いつかこんな日が来るのだろうという、予感はあった。
「本当は殿下も御存知なのでしょう、宙の戒典の在処を」
 あなたのお母上は、一度は即位を決心なされていたのですから。
 評議員秘書のコートをまとった男の、ねっとりと絡みつくような声を意識から閉め出してヨーデルは目を伏せた。
 内陸にある帝都では感じるはずのない潮の匂いと波の音が、雨のそれと混じり合っている。ずいぶん遠くまで運ばれてしまったらしい。頭の奥で鈍い痛みが小さく疼き続けている。これは使われた薬の残滓だろう。
「ヨーデル様が宙の戒典の行方をお教えくだされば、評議会はエステリーゼ様を新たな皇帝に迎えた体制の下、思い上がった騎士団の僭越を戒め、この帝国を正常に戻すことが叶うのです」
 撒き散らされる言葉はすべて、分厚い水の向こう側だった。
 予感ならずっとあった。
 評議会がもう一人の次期皇帝候補としてエステリーゼを擁立した時から。
 アレクセイがヨーデルを次期皇帝候補として擁立した時から。
 存命の皇族が子供だけになってしまったあの日から。
 母が殺されたあの日から。
 いつか自分も、母のように、



 ──殺されるのだろうと。
 はっと目を開けて、ヨーデルはそれから数度瞬いた。
 簡素な寝台に横たえられた、自分の身体。理解が追いつかず混乱したのは、意識が覚めたその一瞬だけだった。
 まるで夢の続きのような潮の匂いと波の音は今もある。だが降り続く雨の音は、ここにはない。天井すれすれにある小さな天窓は、入りきらない太陽の光で真っ白に輝いている。
 あれは夢だ。そして過去のことだ。ラゴウは何ヶ月も前に死んでいる。あの秘書はヨーデルが救出された直後に失踪した。後からわかったことだが、リヴァイアサンの爪に処分されたらしい。
 だから今は、あの時と同じようでも何もかも違っているはずだ。
 なのに。
「変わらないな」
 わざと声に出して呟いてみれば、その乾ききった響きに自嘲が滲んだ。
 あの頃と何も変わっていない。
 自分はまだ、あのすべてを閉ざした水に沈んだままなのか。
 暗く静かで冷たい、何も見えず聞こえず感じない、もう何も考えなくていい、深い水の底。
 ヨーデルは虚空に向けて、空っぽの手をふらりと伸ばす。
 水の向こう側から差し伸べられた手が、あの日、この手を強く掴んで引き上げてくれたけれど。







Be the Light 1

I wish you...







 道端に突き立てられたナイフの影は、真下に短く円くわだかまっていた。
 真昼だ。道端の木陰に座り込んでいたユーリは、額に手をかざしながら眩しげに青空を見上げた。太陽は雲一つない空の、中天で輝いている。
 この街道を通る人間も以前より増えたが、それでもこんな時間はほんの少し、人通りが途絶えることがある。丘の向こうにある港町を半端な時間に発たなければ、真昼にここへは差し掛からないからだ。
 だから、ちょうどよかった。
 隣で伏せていたラピードが不意に、のそりと頭を持ち上げる。それから間もなく下草を割り踏む音が近づいてきた。だからユーリは、ようやく姿を現した待ち人に向けてひらりと手を振った。
「よう。待ってたぜ」
「やはりこれは、おまえの仕業か」
 丘の獣道を下りてきたデュークは挨拶を返すでもなく、手にしていた一枚の紙をユーリに突きつけた。
 太陽が真上にある時間、丘の麓で待つ。たったそれだけが書き付けられた置き手紙だ。五日前の朝、ユーリたちが海を臨む丘の上で石の下敷きにしてきたそれは、海風と陽射しに晒されてすっかり強張っている。
「あんたに通じそうな書き方が、他に思いつかなかったんだよ。どうせカレンダーも時計もねえんだろ」
「必要ない」
「ほらな」
 案の定の一言に、ユーリは傍らの相棒に苦笑いを落とす。
「ま、噂になっててくれたおかげで、探し回る手間は省けたけどよ」
「何のことだ」
「ハルルやカプワ・ノールじゃ結構有名だぜ。日が暮れる頃にふらっと現れては森の奥に消える、白い美形の幽霊ってな」
 にやにや笑うユーリに言われて、デュークがさも不本意そうに眉根を寄せる。
「そんなことを言うためだけに呼びつけたわけでもあるまい。何用だ」
「ああ、俺たちのギルドで依頼を受けたんだ。あんたを帝都にご招待しろって」
「人類を滅ぼそうとした大罪人としてか」
「違えって。あんたに会いたいって人がいるんだよ」
「人と会う理由など、私にはない」
 即座に一蹴する彼の声は、まったく平坦のまま変わらない。だが。
「あるさ。依頼主はあんたの従弟殿だ。離ればなれの家族が会うのに、会いたいって以上の理由がいるのか?」
 話を打ち切って踵を返そうとしていたデュークが、わずかに目を眇めて動きを止めた。
「……ヨーデルか」
「当たり」
 押し黙ってしまった彼の、不可思議な真紅の双眸がほんの少しだが揺らいでいるように見えて、ユーリは立ち上がりながら笑みを浮かべる。浮世離れどころか人間離れした雰囲気を持つこの男も、身内の話にはこんな風に戸惑いを見せることもあるらしい。
「あいつ今は帝都を離れられねえもんだから、代わりに俺たちがお迎えに来たってわけだ」
 するとデュークは何事か思案するように、腰に佩いた剣に目を落とす。見覚えのある特徴的な柄で、それが宙の戒典だとユーリにも一目でわかった。彼はいつも抜き身で携えていたのでこうして鞘に収められた姿は初めて見るが、最近は宙の戒典の能力が必要とされる状況も少なくなってきたということなのかもしれない。
「あれは皇帝になるのか」
「らしいな」
「そうか。この宙の戒典が必要になったのだな」
「って、おまえなぁ……」
 がくりと力が抜ける気がして、思わずユーリは額を手で押さえた。
「それ以外に何の意味がある」
「俺たちが頼まれたのはデュークって名前の、家出中の従兄を探して連れてくることだ。宙の戒典なんか知らねえよ」
 間違えんな。言い聞かせるように強くなった口調に、つとデュークが目を伏せた。
「……会って何になる」
「わかんねえなら会ってから考えろよ。十年ぶりならとりあえず、でかくなったなーとか言ってやればいいんじゃねえの」
 エステルより少し年下のヨーデルなら、最後に顔を合わせた時はまだ小さな子供だったはずだ。
「そんなものか」
「そんなもんだろ。んな小難しく考えなくても、顔つきあわせて適当に話してるうちに何とかなるさ」
 なにより、向こうが会いたいと言っているのだから。
 そうしてデュークが何も言い返してこなくなったことを、帝都行きに同意してくれたものと勝手に結論づけてユーリは、地面に刺したままだった日時計代わりのナイフを回収する。と。
「騎士団にいたことがあるのか」
 唐突な質問に振り返ると、デュークの視線がユーリの手の中にあるナイフに向けられていた。騎士団で制服と共に最初に支給される日用ナイフだ。鍔の造りに特徴があるので、それを知っていれば支給品だという判別は容易い。
「ん? ああ、いたぜ。帝都警察第二中隊。嫌になって辞めちまったけどな」
 だが彼がそれを知っていて、しかも興味を持たれるとは少し意外だった。
「そう言うあんたも実は、元騎士だったりすんのか?」
 知る人ぞ知る、人魔戦争を終結に導いた英雄。そんな過去をレイヴンから聞いたことはあったものの、十年前の彼がどんな立場で戦争に関わっていたのかは、そういえばユーリも詳しくは知らない。ヨーデルは終戦が公表される少し前に城を出ていったと言っていたので、それまでは、おそらくエルシフルが殺されてしまうまでは、ザーフィアス城にいたということなのだろうが。
「親衛隊で皇妃殿下護衛の専任騎士だった。──嫌になって辞めたがな」
 先ほど自分が口にした言い回しをそのまま返されて、ユーリはゆっくり目を瞠り、それから噴き出した。
「あんたでもそういうこと言うのな」
 笑いながら、いつの間にか喉の奥に詰まっていた息を吐き捨てる。
 先帝クルノス十四世の皇妃は人魔戦争の末期、帝都近郊で魔物に襲われ命を落としたと聞いたことがあった。魔物。それはもしかして。
 つとわき上がった疑問を言葉にしないまま飲み込んで、ユーリは意識から閉め出した。
 自分がかつての所属を口にした瞬間、何故かデュークとまっすぐ目があったことも。



 真新しい丸太造りの西門からも、丘の上、若葉の茂る大樹はよく見えた。
 儚くも美しい花の盛りを過ぎたハルルの樹は新緑の季節を迎えて、力強い生命力に輝いている。だが活気に満ちているのは、結界を失ったハルルの街も同じだった。
 これまでペイオキア平原周辺では、騎士団は主にデイドン砦とアスピオに駐留しており、ハルルには少数が派遣される形でしかなかった。だがアスピオから避難した研究員の半数が最寄りのハルルに流れ込んだこと、皇族であるエステルがここに別荘を構えると決めたこと、何よりハルルが城郭都市ではなかったことから、都市防衛と治安維持のためハルルにも騎士団本部が新設されるに至ったのだ。
 これにより今までは結界の外になるため街道しかなかった丘の南側が、新たな市街地として拓かれた。今や広大な敷地を有する騎士団本部施設とそれを取り巻く屋敷を中心に、大通りに沿って真新しい住宅や商店が次々と建てられている。それらはいずれもハルル独特の丸みを帯びた木造建築ではなく、帝都で馴染みの直線的な近代建築によるものだ。ハルルの樹を囲む美しい街並みはそのままに、南西部の新市街はこれから学術研究都市として発展していくことになるだろう。
 生まれ変わりつつある街へ視線を巡らせるデュークに、ユーリは以前エステルが懇切丁寧に語り聞かせてくれたそれらの説明をかいつまんで話す。聞き流されてはいないようで、時折思い出したように反応が返ってきた。たとえばアスピオのこと、エステルのこと。
 そうして辿り着いた別荘の庭先では、手押しの台車をひっくり返してカロルが作業に勤しんでいた。
「カロル先生、また頼まれ物か?」
「ただのパンクだよ。おかえり、ユーリ、ラピード」
 こすってしまったのか頬に黒い汚れが一筋ある顔を上げて、ぱっとカロルが笑う。
「おう、ただいま」
「ワン!」
 と、ラピードの後ろに立つ人影に気づいて、大きな目を丸くした。
「デューク! 来てくれたんだ!」
 そうして嬉しそうな笑顔を惜しみなく向けてくる子供に、デュークがわずかにたじろいだようにユーリの目には見えた。さすがカロル先生。忍び笑いを噛み殺し、カロルに声を掛ける。
「俺らの昼飯は?」
「エステルが中で待ってるよ」
「何だ、あのおばさん今いねえの」
 この屋敷はエステルの別荘であり別宅だ。皇族所有としてはかなり小さな屋敷で、しかも未完成なので今はまだ一人だけだが、エステル滞在中の世話や、屋敷の管理を担う専属の侍女が入っている。エステルの母親が存命の頃から仕えていたという古株らしい。
「庭の手配があるんだって」
「ふうん」
 この別荘が竣工したのもつい先日のことで、まだ屋敷全体が整っているとは言い難い。もともと内装などすべて完成するのはヨーデルの即位式も終わった来月以降の予定だったのを、エステルが今回の件を口実に未完成なところに押しかけたのだ。不便さも多々残る状態で別荘を使ってしまうのが上流階級としては異例だろうが、そこは旅慣れたお姫様、むしろ自らの手で家具を選び庭を造る作業を楽しむ逞しさだ。
 ユーリたちとて人の行き来の激しいハルルで気楽に長居できる滞在場所を確保でき、さらには出入りの商人からエフミドの丘に現れる幽霊の噂を詳しく聞けたのだから、文句のつけようもない。
「ボクもこれ取り替えたら終わりだし、お昼食べてきたら。デュークが来てくれたんだから、リタたちが帰ってきたらすぐ帝都に出発するんでしょ」
「出かけてんのか?」
「ジュディスと一緒にここの騎士団本部。なんか野暮用だってさ」
 リタもハルルへの移住を正式に決めている。崩壊したアスピオに所属していた研究者は他の国立研究所に移籍するか、帝国に居所を届け出る必要があるので、その関係だろうか。
「りょーかい。──ほら、あんたも突っ立てないで、中に入れよ」
 ひらりとカロルに手を振ると、ユーリはまだ傷一つない屋敷の扉を大きく開けてラピードとデュークを中へ招き入れる。そして。
「子供は苦手か?」
 また後でねと笑う子供には聞こえないよう扉を閉めてからささやいた小声に、ついからかう色が混じってしまったのは不可抗力だ。
 するとデュークは小さく嘆息した。
「おまえたちと敵対したのは、さほど昔でもあるまい」
「んー、意見が真っ向ぶつかって殴り合いにはなっちまったが、それだけだろ」
「それだけ、か」
 彼の声が呆れたような響きを伴う。
「あんたが今でも人間を滅ぼそうってんなら話は別だけど。なあ」
「わふ」
 手のひらに鼻先を寄せてきたラピードと顔を見合わせユーリが笑うと、デュークはもう一度、小さく息をついた。
「おまえたちは皆、そうなのか」
「さあな。そんなに気になるんなら直接みんなに訊いてみろよ」
 言ってユーリは玄関ホールの奥に目を向ける。
 カロルの大声を聞きつけたのだろう、居ても立ってもいられなかった様子のエステルが、ちょうど廊下の角から飛び出してきたところだった。
「来てくれたんですねデューク、本当にありがとうございます!!」
 その勢いのまま詰め寄って目をきらきら輝かせて感激する彼女に気圧されたらしく、今度こそ困ったような視線をデュークから向けられて、今度こそユーリは喉の奥でくつくつと笑った。ラピードは呆れたような欠伸をこぼしている。
「んじゃ俺ら昼メシ食ってくるから、エステルは出発までそいつの相手よろしく」
「はい! あ、ユーリもラピードもおかえりなさい、お昼はいつものところに置いてますから!」
 背中に無言で訴えてくる視線に手をひらひら振り返しながら、ユーリはさっさと奥のキッチンに引っ込む。
 どうやらエステルは湯を湧かしていたらしい。真新しいキッチンの立派な焜炉に乗った、ぴかぴかのヤカンの口からは湯気が細く立ち上っていた。
 手前の小さなテーブルの上、大皿にかぶせられたナプキンをひょいと持ち上げれば、具だくさんのサンドイッチが山積みだった。床の上で逆さにかぶさった籠の下からは、ラピードのための犬ご飯。その横に水皿も置いてから、ユーリも分厚いサンドイッチに手を伸ばす。と。
「あ、ユーリ、あっちのお鍋にスープもあります。あとお茶はそっちのポットです」
 ぱたぱたと小走りに飛び込んできたエステルが言いながら、手際よく小型のワゴンにティーセット一式を並べ、湯をティーポットにそそぐ。
「ちょうどお湯を沸かしていて良かったです」
 ぐっと勢い込んでエステルは、しかしあくまで優雅にワゴンを押して客間へ戻っていった。
「なーんか妙に張り切ってねえ?」
 見送ったユーリが足下の相棒を振り返ると、ラピードも同意するように鼻を鳴らした。



 ちりんと鈴のような音をつれて、テラスに面した席に、エステルはそっとティーカップを置いた。
「お口に合うかわかりませんけれど」
 そうして続けてもう一組を向かい合う位置に用意すると、意を決して、テラスの外に目を向けていたデュークの横顔に話を切り出す。
「ヨーデルから、少しですけれど、あなたのことを教えてもらいました」
「私がクルノス陛下の庶子であることをか」
「はい。驚きました。デュークもヒュラッセインだったんですね」
 声が震えてしまわないように。重ねた自分の両手を握りしめて、エステルは言葉を続ける。
「でも満月の子ではない、のです?」
 彼とは戦ったこともある。宙の戒典だけでなく彼自身も強大な力を有していることは知っているが、その力がかつてのエステルのようにエアルを乱した形跡はないと、ジュディスとバウルは言っていたのだ。
「そうであるとも、そうでないとも、言える」
 振り返ってうっすら湯気を立てる紅茶を一瞥したデュークは、静かに椅子を引いて腰掛けた。
「満月の子、名は何という」
「シデスです。エステリーゼ・シデス」
 いつかのヨームゲンのように振り切られるのでなく、話をしてくれるらしい。エステルはゆるみそうな口もとを慌てて引き締める。
「シデス家の娘か。おまえも皇族として生まれたならば知っているだろう、ヒュラッセイン──満月の子とクリティアの血は混ざらない」
「……はい」
 帝国にクリティア族への差別的な制度はないが、その身分にかかわらず、皇族とクリティア族が結婚することは許されない。その間に子を成すことが出来ないといわれているからだ。故に皇族と婚姻関係になり得るような有力貴族も、クリティアの血が混じることを忌避する。
「しかし、私の母はハーフクリティアだった」
「だからデュークが陛下の御子息であることは秘密だったんですね……」
 産まれるはずのなかった子供は奇蹟よりも不義を疑われる。デュークが生まれた当時のクルノスはまだ皇太子であり、後の皇妃との婚約もまだ決まっていなかった時期なので大きな痛手にはならなかったかもしれないが、女性の名誉はありもしない醜聞で汚されていただろう。
「そうだ。陛下とも母とも個人的な友人だったバンタレイ家の当主が、身ごもった母を妻に迎える形で庇ってくださった。故に私は公的にはバンタレイ家の人間だ。──話がそれたな。満月の子とクリティアという本来ならば混ざるはずのない血が混ざったからか、私の能力は変異している。術にブラスティアを必要としないのは同じだが、おまえたちの言うマナの変換式に近いのか、エアルを乱すことはない」
「そうなんですね」
 エステルはほっと息をつく。彼は生得的に満月の子の弊害を克服していたのだ。
 と、デュークがつぶやくような声を落とした。
「疎ましくは思わないか」
「何をです?」
「おまえが満月の子として、世界の毒として生まれたのは、おまえには何の責もないことだ」
 人は生まれを選ぶことは出来ない。
 それでも強い力を持って生まれてしまった満月の子は、世界の毒だった。
「その身に編み込まれているのは抑制術式だろう。周囲から吸い上げたエアルではなく、自らの生命力をもって力の源とするための」
「ええ。リタが組んでくれたこの術式のおかげで、私は自由になれたんです」
 大きすぎる力を暴走させることなく、しかし力をすべて封じて無力に落とすわけでもなく。一つ所に縛りつけられることもなく。リタはエステルの言葉にならなかった望みもすべて汲み上げて、すべて叶えてくれた。
「力を使うたび命を削ることになってもか」
「この力も私の一部です。いらないと思ったこともありましたが、ずっと一緒に生きてきて、たくさん助けてもらいました、やっぱり嫌いになんてなれません。今はもう捨ててしまいたいとも思いません。だから、これでいいんです」
 エステルを見る、真紅の双眸がわずかに細められる。
「良い友に恵まれたな」
 その声に滲んでいるのは、感嘆の色だ。
「はい。みんなと出会わなかったら、私はきっと何もわからないまま、この力に押し潰されて死んでいたでしょう」
 人は生まれを選ぶことは出来ない。
 しかし、生き方を選ぶことは出来るのだ。
「今も彼らと行動を共にしているのか。ここはおまえの家だと聞いたが」
「いえ、えっと、ここは一応私の別荘なんですけど、今回ハルルにはデュークを捜すために来ただけなんです。ユーリたちはギルドがあるので、即位式には招待しますけど、それが終わったらダングレストに帰っちゃうと思います。私は、ヨーデルが皇帝に即位したら私も副帝になってお城での務めもあるので、しばらく帝都暮らしです。いつかは年の半分ここで暮らして、半分はお仕事で帝都へ通えるようになれればと思っているんですけど」
 言って、エステルははにかんだように微笑む。
 その考えが甘い自覚はある。ブラスティアがなくなって帝国は、いや世界は新たな激動の時代を迎えた。皇族の一員として副帝として為政者の側に立ち、また一連の事件の当事者でもあるエステルが担うべき責務は決して軽くはない。
 だからといって帝都の中に、城の中に閉じこもっていてはいけない、そんな確信もある。
 デュークの口の端が、かすかに笑むように弧を描いた。
「帝都に居着かないのも副帝のならいか」
 懐かしむように。
 エステルは思わずはっと息を飲んで、それからそろりそろりと吐き出す。
「それはレギン殿下のこと、です?」
 先帝クルノス十四世の皇弟レギン。ヨーデルやデュークにとっては伯叔にあたるが、同じ皇族でも遠縁でまだ幼かったエステルは、一年の半分も帝都にいなかったレギンとはほとんど面識がない。だがその功績はよく知っている。
「レギン殿下は、帝都におわす陛下の耳目となって世界を知り、手足となって民へ降りかかる危難を打ち払おうと志した方だった」
「はい」
 かつて帝都近辺を荒らし回った凶悪な魔物を精鋭部隊とともに討ち果たし、副帝に即位した後も自ら遊撃踏査団を率いて数多の魔物を掃討し、古代の街道を数多く復活させ整備した英雄である。クルノスの堅実な治世はレギンの見聞によって支えられていたとも言われている。十三年前に旅先で命を落としていなければ、その後の帝国のありようもずいぶんと違っていたかもしれない。
「エステリーゼ・シデス。おまえは副帝となって何を為す」
 真紅に見据えられ、エステルは笑みを浮かべてやわらかに見返す。
「私はまた帝都の外に出ていきます。城の外だからこそ見える人々を、気づける声を、皇帝になるヨーデルに伝えていくためにです。この帝国を統べる側に立つ私たちは、世界を知ることをやめてはいけないと思うんです」
 初めて皇族としての価値を欲したのは、力を願ったのは、ラゴウの権力の前にエステルの言葉など容易く聞き捨てられてしまったあの時だった。目の前の過ちを裁くことも、国を正すことも叶わなかった。
 それまで自分が皇族であることに価値を感じたことすらなかった。無力を無力と嘆いたこともなかった。知ろうともしなかった。その報いだったのかもしれない。
 だから助けたい時に助けられなかった。助けたい人を助けられなかった。
 ──ユーリを守れなかった。
 ずっと憧れ夢見ていた外の世界は、本が語るより遥かに美しく鮮やかなことを知った。しかし甘く綺麗なことばかりでないことも知った。泥にまみれ血にまみれ、己とその罪を思い知った。
 何も知らず、何も出来なかった自分を知った。
 自分はどうしようもなく無力だったのだ。
 ユーリにたくさんのものを背負わせてしまった。その選択そのものは彼自身が決めたことではあるのだが、それがエステルの無力の言い訳になるわけではない。
 まだ籠の鳥だった頃、どれだけの人がエステルの言葉に本当の意味で耳を傾けてくれていただろう。そしてエステル自身、世界の何を見て、何に向き合っていただろう。
 だからエステルは、無力だった、無力であることにも気づかなかった、ただ愚かだったエステリーゼ・シデスを許さない。
「私はヨーデルのように評議会と渡り合うことは出来ません。ユーリたちと旅に出るまで、皇族の務めも正しく理解していたとは言えません。いつも迷ってばかりで、目の前のことですぐ頭がいっぱいになって、考えも甘くて、皇族として至らないことばかりです。でもヨーデルは、そんな私を副帝として必要だと言ってくれたんです」
 ならば己の無力に甘えて、出来ることは何もないなどと諦めてはならないのだ。本当の無力なら、絶望ならもう思い知った。ダングレストですべて諦めたような薄暗いユーリの眼差しを見つけた時に、そしてザーフィアスの頂に閉じ込められたあの時に。
「今の私は自由です。だから私は自分の足で外を歩いて、自分の目で世界を見て、私が為すべき事を考えていきます。私の命ある限り」
「それでおまえたちは、この帝国を、この世界を、変えられると思っているのか」
 デュークの声は突き放すように鋭利だ。だがその冷たさは、決してエステルの痛みではない。
「いいえ」
 だから微笑みは崩さない。
「私たちの力だけで世界を変えられるなんて思いません。それに、力ずくで世界を変えようとするのではなく、世界が良い方へ変わっていく流れをつくるんだとフレンは言っていました。でなければ私たちはいずれ、アレクセイと同じ過ちを犯すことになると。私もそう思います」
「……」
「あ」
 つと戸惑うように瞳を揺らしたデュークに、エステルはフレンの名前をいきなり当たり前のように出していたことに気づいた。気持ちの上ではフレンも同じ仲間なのだが、デュークとの面識はなかったはずだ。
「すみません、フレンは新しく騎士団長になる人で、ヨーデルがとても信頼している人なんです。ユーリとは幼なじみでとても仲が良くて、騎士団にも二人一緒に入ったそうなんですよ。ユーリはすぐにやめちゃってるんですけど。帝都に着いたら紹介しますね」
 帝都警察第二中隊か。消え入りそうな声でデュークがつぶやいて、エステルは思わず凍りつく。その名を聞いた瞬間にわきおこった、不意に氷の欠片を飲み込んだような嫌な冷たさは、恐怖に似ていた。いつだったか聞いたことがあるような、けれど思い出したくないような。
 デュークはその空気を打ち切るように、わずかに伏せた目をついと遠くへ向けた。
「アレクセイも初めからああではなかった。奴はすべてを奪われ、すべてを切り捨ててしまった男だ。──おまえたちは決してそうなるな。何があったとしても」
「昔のアレクセイ、です?」
 まだ少し強張った声で、エステルは目を眇めて問い返す。
 切り捨てたというのはわかる。人としての情も付き従っていた部下もすべて切り捨てて、かの男は一人きりで世界を変える力を求めた末に、絶望の底で死んでしまった。
 けれど何が彼をあんな風に変えてしまったのか。
 アレクセイの過去。
「あの男にもかつて信じた主君と友があった。今のおまえたちのように。だが昔の話だ、私も知らぬ事が多い。おまえたちの仲間の、あの道化た男ならば何か知っているかもしれんが」
「はい、聞いてみることにします。でもレイヴンは道化じゃないですよ。帝国とギルドの協力関係でもいろいろ間に入って調整してくれてますし、騎士団の立て直しにも力を貸してくれて、とても頑張ってます。あまりいじめないであげてください」
「留意しよう」
 そうしていささか熱を失った紅茶で口を湿したデュークが、ぽつりと問うた。
「何故ヨーデルが私を呼び寄せたのか、何か聞いているか」
「いいえ。でもヨーデルも、デュークとお話をしたいのだと思います。ヨーデルの家族で生きているのは、あなただけです」
「……今さら私に、何が言ってやれる」
 一度は人類を滅ぼそうとさえしたのだ。
 それはヨーデルの命をも切り捨てる選択だった。
「だったらお祝いしてあげてください。見ているって言ってあげてください。だって皇帝になるんです、ヨーデルにも不安はあるはずです」
 晴れやかに微笑んで、エステルは窓の外を見やる。
 そこには天を覆う星喰みも、命を吸うタルカロンも今はない。荒れ狂うエアルの禍々しい色も。
 当たり前のような青空。
「私はユーリに誓いました。この国を良くするために頑張るから、いなくならないで、ずっと近くで見ていてほしいと。そして私たちがもし道を間違えてしまったら、止めてほしいと。ずるいかもしれませんけど、弱い私が立ち続けていくための、自分を信じるための、勇気が欲しかったんです」
 あの人が愛したものを守れる自分でありたい。
 それがエステルの選んだ生き方であり、愛し方だった。
「ヨーデルも同じなんだと思います。だから私からもお願いします。デューク、どうかヨーデルの力になってあげてください」



「それがおまえたちの強さか」
 言ってデュークは瞑目し、もう一度目を開いた。
 あのときクロームが信じた、未来を託そうと決めた、人の意志。
「自らを生命の極致と定めていたエンテレケイアが精霊へと生まれ変わったように、人も満月の子もまた、変わってゆけるのかもしれん」
「そうありたいと思っています」
 かつて宿命に翻弄された満月の子は、今は自らの在り方を自らで決めて微笑んでいる。世界の毒だった力をその意志でもって未来を繋ぐ力へと変え、彼女は精霊を祝福し、精霊に祝福された。
 かつてデュークは精霊への転生を、自然の在りようを歪める行為であると、人のエゴだと否定して撥ねつけた。だがマナの発見がエンテレケイアの進化をもたらしたならば、精霊という在り方も自然の摂理の一つなのかもしれない。悠久の果てまでの永遠にも等しい時間を、命ある者の意志の力で飛び越えていっただけなのかもしれない。
「エンテレケイアはあらゆる生命の究極などではなく、さらなる未来への可能性を秘めていた。それはエンテレケイアにとっても希望となるはずだ」
 人魔戦争の折、ベリウスはひどく嘆いていた。
 ──かような虐殺を引き起こしたエンテレケイアが真に進化を極めし者であるならば、命ある者とはその極致に至ってなお、かくも卑しく愚かしいものなのか。
 彼女のその悲嘆は命ある者への絶望だった。自らと異なる存在を見下し、その尊厳を踏みにじる、彼らが愚かと嘲笑う人間と何も変わらぬ卑しさが、進化の終着点たるエンテレケイアにおいても逃れえぬ業であるならば。
 だが違ったのだ。命ある限り未来の可能性が秘められている。意志ある限り変わってゆける。希望はあったのだ。
「ならば私はエルシフルの友として、アルシオーネ皇妃殿下の騎士として、なによりゼーノス・グリュノスの子、ヒュラッセインに連なるひとりとして、次代の帝国を担うおまえたちに人魔戦争の真実を語るべきなのだろう」
 デュークの言葉に、エステルが怪訝に首を傾げる。
 人魔戦争。おそらく今の帝国にその真実を知る者はもう残っていないだろう。記録は何一つ残されていないだろう。皇妃をはじめ多くの人間が命を奪われた、帝都郊外で起きた人魔戦争最後の惨劇『落日の炎』が、本当は何であったのかさえ。
「人魔戦争は、帝国の愚かさが招いたことではなかったのです?」
「事の始まりこそそうだったが、一部のエンテレケイアはテムザで殺戮に興じた。人の命を命とも思わぬその残虐さに、ベリウスも心をひどく痛めていた。人魔戦争が最終的にエンテレケイアの内紛と化したのも、もはや主戦派がヘルメス式の根絶という本来の目的を見失い、人を殺戮することが目的となっていると見なされたからだ。皇帝陛下と皇妃殿下は確かにヘルメス式の開発を見落とす過ちを犯したが、それを正すためにエンテレケイアとの対話に臨んだ。そしてエルシフルはそれに応えてくれた」
 そのすべてを粉々に打ち砕いてしまったのもまた、帝国の卑しさ愚かさであったけれども。
「過去の伝承は我らヒュラッセインの義務だ。それに私自身、おまえたちに知ってもらいたい。エルシフルとアルシオーネ様は、過ちを繰り返さないために力を尽くしていた」
 その想いを、デュークは本当の意味では受け継げていなかったかもしれない。あの日タルカロンの頂でユーリに言われたように。
 大切な友を理不尽に失った悲しみ、裏切った帝国への憎しみ、そんな痛みばかりを抱え込んでデュークは人の世に背を向けた。裏切られたのも失ったのも、自分一人だけではなかったのに。
 あの別れの日、デュークを振り返らなかった皇帝は、父は、何を思っていたのだろう。その答えはもう永遠にわからない。死に別れるとはそういうことだ。だからせめて。
 デュークは手を宙の戒典の柄に添える。
 父から託されたもの。
「あのひとたちの願っていた未来を、ヨーデルたちに託したいと思う」
 死んでしまったあのひとたちの想いが、そうして受け継がれ生き続けていくなら。
 この世界もいつか、変われるかもしれない。



 はっと目が覚めると、厚手のカーテンが引かれた薄暗い室内で、副官のソディアが振り返った。
「お目覚めですか、フレン様」
 言って彼女は少しだけカーテンの隙間から空をのぞかせた。傾いた昼下がりの陽射しが目に染みる。
「ええと。僕はどれくらい寝てたかな?」
 机に突っ伏していた上体を起こしながら、フレンは気恥ずかしさを押し込めて問いかけた。
 こびりついた疲労の重たさは拭いきれないが、少しだけでも眠ったせいか、思考を苛んでいた痛みが治まっている。しかし決裁した書類を渡してこの執務室から出て行くのを見送ったはずの彼女が、また戻ってきているのだ。どれだけの時間が経過してしまったのか。
「三十分も経っていないはずです」
「それだけ? ──何か見つかったのか!?」
「火急であればフレン様がどんなにお疲れでも叩き起こします。ですが今回はたとえ気休めでも、フレン様の顔色の方を優先しておくべきかと思いましたので」
 思わず勢い込んだフレンを、ソディアは平然と受け流した。
「……どういうことだい?」
「十分ほど前、北から帝都へ接近するバウルが確認されました。彼らのことですから人の多い北と東は避けて、南の郊外から帝都へ入ると思われますので、そろそろ下町でしょうか」
 都市間交易が活発化し、また東海岸に港を建設中ということもあって、帝都の北側東側は街道も郊外もかつてないほどの人であふれている。少々の距離を取ってバウルで着陸しても、確かに人目を引きすぎるだろう。それなら少し回り道でも帝都南側、生まれ育った下町を通る方がまだ気安いはずだ。
「そうか、ユーリたちが戻ってきたのか」
 ほっと力の抜けた身体が、椅子に深く沈む。
 期限より早くハルルから戻ってきたということは、ブレイブヴェスペリアはヨーデルの依頼を果たしたということか。
 これは幸運なのだろうか。
「隠れ家に。詳しい話はそこでしよう」
 フレンが言うと、ソディアは返事の代わりに手の中に隠し持っていた鍵を見せた。彼女に渡してあった、四本ある隠れ家の鍵の一本だ。
「先ほど換気がてら中を確認してきました。皆さんをご案内したら私はまた戻りますので、フレン様はレイヴン殿と裏口から行ってください」
「すまない」
「いえ。私たちの両方が城を空けるわけにもいきませんので。フレン様はしっかりユーリ殿たちから協力の約束を取り付けてきてくださいね」
「泣きついてでもユーリに肯いてもらってくるよ。怒られそうだけど」
「ユーリ殿はきっととても困った顔をされるのでしょうね。ご一緒できないのが残念です」
 ふっとソディアが笑う。苦笑にも似た、しかし晴れやかな色合いで。
「困るかな」
「ここ数日ろくにお休みになっていないだけあって、今のフレン様は見るからにぼろぼろです。普段の見栄映えが良いだけに、とても無残です。ユーリ殿は身内にはとことん甘いようなので、その分だといくらでも付け込めそうです」
「あー。まあ、うん。わかってるけど、なかなか酷い言われようだな。騎士団長が一ギルドに甘えるっていうのもなかなか酷い状況なんだろうけど」
「仕方ありません。安い取り巻きと違って、一生の友人とは得難いものですから」
「まったくだ」
 張り詰めていた緊張も数日ぶりに和らいで、軽口を転がせばささやかだが自然と笑みがこぼれた。
 老獪な貴族たちの跋扈する帝国上層部に殴り込むには、ヨーデルもフレンもまだ若すぎる。いつ何処で何に足をすくわれるかわからない。今のこの状況も、とんでもない窮地だ。
 しかも本当に信じられる味方は一握りしかいないこの世界で。
「もう即位式まで日がない。一刻も早くヨーデル様を見つけなければ」
「はい」
 それでも決して孤独ではないのだという確信が、救いであり支えであり、きっと希望だった。







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デュークはオフィシャル後日談でさらに人外へ遠ざかっていきそうな雰囲気だったので、このシリーズでは逆に、人間社会に戻るルートにしてみる。

クルノス十四世、ゼーノス・グリュノス・ヒュラッセイン。これは公式。
その皇妃、アルシオーネ・クローラ・ヒュラッセイン。これは捏造。