なくしてから気づく



 十年前の吹雪の日、父はいなくなった。
 置いていかれた自分と母は、二人きりになった。


 こうして人が死んでいくことを、嫌というほど知っている。
「アーク……」
 急速に温もりの抜け落ちていく手は、血まみれだった。
「もう、喋らないで」
 けれど、床の血だまりはじわりじわり広がり続けて、どうしようもなく止まらない。おそらく内臓まで達している兇刃を、引き抜いたところで血がいっそう溢れるだけだろう。
 流れ出た血は、戻らない。
「アーク……最後に、言っておかなくてはならないことがある……」
 よく知っている。人はこうして死んでいく。
 この人は、もうすぐ死んでしまう。
 もう、熱がない。命がない。
 時間がない。
「──おう、さま」
 まるで神への告解のように懺悔のように父との話を語った、その眼差しが痛かった。
 息が苦しくなるほど、どうしてもわからなくて、痛かったのだ。
 だって、どうすればいい。
 この人を、許せばいいのか詰ればいいのか、それとも。
 喉の奥が寒さでかじかんだように、上手く声が紡げない。
 手のひらから水がこぼれ落ちていくように、上手く言葉が掴み取れない。
 だって、どうすればいい?
 目の前のこの人は、もうすぐ死んでしまうこの人は、このスメリアの国王で、十年前いなくなった父の弟で、そして。
「もっと早く、すべて……話して、いれば……よかった……」
 最後に伸ばされた手は、何処かへ辿り着く前に、ふらりと落ちた。
 どろりとした赤黒い色が、指先の触れた痕跡を一筋だけ、アークの頬に引いていった。


 わからなかった。
 最期の言葉の意味も、最期に伸ばされた手の意味も。
 ただ、どうしようもなく泣きたくなった。
 けれど、泣けなかった。


 ずっと深くから、シルバーノアの低い振動が響いている。
 最初は寝つけなかったその音も、今はもう気にならなくなった。
 今も投げ出した身体を受け止めている、ベッドのやわらかさにもすっかり慣れた。
 最初は、そう、ミルマーナから戻って次にアララトスへと旅立つ時、ミルマーナへ行く時とは違うこの部屋に通された時は、本当に驚いたけれど。それまでの客室も充分に立派なものだったが、この部屋はそれ以上だったから。部屋の広さも、シーツの手触りも、何もかも。
 アークはうっすらと目を開ける。
 きちんと焦点の合わないぼやけた視界に、小さくも華やかなシャンデリアが揺れている。
 スメリア王室専用客船の、王族のための部屋。
 最初は、困った。中年の船員にそう説明されて、賑やかに囃し立てるポコやククルの声にも、黙ってはいるが面白がっているらしいトッシュの視線にも、困るしかなかった。
 自分もミルマーナで、恵みの精霊に教えられて初めて知ったのだ。十年前に家からいなくなった父は、二十年前にこの国からいなくなった皇太子だった。この国の王族だった。その血を引くアークも、王族だった。
 それは、ひどく奇妙な現実だった。
 信じられないというわけではなかったが、現実感が追いついてこなくて、王族としての扱いを受けることに戸惑いを感じるしかなかった。他ならぬ王がアークをこの部屋に通すよう命じたと知って、余計に戸惑った。
 ひどく奇妙な現実だったのだ。
 王が自分のことをどう思っているのか、わからなかった。
 今でもわからなかった。
 謁見の間で、数えられるほどしか会っていなかった。
 あの玉座にいた姿と、その前に斃れていた最期の姿しか知らなかった。
 言葉すら、ほとんど交わさなかった。
 だから思い出せることは、こんなにも少ない。
 そのことが今、こんなにも苦しい。


 わからなかった。
 最期の言葉の意味も、最期に伸ばされた手の意味も。
 ただ、どうしようもなく泣きたくなった。
 けれど、泣けなかった。
 泣けなかったのだ。どうしようもなく。


 計器類を照らす小さな明かりだけが灯るブリッジは、暗かった。
 フットライトが点々と並んだ船内の廊下は、消灯後も足下に困ることはない。なのに、ここは暗かった。大きな強化ガラスの向こうには月も星もなく、真っ黒な空と海しか見えないからだろうか。
「どうされましたか、アーク様」
「もう"様"じゃないよ」
 ヘッドホンを外して振り返ったチョピンに、アークは薄く苦笑を返して空いていた席に勝手に座る。
「俺は国王暗殺の主犯らしいから」
 崩れ落ちるパレンシア城から辛くも脱出した翌朝、身を寄せた隣国グレイシーヌの空港でそのことを知った。所用で山から街に下りていたラマダ僧の一人が、騒ぎにならないうちに出港するようにと、係留中のシルバーノアまで知らせに来てくれたのだ。
 その手に握りしめられていた新聞の一面は、前日のスメリア国王暗殺事件に関する記事で埋め尽くされていた。
 スメリア国王が暗殺されたこと。暗殺犯がアークたち七人であると発表されたこと。シルバーノアを奪って逃亡中であること。国際指名手配される運びになっていること。掲載されている写真は不鮮明で、描かれている似顔絵など見れた物ではなかったが。
 アンデルはいつの間に、全員の似顔絵を用意していたのだろう。
 いつから、この日のことを計画していたのだろう。
 力なく伸ばされた血まみれの手が、脳裏に焼きついている。
「眠れませんか」
「チョピンはほとんど寝る暇もないのに、なんだか申し訳ないけど」
 アークは肯定を返す代わりに、苦笑を色濃く落とした。
 あの時、パレンシア城へシルバーノアで助けに来てくれたのは、チョピン個人の行動だった。世界各地の精霊を訪ねる長旅が一段落し、他の船員たちは休暇に入って船を下りていた。だから今、この船を操れるのは彼一人しかいない。交代要員がいない。
 そんな状況でスメリアからグレイシーヌまで夜を徹して飛び続け、そこで僅かに休息が取れたものの、その後はまたこの通りの強行軍だ。しかも今度の目的地には空港もない、人の住む街すらない。その場所を指定したチョンガラが言うには、ヘモジーの集落があるだけの小さな無人島らしい。
 本心では今すぐスメリアへ取って返したかったが、そんなことをしても入港した途端にスメリア軍に囲まれるだけだろう。あの国はアンデルに完全に掌握されてしまった。シオン山へ近づくことすらままならない。それについても考えがある、とにかく話は島で一息ついてからだと笑ったチョンガラも、アークを気遣ってくれているのかもしれない。相変わらずトッシュには胡乱な目で見られて突っつかれていたが。
「お気遣いなく。私は私の為すべきことをしているだけです」
「……パレンシア城に行く前の時にも、そんな風に言われた気がする」
 ぽつりと呟くように言うと、聞こえたのだろう、チョピンがおかしそうに笑みを含んだ。
「そうですね。アーク様をお助けすること、それが陛下の望みであり、陛下が私に下された命ですから」
「……王様はもう、いないよ」
 何処にも。
「はい。それでもマローヌ陛下のお気持ちに、お変わりはないと思っています」
「──マローヌ、陛下」
 呟いて、息を飲む。目を瞠る。
「アーク様?」
 怪訝そうに目を眇めたチョピンに小さく首を振りながら、ようやくそれが何なのかを理解した。
 理解して、今更、気づいた。
「そうか。俺、知らなかったんだ」
 俯いて咄嗟に覆い隠した左手の下で滲んだのは、どうしようもない自嘲だった。
 王様の名前。
 殺されてしまった、死んでしまった、あの人の名前。
 そんなことすら知らなかった。
 そんなことに、今更、気づいた。
「俺、本当に何も知らないんだ」
 わからない。
 最期の言葉の意味も、最期に伸ばされた手の意味も。
 わかるはずがない。
 思わず唇を噛みしめた痛みもろとも、苦い自嘲を飲み込んだ。
 何も知らない。何もわからない。
 もう、取り返しもつかない。
 あの人は、殺されてしまった。死んでしまった。
「……アーク様。一つ、内緒話を打ち明けてもよろしいですか」
「内緒話?」
 僅かに顔を上げると暗いブリッジの中で、いつの間にか計器類に目を戻してアークに背を向けていたチョピンの、振り向かない背中だけが見えた。
「実は私は、スメリアに戻るたびアーク様の御様子を陛下へ御報告するよう、陛下から密命を受けておりました」
「俺のことを……?」
「そうです。アーク様はどのような方なのか。どのような旅をなさっているか」
「やっぱり俺、疑われてた?」
 アークは苦笑いをこぼす。
 二十年前に行方どころか生死も不明になった皇太子の息子。血の証拠となるのは他国に住まう精霊の言と、代々の皇太子に授けられていた証だけ。
 アーク自身ですら、自分を構成する要素としてスメリアの王族である認識は薄い。
 だが、チョピンはきっぱりと否定した。
「いいえ、むしろその逆です」
「逆?」
「はい。陛下がお知りになりたかったのは、アーク様が旅の途中、皆さんとどんな話をして笑っておられたかとか、どんな食事を好んで何を苦手としておられたかとか、そんなことばかりです」
「──何で、そんな」
 そんな、たわいもないことばかり。
「私にも陛下のお心の奧まではわかりかねます。ですが陛下は、アーク様をヨシュア王兄殿下の御子息として、何より陛下御自身の甥御様として、いずれ正式に王家へお迎えしたいとお考えでした」
 アークが直系の王族であることを知っているのはパレンシア城に勤める高官のみで、これからも国民への正式な公表がされることはないだろう。既に王位継承権を持つ直系が他にいることもあり、アークの存在は判明した当初から必ずしも歓迎されているわけではなかった。多少の噂は国内外に漏れ出ているようだったが、大精霊を巡って各国を訪れていた時の公的な立場は、あくまで王の勅命を受けた使節でしかなかったのだ。
「お誕生日のお話には覚えておかねばと意気込んでおられましたし、ニーデルの闘技場で優勝された時など、とてもお喜びでしたよ」
 たまらず膝の上で、手を握りしめた。きつく。
 だって。
「そんなの、俺……何も知らない」
 深く俯いても、声の震えを止められない。
「俺、いつも謁見の間で旅のことを報告して、それだけしか話してない。最期に父さんのことで謝られたって、どうしたらいいか、わからなかった……!」
 掠れた声が上擦るのを、止められない。
 喉の奥が叫んだ後のように、熱く灼けついて痛む。
 わからなかった。
 最期の言葉の意味も、最期に伸ばされた手の意味も。
 ただ、どうしようもなく泣きたくなった。
 けれど、あの時、泣けなかった。
 泣けなかった。
「血が繋がってるなんていきなり言われても、わからなかった。父さんがいなくなって、ずっと母さんと二人きりだったんだ。この国の王様が俺の叔父さんだったとか、そんなの全然わからなかったんだ……!!」
 殺されてしまったあの人は、スメリアの国王で、十年前いなくなった父の弟で、そして。
 そして自分の、叔父で。
 つと視界が揺らぐ。滲む。自分の手も溶けていくように。
 ひとしずく、こぼれ落ちた涙は生温かった。あの時の、血のように。
 震えた嗚咽を噛み殺しきれなくて、振り向かれた気配がないことに安堵する。
 今更、涙が止まらない。
 謁見の間で、数えられるほどしか会っていなかった。
 あの玉座にいた姿と、その前に斃れていた最期の姿しか知らなかった。
 言葉すら、ほとんど交わさなかった。
 だから思い出せることは、あまりに少ない。
 最後に見た、顔かたちすらもう、おぼろげになりつつある。
 何も知ろうとしていなかった。
 今まで、そんなことにも気づけなかった。
 向けられている、眼差しにすら。
「俺、莫迦だ……」
 今更、涙が止まらない。
「アーク様……」
「その"様"って、やめて」
 無理やり抑え込んだ声はひどくひび割れてしまっていたが、それでも言わずにはいられなかった。
「やっぱり王家とか、俺にはわからない。だから、俺もただのアークでいい。……ただの家族でいい」
 死んでしまったあの人は、スメリアの国王で、十年前いなくなった父の弟で、そして、自分の叔父で。
 家族として、愛そうとしてくれていたのだろうか。
 本当のことはもう、何もわからないけれど。


 届く前に消えた言葉、届く前に落ちた手。
 奪われたのは、未来のひとつだった。




 ──どうやら開けっ放しのブリッジの扉に身を隠したまま、そうっと中を覗き込もうとして失敗したらしい。夜の空気に分厚い鉄の扉を蹴った音は思いのほか響き渡り、少女は慌てて息を止めんばかりに気配を潜めながら少年の方をうかがった。
 幸いなことに、少年が目を覚ました気配はない。
 ほっと胸をなで下ろし、可愛らしく照れ笑いをしながら、こちらに向けて立てた人差し指を唇に添えた。そして慎重に足音を忍ばせて少年に近づいた彼女は、涙の跡が残る頬を包むように手を添えながら、やわらかに優しく、大人びた安堵の微笑みを滲ませた。
 彼女がずっと一人で黙って抱え込む少年を心配していたと、気づいていないのは少年だけだ。
 するりと少年の頬から手を放した少女は、いつもの明るい笑顔で、部屋の外に手を振って合図を送る。と、少女の後ろから大あくび一つをお供に入ってきた男が、つと物珍しそうに俯いた少年の寝顔を覗き込んだ。続いて入ってきた小柄な少年が、それを咎めるように男の袖を引っ張った。口を尖らせた少女にも小突かれて、男はやれやれとでも言いたげな様子で椅子の上で膝を抱えて眠る少年に腕を回すと、軽々と抱き上げて部屋を出ていく。
 その後に続いたオヤスミナサイとささやく二人に挨拶を返して、チョピンは大きく伸びをして強張った肩をほぐすと、眼前に広がる夜の海に向き直った。



あなたの顔の形





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 当時は素通りしていたのですが、久しぶりの再プレイで気がついて、いろいろ意識した事柄があります。
 チョピンの呼び方は、1では「アーク様」、2になると「アークさん」。