P r e l u d e 2 〜 H o m e , S w e e t H o m e
それが、一つの終わりであり、一つの始まりだった。
その日、ウェールズの風はもう冬近い冷たさだった。
「頼み事をしても、いいか」
城の奥で、寝台に深く深く身を沈めた男は、微笑んでいた。
「何?」
「却下」
緋色の二人から正反対の即答が重なって、男は小さく声を立てて笑う。
「ったく、変わらないな」
その声はとても弱々しく。
「あなたは変わったね、エド」
顔色は抜けるように白く。
「もうじき死ぬからな」
彼の病はもう、命を喰らい尽くそうとしていた。
「ペンブロークに妻がいる。この冬には子供を産むはずだ」
それでも、男は微笑んでいた。
「その子の名親になってくれないか」
洗礼の儀に立ち会い、子供に名を授けてほしい、と。
「俺らがか?」
「私の子供だ。アクラとしての名も必要だろ?」
どこか苦い顔で、二人の片割れがもう片割れを振り返って。
「約束――いや、誓約をしよう。祭司の一族の、長として」
それに微笑んで、彼にはっきりと頷いてみせた。
彼の、血の紅をした目を、まっすぐ見つめて。
「ありがとう」
彼は眠るようにまぶたを閉じて。
そのまま目覚めることは、二度となかった。
それが、一つの終わりだった。
ずっと彷徨うような生き方をしていたが、何も目的がないわけではなかった。
たとえば。
「ああ、死んじゃった」
ぴんと張られていた真っ赤な糸が、突如はらりと力を失って、膝の上に落ちてくる。彼の細い指すべてに、傀儡人形を操るそれのように絡まっていた、糸が。彼の肩から足下までをすっぽりと覆っているマントの、目に鮮やかな緋色の上で、それはどこか赤黒く。
たっぷりと血を吸ったように。
「なんだ、もう死んじまったのか」
羽を休める鳥のごとく高い木の枝にいる二人のうち、腰掛けている彼の背後から、立ったままのもう一人が憮然と地上を見下ろした。
「どうしようか?」
解き放たれてはらはらと風になびく糸を、器用に手に巻きつけ集めてしまうと、枝に座ったまま、彼はやわらかな笑顔でもう一人を振り返る。
「あれだけ引っかき回してやったんだ、依頼主サマもご満足だろうよ。俺らも褒美をいただくとしようぜ」
よく似た顔立ちをしていながら対称的にひどく剣呑な眼差しを持ったもう一人が、眼下の光景を視界から切り捨て、皮肉げに笑った。
二人が身を預けている木の下で、茂みのそばで、たった今斬り殺されたばかりの、哀れな男の死体が転がっている。殺した側は使用人を呼んでいる、死体の首を落とすために。当然だろう、国を騒がせた反乱の首謀者であるあの男の首を差し出せば、宮廷からそれなりの褒美ももらえるというものだ。
さぞヨーク公は驚くだろう。首謀者ジャック・ケイドは彼が反乱を依頼した男とはまるで別人、しかし反乱に加わった中で彼を知る者はすべて、あの男こそジャック・ケイドと、ジョン・モーティマーと言うのだ。そしてさらに、死んだと思った男が何事もなかったように現れ、依頼時に提示していた見返りを要求してくるのだから。
二人にとっては、些末なことでしかないけれど。
「そうだね、行こうか」
緋色を緩やかにひるがえすと、二人は枝の上から忽然と姿を消した。
――この頃に探し求めていたのは、失われていた金色だった。
見つけだすことを、誓ったわけではなかった。
あの頃はもう、お互いの他に誰もいなくなっていたから。
ただ、奪われてしまったことが、気に入らなかった。
ただ、それだけのことだった。
古の時代、トルクと呼ばれる黄金の環は王族の証だった。ただしトルクのすべてがそうというわけではない、本来トルクとは身につけた人間の身分を示す物だからだ。ケルトの血脈に広まってもいた。
だが、少なくとも彼ら一族の中で黄金とは、神ひいては王のために存在する輝きだった。彼らの白銀が、また別の使命を司る輝きであるように。
今となっては、その意味も重みも失われてしまったろうが。
「そもそもだ、ようやく見つけたところで、もう王サマなんざ、どっこにもいねぇしよ」
予想通りに驚嘆したヨーク公から約束のトルクを手に入れて、彼は片割れのもとに返ってくるなり言い捨てた。
ずっとずっと探し求めていたけれど、いつからか。
探すために探し続けていた、だけに過ぎなくて。
「そうだね」
長い長い赤い糸を、小さな糸巻きに巻き付けていた片割れが、笑う。
無造作に伸ばされ背中に流されている少しくすんだプラチナの髪も、色の薄い碧眼も、顔かたちも、そして身にまとっている足下まで覆う緋色のマントも、それを胸元で留めているブローチの銀も。
二人の外見を形作っているパーツ何もかもが鏡に映ったように酷似していながら、しかしながら鏡に映ったように、にじみ出ている気質は正反対だ。
「じゃあねぇ、今度は王様を探そうか」
ねぇ、キァン。朗らかに笑いながらそんなことを言いだした双子の兄に、
「んな簡単に言うんじゃねぇよ。ミァハ」
うんざりと弟はため息をついた。
ときどき、二人しかいないのに無意味なのに、気紛れにこうしてお互いの名を呼んでみる。また名前を忘れてしまったり、しないように。
「……そうでも、なさそうだけど」
ひどく愉しそうにミァハが笑みこぼすのを見て、キァンは目を眇める。
「なんだ、どういうこった?」
「僕の"目"が、見つけたんだよ」
さっと肩の高さにまで持ち上げられたミァハの右腕に、人の頭ほどの丸い物が、上空からふわりと降り立った。ちょこんと申し訳程度の手と足が、まんまるの身体から出っ張っていて、その上に円い輪っかが浮いていて、顔も身体も一緒くたの中に作りの大きな丸い目と口がついていて、背中には宗教画にある天使のような一対の翼があって。
「なにプチテンシなんか使役してやがる……」
げんなりとキァンがつぶやくにあわせたように、その姿がゆらりと溶けるように形を崩して、一枚のカードへと変じる。中空をただようカードをミァハが手のひらに収めて、するとカードもその手から消えてしまった。
「たまにはいいじゃない」
「で。何を見つけた?」
問うたキァンの、手にある黄金をすっとミァハは指さして。
「王の血族」
「それだけで俺らが膝を折るってか?」
「まさか」
心底おかしそうに声を立てて笑う。
「顕現させてなかったアヴァルを、見れるだけの魔力を引き継いでるんだから。会ってみる価値は、あるでしょう?」
「さっきのプチテンシをか? そりゃ、哀れだな……」
まだ姿形が恐ろしいアヴァル、または幻想的だったり人型だったりのアヴァルならば、この地に伝わる魔物や妖精を見たで済むだろう。が、よりにもよってあの間抜け面では、さぞ心の整理もつかないだろう。
「名前はエドマンド・テューダー。ヘンリー六世の異父弟にあたるらしいね。それで――」
そんなキァンの考えを知ってか知らずか、ミァハは嬉々として調べ上げたことを語り出したのだった。
見つけだすことを、誓ったわけではなかった。
あの頃はもう、お互いの他に誰もいなくなっていたから。
ただ、失われてしまったことが、信じられなかった。
ただ、それだけのことだった。
「これで、いいのか?」
失ったのだ。
ただ一人、ヨークの支配下に落ちたこの地に、不自由を承知で残り続けたテューダーの人間を、古の王の血を、喪ったのだ。
「良いも悪いも、ないでしょう?」
鐘が鳴る。
弔いの鐘が鳴る。
「タウトンであった会戦の後、ジャスパーの行方はカレドニアに逃げ込んだところまでしか追えなかった。……そうだね、ジャスパーさえ、テューダーの長子さえヨークの奴らに引き渡せたら、エドは最期までマギーと一緒にいれたかもしれないね」
くつくつと笑みをこぼしたミァハの視線の先で、ゆらりと空気が熱を帯びて。
蹄にたてがみに、そして翼に、燃える炎をまとう白馬が項垂れたまま、陽炎のように降り立った。
「おまえも、主を喪って悲しいんだな」
これからすべき、こと。
ペガサスの首筋を慰めに撫でてやりながら、ミァハはキァンを振り返った。
「行こうか」
ペンブロークへ。
「俺はあの女は苦手なんだがなぁ」
わざとらしい弟の渋面も、笑みが強まるのを誘うだけで。
「キァンはマギーだけじゃなく、誰も好きじゃないでしょう」
「そうでもねぇぜぇ? 片手はあまるけどな」
「同じことだって。その中の、いったい何人が今も生きるんだか」
心底おかしそうに、ミァハは声を立てて笑う。
「僕は行くよ。楽しみじゃないか、何といってもあのエドとマギーの御子息だものね?」
「男か」
さらりと告げられた、近い未来。
「違う」
それは予感と呼んでしまうほど、不確かなものではなかった。
「――王様、だよ」
見つけだすことを、誓ったわけではなかった。
あの頃はもう、とうにお互いの他に誰もいなくなっていたから。
ただ、何もなくなってしまったことが、耐えられなかった。
ただ、それだけのことだった。
けれど、それももう、終わり。
その日、ペンブロークの冬空は、久々に厚い雲が途切れていた。
白々と射し込む光はどこまでも清く、聖なる樹を照らす。
「ミァハ」
純金の円板を樹下で捧げ持つ、兄に声を掛けた。
「生まれた」
「知ってるよ。アヴァルたちが騒いでる」
ゆらりとキァンを振り返る、ミァハの表情はいつもと変わらない微笑が張りついている。
「――神が目覚めた、って」
時は来た。
一つの約を果たし、一つの約を契ろう。
聖水を受けてうっすらと輝く、父譲りの金糸は絹のようになめらかで。
代父母らの一人によって生まれて間もないその子は名付けられ、滞りなく洗礼の儀が終わる、その直前に。
「アクラが授かりしこの新しき継嗣に、宿り木の祝福を」
鮮やかな緋色をまとうプラチナの青年が、小さな手に梢を捧げた。
「古の王の子、神の樹の一葉、其の名をユギと刻みましょう」
静かに、歌うように、
「そしてこの天が我らの上に落つるその時まで、バクラがお仕えすること、お守りすることを、誓いましょう」
その日、ペンブロークの冬空は、久々に厚い雲が途切れていた。
うっすらと金の光を空に満たす太陽が、懐かしい。
この黄金に、聖なる誓いを約する。
それが、一つの終わりであり、一つの始まりだった。