callin' you

beginning days








 お願い、君の声を聞かせて、僕の名前を呼んで。もう一度。




 ――――2003年、3月26日。

 ふと呼ばれた気がして、太一は目を開けた。
 きちんと閉め切られていないカーテンの隙間から覗く空はすっかり真昼で、寝ぼけた目にはひどく染みた。
 半ば夢うつつの頭で隣を見ると、自分にぴったり寄り添ったアグモンは幸せそうな顔で熟睡していた。昨日は一晩中オメガモンになってディアボロモンを追っていたのだ、無理もない。ここで一緒に雑魚寝しているヤマトとガブモンも、それは同じで。
 気のせいかと思って、太一は再び眠りに落ちた。




 ――――4月7日。

「あーあ、俺らもとうとう受験生か」
 最初の始業式が終わり、めいめい新しい教室へと向かう最中、太一はうんざりと息をついた。
 三人とも今年は中学三年、もう最終学年だ。お台場の小学校と中学校は敷地も空気も一続きになっているようなものだが、高校からは違う。
「そうねー、志望校、早めに考えないとなあ」
「どうせ太一はサッカーで推薦取っちまうんだろ。いいよなあ」
 空のため息に続けた、少しだけ羨ましそうなヤマトの言葉に、しかし太一の応答はなかった。
「太一?」
 目を向ければ横に並んでいたはずの姿はなくて、二人は慌てて通り過ぎた後ろを振り返る。いつの間にか立ち止まっていた太一は怪訝そうに、周囲へ視線を彷徨わせていた。
「太一!」
 ヤマトがもう一度、先ほどよりも声を強くして呼びかける。と、ようやく気づいたように軽く右手を挙げて、太一が小走りに追いついてきた。
「どうしたんだよ、急に」
「いや、なんかさ……」
 呆れるより先に眉を曇らせた二人に、太一の返す答えはひどく歯切れが悪くて、何かを考えあぐねているようで。
「太一」
「呼ばれた、気がしてさ」
 空の促す声にそれだけ答えると、作り笑いを浮かべた。
「呼ばれたって」
「ん、やっぱり俺の気のせいだったみたいだ」
 さらに言い募ろうとする空を、太一はぱっと手を振って遮ると、それっきり口を噤んでしまう。
 ヤマトも空も言いようのない微かな引っかかりを感じて押し黙った横顔を見ていたが、やがて釈然としない面持ちの顔をお互い見合わせ、小さく首を傾げた。
 二人の視線が外れたことに気づいた太一が、ポケットの中のデジヴァイスにそっと手を伸ばす。
 聞こえたのは、同じ声だった。




 ――――4月19日。

「うん、……うん、じゃあ三日の朝だね。集合場所はどうする?」
「ヤマトんち」
 リビングのソファに寝そべってテレビを見ていた太一が不意に割り込んできて、ヒカリは小さく吹き出す。
「お兄ちゃんはヤマトさんの家がいいって」
 それを電話の向こうに伝えると、果たして向こうも吹き出したようだった。
《でもそうだね、どうせ兄さん一人だろうし、一番便利かも》
 笑いを含んだタケルの声が、受話器を通してヒカリの耳に届く。今年の春が来る少し前に変わった呼び方は、もうすっかり口にも馴染んだようだった。
「お兄ちゃんも来れるよね? 五月の三日から五日まで」
「ああ、まだ平気平気。今年は夏がマジやべーけどな」
「仕方ないよ、中学最後の夏だもん。去年はいろいろあったし……」
 太一の所属する中学生サッカークラブは去年の大会で関東大会本選まで勝ち上がったものの、あと一歩のところで関東代表を逃した。あの頃は急増したダークタワーによって、ますますデジタルワールドの状況が逼迫している時期だった。地区大会で敗退してしまったからこそ、太一もあの偽装キャンプに参加できたとも言えるのだが。
「だから今年は、今のうちに泊まりがけで遊んじまえって話になったんだろうが」
 あの頃のことについて、太一は何も言わない。
「うん」
 だからヒカリも、これ以上は何も言わない。
「じゃあ、この予定でメール回すね。……うん、おやすみ」
 ヒカリが電話を終えると、ソファに寝転がっていたはずの太一が上体を起こしていた。
「お兄ちゃん?」
 その、何処か思い詰めたような表情に、何もない何かを見つめる眼差しに、ヒカリは咄嗟に兄の肩を揺らす。
 湧き起こったのは不安と、嫌な予感にも似た何か。
「……ん? 何だ、ヒカリ」
 一拍遅れて振り向いた太一の目の焦点が、何事もなかったようにヒカリに合わせられる。
「お兄ちゃん……何かあった?」
 ひんやりとした空気を飲み込みながら、こんな問い方しか思いつかなかった。
 太一は一瞬だけ目を見張ったが、
「何にもねえって。ヒカリこそ何だよ、変な顔して」
 おかしそうに、そして安心させるように優しく笑うと、ヒカリの頭に手をぽんっと乗せた。




 ――――5月1日。

 一枚。また一枚。ディスプレイに表示された何十枚もの写真画像を、次々とめくっていく。
 映っている光景のどれもが、ひどく非現実的な光景だった。
 便宜的な意味の上下しか持ち合わせていない、地面という絶対的な平面が存在しない、ネットワーク空間を視覚的に表現した、電子の輝きに満ちた世界。そこで縦横無尽の戦いを繰り広げている、黒い悪魔と白い騎士、翼を持った天使たち。
 戦いはやがて深夜の東京湾へとその舞台を移し、より兇悪に変貌を遂げた悪魔によって打ち倒された騎士の姿。
 入れ替わるように夜空を駆ける、巨大な竜の姿。
 黒くうねる海を照らす、紅蓮の炎。
 最後に現れたもう一人の騎士の剣へと集う、無数の輝き。
 そして、四人の子供の姿。非現実的なネットワークの内部でそれだけが現実的な、白い騎士の肩にいる二人の少年と、二体の天使の肩にも男女が一人ずつ。
 四人の顔がそれぞれはっきりと映っている写真画像のファイル名には、通し番号とタイムスタンプに続いて、その被写体と思しき人物の名前が二つだけ書き付けられていた。
 白い騎士の方にいる、二人の少年の名前。
「八神太一と石田ヤマト……彼らが、選ばれし子供たち」
 これが唯一の手がかり。
 あの場所へと、辿り着くための。
 目を向けた遮光カーテンの隙間は真昼の明るさが滲んでいて、夜を徹した目が鮮烈な眩しさに痛んだ。
「許して、くれるかな……?」
 自嘲気味に苦笑しようとして、ただ苦いだけだった。
 プリンターから取り上げた東京都港区の地図は、お台場の周辺が真っ赤な線で丸く囲まれていた。




 そして、5月2日――――








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