ひとりで初めて嵐の夜を過ごした翌朝、傷だらけの鳥と出会った。
 その鳥は群れからはぐれたのか、ひとりぼっちで震えていた。
 放っておいたら死んでしまいそうなその鳥を助けたのは、同情だったかもしれないし、ただ寂しさを紛らしたかっただけなのかもしれない。
 けれどその鳥は傷が治ってからも、何処にも行こうとしなくて、傍にいてくれて。



 気がついたら、寂しかったことなんて忘れてしまっていた。










dream scape

「だいじなもの」










 夜の空を、かわいたかわいた風が吹く。



 イミテーション。カオスの戦士が率いる無限の軍勢。
 それは必ずしも正しくない。
 ──真に無限であれば、どうして見当たらない。
 コスモスの戦士たちにけしかけられたイミテーションの群れが跡形もなく消えていく様を遠くに眺めながら、バッツは岩壁に背をもたせかけ小さく息をついた。
 ずっと気づいていなかったことがある。
 この世界からいなくなってしまった人間の、イミテーションまでもが世界の何処にも存在しなくなる。まるで世界からも忘れられてしまったかのように。もしかしたらイミテーションは、今も何処かで造られ続けているのかもしれない。そしてオリジナルがこの世界を離れることで、その供給が途絶えるのかもしれない。かりそめの死者のイミテーションは、いつだって平然と戦場を彷徨っているのだから。
 今でこそカオス側の一部が支配する術を獲得したことで戦いにも利用されているが、コスモス側の複製もカオス側の複製も分け隔てなく存在しているイミテーションは、カオスが与えた道具でも、カオス側が造り出しているわけでもないという。
 イミテーションとは本来、もっと何か別の目的で造られているのかもしれない。
 そう、たとえば。
「……おれの柄じゃないなあ」
 こんなことを考え込むのは。ぼやきと喉の奥に詰まった息を吐き出しながら、バッツはわずかに口元を引きつらせた。
「楽しかったらそれでいいじゃな〜い?」
 さながらチェス遊びのごとくイミテーションを操っていたケフカが、大岩の上からふわりと舞い降りると、けらけら笑いながら言った。その指に結わえられていた魔力の糸は今さっき切れたもので最後の一本だったが、こうして高みから見下ろして駒を送り込むのもこの次に用意している計略のための布石らしく、手駒を壊されて気にした様子はない。
「おれの楽しみ方は、ちょっと違うんだよ」
「ふうん? むかつくんなら、ゼ〜ンブ壊しちゃえばいいのに」
 ねえ。上機嫌でケフカが同意を求めた先は、バッツではなく、彼が伴っている可憐な少女だった。だがガラス玉のようにぬらりと輝く瞳は、精巧なビスクドールのように空っぽだ。
「その子は」
「ぼくちんのカワイイお人形だよん。この子はねえ、たくさん壊すのが、すっごく上手なのだ」
 少女の白い手を取って、道化が踊るように軽快なステップを踏む。その間も眉一つ動かさない少女はされるがままで、そこに何の意思も見いだすことは叶わない。
「さあ、楽しい楽しいパーティの始まりだぞぉ!」
「楽しそうで、羨ましいよ」
 ケフカの嬉々とした甲高い歓声に背を向けて、バッツはひらひら手を振った。
 役無しのブタは何処に行こうと勝手だ。風の向くまま気の向くまま、行きたいところに行くだけ。
 ──今のあの子は、イミテーションと何が違うのだろう。
 そんなことをふと思って、吐き気がした。



「……ん?」
 ダガーを収めて息をついた、ジタンが不意に眉をひそめて顔を上げた。
「どうした」
「視線を感じた、気がするんだけど。カオスの奴ら──か?」
 スコールが声をかけると、ジタンは気配の色合いを探りながら言葉を、戸惑うように濁した。
 距離などにもよるが、意識を研ぎ澄ませば、その存在がコスモスの色なのかカオスの色なのか感じ取ることが出来る。便利ではあるものの敵にも同様に察知されるので不都合もある能力だ。
 その知覚が複数の存在をささやいている。一つは明らかにカオスの気配だ。だがその他に、カオスの気配のようにも感じられながら、そうだと断じきれない、何かが。
 これが味方ならば、すぐさま援護に向かうところなのだが。
「まだ遠い。今のうちに戻るぞ」
 ひゅっと風を切ったガンブレードを引っ込めて、スコールが言った。
 襲ってきたイミテーションの相手をしているうちに、仲間から離れすぎてしまった。ジタンは身軽だがその分、一撃の重さにはいささか不足気味だ。今回のような難敵がいた際には引き離してから、後ろに抜けられないようスコールもフォローに入って迅速な殲滅を狙う算段だったのだが、少し引っ張られすぎた。
「あ、ああ……」
「ジタン」
 これが分断するための罠とも限らない。スコールは急かすように重ねて促すが、返ってきたジタンの声は歯切れが悪いままだった。
「なんか、さ。気になって」
 どうしてかは、わからないけど。
「後にしろ」
──わりぃ」
 この場合、気遣われているのはジタンの連れだ。スコールの連れは彼同様、若くても戦闘訓練を受けているプロでもあるのだ。組んで行動することを持ちかけたのも、最初はそれが理由の一つだった、はずだ。
 だが今更、そんなことにもかすかな引っかかりを覚えてしまう。
「なんかさあ、静かになっちまったよな。オレたちんところも」
 仲間の気配を辿ってスコールと二人、息が上がらない程度の駆け足で戻りながら、手探りで見えない形をなぞるようにジタンが拾い上げた言葉は少し奇妙だったが、何故か馴染んだ。
「……騒がしいのは苦手だ」
「でも嫌いじゃないだろ」
 ジタンが言うと、黙って走れと言いたげな視線が刺さる。それでも、巻き込まれて押し流されるのも満更ではないことを知っている。好き嫌いと得手不得手はまったく別の物差しだ。
「黙りこくって緊張しっぱなしより、楽しくやれる方が良いに決まってる。ひとりじゃないんだしさ」
「そういうのは俺より、あいつに言ってくれ。それかティーダたちのところとか」
 同じコスモスの戦士たちの中でも賑やかな顔触れを押しつけるように挙げて渋い顔をするスコールに、ジタンは苦笑いした。
「んー、そういうんじゃなくてさ」
 これはたぶん、少しだけズレた感覚だ。感覚的で曖昧すぎて、なのに、ふとした弾みでササクレのように引っかかる。続く言葉を待っているスコールの気配に、ジタンは一度だけ意識的に瞬きをして、痛みにも似たその感覚を引き寄せる。
「自分でもよくわかんねえんだけど、喋ってるときとか、ときどき何かを待ってるんだよな。こういう風に振ったら上手いこと返ってくるって、何かを期待してる。でもそういう時は、何にもない」
 だからといって、口下手のスコールにそれを求めるのは違うとわかっている。わかっているが。
「何を言いたい?」
 皮肉でないことは察したのか、スコールが怪訝に目を眇める。
「だから、オレにも上手く言えねえんだけど──、お、いたいた」
 月明かりに濃い影を伸ばす大きな岩を回り込めば、二人の帰りを待っていた三つの人影が、目でも確かめられるようになった。
 三つの人影。今は五人で行動しているのだから、それでいいはずだ。ずっとそうだった。それが当たり前だった。けれど。
 けれどその瞬間、ジタンはふと気がついた。
「なあ。スコールたちに初めに声かけたのって、誰だったっけ」
 一緒に行かないかと、最初にそう呼びかけたあの声は、誰の声だったろうか。
 途端わずかに歩調が乱れた、スコールから答えは返ってこなかった。



 まるで、そこには初めから誰もいなかったように。



 雲一つない空の、のっぺりした青い色が広がる空間にふらりと現れたのは、やはり漆黒の人影だった。
「あの道化について行ったのではなかったのか」
「よう。行ってたけど、戻ってきた」
 次元城の外壁に背を預けて、足を投げ出すように芝生に座り込んでいたバッツが、やはり虚空に投げ捨てていた視線をゴルベーザに向ける。
 誰よりも不思議な風の、通り道。
「今回の計略はアルティミシアの立てたものだろう。狙われているのは、そなたが前回まで行動を共にしていた者たちだったように記憶しているが」
「よく御存知で」
 だから居心地が悪くなったんだよ。苦笑いを滲ませ、バッツは独り言ちるように声を落とした。
「次があるからって、友達の死は軽くならないだろ」
 彼らを模したイミテーションが破壊され消滅する光景なら、今も今までも数え切れないほど見た。はっきりとは思い出せないが、繰り返されてきた輪廻の中で、本物の彼らが殺されるところに居合わせたこともあったかもしれない。
 だが、平然と直視できるものではない。
 まして皇帝のあんな考えで、摩耗させるために殺すなど。
「そうか」
「あいつら、元気そうだったし」
 やはり今回も、ジタンはスコールたちに声を掛けて連れ立って行動しているようだった。きっとまた、守らなければならない子たちのために手を貸してほしいとか言いくるめたのだろう。
 この世界はすべてが戦場だ、ただ旅をするのとはわけが違う。身軽だが追い詰められれば後がなくなる少人数で動くより、体力的にも精神的にも余裕を持ちやすい、まとまった人数で固まっている方が何かと都合が良かった。女の子がいれば尚のことだ。戦士たちは身を守り仲間を守り、そして女神を守らねばならない。だから自分たちのところに限らず、他のコスモスの戦士たちも寄り集まって、いくつかのグループを形成していた。今は何処も少しずつ、その人数が減ってきてしまっているけれど。
「会ってきたのかね」
「いや。遠くから見ただけ」
 もしジタンやスコールたちの前に今の自分が姿を見せたら、どんな反応が返ってくるだろう。
 コスモスの側にいた時、カオスの側で初めから覚えていたのは、自分と生まれた世界が同じエクスデスだけだった。同じ側に立つ仲間のことはいつも覚えていたけれど。この世界に、その人が存在している限りは。だからきっと。
「……おれの柄じゃないよな、本当にもう」
 本当に怖いのは、孤独なんかではなくて。
 自嘲気味にぼやきながらバッツは指に絡んだ草をぷつりと引き千切ると、ゆるい風に乗せた。
 いなくなってしまった人間は、誰からも忘れられて、世界からも忘れられて、何一つ存在の痕跡を残すことなくこの世界から消えてしまう。
 こうして立つ位置が違っただけで今、たくさんのことが消えてしまっているように。
「そなたはあの魔女の思惑をわかっていて、彼らに背を向けたのかね」
 つと低く唸るように、ゴルベーザが苦々しい声で言った。
「アルティミシアの思惑?」
「そうだ」
 がちゃりと硬質な足音を鳴らしてすぐ前に立つと彼は、暗い影を落としてバッツを見下ろす。
「今日に限らず、イミテーションを差し向けただけの小競り合いならば、そなたも幾度となく見ているだろう。何も気づくことはなかったか」
「それって、いなくなった人のイミテーションが一つも残ってないことか?」
「それだけではない」
 怪訝に目を眇めたバッツの指先からこぼれていった草が、ひゅるりと乱れた風に踊る。
 なまぬるい風を押し流すような、それは重たく暗い嵐の気配だ。
「この世界からいなくなっているイミテーションは、本当に、既に消え去った仲間のものだけだったか?」



 無限に増え続けるはずのイミテーションが、尽きようとしている。
 まだその人間は、この世界に存在しているにも関わらず。
「この状態が、この世界に存在し続けられなくなるリミットの、前兆だと考えられている。私の覚えている限りではあるが、今までも確かにそうだった」
「まさか」
 ゴルベーザの告げた言葉にバッツは顔色を変え、弾かれたように立ち上がった。
「その者がいなくなってからイミテーションが消え失せるのではない。リミットを迎えつつある者の、イミテーションは新たに造られぬがゆえに尽き果てるのだ」
 はっと息を呑み込む、音が聞こえる。
「じゃあ……死んだらそれで、終わりってことなのか」
「そうだ。あの者に次はない」
 立ちつくしたまますっかり表情を失ったバッツが、俯いて薄く唇を噛む。そして。
──わかった。教えてくれてありがとう」
 そう言って顔を上げた時には、ほろ苦く笑んでいた。それでも曇りもなくなっていて。
「行くのだな」
「ああ。今はそれが、おれのやりたいことらしい」
 ならばこれが、彼が見いだした道なのだろう。
「やはりそなたは光の道を選んだな」
「そういえば、前にそんなこと言われたっけ」
 しかし。ゴルベーザは兜に覆い隠された内側で嘆息を押し殺す。これは果たして誰の思惑どおりなのだろう。皇帝か魔女か、それとも。
 何にせよ、この世界の時計の針はまた一つ進むだろう。
「でも、ほっとけないって思うのは、あんたにだってあるだろ。助けてやれなくてもさ」
「否定は出来んな。しかしそれでも立場を別つ、意味はあるのだよ」
 答える声に、どうしようもない苦笑が滲む。
 そう、意味はあるのだ。それがたとえ弟が愛する者の死をいくつも見過ごし、弟の死さえも幾度となく見過ごすことになっても。
「だからゴルベーザは、セシルを置いてこんなところに居続けるんだな」
 言った彼の声に非難がましい色はない。むしろ。
「重たいな」
「私の選んだ道行きに構うことはない。そなたにとっては暗がりで迷い込んだ横道だ」
 だからもう二度と、この道で出会うことはないだろう。
 するとバッツは、やんわりと笑って首を横に振った。
「どんな旅にも回り道なんてないさ。何にだって意味はある。おれはそう信じてる」
 そんな餞のような祝福のような言葉を残し、再び光を目指す風を見送って、ゴルベーザは踵を返す。
「そうであることを、私も祈ろう……」
 寄り添うことで埋めあえるものもあるだろう。それもこの過酷な戦場で生き続けるために必要なことには違いない。だがそれだけでは、閉ざされた先に進めない。螺旋を描く迷路の終わりは見えない。
 だからきっと、どの真実を選ぶかというだけでしかなくて。



 いなくなってしまった人間は、誰からも忘れられて、世界からも忘れられて、何一つ存在した痕跡を残すことなくこの世界から消えてしまう。
 こうして立つ位置が違っただけで今、たくさんのことが消えてしまっているように。
 だから大事な記憶に、形振り構わずしがみついた。
 それを、後悔するつもりはない。けれど。
 ──けれど。



 聞き慣れた怒号を追って目前の角を曲がれば、壁にしたたかに叩きつけられ、くたりと気を失った少女が枯れ葉のように落ちていくところだった。
 その細い身体を、バッツの腕が危ういところで抱きとめる。
「っと。あんまり吠えるなよジタン。女の子相手に、みっともないぜ」
 ろくに制御されてない魔力を強引に振り回しているためか、彼女自身も己の魔力に灼かれているらしい。布越しでも彼女の体が熱を持っているとわかる。意識がなくても苦悶が滲む少女の顔色は良くないが、しかし何もしてやれそうにない。少女をそっと床に下ろして横たえると、バッツはジタンに向き直った。
「……あれ? スコールたちは一緒じゃないのか」
 戦闘が終わって猛っていた風が静まれば、このエリアにコスモスの気配は一つしか見当たらない。ジタンしかいない。
「てめえもカオスの連中か。おあいにくだな、スコールたちはここにはいねえよ」
 すかさず構え直された切っ先とともに、疲労を力ずくで押さえ込んだ彼の声が、低く剣呑な響きを突きつけてくる。
 しかしその様に、今にも倒れそうな危うさはない。そこかしこに氷の魔法によるものか打撲と裂傷が見えるが、すぐにも手当てが必要になるほど酷い怪我は負っていないようだった。そのことには安心したが。
「参ったな……」
 どうやらジタンは、暴れ狂う彼女を仲間たちから引き離すことを選んでいたらしい。すっかり分断されてしまっているとは思わなかった。こんなことならアルティミシアからもっと詳しく聞き出しておけばよかった。そんなことを考えながらバッツは、弱くため息をつく。
「で? あいつらに何の用だ。用件次第じゃこのまま帰すわけにはいかねえんだけど」
「用っていうか、ほっとけないなーって思っちゃったんだよ。あいつの幼なじみも、そろそろリミットらしいから」
 戦う気はない意思表示のつもりで開いた両手をひらりと振って、バッツは正直に答える。
「リミット……?」
「うーん、悪い、説明はしてやれない」
「へっ。敵には教えられねえような話ってわけか」
「そうじゃないよ。おれがそうしたくないだけ」
 笑って返したそれを揶揄と受け取ったのか、苛立ったようにジタンが舌打ちをこぼす。
「何なんだよ。だいたい、何でおまえがそっちなんだよ、おかしいだろ!!」
 まるで逆ギレのように吐かれた台詞に、はたとバッツは目を瞠った。そして。
「ああ、そっか。そんな風に言ってくれるなんて、思わなかった」
 くしゃりと表情を、苦笑いの形に崩した。
「なんだ、そうか」
「おいこら。何わけわかんねえこと言ってんだ」
「おれがカオスにいたら、どうしておかしいんだってことだよ」
 尖るジタンに思わずバッツが苦笑まじりに言い返した、その刹那。
──えっ?」
 ふつりと糸が切れたように、ジタンがすっかり面食らった顔で呆けた。
「そんなの」
 きつく見据えていた目が大きく見開かれていって。両手のダガーの、切っ先が重たげに落ちていって。
「だっておまえ……、そうだよ、おまえが何で」
「何でもないんだ。もう、何でもない」
 そのまま深みへ踏み込もうとするジタンを、バッツは静かにだがきっぱりと引き止める。
 本当に怖かったのは、孤独なんかではなくて。だから。
「何でもないなんてことあるかよ! ──くそっ、こんなの絶対おかしいだろっ!」
 戦意を完全に手放したジタンの手が、何かを掴みきれなくて、もどかしげに前髪をかき上げて額を押さえた。
 まるで白昼夢のように、この世界はどんな記憶も呑み込んで曖昧に溶かしていってしまう。この世界で初めて出会ったときのことも、もうはっきりとは思い出せなかった。
 それでも出会ったことだけははっきりと覚えているように、忘れても消えない何かはあるのだ。ちゃんと、残っているのだ。
 たとえば、名前とか。
「なあ、ジタン」
「な、何だよ、バッツ」
 その名前を呼んでくれる、声とか。
 そんなひどく優しすぎる音色を噛みしめて、もう一度バッツは笑った。
「おまえの仲間がこっちに近づいてきてる。きっとジタンを心配して探しにきたんだな。早く帰ってやれよ」
 寄り集まっているのは、あたたかくて優しい気配だ。
「あ? ああ……って、ちょっと待てよ、スコールたちが大変なんじゃないのか」
 そっと後ろに身を引きかけた、バッツの腕をいつの間にかジタンが捕らえていた。
「だったらオレも行く」
 バッツに向けられたジタンの眼差しにはもう混乱の色もなくなって、ひたすらまっすぐだった。いつもそうだった。彼はいつも大事な何かを守ろうとしていて、たくさんのものを守っていて。
 だから首を横に振る。
「いや。ジタンは仲間のところに帰らなきゃ駄目だ。こんな風に一人で離れてちゃ駄目だ」
「でも今は」
「スコールたちのところにはおれが行くよ。皇帝の奴はおまえらのところも狙ってる。──守るんだろ、仲間を」
 するりとジタンの手をすり抜けて、その肩を小突く。
 しばし思案に目を伏せてからジタンが、ふっと苦笑をこぼした。
「わかった。信じてっからな」
「おれ、一応カオス側なんだけど?」
「んなこと知るかよ」
 不敵な笑みを添えてバッツの肩を小突き返すとジタンは、ひらりと身を翻した。
「よし。また後でな! 絶対だからな、バッツ!」
「またな」
 そうしてあっという間に小さくなった、後ろ姿にバッツはそっと呟く。
「……ごめんな」
 こんな声が彼に届くことは、ないけれど。



 この夢から目覚めて次の夢はきっと、ここを選ぶだろう。ここにいたいと思うだろう。
 たとえ、たくさんのものを忘れてしまうとしても。
 ──信じているから。



 手負いの獅子に、噛みつかれても知りませんよ。
 黄色い野花を摘み取った魔女にそう嘯かれて、まさかと笑い返した。
 だって。
「スコール。やっと見つけた」
 こんな狭い行き止まりで、大きな図体を窮屈そうに折り曲げて膝を抱えて、深く項垂れた顔は陰って見えなくても。
「……カオスの奴が、何の用だ」
「うん。やっぱり心配だったからさ」
 持ち主のいなくなった大量の赤黒い痕跡は、もう悲劇が過ぎ去ってしまったことを叫んでいる。
「残念だったな。もう全部終わった。それとも次は、あんたか」
 伏せた顔も上げないまま、嘲笑と言うにはあまりに弱い、まるで自棄のように吐き捨てられた言葉に、バッツはほのかに苦笑を滲ませた。それからスコールのすぐ前にしゃがみこむと、影になっていた顔を覗き込む。
「違うって。スコールのことが心配だったんだ」
 大きすぎる痛みを必死に堪えている顔に、うっすら赤い跡が見える。
「泣くなよ」
「泣いてなんかいない」
「じゃあ泣いとけ」
「泣かない」
「ばーか。泣いていいんだよ。今しか泣けないんだぞ」
 笑いながらバッツは手を伸ばすと、くしゃくしゃと髪をかき乱すように彼の頭を撫でた。
 現実は優しくない。静かな草はらで、慰めるように嘲笑うように嘆くように微笑んだ魔女の言葉を思い出す。それでもそれは、望むことを諦めてしまった人間の言葉だと思った。
 ようやく顔を上げたスコールは、無遠慮な接触に少しだけ眉根を寄せてから、戸惑ったようにバッツを見返す。眩しいものを見たように細められた目の奥で、まるで迷子の子供のような、ひどく寂しい光が滲んでいる。
「わかったように、言うんだな」
「おれもそうだったからな」
 ひとりきりになった死の淵で暴力的なまでに押し寄せてきた、嵐のような記憶の感触を覚えている。吹き荒ぶ喪失の記憶は息が詰まるほどの痛みをいくつも突き刺して、なのに思うさま泣くことさえ許されなかった。そのまま過ぎ去った。だから。
「俺は……わからないんだ。何も」
「うん。わからなくていいんだって。余計なことは考えなくていいんだ。だから、我慢も無理もしなくていいんだ」
「わけがわからない」
 ぽつりとこぼれた小さな声は、拗ねたような響きを帯びていた。
「それに、あんたは敵になったんじゃないのか」
「おっ。スコールもそういう風に言ってくれるんだな」
 嬉しくて思わず笑ったら、蒼い目に映る困惑の色がいっそう深くなった。
「……バッツは何がしたいんだ」
「おれのしたいことだよ。じゃあスコールは、どうしてほしい」
 声に出して言ってみなさい。バッツがささやくように促すと、スコールはまたくしゃりと顔を歪めた。驚いたように痛むように、まるで今にも泣き出しそうに。



「ひとりになるのは、もう、いやなんだ」
「うん」



 たくさんのものを忘れてしまったとしても、大事なものは消えない。
 覚えている。









next: another episode









なのに、わからない。わかりたくない。どうして、いないの。どうしたらいいの。誰か助けて。

そうして目が腫れて何も見えなくなるまで、喉が嗄れて何も言えなくなるまで、泣けばいい。
──泣けば、よかった。