P r e l u d e 1 〜 A m a z i n g G r a c e
二人が初めて出会ったのは、十字架の前だった。
光射す、聖堂の中。
「あら。あんた、ここの生徒?」
静謐な堂内の空間に、つとよく通る女の声が響いて。
彼はゆっくりと目を開いて、顔を上げた。
「そうだけど」
そして背後を振り返る。
――ごく微かながら、しゃらりと音がした。
女は微笑んでいた。綽然と微笑みながら、長椅子が並ぶ聖堂の中央を、陽光が射し込む一筋の道をまっすぐたどって、彼の方へ歩いてくる。華美ではないが、それでも一目で極上と知れる装いに身を包んでいた。クセのある金髪が、女の歩みにあわせてふわりふわりと波打っている。
間違いない。貴女だ。しかもかなり高い家柄の。
「あんな真剣に、何を祈ってたのよ?」
そう問いかける声音に、何の含みも感じられなかった。おかしなほどに、ただ純然たる質問でしかない。
「天国に行ったら、見えなくなってた目も、また見えるようになるのかな」
だから。彼は逆に問い返していた。
すぐ後ろで立ち止まった女から、十字架へと目を戻して。
「天国に?」
女の声が呆気にとられたように甲高く跳ね上がる。だが、すぐに。
「そうね、見えてた時が幸せなら、見えるようになるんじゃないかしら」
――ごく微かながら、しゃらりと鎖が鳴る、音がした。
「そっか」
女の答えに、彼は小さく笑った。
「あんた変わってるな。そんなこと言われたのは初めてだ」
誰もが、見えるようになって幸せに暮らしていると、答えたけれど。
「あら、そう?」
「ん。……ありがとう」
彼は消え入りそうな声でつぶやきながら女の隣を駆け抜けて、光に満ちた聖堂を飛び出した。
よく晴れた朝だった。
すれ違う時、甘い花の香がくすぐった。
それが、一つの始まりだった。
さながらこんな花が欲しいと歌うように、言いながら。
「そうね、ラテン語がきっちり出来て、なるべく幼い子。堅信礼前のせめて十二歳ぐらいまでで、いないかしら、司祭?」
ランカシャーを流れるルーン川のほど近く、サイオン大修道院に属する学校がある。修道士らによって、子供たちにラテン語の読み書きなど基礎的な教育が行われる場だ。
この時代の公認聖書はラテン語で記されている。聖職の道に進むのならば、まずラテン語が出来なくては話にならない。それでなくても、こと学問という世界においてはヨーロッパ全土で、ラテン語が共通言語として重宝されていたのだ。大学の入学資格さえ、身分は問われずともラテン語が理解できるかが問われることになる。だからこそ、外さなかった。
彼女ほどの身分の貴族が住まいを遠く離れ、わざわざこの地を訪れた目的をそれと知って、接待役を命じられた司祭がまともに当惑したのがわかる。無理もないだろう。彼女の前の夫はヘンリー六世の異父弟リッチモンド伯だ。
「どう?」
あえて、絵に描いたように淑やかな笑みをたたえて、マーガレットは重ねて問いかける。
「でしたら、特に優秀な二人がちょうど、その御希望に添える年頃だったはずですが……」
いかにもおそるおそるといった感じに硬い声で、どこかぎこちない笑顔で司祭がようやく答えを返した。
「二人?」
「ええ、はい、特に秀でている二人ともが十一の男です。きっとボウフォート様のお目にも叶うことでしょう…」
そして辿り着いた教室の扉を開いて、司祭が一人の名前を呼んだ。
そもそも、どこかの部屋で上位貴族の自分は待っていて、司祭の手で適当な子供が選ばれ連れてこられる方が普通だろう。
今そうしない理由も、マーガレットにはあるのだが。
「この子?」
物静かな子なのだろう。急に呼ばれて、しかも呼ばれた先で待っていたのが自分だ。なるべく見た目が地味な装いをしているとはいえ、本当に賢いのならばマーガレットが並の貴族でないのは一目で見抜かれる。少年は明らかに困惑した顔で、教師である司祭とマーガレットをうかがった。
「ふぅん……」
それをあえて無視して、マーガレットはまじまじと少年を凝視した。忌憚なく見定めるように冷めた視線を受け、半ば怯えたように少年は萎縮する。
「クロード・ライアンと申しまして、末は司教か神学博士かと言われているほどで。聖書の暗誦も実に真面目にやっております」
「もう一人は?」
「は? もう一人、ですか?」
「ええ。二人と、言っていたでしょう?」
司祭がまともに言葉に窮したのを見て、おそらくはこの子で事足りると踏んでいたのだろうが。
冗談ではない。
「それがその、もう一人は、名をクリストファー・アースウィックと申すのですが――」
と。しどろもどろに司祭が何か言いかけたのをさえぎるように、室内から何か固い物がぶつかる音がした。
「騒がしくなったみたいね」
マーガレットがつぶやくが早いか、司祭がまともに青ざめて、教室に飛び込んだ。そして。
「アースウィック…!!」
騒動の主だろうか、ついさっき口にした名を呼ぶ声は悲鳴のようだ。
興味を覚えひょいとのぞき込んだマーガレットの目に、荒れた室内と、その中央、倒れ伏す十人近い少年の中で、たった一人、立っている少年が映った。
「あら」
赤みのある金髪に、周りと違う、しかしマーガレットにはよく見覚えのある顔立ちの特徴は、ケルトに連なる血を引いていることを示している。目の色は南方の国の人間のようだったから、純血ではないのだろうが。
その少年は自分に向かって司祭が大股で歩み寄るのを見て取ると、掴んでいた相手の胸ぐらをぱっと離す。捕まれていた少年はもう伸びていたのか、大人しく床に落ちた。
「おまえはまた、なんてことをしているんだ…!」
責任者たる司祭にしてみれば、それこそよりにもよってこんな時にという気持ちなのだろう。派手な喧嘩があったのは火を見るより明らかだ。
唯一意識のある当事者は、今の今まで殴り合いをしていたとは思えないほどに冷めきった目で、物怖じすることなく司祭を見返すと、
「俺だって好き放題に殴られたくありませんから。それに」
先ほど床に落とした喧嘩相手の手中から、彼は何かを拾い上げる。
「こいつが、先に手を出してきた」
「そういう問題でもないだろう、この惨状では」
「ああ、罰なら、どうぞ?」
大人相手にまるで揶揄しているように、だが静かに言い放つ。司祭がたまらず頭を抱えてしまうのも、わからなくはない。
察するに、この少年がクリストファー・アースウィックであり、十一歳であり、学業ではここで二番目に優秀なのだろう。
そして、性格がこれだ。
「なるほど。大した問題児のようね」
こらえきれずに笑みこぼしながら、マーガレットは教室に足を踏み入れた。
「はぁ、お騒がせしてしまって本当に申し訳ございません。この通りアースウィックは、学業こそ秀でておりますが、妹を亡くしてから周囲の者と折り合いも悪くなる一方で……」
司祭の話を聞きながら、まっすぐとクリストファーの目を見据える。戸惑っているが、恐れの気配など微塵も浮かんできはしなかった。
心が弾む、と言ってしまったら変だろうか。
「面白いじゃない。あんたの罰、あたしが決めてあげるわ」
構わないでしょうと、半ば強引に司祭に了承を得ながら。
ふと思い出した。
一度、会っていることを。言葉を交わしたことを。
「あんた、今朝の聖堂の?」
怪訝そうに目を眇めていたクリストファーが、同じく思い出したのか、はたと目を見張った。その様は、確かに十一歳だ。
「これ…!」
この不敬に司祭が慌ててたしなめるが、それを手だけで制すると。
「いたわよ。あれは妹のことだったのね」
やはり、自分で来て、良かった。
「あたしの名はマーガレット。マーガレット・ボウフォートよ。クリストファー・アースウィック、あんた、私に雇われなさい」
さながら、この宝石が欲しいと歌うように。
「……は?」
呆気にとられて間の抜けた声を上げるのも、無理はないのだろうけれど。
けれど、マーガレットは意に介さず、あでやかに笑った。
「あんたに守る者を与えてあげる。それが最大の報酬よ」
それが、一つの終わりだった。
「わけわかんねぇ……」
自分の私物が次々と荷造りされていく様を半ば呆然と眺めて、クリストファーはつぶやいた。
「あたしだって暇じゃないのよ。今日中にあんた連れてここを出ないとね」
「ああ、……えぇと、なんて呼べばいい、んですか」
気の抜けた声で、それでも何とか、相手は雇い主だから言葉遣いをどうにかしようとするのだけれど、第一印象がこんな有様ではそれも難しそうだ。と。
「マーガレット。マギーでいいわ。あたしにも畏まらなくていい。あんたの役割はそういうものだから。ところで、名前は授かってる?」
奇妙な問いかけだと、クリストファーは思って眉をひそめる。名前など、確かに家名を持つ者は限られてくるだろうが、洗礼名ならば誰でも生後まもなくに付けてもらえるではないか。
「じゃ、質問を変えるわ。もう一つの名前はもらってる?」
唇に不敵な笑みを刻んで、マーガレットの目がクリストファーの手の中にある白銀を見つめた。
彼が母にもらった物。古めかしい、珍しい銀製のブローチだ。
「これを、知ってるのか?」
「あいつらが詳しいわ」
ふいと顎をしゃくって示された背後に、つられてクリストファーは目を向ける。と。
「こりゃまた、強運だな、あんたって」
いつの間にそこに現れたのだろう、ぞろりと足下まである緋色のマントに身を包んだ青年に、クリストファーはまじまじとのぞき込まれた。伸ばしっぱなしにされたプラチナの髪からのぞく色の薄い碧眼は、鋭いを通り越して剣呑でもあるが、今は感嘆で見開かれている。
そして、その彼のマントを留めている、ブローチが。
「それ、同じもん?」
自分のと酷似している、けれどわずかに違う、白銀のそれ。
「かもしんねぇなぁ。おまえ、どこの出身だ?」
どことなく愉しげに笑いながら、青年が問い返した。
「ファーネス」
「親は」
「父はそこの人間だ。母は……北の生まれだと聞いたことがある」
「なるほどねぇ、カレドニアに逃れたクランの裔なんだ」
ひょいと、肩をすくめた青年の後ろから、青年にそっくりなもう一人が身を乗り出してくる。
「え?」
「そいつらは双子よ。バクラ。いつも一緒にいるか片方しかいないかのどちらかだから、二人ともそう呼んでやって」
マーガレットの紹介は投げやりにも聞こえる。二人を同じ名で呼べというのも区別の付けようがなくておかしな話だが、個の名ではなく家の名なのだろうか、それで彼らには当然らしい。
「そのブローチをもらった時に、もう一つの名前ももらわなかった?」
なにより。後から現れた方の青年が手にしている、金の円い板が、どうしてか落ち着かなくて、気になったけれど。
「もう一つの?」
思い起こす、記憶の中の母のほとんどは寝台に伏せっている姿だった。いつも微睡んでいるように、それでも時折、彼に微笑みかけて話をしてくれた。様々な神の物語、妖精の物語、魔法の物語。
その時に、いつか思い出してほしいと言われた、話があった。
「ああ――ジョーノ、だ」
それは、天涯を表す名だった。
いつか誓いを立てなさいと、微笑み言われたことがある。
いつか出会えたなら、その名をもって、と。
「誰だ?」
それが、初めて聞いた声だった。
およそ子供らしくない、静かすぎる響き。この時代にこの血筋に貴族として生まれて、無理もないのかもしれないけれど。
自分が入ってきたばかりの扉を後ろ手に閉めると、彼はそのまま両手をひらひらと振って見せた。
自分一人でこの子供と会えと、求められたのだから。
「クリストファー・ジョーノ・アースウィック。何というか……おまえにあてがわれた子猫、だそうだ」
本当に子供らしくない。
どことなく人形のような、薄い表情をしている。
「子猫?」
――可哀想な、くらいに。
「クリストファーだからな。マギーがふざけて、キッツって呼びやがる。クリスでもいいけど、ジョーノって呼んでくれよ」
言葉がふと途切れた、そのことに意味は得られるのだろうか。
ただ、笑って呼びかけた。
「ユギ」
あのマーガレットの息子。ヘンリー・テューダー。
いや、ヘンリー・ユギ・テューダー。
自分たちのもう一つの名前には、特別な意味があると教えられた。
「……変な人だね」
ふわりと。つぼみがほころびるように、ユギが微笑み返した。
「そうか? おまえの母親には、負けると思うぜ」
握った手は、とても小さかった。
一九六九年も半ばを過ぎた、秋の頃だった。
その子はまだ、もうじき五歳になる幼子だった。
己のすべてを懸けて守る絶対の誓いを、彼が自身とこの少年に立てるのは、これより数年後のことである。