枯れて落ちた花びらは、ぼろぼろに朽ちて、土に還って。
花は最後に、どんな実を結ぶというのだろう。
dream scape
「思い出した忘れていた悲劇」
彼に名前を呼ばれた瞬間、涙が溢れてきたのがたぶん、最初だった。
男が泣くなと笑われてしまったけれど。
「何でだろう。何でかわからないけど、涙が止まらないんだ」
「そうか」
ぽんと頭に置かれた、皺の刻まれた分厚い手は、あたたかかった。
息が苦しくなるくらい、あたたかかった。
そんなことも、ずっと忘れていた。
「ありがとう」
おまえたちに泣いてもらうのは、これで二度目じゃな。
そう微笑んで逝ってしまった人の、あたたかかった手が冷えていくのも、二度目だった。
「──ガラフっ!!」
それを自分たちは知っていたはずなのに、ずっとずっと忘れていた。
ガラスの砕け散るような悲鳴のような音が、本当の最後だった。
そんなこともずっと、忘れていた。
忘れてしまっていたのだ。
そうして一緒にいたはずの誰かはいなくなって、次に目覚めた時にはきっと、誰かがいなくなったことも忘れているのだろう。
今までも、そしてこれからもずっと。
なくしていた想い出をなぞる、意識が蝕まれるように闇へほどけていく。
骨の折れた痛みも、血の抜ける寒気も、もう感じない。遠く聞こえる声に名前を呼ばれた気がしたが、もう顔も見えない。何かが手に触れたような気がしたが、もう何も見えない。
見えているのはもう、思い出したことだけだ。
だがきっと、じきにこれも消える。そうしてまた、同じような時間を繰り返す。けれども、二人きりだったこの時間の中で、少しだけ先に斃れた彼女は、消えなかった。砕けて、壊れてしまった。だからきっと彼女は眠ったのではなく、いなくなったのだ。
だからきっと、ひとりぼっちになってしまったのだ。
なまぬるい、涙がこぼれ落ちる。
思い出した忘れていた悲劇も、今のこの悲劇も、眠ってしまえばまた消えてしまうのだろう。眠って次に目覚めた夢の中では、みんな忘れてしまっているのだろう。
仲間のことも、仲間を失ったことも、そうやって何度も何度も忘れていくのだろう。
ああ、おれはまた、みんな忘れるのか。
ひとりではなかったことも、ひとりになってしまったことも、みんな。
──そんなのは、いやだ。
そんなことを眠りに落ちるまでずっと繰り返し思っていたから、こんなことになったのだろうか。
「忘れずに……いられた」
奇妙な感慨を持ちながら、バッツは闇に沈む空気を深く吸い込んだ。その冷たさは、生々しい末期の記憶が引きずっていた熱を静めてくれる。
「全部覚えてる」
仲間のことも、仲間を失ったことも、全部覚えている。
ゆるく唇を噛んで、両目を閉ざす。涙が溢れてくるでもない、嬉しいのかどうかもわからない、だがそれでも。
「消えなかった……」
言った、少し震えた自分の声がおかしかった。乾いた笑みを貼りつけて、暗い暗い空を仰ぎ見る。
──寒空を、不思議な色の風が吹いていた。
その気配を見いだして間もなく、金属の擦れ合う硬い音が響いて、漆黒の甲冑に全身を包んだ男がすぐ傍に姿を現した。
「その引き替えになったものを、そなたは理解しているのか」
そして男は、ゴルベーザはこちらを静かに見下ろして、穏やかな声でささやくように問うた。
「一応は」
彼の言葉に肯いて、ゆるりと前方に目を向ける。その先の、少し離れた廃墟の神殿に集い始めている人影が何ものなのか、知っている。
「カオスの側に来ちゃったのか、おれ」
あれは今まで、敵だった存在だ。
「では以前の記憶は残っているのだな」
「ああ、覚えてる。意外と簡単に裏表ひっくり返るんだなって驚いてるところだ」
答えて、苦笑まじりの嘆息をこぼす。今までの敵が味方になったなら、今までの味方が敵になってしまうのか。彼らに剣を向けねばならないのか。そこまで考えてふと、今の彼らは自分が味方だったことも覚えていないかもしれないことに気がついた。
この世界で出会った仲間たちの幾人かには、信用できる戦友という枠にとどまらず、気の置けない友情を感じたこともあった。歳の近い男ばかりで騒ぎあうのが楽しかったこともあった。きっと向こうには、そんなことも忘れられてしまったのだろう。
「でもまあ……仕方ないか」
寂しくない、というわけでもないけれど。
「私にはそれほど容易いこととも思えぬがな。いったい何が、今のそなたをそうさせてしまったのか」
もしかして気遣ってもらっているのだろうか。思わず目を瞬かせてゴルベーザをまじまじと見返す。こういうところがたぶん、あのセシルの兄なのだろうと思う。フルフェイスの兜の下で表情は見て取れないが、声に乗せる感情までは、今は隠されていなかった。
「忘れたくなかったから、だと思うよ」
ほろ苦い痛みを噛みしめながら、バッツは笑ってみせた。上手く笑えたかどうかは、わからなかったが。
「仲間と一緒だったことも、いなくなったことも、忘れてしまうのは嫌だったんだ」
「それは、同じ世界からコスモス側に招かれていた、そなたの同胞たちのことか」
「うん。みんな、もういなくなったけど」
みんなが壊れていく音を、覚えている。その音が告げたのだ、ひとりぼっちになったことを。
「だからもう、忘れたくなかった」
この孤独の痛みを忘れてしまったら、大事なものまで忘れてしまいそうで。
消えてしまいそうで。
「それだけなんだよ」
唸るような嘆息が、ゴルベーザからこぼれた。
「だが神々の闘争はこれからも廻り続けるだろう。その渦中で積み上がる悲しみを背負い続けるのではなく、ひとときだけであれば忘れてしまっていた方が楽ではないかと、思わんかね」
「それはないな。あんただって、セシルと敵対するしかないなら兄弟じゃない方が良いなんて思わないよな?」
即座に切り返したバッツに、ゴルベーザがくつくつと喉の奥で笑った。
「ふむ。それを言われてしまうと、私は何も言い返せなくなるな」
「だろ」
「まったくだ」
そして。
「──我々がこの世界に繋ぎとめられている限り、復活は何度でも繰り返される」
コスモスとカオス、神々が争う舞台であるこの世界は、そういう風に出来ている。
穏やかだが色の失せた声で彼は、言葉を続けた。
「今までにも、コスモスの側の戦士だった者がカオスの側で甦ったことが、まったくなかったわけではない。しかしそなたの場合、取り戻した記憶を再び忘却してこの輪廻と秩序に己を委ねることへの拒絶が、コスモスのもとでの復活を阻害し、結果としてこの事態を引き起こしたのかもしれぬ」
「ふうん、それで道を踏み外したわけか」
「と言うよりは、行き場を失った故にこちら側に流れてきたのであろう。あくまで推測に過ぎないが」
「そうかあ……」
消えゆくものにしがみついて、秩序の道行きからこぼれ落ちてしまったのか。なんとも半端なところに落ち込んでしまったようだが、そうなるとこの先の道を何とするか。腕を組んでバッツが思案に視線を空へ彷徨わせる。と。
「だからそなたは、この先に行かなくともよいのだ」
その言葉は思いがけなくて、瞠った目で弾かれたようにゴルベーザを振り返った。
この先に、行かない。
確かにそんな道も、あるのかもしれない。けれど。
「でもそれじゃ、おれはここで何も出来なくなる」
「そのために、かつての仲間に刃を向けられることになってもか」
黒鉄に覆い隠されたゴルベーザの眼差しが、それでもまっすぐ向けられているとわかる。
「それはその時に考えるさ。カオスの奴らにも興味あるし、おれにもやりたいことが出来た」
忘れない代償でカオスの側に落ちてしまったというのならば、それを受け入れよう。この世界を支配しているシステムが記憶を奪うならば、その遠大なる謎さえ追い求めよう。
やわらかな感傷は胸の奥深くにしまい込んで、吹き抜けた風に鮮やかな緋色のマントをひるがえす。
「とりあえず、頼りにさせてもらうぜ、先輩?」
いきなり殺されるのは、さすがに勘弁してほしいしな。カオス側の者が根城にしているらしい神殿をもう一度見やると、バッツは口の端だけで冷ややかに笑ってみせた。そして。
「……致し方あるまい」
先に立って歩き始めたゴルベーザの落とした声が、少し諦めたような呆れたような、誰かが無茶をした時にセシルが滲ませる苦笑に似ていて、ああやはり兄弟なのだともう一度思った。
これは忘れてくれて構わない。カオスの神殿に足を踏み入れる寸前、ゴルベーザがふと囁いた。
「そなたがこちら側なのはおそらく今回限りのことだろう。そなたはカオスの側で在り続けるとは思えん」
奇妙な断言だった。
さながら預言者のように。
落っこちてみましたカオス陣営。
秩序とは混沌から選り分けられたほんの一部であり、その他すべては混沌である。
※捏造設定について
本作は、最初の頃は両陣営にもっと人がいた前提になっています。そうして輪廻を繰り返すうちにすり減っていって、九度目くらいには何処もほとんど一人か二人ずつにまで人がいなくなってしまう流れで、これはそうなる少し前の頃のつもりです。
あと死んでいるのに記憶を引き継いでいるのも、わかってやっています。