Brightness Falls from the Zenith





──あなたと出会い生をうけ、あなたを失い死を知った。






妖精の子ども




 大きく揺さぶるような衝撃と、ぺしぺしと軽い音が、まどろむようにたゆたっていた意識を震わせる。
 ――ぺしぺし?
 はっと意識を急浮上させ、勢い本性のまま飛び出しかけたのをすんでのところで小さな人の形にすり替えて、ダーク・リベリオン・エクシーズ・ドラゴンはその部屋の中に顕現した。
『カードを叩くな……!』
 そうしてすかさず自分のカードを、やはり少年の姿で実体化していたオッドアイズ・ドラゴンの手の下から救い出す。と。
『リーベーリーオーンー!』
 異彩の眼がぱっと安堵に輝いたかと思うと飛びつかれて、ダーク・リベリオンはとっさにカードを持つ手を頭上に逃がした。万が一にも潰されてはかなわない。
『な、何だ、どうした!?』
『大変なんだ、アークが熱出した! しかもいつもより熱い!』
 言ってオッドアイズが指さしたホテルのベッドの上では確かに、いつもより顔が赤く呼吸も荒い様子で、アークが身を縮こまらせて眠っている。
 ああ、これは困った。
『……わかった。クリアウィングとスターヴ・ヴェノムも叩き起こしてくれ』
『わかった!』
 ああ、これは困った。
 先ほどの自分と似たり寄ったりのやりとりを繰り返している仲間の怒声を聞き流しながら、ダーク・リベリオンは思わずため息をもらした。
 アークが熱を出すのはしょっちゅうだ。本人も慣れたもので、体調を崩す兆候を感じると自分で寝込む用意をしてしまう。翌日本当に倒れたら、自分たちはそれを使ってアークの世話をすればよかった。
 だが今日はそれがない。
 夜中のうちに急に体調が悪くなったのだろう。
 人の形をつくって実体化して、人の振る舞いを真似ているに過ぎない自分たちでは、軽い怪我を治すくらいなら出来ても、人間の病気には手が出せない。
 しかも今はデュエルの公式大会中で、ここは滞在中のホテルで、今日はたまたまスケジュールの関係で中休みになっているが、明日にはまたズァークの試合もある。
 本当に困った。
 とりあえずこのホテルの部屋でも冷蔵庫に飲み水くらいはある。
 他に必要な物は何だ。用意もなくアークが起きられないほど酷いことなどダーク・リベリオンが知る限りなかったので、いつもはその都度これが欲しいと言ってくれていたのに。
『とにかく、薬を手に入れなければ……』
 せめて自宅ならば買い置きがあるし、普段使っている通販という手もあるし、何か足りなくても駆け込める店の位置は何となく記憶にあるのだが。
『ここで唸ってても仕方ないし、僕たちで買ってくるしかないでしょ』
 ぐりぐりと拳骨でオッドアイズのこめかみをえぐっていたスターヴ・ヴェノムが、手もとの頭をしたたかに小突いて横に転がしてから、呆れた半眼をダーク・リベリオンへ寄越してきた。
 リアルソリッドビジョンのシステムはそこら中にあるのだから、実体化したまま人の姿のまま、アークから離れて行動することは不可能ではない。
 不可能ではないが、やったことがない。ましてや自分たちだけで買い物など。
『やったことあるのかスターヴ・ヴェノム!?』
『んなわけないじゃん。僕たちしょせんコレだよ』
 指先で自分のカードをひらひらさせながら、スターヴ・ヴェノムは笑った。
『まあ、何とかなるんじゃないの?』
『そうだな……行くしかないか。だが誰が行く?』
 この人の形はアークをかたどっている。
 最初に人の形をつくっていたオッドアイズにならってのものだ。
 しかしズァークとして今は有名になったこの顔立ち、下手をすれば大きな騒ぎにもなりかねない。
『俺が行く!』
 スターヴ・ヴェノムの手荒い仕返しでひっくり返っていたオッドアイズが弾かれたように起き上がって、びしっと勢いよく挙手した。
『お、んじゃ俺も行く!』
 次いで、それを宥めて笑っていたクリアウィングも。
 だが、いかにもその方が面白そうだと言わんばかりのクリアウィングの顔に、ダーク・リベリオンとスターヴ・ヴェノムは一瞬顔を見合わせ、胡乱げな目を向けた。
『おまえがか……』
『っんだよその目は!?』
『いや、その』
『君から目を離すのは怖いなぁって思っただけだよ』
『てめぇら失礼だな!?』
『え、俺も一緒だよね!?』
 気まずげに言葉を濁したダーク・リベリオンの横で、まるでクリアウィングを野放しにするかのようなスターヴ・ヴェノムの言い方に、クリアウィングとオッドアイズが揃って不満の声を上げる。
『わかったわかった。アークをこのまま放っておくわけにはいかないし、一人だけ置いていくわけにもいかない。俺たちが残るから、おまえたちは薬を手に入れてくれ』
『大丈夫』
 ベッドサイドの鞄からアークの財布を引っ張り出して、オッドアイズは深く頷く。
 然るべき場所で、お金を対価に薬を手に入れる。
 記憶ならある。店に辿り着けさえすればきっと何とかなるはずだ。
『そっちこそ、ちゃんとアークに水飲ませてあげてよ。少しずつだから』
『任せてくれ』
『はぁ……本当にトラブルは勘弁してよ、アークは動けないんだから』
『わーってるよ、おまえもしつこいヤツだな。――行くぞ、オッドアイズ!』
『うん!』
 ひときわ賑やかなふたりが飛び出していって、室内は一気に静まり返った。
『大丈夫かな』
『まあ、大丈夫だろう』
 ダーク・リベリオンは苦笑する。
 オッドアイズはずっとアークとふたりきりだった。今よりもっと子供で無力だった頃のアークと、実体化できるようになるずっと前から。
 クリアウィングも普段は勝手気ままだが、いざとなれば意外と弁えている。
 そして腰が重い自分たちより、あのふたりの方が行動派なのは言うまでもない。
『とりあえず水か』
『あと氷のう……はないから、こういう時は濡らして絞ったタオルだっけ。少しでも楽になるといいけど』


 人けのないホテル前の公園を、オッドアイズとクリアウィングは上着のフードを深くかぶって通り抜ける。
 時刻は早朝、歩いている人間はまばらだが、皆無ではない。
 この顔を見られて他のデュエリストに捕まるのは避けたかった。のだが。
『――悲鳴?』
 思わずオッドアイズは足を止めた。
 道の脇で生い茂る木々の向こうから、助けを求める声が聞こえてきたのだ。
 しかもこれは人間の声ではなく。
『どっからだ……?』
 クリアウィングもフードの影で目を眇める。と。
「きゃあっ!?」
『うわっ!?』
 突然一人の少女が茂みを蹴り割って飛び出してきた。
 勢い目の前にいたオッドアイズとぶつかって、そのまま二人とももつれるように倒れ込む。
『お、おい、あんた大丈夫か?』
 慌ててクリアウィングは膝を折ると、少女に手を差し伸べた。
『俺の心配は!?』
『いるのか? ほれ、とっとと起きろ』
 押し倒されたオッドアイズは当然無傷でわたわた手足をばたつかせているだけだが、小さくうめき声をもらしている少女の方は怪我をしたかもしれない。それに茂みから飛び出してきたときも尋常ではない様子だった。
「ごめん、なさい……」
 差し出された手を借りて、少女がよろよろと上体を起こす。
 そうして巻き込んでしまったオッドアイズに目を向け、刹那、深く息を呑んだ。
『あ』
 ぶつかった際にオッドアイズのフードは背中に落ちており、なによりこれだけの至近距離で、顔を隠しきれるはずがない。
 大きく目を瞠った少女はオッドアイズの顔を、そして異彩の眼を、まじまじと見つめる。
「あ、あなた……、えぇっ……!?」
 しまった、見られた。その瞬間オッドアイズの脳裏に浮かんだのは、パチパチと紫電を鳴らすダーク・リベリオンの姿だった。優しいアークは何かあっても困ったように笑うだけだが、その分怒るべき時にはダーク・リベリオンが怒る。物の喩えではなく雷が落ちる。
 とっさに少女へ顔を寄せると、オッドアイズは唇の前で人差し指を立てて、そっとささやいた。
『お静かに。――君の友達が助けを呼ぶ声を聞いた』
 そのまま少女のデュエルディスクへ、ゆっくりと指先を移す。彼女の視線もそれを追う。
 助けて。襲われる。オッドアイズが聞きつけた、口々に助けを求めている声の主は彼女のデッキだ。
『何かあったの?』
 すると一瞬泣き出しそうな顔をした少女は、すぐに落ち着きを取り戻した眼差しでオッドアイズとクリアウィングに向き直った。
「追われているの。たぶん本戦の出場者潰し」
『なんだそりゃ』
「不戦勝を狙った闇討ちだと思うわ。いきなり勝手にデュエルが始まったから。デュエルでならどんな怪我も不問になるし、出場不能までいかなくても立ち回りでかなり有利になるもの」
『ってことは、悪党か!』
 少女の言葉に、クリアウィングが眼を輝かせて立ち上がる。
「え、ええ……?」
 困惑した様子でそれを見上げた少女が、ふと目を瞬いた。オッドアイズを振り返り、再びクリアウィングを見上げて、訝しげに首を傾げる。
「またそっくり……?」
『ええと』
 どう誤魔化したものか。曖昧な苦笑いを浮かべて視線をさまよわせたオッドアイズに、突然少女が抱きつくように腕を伸ばした。首の後ろに回った彼女の手は、肩に落ちていたフードをかぶらせる。深くしっかりと、顔が隠れるように。
 同時に先ほど少女が飛び出してきた茂みを割って、不穏な気配を漂わせた男二人と、人型モンスター一体が姿を現した。
「女がいたぞ」
「ガキが増えてるじゃねぇか」
 その腕で起動しているデュエルディスクからは、くすくすと甲高く陰湿な笑い声が幾重にも響いている。
『なあなあ、あれが悪党ってヤツだよな? ぶちのめしていいんだよな?』
 言ってクリアウィングは、オッドアイズと少女を背後に庇うように立ちはだかった。
 これは止めるだけ無駄だろうとオッドアイズは即座に観念する。それに悪党認定には賛成だった。
 残る問題はダーク・リベリオンに叱られずスターヴ・ヴェノムにねちねち嫌みを言われずに済むかだが、こんなところで持ち主が丸わかりの大型デュエルモンスターが出現したら、たぶん思いっきりアウトに違いない。
『ちょっと……!』
『大丈夫大丈夫、任せとけって』
 ひらひら手を振るクリアウィングは軽く言い放つ。
「チビがナイト気取りか?」
「こっちはデュエル中だ。巻き込まれても知らんぞ」
『――へえ、二対一でバーンカード多用でデュエリストをいたぶるやり口か。あくどいこった』
 淡い金の眼をぎらぎらと輝かせ、クリアウィングがフードの下でちろりと唇をなめた。
「ガキなんか放っておけ、さっさと片付けるぞ!」
 その瞬間、起動している三つのデュエルディスクが、"四人目"を認識する。
 バトルフェイズに入って攻撃行動を取ったモンスターの刃を、クリアウィングは軽々かわすと、その腹に回し蹴りを叩き込む。
 姿形こそ小柄で細身の少年だが、その本性は強大な力を持ったドラゴンに他ならない。見た目からでは考えられない攻撃力2500を叩き込まれて、二メートル以上あるモンスターが勢いよく吹っ飛んだ。
 打ち負けたモンスターは音を立てて砕け散る。きらきらとパーティクルが舞う中、悪党二人は目の前で起こったことを理解できず混乱と驚愕を貼り付けた顔で、やはりクリアウィングが振るった不可視の風の翼になぎ倒され、呆気なく昏倒した。
『見たか、俺様の華麗な足技!』
 肩に落ちた細長い三つ編みをぴんと背中に弾き飛ばして、仁王立ちしたクリアウィングは満足げな顔で勝ち誇る。
『テレビの見すぎだよ……』
 足なんかないくせに。オッドアイズはげんなりとつぶやく。
 最近よくテレビを見ているので、そこで仕入れて適当にやったに違いない。それに。
『何やってるんだよ、これじゃただのケンカじゃないか!』
『ちっげーよ俺はちゃんと乱入処理したぞ! んでもって俺がぶっ飛ばした巻き添えくって続行不能で終了だ! よく見ろ!』
 オッドアイズの非難がましい声に、クリアウィングは少女のデュエルディスクをびしっと指さして言い放つ。
 言われて見てみれば確かに少女のデュエルディスクには、乱入から召喚、バトルの衝撃に巻き込まれた相手デュエリストが意識を失って続行不能の判定が下るまでが記録されている。
『あ、アークのID出てる』
『それはしゃーねーだろ俺たちに紐付いてんだから』
『ふぅん? ……慣れてない?』
 つまるところデュエルへの不正規な介入と履歴データの改竄だ。
 日常的にこの実体を維持するために、デュエルディスクからリアルソリッドビジョン・システムのネットワークに入り込む術を教えたのはオッドアイズだったが、おそらくそれを応用しているのだろう。
 オッドアイズが半眼で睨むと、クリアウィングはさっと眼をそらす。
『……俺だけじゃないし』
『どっち』
 重ねて問うと、苦虫を噛み潰したような顔ながら、観念したようにため息をついた。
『……ヴェノムには言うなよ』
『え、そっち?』
 共犯がダーク・リベリオンの方だとは意外だ。
 その時。
「あの、お話中ごめんなさい。いいかしら?」
 少女からおずおずと声を掛けられて、オッドアイズはそこで初めて気づく。
 ──忘れてた!
 普段ならアーク以外の人間の前で、人の形で実体化することはない。必要に駆られなければアーク以外の人間と関わることもない。この声はアークにだけ聞こえて、この姿はアークにだけ見えていればよかった。そのためだけにつくりあげた幻の体だ。
 だから今、他人に見られているという意識が完全に抜け落ちていた。
 ちらりと横目で見やれば、クリアウィングもやってしまったと言わんばかりの顔で額を押さえていた。失念していたのは同じらしい。
『え、ええと、俺たちは、』
 あたふたと言い訳を考えるが、何も思いつかない。
 と今度は少女の方が、先ほどのお返しとばかりに人差し指をそっと唇に押し当ててオッドアイズの言葉を押しとどめた。
「あなたのその目、とても綺麗ね」
 やわらかに微笑んだ少女は落ち着いた声でささやく。
『……あ、ありがとう?』
 戸惑いながら眼を瞬くオッドアイズに、彼女はくすりと笑みをこぼした。
「それは私の台詞。助けてくれてありがとう。とりあえず話はここを離れてからにしましょう? 他の人に見られるとややこしくなりそうでしょ、アレとか」
 そうして伸びた男たちを一瞥しての言葉には、肯くよりほかなかった。


「改めまして。私は赤馬レイ。助けてくれて本当にありがとう、クリアウィング・シンクロ・ドラゴンさん、それとオッドアイズ・ドラゴンさん、──でいいのかしら?」
 噴水側のベンチに場所を移して、少女は自分の名前を名乗った。
『アカバレイ? ……君は何とも思わないの、その、俺たちのこと』
「レイでいいわ。さっきデュエルに乱入したのはズァークのクリアウィング・シンクロ・ドラゴン。それにあなたのその赤と緑の眼。あとはもう自分の目で見たままを信じるしかないじゃない?」
 オッドアイズとクリアウィングは一瞬フードの影で眼を見合わせる。
『えーっと……驚かねぇの? マジで?』
『てか、怖くないの? 俺たちデュエルじゃ結構暴れてると思うけど』
「最初にちゃんと驚いたわよ。でも怖くは……ないわね」
 レイがじっくりとふたりの顔を覗き込む。
「うん、ないわ。私より年下に見えるし。それに暴れてるっていってもパフォーマンスじゃない。あの事故は残念だったけど、それより最近増えてきた、デュエルにかこつけて相手をなぶり者にする奴らの方が怖いわ。わざと怪我させたりとか」
『さっきの連中とか?』
「そうそう。けどデュエル界の若き覇王は、誰が相手でもある意味平等に見下して、堂々と相手を叩き潰す圧倒的な力強さが魅力の、孤高のカリスマでしょ?」
『えー、アークってそんな風に見られてるんだ……そりゃ外では偉そうにしてるけど』
『あー、そういや笑えるくらい格好付けたイメージ飛び交ってんなぁ』
 初耳のオッドアイズは呆れるが、クリアウィングはしみじみ頷く。
「ふふっ、人気者の役作りも大変そうね。でも素顔なんて案外そんなものなのかな」
『中身はただの人見知りだよね』
『デュエル以外で大勢の人前に出て喋るときなんか、緊張でガッチガチだしなー』
『電話もあまり出たがらないから、よくダーク・リベリオンやスターヴ・ヴェノムがアークの振りして代わりに取ってるし』
『あと結構怖がりだよな、テレビのホラー番組とかマジでビビってる』
『それテレビ前のクリアウィングはいいかもしれないけど、しがみつかれる方の身にもなって』
『アークがゲームで俺に勝てるようになったらな! それに俺よりヴェノムに悪趣味なもん見せられて、よく涙目になってるのはいいのかよ』
『よくないよ! あれ本当にグロい!』
 最初は笑って聞いていたレイが、にわかに慌て始める。
「ちょ、ちょっと待って!? 私の覇王様のイメージが……!」
『諦めて、現実はそんなものだよ』
『あいつプライベート非公開だもんな。ま、年がら年中俺たちと一緒だから言えることがねえんだけど』
「私、すごい秘密を知ってしまったのね……」
 大仰に愕然とした素振りを見せたレイが、ゆるゆると首を振った。
「覇王のドラゴンたちは可愛い弟くんだったし、本当に驚かされっぱなしだわ」
 今度はオッドアイズとクリアウィングが面食らう。
『可愛いって!』
『それはねーだろっ』
「一人っ子の私からしたら羨ましいの!」
 レイはきっぱり言い放ってから、ふっと笑みを綻ばせた。
「ほんと、人間みたい」
『嬉しそう、だね?』
「嬉しいのよ。私ね、父様のリアルソリッドビジョンで自由に動くようになったデュエルモンスターたちを見ていて、個性や感情があるんじゃないかって思うことが何度もあったわ。だから魂があるって話も信じてた。まさか、こんな風にお喋りできるなんて考えたこともなかったけど」
『俺たちも最初からこうじゃなかったよ。リアルソリッドビジョンを悪用するのに慣れただけ』
 わざとらしい言い回しに、レイの笑みが深くなった。
「あの人と一緒にいるために?」
『……うん』
「あなたたちの息がぴったりなはずだわ。本当に手も足も出なくて、悔しいと思うより先に圧倒されたもの」
『もしかして戦ったことある?』
「半年前、公式戦で当たったことがあるわよ。覚えてもらえるほどの戦いは出来なかったけれど」
 残念そうに苦笑を滲ませたレイが肩をすくめた。
『あー、俺たち人間の顔とか覚えるの苦手でよ』
「気にしないで、一度だけだもの。けど……あなたたちの顔がズァークにそっくりなの、わかってる、のよね?」
 レイの声が一転して気遣わしげな色を帯びる。
『うん、これはわざとだよ。アークを素にして形をつくってそのままだから』
 変かな。オッドアイズが首を傾げると、レイは慌てて首を横に振った。
「そうじゃないの。ただあの人はとても有名だから、何かあった時に困らないかなと思って」
 オッドアイズも神妙な顔になる。
 確かにこの顔立ちでは、アークと一緒にいなくても関係者であることは一目瞭然だろう。
 顔を見られたのが彼女のように冷静で好意的な人間だったことは、きっと幸運でしかない。
『……お願いがあるんだ。俺たちのこと、誰にも言わないでほしい』
『だな、他人にバレたなんて知れたら、絶対めちゃくちゃ怒られる……!』
 ダーク・リベリオンの雷を思い出して、クリアウィングも縮み上がる。
「ズァークに?」
『アークは優しいけど、他の……ダーク・リベリオンとか』
 レイが小さく噴き出した。
「わかったわ。今日のことは誰にも言わない。約束する。他に何か私に出来ることはないかしら? お礼がしたいの」
 彼女の言葉に、オッドアイズとクリアウィングははっと顔を見合わせ、頷き合った。そして。
『助けてください!』
『俺たちめちゃくちゃ困ってました!』
 揃って深々と頭を下げた。
「……え?」


 オッドアイズとクリアウィングがアークの発熱のことを話すと、レイは決然とした顔で二人の手を掴み、引きずる勢いでホテルに引き返した。
 向かった先は、一階に入っている売店。
「それ、持ってて」
 買い物カゴを二人に押しつけて、店内を足早に歩き回り、彼女は次々と商品をカゴに放り込む。
「ここの棚が熱冷ましの飲み薬だけど、見覚えある箱はある? ──じゃあそれ。飲んだことない薬だと、もし体に合わなかったら大変だから。この薬を飲む前には、少しでもいいから何か食べさせることを忘れないように。あーとーはー、冷却シートもあったらいいかな」
「飲み物はこれ。汗かいてたら普通の水だけじゃ足りないから」
「この袋はゼリー、熱でしんどいときはスプーンで食べれるようにこっちのコップに出してあげてもいいわ。プリンとバニラアイスもあるから、食べられそうってなのをあげて。すぐに食べない分は部屋の冷蔵庫と冷凍庫に片付けておいてね」
 レイがてきぱきと進める買い物と説明に、オッドアイズもクリアウィングもついていくだけで必死だ。
『すっげぇ……』
『うん……』
「慣れてますので」
 茶目っ気のある仕草でレイは胸を張った。
『君もよく熱を出すの?』
「ううん。私の父がたまにね。ただの不摂生だけど。母様が出ていって一人になってから、ほっとくといつまでも研究にこもりっきりで……私が面倒見なきゃ」
『出ていく?』
 クリアウィングが怪訝に眼を眇める。
 するとレイは逡巡するように視線をさまよわせてから、困ったような笑みを滲ませた。
「人間は、家族だった人たちがいろいろあって、心が変わってしまって、家族をやめてしまうこともあるの」
 レイの言ういろいろの意味はよくわからなかったが、オッドアイズははたと気づく。
 だから幼いアークもひとりぼっちだったのだろうか。
『家族も絶対じゃないんだね』
「けど、やり直すことだってあるのよ。新しい家族が出来ることだってね。あなたたちだって家族でしょ」
 微笑まれて、オッドアイズはどうしてか上手く肯けなかった。
『そっか、俺たちがアークの家族か』
 隣でクリアウィングが嬉しそうに照れくさそうに笑う。
 家族。オッドアイズの胸の奥に、つきりと冷たいものが落ちる。
 自分たちはアークの家族になれているだろうか。
 もう、寂しいと思っていないだろうか。
 ぼんやりと考え込んでしまって、気がついたらレジで会計も終わっていた。
『あ、お金』
「何言ってるの、これは助けてもらったお礼でもあるんですからね。はい」
 食料品とそれ以外に分けられた二つの袋を、レイはふたりに一つずつ持たせる。
「今日一日分は一通りあると思うけど、長引きそうならちゃんとホテルの人に頼んでお医者様に見てもらうのよ」
『たぶん大丈夫だよ』
『いっつも一日寝たらけろっとしてるしな』
「疲れが熱で出るのかしらね……でもよくあることだからって油断してちゃ駄目よ? 人間が熱を出す病気はいろいろあるの、命に関わる病気だってあるわ」
 彼女の言葉は真摯だ。
『おう。覚えておく』
『俺たちが気をつけなきゃいけないんだね』
 アークを守れるのは自分たちだけだ。
「あなたたちはあの人のこと、本当に大好きなのね」
『君のデッキも君のことが好きだよ。でなきゃ俺たちは君に気づかなかった』
「ありがとう」
 少しはにかみながら、レイが笑って手を差し出した。
 オッドアイズは一瞬眼を瞠ってから、そっとその手を握り返した。アークよりも細い手。
「あたたかいのね。本当、人間と同じなんだ」
 クリアウィングも照れくさそうに握手に応じた。
「あなたたちに会えてよかった。デュエルモンスターには心があって、生きている」
 さよならと手を振ったレイは本当に、嬉しそうに笑っていた。
 ――この時は、まだ。


 ホテルのカードキーを通すのももどかしく、オッドアイズとクリアウィングふたり、凱旋気分でドアを勢いよく開け放った。
『たっだいまー!』
『薬買ってきたよー!』
 すると間髪入れず、ダーク・リベリオンの怒声が飛んできた。
『遅いっ!』
 部屋の真ん中に仁王立ちである。
『はぁっ!? こちとら初めての買い物だったんだぞ!』
『遅いったってまだ一時間ちょっとだよ……』
 クリアウィングは牙を剥き、時計を一瞥したオッドアイズも口を尖らせる。
 いい気分に水を差されて台無しだ。が。
『ほらー、だから心配いらないって言ったじゃん』
 奥の寝室からひょっこり顔を出したスターヴ・ヴェノムが、半眼でニヤニヤ笑って言った。
『おかえり。そこの心配性がうろうろうろうろ鬱陶しいったらなかったよ。あんまり邪魔だったんで蹴り出したんだけど』
『へ〜? ほ〜?』
 一転して意地の悪い笑みを浮かべたクリアウィングが、ぐっと黙り込んでしまったダーク・リベリオンを小突く。
『……すまない』
『おまえってたま〜に爆発するよな』
『うんうん。──で、アークの様子は?』
『君たちが出てった後に一回起きたから水は飲んだけど、熱がつらそうだったね。何買ってきたの』
『熱冷ましの薬と、あとゼリーとかいろいろ』
『ふぅん』
 つとスターヴ・ヴェノムが面白がるように眼を細めた。
『……何?』
『なんだか、いい匂いがするなぁと思って』
『匂い?』
 オッドアイズが異彩の眼を瞬く。
 買ってきた物はどれも開封していないから、はっきりと匂いがする物はないはずだが。
『大した意味はないよ。僕の感じ方がそうってだけだから。──ねえ、アーク起きてる? オッドアイズたちが無事に薬を手に入れて帰ってきたよ』
「うん……さっきの大声で……目が覚めた……」
『アーク!』
 上手く誤魔化されたようでもあったが、スターヴ・ヴェノムがベッドの上に呼びかけるとアークがよろよろと手を振って応えてきたので、オッドアイズは慌てて駆け寄った。
 買い物で終わりではない。看病はここからが本番だ。


  *****


 翌日、オッドアイズがそれを見たのは偶然だった。
『なーなーオッドアイズ! ちょっとこっち来てみろよ!』
 暇なときによくテレビで遊んでいるクリアウィングからの呼び声が、風に包まれて届く。
『今度は何見つけたの』
『昨日の女の子が出てるぞ。生中継!』
 それでわざわざ内緒で声を掛けてきたのか。
 今日は試合があるが、どうせスタジアムに入らなければならない時間は午後になってからだ。
 昨夜のうちに熱が下がったアークはたっぷり朝寝をしてから、ダーク・リベリオンに世話を焼かれながらのんびり身支度をしている。
 少しくらいクリアウィングにつきあっていても大丈夫だろうと、オッドアイズはリビングに顔を出した。
『ほんと?』
『おお。今から始まるとこ』
 テレビ正面のソファの上で、クッションを抱えたクリアウィングがにかっと笑った。
 その隣に座って、オッドアイズもなんだか少しワクワクする。きっとクリアウィングも同じ気持ちで呼んだのだろう。
 画面にはフィールドに凛と立つレイの姿がある。
 知り合いがテレビに出ているのを見る、という経験は初めてだ。
 アークが出る時は、たとえカメラに映っていなくても自分たちが傍にいるから。
 しかしテレビ観戦が楽しかったのは最初だけだった。
 デュエルをしている、レイの様子がおかしい。
 モンスター効果や伏せカードの発動タイミング、それらが少しずつズレて、不協和音を奏でている。
 デュエリストとしての精彩を欠いている。
 序盤はそんなことはなかった。彼女は優れたデュエリストだった。
 おかしくなったのは。
 ──最初に相手モンスターを戦闘破壊した時からだ。
『まさか』
 オッドアイズはフィールドに眼をこらす。
 その時、相手モンスターの攻撃によって彼女のエースが破壊された。
 びくりと肩を震わせ、砕け散ったパーティクルを振り返った彼女の顔は青ざめていて、まるで怯えているようだった。
「珍しいな、オッドアイズもテレビ?」
 突然後ろから掛かった声に、オッドアイズもクリアウィングもびくりと肩を跳ねさせる。
『アーク、』
 いつの間に。
「なに見てるんだ、デュエル? 大会中継?」
 ソファの背もたれから身を乗り出したアークが、ふたりの間に入り込む。その頭にはバスタオルをかぶったままだ。果たして。
『アーク! 病み上がりなんだぞ、ちゃんと髪を乾かせ』
 慌てて追いかけてきたダーク・リベリオンが大きくため息をついて、まだ湿り気の残るアークの髪を甲斐甲斐しく拭き直し始めた。
「だって歓声が聞こえたからさ」
『テレビだろう』
「午後にはあれが全部、俺のものになる」
 楽しみだと笑みを刻んだアークが、ふと訝しげに目を瞬いた。
「オッドアイズ」
 その手が伸ばされる。
「どうしたんだ、おまえ、」
『──何でもないっ』
 オッドアイズは指先が触れる寸前、ぱりんっとリアルソリッドビジョンを強引に壊した音だけを残して、逃げるように姿を消す。
 いや、逃げたのだ。
「え、何?」
 取り残されたアークは呆然とした顔でダーク・リベリオンを見て、次にクリアウィングを振り返った。
『……アークが悪いんじゃねぇよ』
 地を這う声で、クリアウィングはつぶやくように言った。
 中継されているデュエルはもはや惨憺たる有様だ。ここからあの少女が立て直すことは叶うまい。なにより彼女の心が折れてしまっているのだ。
 観客席から上がる声も攻防を楽しむものから、強者による蹂躙に酔いしれるものへと移り変わっている。
 もっと強く、もっと激しく。
 それはアークと一緒に、何千何万と溺れるほど浴びてきた声だ。
 苦く感じることがあるなんて、思ってもみなかった。
『あーあ、すっかり盛り上がっちゃって、今日も観客席が満開だね』
 オッドアイズと入れ違いにふらりと姿を現したスターヴ・ヴェノムは、テレビに目を向けるなり、くつくつと喉の奥で笑った。
『満開だぁ?』
『人の欲望は花だよ。赤黒くてツヤツヤ瑞々しくて、甘ったるい蜜の匂い。美味しそう』
 うっとりと語るスターヴ・ヴェノムから、クリアウィングとダーク・リベリオンがげんなりと身を引く。
『俺、こういう時のヴェノムにはついていけねー……』
『同感だ……』
「つまみ食いは駄目だぞー」
 アークは苦笑混じりにスターヴ・ヴェノムへ釘を差す。
『はーい。ところでオッドアイズがいきなり閉じこもったんだけど、何あれ』
「それは俺が聞きたい……」
『クリアウィング。アークにだけなら話せるか』
 席を外そうかというダーク・リベリオンの言葉に、クリアウィングはしかめ面で深い嘆息を落とした。
『いや、いろ。もう俺の手には負えねぇし』
 そしてテレビに映る少女を指差して。
『昨日、あいつとふたりだけで外に出たとき、この女に会った』


 がらんとしたデュエルコートの中央に、アークは一人で立った。
 スタジアムの屋内コートだ。大会本戦はすべて屋外コートを使用するため、ここには誰もいない。念のため人払いも頼んである。
 デュエルディスクを起動して、テストモードに切り替える。
 そして、デュエルディスクに一枚のカードを置いた。
「オッドアイズ・ドラゴン」
 アークの前に光り輝くパーティクルが凝集し、異彩の眼のドラゴンを形作る。やっと。
 普段裏口にしているデュエルディスクからではいくら呼びかけても出てきてくれなかったので、コートに設置されているリアルソリッドビジョン・システムを通して正規の手段で実体化させてみたのだが、上手くいったようだ。
『アーク……』
 見上げる巨体が、今だけはとても心細く見えた。
「やっぱり。酷い顔してる」
『……この姿なのに?』
「わかるよ。おまえにさわれるようになる前から、ずっと一緒だったんだから」
 アークはオッドアイズに手を伸ばす。
 今度はその指先が、手のひらがオッドアイズの硬い頬を撫でた。
「でもオッドアイズがわからないなら、いつもの人間の格好で鏡でも見ればいい。おまえ、俺のことならよくわかってるだろ」
 言われたまま龍の形が少年の幻影にすり替わり、トンと床に足を付けた。
 アークそっくりの顔が、異彩の眼が、乾いていても泣き笑いのように歪んでいた。
『ごめん、アーク』
 オッドアイズの指がアークの手を絡め取る。握り返す。
 縋るように。
「どうして謝るんだよ。……仕方ないんだ」
 俺はもう、慣れた。


 人をかたどるようになって、感情は肉体に依存すると知った。
 人のように生きて、思考は肉体に固着すると知った。
 痛みを知った。
 そして執着を知った。
『俺たちも、変わってしまうのかな』
 それとも既に、変わり果ててしまっているのだろうか。
 人の形の細い腕を、アークの血肉を分けた腕を、オッドアイズは見つめる。
 ひとりぼっちのアークを哀れんで、初めて人の形で顕現した夜のことを覚えている。
 この細腕で抱きしめて、しがみつくように抱きしめ返されて、慈しみ愛おしむ気持ちを知った。
 デュエルだけでは知りえなかった、言葉を交わすだけでは知りえなかった、触れあうあたたかさを知った。
 けれどその前の自分が何を考えていたのか、今はもう、よく思い出せなかった。
 だからもう、今の在り方しかわからない。


 医務室のベッドに腰掛け、ぼんやりとうなだれていたレイは、かすかな声にふと我に返った。
 隣の診察室から聞こえているのではない。もっと近くで、ささやきかわすような声だ。だがベッドが並ぶこちら側の部屋には、今はレイしかいないはずだった。
 さらに花の香りが漂ってきて、はたと気づいた。
 ベッドサイドに置かれているレイのデュエルディスクが、いつの間にか起動している。
「誰か、いるの……?」
 レイの投げかけた声に応えるように、キンッと空気が軋む音を立てて虚空から現れた少年が、軽やかに床へ足を付ける。
 そうして長い長い尻尾のような真紅の髪をふわりとひるがえし、気取った所作でレイに向けて一礼した。
『不躾な訪問、失礼。正面から入るわけにはいかなかったので』
 控えめに響いた、ほのかに甘いこの声を、レイは知っている。
 赤と緑の美しい異彩の眼。オッドアイズ・ドラゴン。
「こんなところにひとりで来て、いいの」
『アークも知ってる。怒られなかったから心配しないで』
「そうなの。よかった」
 笑ったつもりだったが、上手く笑えた気がしなかった。
 頬の痛み以上に、べったり貼られた絆創膏が煩わしかった。
 無性に引き剥がしたい衝動に駆られることさえ、虚しかった。
「ごめんなさい」
『え?』
「さっきの私のデュエルを見てくれたんでしょう? せっかく助けてもらったのに、あんな酷いデュエルで終わっちゃった」
 ほどけて顔に落ちてくる髪をかき上げようとして、持ち上げた自分の右手首も白い包帯に覆われていて、貼り付けた笑みが歪む。
「来てくれてありがとう。大丈夫。私の気持ちの問題だから。怪我もちょっと大袈裟なだけだし」
 唇を噛みしめて、レイは目を伏せた。
 本当に無様だ。
『君にも声が聞こえたんだね』
 ――だから見られたくなかった。
 彼の声を染めているのは、深い憐憫の色だった。
「ええ……聞こえたわ、断末魔の悲鳴。今まで何度も聞いていたはずなのに、今までと全然違うの」
 また震えそうな指先を、きつくきつく握りしめる。
 ひどく生々しい感触だった。
 そして気づいた。ずっとデュエルモンスターの魂の存在を信じていたつもりで、本当は、何もわかっていなかったのだ。
 オッドアイズとクリアウィングに出会って話をして、ズァークを想う笑顔を見て、その手のあたたかさを知って、人間と同じだと思った。
 同じように、生きていると思った。
 初めて、そう思ったのだ。
 だからきっと、今さら自分は変わってしまった。
 敵も味方もなかった。
 たとえデュエルというゲームの中であっても。
 リアルソリッドビジョンで形作られているだけの仮そめであっても。
 そこに赤い血が流れていなくても。
 胸に深々と刃を突き立てられた相手モンスターの断末魔を、ひどく生々しく感じた。
 まるで殺す感触だった。
 それはレイの命令で、レイのモンスターが為したことだ。
 そしてその瞬間、熱を帯びた歓声が沸き起こる。
「あなたたちはずっと、こんな声の中で戦っていたの……?」
 突然、何もかもが怖ろしくなった。
『俺たちはしょせんカードだよ。本当に死ぬわけじゃない』
 答えるオッドアイズの声は冷え切っていた。
「けれど痛みは本物でしょう」
『本物じゃない。俺たちは傷つかない』
「リアルソリッドビジョン同士なら、そうかもしれない。けど」
 だが"殺し"方が派手であるほど、圧倒的であるほど、観衆は興奮を煽られ盛り上がる。
 その矛先はモンスター同士のバトルだけではなく、デュエリストへのダイレクトアタックにも及ぶ。
 デュエルモンスターが人を傷つけている。
 故意にせよ事故にせよ、人の命令でそんなことがまかり通っている。
 もはや熱に浮かされた狂気だ。
「身体だけじゃない、心も傷つくのよ。あなたたちは怖くないの? ラフプレイに怪我はつきものだし、あなたたちが注意してぎりぎりを狙っているのはわかる。それでも最初の時のような事故の危険性は無くならない。またいつか、取り返しのつかないことになることだって」
『怖くなんてない。俺たちは最初からそれが当たり前だった』
 強い口調で、オッドアイズがレイの言葉を遮った。
『人間が言ったんだ。俺たちに。これはゲームだ。本物じゃない。だから痛いはずがない。怖いことなんて何もない。そんなことで泣く方がおかしいんだって、弱いから怖がるんだって、みんな笑ってた』
 まるで独り言のように言葉を綴る。
 異彩の眼差しはレイを向いていたが、目の前のレイを見てはいなかった。
『だから俺たちは強くなった。痛くない。怖くない。もうアークは泣かなくていいんだ。俺たちがデュエルで勝つと、みんな凄いと喜んで褒めてくれた。勝ち続けたら、もっとたくさんの人が喜んでくれるようになった。俺たちが強いと、みんな喜んでくれる。──アークが、笑ってくれる』
 ああ、このひとたちは。
 見つからない言葉の代わりに、レイの目から涙がこぼれる。
 目の前のこの、少年の姿をした龍の向こうに、かつて一人きりで泣いていた子供がいる。
 リアルソリッドビジョンがデュエルに導入されるずっと前から、彼らはきっと傷ついていた。傷つけられていた。
 そしてきっと、諦めてしまった。
 顔を上げた、オッドアイズがレイの涙に気づいた。
『可哀想に』
「違う、違うわ……! それは私じゃない」
『でも君は戦えなくなった。だったら声なんて聞こえない方がいい。君のカードたちも元に戻りたがっている。それに、君も思っただろう? 聞きたかったのは、知りたかったのはこんな声ではないと。こんなはずではなかったと』
「それ、は……」
 その時、初めて怖ろしいと思った。
 人の形をした、この神とも鬼ともつかぬ異界の存在が。
 レイのすべてを見透かすような異彩の眼差しが、とてつもなく怖ろしかった。
 そこには非難も怒りも憎しみもない。
 だがそれは、許しではない。
『大丈夫。君は解放される。それが――いいんだ』
 甘ったるい花の香りが強く濃く、ねっとりと絡みつく。
 唐突にわき起こった強烈な眠気に、意識が引きずり込まれていく。
「待って、違うの……っ」
 レイは手を伸ばす。けれど。
 オッドアイズは首を横に振って、呟くように言った。
『駄目だよ。君が泣くと、俺たちは昔を思い出してしまう』
 疲れ果てたように、弱々しく微笑みながら。
 その笑い方は本当に子供のようだった。
「お願い……!」
 哀しくて悔しくてたまらなかった。
 とてつもない間違いを犯してしまった気がした。
 けれど伸ばした指先は、何にも届かず。
 闇に落ちた。


 深い眠りに落ちて、ふらりとかしいだレイの肩をオッドアイズは受け止めた。
 男のものとはまったく違う、細い肩。その感触に戸惑いのような驚きを感じるのはオッドアイズではない。
 そっとベッドの上に横たえた彼女の胸元で、一輪の花が咲いていた。
 清らかな白い花。
『へえ、珍しい色が咲いたじゃん』
 今まで隠れ潜んでいたスターヴ・ヴェノムがするりと姿を現すと、目を細めてレイの花を摘み取る。
『手伝ってくれてありがとう』
『別にいいよ。人間相手なら僕が一番慣れてるし、役得だし』
 そして、ぐしゃりと握り潰して丸呑みにした。
『あれ?』
 途端、眉間に皺を寄せた。訝しげに。
『どうしたのさ?』
『……この花、苦い』


  *****


 生身の右手。
 その指にはまだ、触れた熱が残っている気がした。
『何見てんだ、アーク?』
 控え室のソファでぼんやりと自分の手を見ていたアークの目の前に、ぬっとクリアウィングが顔を出す。
 自分をかたどった、けれど少しだけ違う顔。
「……おまえたちってあったかいよな」
『それがどうした?』
 ダーク・リベリオンも怪訝そうに眼を眇める。
「いつからだろうと思って。最初はそうじゃなかったはずなんだ。今だって、おまえたち以外は別に温かくない。冷たくもないけど」
 するとふたりは何とも言えない表情で顔を見合わせた。
『そうだっけか?』
『というか、最初っていつのことなんだ?』
「……いつだろ」
 あれはいつだっただろうか。
 とても寒い日だったような気がした。
 首を捻ったアークに、ダーク・リベリオンはため息をついた。
『そんなに昔のことなら、知っているのはオッドアイズだけだろう。俺たちも記憶全部を共有してるわけじゃない』
「そっか」
 そうだ。オッドアイズは最初から側にいた。
 とても寒い日だった気がする。
 大きなオッドアイズにしがみつくように抱きついて、僕があたためてあげると言った気がする。
 それからはもうずっと、寒くない。
 アークの記憶とオッドアイズの記憶、絡まった糸がほどけた気分だった。
 ようやく得心がいって、アークは陰りを振り払って立ち上がる。
「そろそろ時間だ。行こう」
『おう』
『ああ』
 ふたりの姿が見えなくなる。だがその気配は消えていない。すぐ側に感じられる。
 さらに、音もなく帰ってきたもう二つの気配にアークは笑いかけた。
「おかえり。彼女は無事、送り帰せたんだな」
『うん』
 応えるように一瞬だけ幻影を結んだオッドアイズは額を触れあわせると、再び姿を隠した。
「俺は平気だよ」
 赤馬レイ。彼女は普通の人間だ。
 こちら側に来なくていい。
 それでいい。


 ──仕方ないんだ。俺はもう、慣れた。
 そう言ったアークは、疲れ果てたように、弱々しく微笑んでいた。
 泣きたいというのはきっと、こんな気持ちだとオッドアイズは思う。
 きっと自分は何かを間違えている。
 そしてそれが何なのかを理解できない。
 自分はドラゴンだから。デュエルモンスターだから。
 人間ではないから。


 ふと目が覚めた。
 薄暗い天井を見上げて、レイは目を瞬く。
 眦に残っていた涙の雫が一筋、こめかみを伝う。
 辺りは静まり返っていた。
 のろのろと上体を起こして、レイは周囲に視線を巡らせる。
 ベッドサイドに置かれていたデュエルディスクを引き寄せて、デッキを手に取った。
 何の気配も感じられなかった。
 自分の内側に、ぽっかりと穴が開いた気がした。
 そして大切な何かを、取りこぼしてしまった気がした。
「ごめんね」
 寒々とした部屋の中で、ひとり、レイは冷たいカードの束を胸に抱きしめる。
 自分が弱かったから、受け入れられなかった。
 拒んでしまった。
 傷つけてしまった。
「私、強くなるから……」
 あなたたちと生きていけるくらいに。
 もう一度、彼らの前に立つために。
 ――そして、いつか本当の彼と出会うために。
 その時、春風のような何かが、ふわりと頬を撫でていった気がした。




(そして壊れてしまった未来、少女は荒ぶる鬼神の前に立つ。たった一人の少年と出会うために。)







Brightness Falls from the Zenith







境界を越えてしまったのは、徒人の娘か、常世のものが見える龍憑きの神子か、人の肉に宿った龍の化身か。

ズァークとレイの関係について、同じデュエリストとして表面的な交流はあってもプライベートに深く踏み込んだおつきあいはなかった&最後に対峙したとき初めて心から向かい合っていたらいいな/でもってズァーク→レイで芽生えたのが未知への恐怖と憎悪で、レイ→ズァークで芽生えたのが"彼ら"への理解と哀れみだといっそう美味しくいただける派とか以前書いてたんですが、二人が近づかなきゃお話が書けない!と叫んだ結果こうなりました。
この先ズァークとレイはお互いを意識しつつ、触れることは怖れてしまうすれ違い。
けれどいつしか少年は痛みを忘れ、少女を忘れる。そして世界は壊れた。


純粋な魂だけだった精霊が実体を持てるようになって、取り憑いた人の子に寄り添って生きていくうちに、無意識に感情や思考が物質的に人間的になっていって良くも悪くも存在歪んじゃうの、ぞくぞくする。元人間から混ざりものになったユベルや、天使のオネストとはまた違った趣がある。それに質量だけじゃなく体温があるってのが妄想を駆り立てる。その30度近い体温のエネルギーどこから来てるの。どうやって作ってるの。もふもふもごつごつもつるつるも同じ体温なの。
しっかしドラゴンのような大型モンスターときゃっきゃするには都市生活は不便でいけません。日常空間が狭い。その意味では人形の化身は便利なんだな…

序文は幻想水滸伝2「Chant」より。変質は出会いから始まる。



そもそもこの妄想、ユートユーゴがドラゴンと呼応して暴走したり逆鱗が登場していろいろ持ってった頃から抱いていた「遊矢ズの本性本質が四ドラゴンだったら」妄想が発端なわけですが。
ユベルのように元人間と龍の混ざりものの精霊とか、アストラルの半身転生みたいな超越者ならともかく、純粋なカードの精霊が何もなしに人間に生まれ変わるってのも何なんだよ、遊矢ズの成分どっから出てきたよっていう念もあったのでした。
そこへ来たのがズァークさんですよ。
ドラゴンたちがズァークさん食って半神半人に生まれ変わればすべて解決やん!と飛びついて出来たのが、『輝くもの〜』の出発点だったんですよ。
そういうわけで、この話のオッドアイズはリアルソリッドヴィジョンがデュエルで実用化される前(もっと子供の頃から)から実体を持っています。
アークの血肉を取り込んでます。後から来た他のドラゴンは混ざりものをさらに取り込んでます。
精霊に「人間」という不純物を混ぜ込んでるようなものだよ。だからドラゴンに人間みたいな化身つくれたよ、他のデュエルモンスターと違って人間と同じ体温あるよ。その代わり肉に縛られるよ。アークとちょっと混ざってるよ。ドラゴンたちと一部混ざってるアークも人間からはみ出してるよ。もともとはみ出してるけど。
この人間部分と覇王龍部分を裏表ひっくり返すことで、狂気を封じる『殻』になった遊矢ズ誕生っていう妄想になったんですよ!
アークとオッドアイズの癒着が激しいのも、遊矢の中にズァークさんの自我がまるまるいそうだったので。

あと妄想小説の延長線上としては人間として生きることで過ちを正して今度こそ本当の意味で救う願望。