってきませんでしたし。それにあいつは怪我のせいで御葬儀にも行けなかったので、殿下を公の場で拝見したことが一度もなかったはずです。今の殿下のお姿だけで、あの頃と結びつけるのは少し難しいかもしれません」
「髪も切ってしまいましたからね」
「というか……半分、女の子のようなお姿でしたよね」
「さすがにスカートを履いた覚えはないですけど。まあそれはともかく、気づかれていないのなら、しばらくこのまま黙っていてほしいんです」
「それは構いませんが……いいのですか?」
「ええ。今の私では何も言えそうにありませんから」
貴族は権力争いに明け暮れてばかりで、弱者は食い物にされて、邪魔になった人間は殺される。四年前のあの日、そんな帝国の現実を思い知らされた。
けれど。
「フレンは騎士団に残って、上を目指して戦い続けている。ユーリさんだって不条理に屈してなんかいない。なのに私は、何もしないうちに何も出来ないと諦めていました。でもそんな私にも、今さらかもしれませんが、やりたいことが出来たんです」
だったらユーリと『再会』を果たすのは、何か一つでも結果を出した後がいい。
するとフレンが、嬉しそうに目を細めて笑った。
「とても久しぶりに、殿下が頼もしく見えます」
小さな子供の言葉を、彼は今も覚えているだろうか。
帝国で一番偉い皇帝でも、ひとりぼっちで世界は変えられないと言われて、だったらと伸ばした、まだ小さかった手を。
ヨーデルは深くゆっくりと息を吸う。声が震えないように。
「フレンは、今はアレクセイ大隊所属の小隊長でしたよね。現在の任務は私の保護だけですか?」
「はい。殿下救出の密命を受け、騎士の巡礼を装ってここまで参りました」
「ではアレクセイには私から掛け合うので、しばらく私につきあってもらえませんか」
笑みが消えたそこに、驚きはなかった。ただ。
「小隊長などに何をお望みですか。ヨーデル殿下」
聞き返すフレンの声音が探るように、試すように厳しくなる。ラゴウを恐れてのことでもなければ、ただ昔を懐かしんで側に置きたいだけでもないことを、彼はわかっている。
「フレン・シーフォ、あなたに、私の価値を見定めてほしいのです」
長身のフレンは今でも少し見上げなければいけないが、それでも四年前よりずっと近かった。ユーリもそうだった。
あれからもう、それだけの時間が流れていたのだ。
「私は私の意志で皇帝になる。この国が変わる流れをつくる。──もし私がそれに足ると認めてくれたら」
ひとりぼっちで世界は変えられない。
静かな眼差しで自分を見据えるフレンに、ヨーデルは右手を差し出した。
まだこの手には、死の淵から引き上げてくれたユーリの、力強い手の感触が残っている。
「フレン、私と手を組んでくれませんか?」
四年前とても大きかった彼の手は、今でもまだ少しだけ大きかった。
この後は実質ヨーデルの指揮下で動いていたフレンも隊長昇格してアレクセイに取り上げられたり、他にヨーデルの信頼できてかつ自由になる手駒もなくて、ヘラクレスやノードポリカの件でアレクセイの専横を危うく思いながらも大した手を打てなかったり、とりあえずラゴウが消えて隙だらけの評議会を切り崩しにかかっていたらアレクセイが叛乱を起こしたり、次から次へと大変なことが起こって上手く動けなくて後悔して落ち込んだりもしたけれど、ヨーデルは自分の意志で立って、皇帝になります。
『誰鐘』篇では過去描写は必要最低限?に絞ったのでヨーデル関連オミットしてましたが、続きは四年前の過去ありきになるので先にこの話を。
ヨーデルは本編時15〜16歳、四年前で11〜12歳設定。四年前に亡くなった母親は先帝クルノスやレギンの妹にあたります。子持ちの皇女様だけど、なにやら処刑された隊長とは浅からぬ関係? ちなみにヨーデルがフレンは「フレン」なのにユーリは「ユーリさん」なのは、昔は呼び捨てじゃなくて再会後フレン相手には直したけどユーリ相手には昔のままだから。