missing

1st day








 あの瞬間、君が何処にもいなくなって、僕は君を失った。




 ふと呼ばれた気がして、太一は目を開けた。
 いつもと同じ、あの声が聞こえた。
 今にも泣き出しそうな、呼び声だった。
 輝く月も見えない、夜明け前だった。




「よっ、大輔」
 唐突に呼び止められて慌てて振り返った大輔は、駆け寄ってきて隣に並んだ声の主にまず驚いた。
「太一センパイ!」
 しかしそれもすぐに喜色へと変わる。小学校と中学校は隣接した敷地にあるので帰り道は重なる。それでも時間までがぴったり重なることは、あまりなくて。
「今、帰りですか」
「まあな。おまえも派手にやったみたいだな」
 笑った太一が、自分の右腕の肘辺りを指差す。その場所が今日の練習中に盛大に擦って白くなった所だと気づいて、大輔は照れ笑いを浮かべた。
「ああ、そうだ。ちょっと時間あるか」
「へ? 何すか?」
 きょとんとした顔をする後輩に、太一は軽く頬を掻く。ほんの少しの間を挟んで、遠慮がちな声が紡いだのは簡単な頼み事だった。
「ゲート、開けてほしいんだ」
「別にいいですけど……明日じゃ駄目なんですか?」
 問い返しながら大輔は怪訝に首を傾げる。
 明日は朝から全員でデジタルワールドに行く予定になっているのだ。選ばれし子供たちの年少組が中心になってまとめた今回のゴールデンウィーク計画には、太一も参加するはずで。
「いや、ちょっと確かめておきたいことがあって、さ」
 困ったように曖昧に笑いながら、太一は答える言葉を濁した。
「ヒカリちゃんは」
「京ちゃんと買い出し。それに、あいつに言ったら変な心配とかされそうだしな……」
「あのー、センパイ? ヒカリちゃんに心配されそうな理由があるんなら、俺だって止めたいんすけどー?」
 ぼやくように付け足された聞き捨てならないその言葉に、大輔がぼそりと低い声で突っ込むと、慌てて太一が手をぱたぱたと振った。
「違うって。ただ……声が」
 その目が一転して、すうっと細められ。
「声?」
「呼ばれてる、気がしてさ」
「誰にっすか?」
「それがはっきりしねえから行くんだっつの」
「……ヤバイもんじゃないんすよね」
「大丈夫だって。アグモンに会って確かめるだけでいいから」
 小さく笑った太一が、つと視線を中空へと投げた。
 ひどく澄まされたその眼差しに、大輔は思わず息を飲む。よく似た色を、かつて見たことがあると思った。何故か。
「声、何となく似てたんだ。俺の名前の呼び方とか。あいつに」
 呟きのような声は、それでも低く強く響いた。
 海から吹いてきた風が、少し強かった。




「あれ……太一? わあ、太一だ、太一!!」
 草はらに思いがけぬ姿を見つけて、アグモンは驚きもそこそこに、嬉々として駆け寄るとその勢いのまま飛びついた。
「アグモン! 元気してたかー!」
 片膝を落としてオレンジ色の身体を真っ正面から受けとめた太一は、そのまま軽く抱きしめる。新学期が始まってからモニター越しで話をすることはあっても、こうして直に会うことはなかったのだ。
 会おうと思えばいつでも会える、それも事実には違いないが、現実はなかなか上手くいかない。
 太一にも、中学最後の今年こそはと思っているサッカーがある。それにそう、ディアボロモンが太一とヤマトの名前をあちこち無差別にばらまいたことも、少なからず影を落としていた。
 緒戦はインターネットだけにとどまらず都心各地の街頭モニターにまで流された。その後もやむを得ぬ状況だったとはいえ、選ばれし子供たちの側も電光掲示板をいくつもハックすることで無数のクラモンに挑戦状を叩きつけた。そうして人目に晒される場で攻防を繰り広げた結果、東京湾決戦に集まったのは、クラモンと大勢の子供たちだけに留まらなかった。大人がいたのだ。それも、マスコミという明確な目的を持った人種が。
 ディアボロモンが太一とヤマトを誘き出すために行ったことは、都内のシステムを麻痺させ、大小様々な混乱をもたらすに至った。あの真夜中の決戦が、つまりデジモンたちが、間もなくマスメディアに大きく取り上げられたのも無理からぬことだった。
 そも年末の一件から、いつそうなってもおかしくはない状況ではあったのだ。あれからテレビ局を中心とした主要報道機関においては裏で協定がかわされ、デジタルワールドに関する情報はジャーナリストであるタケルの母や大学教授である空の父のみを窓口とする態勢を徹底することが出来たため、デジモンに関わった子供たちはその存在ごと隠される形で守られていたのだ。だが今回の事件は、その隠されていた子供たちの存在を、衆目の前に引きずり出してしまったようなものだった。
 しかし、それでも子供たちが報道に晒されることはなかった。太一とヤマトを始めとした選ばれし子供たち個人について深く立ち入った情報は、報道はおろかネット上でも未だに流出した形跡がない。事件が収束した日の夕方、その懸念を口にした光子郎に、ゲンナイがいつになく強い調子で告げた言葉通りに。選ばれし子供たちの誰一人として、デジタルワールドとの関わりのせいで辛い思いなどさせないと言ってくれた通りに。
 具体的に何があったのかは、太一だけでなく、子供たちの誰も知らない。ヤマトがテレビ局の報道関係者である父親に探りを入れても、何かが起きていたらしいことは示唆されたものの、はっきりとした答えは得られなかったという。
 結局、顔見知りの一部に騒がれた以外、表面上は不気味なほど平穏な日常が続いた。
 それでも今は目立たないに越したことはないいからと、しばらくは大輔たち年少組もパートナーを現実世界で連れ歩くことを控えた。デジモンたちもパートナーの身辺を気遣う素振りを見せ、一緒にいたいと口にしなくなった。
 気がつけば、全員で花見に行った日を最後に、そうするつもりはなかったのに、少しずつ微妙な距離が生まれかけていた。だからゴールデンウィーク計画は、すべてが元に戻る合図のようなものでもあったのだ。
 だから。
「どうしたの、太一」
 何かを感じ取ったのか、飛びついたときの勢いが引っ込んだアグモンの抱き返し方に、太一はやわらかな笑顔を返した。
「いいや、何でもない。何でもなかった」
 アグモンはアグモンだった。
 憂うことなど、何もなかった。
 そう思った、刹那。

   ── タイチ

 響いてきたのは、声だった。

   ── タイチ…… タイチ…… タイチ……!!

 さながら波のように押し寄せる、圧倒的な声、声、声。
 それは鼓膜を振るわす音ではなかったが、それでも確かに太一の名を呼んだ。
 狂おしいほどに、呼んでいた。
「何だっ!?」
 草はらの爽やかな空気はどろりと変質して、本能が警報を鳴らしている、ここは危険だと、危険が迫っていると。
 発せられる声の重さに、大輔は胃の辺りに不快感すら覚えたが、それでもブイモンと寄り添って警戒することは忘れない。
 鋭い視線を周囲に巡らしていた太一が、きっと一点を見定める。
「アグモン!」
 その一声の意図をくみ取ったアグモンのベビーフレイムが、太一の見据えた一点を焼く。と。
 ポーンとチャイムのように、たった一つの音が、世界そのものを震わしたような音が、隅々まで鳴り響いた。低くもなく甲高くもなく、とてもよく知っているような気がする音が。
 その音と共に、まるで水面に石を投げ込んだかのように、火球が当たった一点を中心にして地面に波紋が生まれていた。その波紋の中心から黒い何かが、湧き出す水のように滲み出て広がっていく。その黒い染みはまるで影法師のように曖昧な人型を成すと、不自然なまでにそのままの形で、音もなく起き上がった。
「タイチ……」
 黒い影から発せられた呼び声に、呆然と太一は立ちつくす。
 音の残響が、耳の奥にこびりついている。
 無明の闇色の中で、真っ赤な双眸がぼんやりと輝いている。
 くらくらと眩暈がして、足下の感触が消えて、踏み外して飲み込まれてしまいそうなほどに。
「太一!」
「センパイっ!」
 アグモンが太一と影の間に割り込んで、大輔が太一の腕を掴んで後ろに引いたのは、同時だった。
 引かれるまま蹈鞴を踏んだ太一は、音の残響が途絶えると同時に我に返る。
 枯れ木のような細腕が、影から伸ばされている。太一に向けて。それを理解した瞬間、太一は大輔の腕を掴み返すと、有無を言わせず走り出した。
「アグモン!」
 心臓が冷えた感覚を力尽くで抑え込みながら、太一が叫ぶ。再び放たれた火球は、影のすぐ足元を正確に撃ち抜いた。
「せ、センパイ!?」
「アレは、なんか、ヤバイ……っ!」
 はっきり断言した太一の言葉に、走りながら大輔がちらりと目だけで後ろを見やる。もうもうと立ち上る土煙の向こうで、不意に影が消えた、気がした。
「太一!」
「大輔!」
 二人に続いていたアグモンとブイモンが、お互いのパートナーに飛びつく。
「うわっ」
 そのために左右に分かれて転がった二人の、目と鼻の先に影が現れた。しかし影の腕は緩慢な動きで、飛びつかれた勢いのまま転がった太一の身体を捕らえ損ねた。すぐさま立ち上がった太一がデジヴァイスを掲げ、傍らのアグモンがグレイモンへと進化した。
「大輔!」
「俺たちも行くぞ!」
 ブイモンに応えて大輔もD−3を取り出したところで、はっと太一の背に目を向ける。彼はあの影をヤバイと言った。即座に逃げることを決断するほどに。
 そして影が狙っているのは、太一のみだ。
 ならば。
「ライドラモンに進化だ!」
「おう!」
 友情のデジメンタルが発動し、ブイモンは俊足のライドラモンへと進化する。
 あの影は瞬間移動じみた真似が出来るようだが、本体の動き自体はひどく緩慢だ。撹乱すれば、かわせるかもしれない。
「太一センパイ!」
 ライドラモンの姿を見て、目だけで振り返った太一がひとつ頷く。
 背に大輔をすくい上げるやいなや影の目の前へと跳び込んだライドラモンが、影の頭を掠めるように跳び越して引っ掛ける。そうして影がよろめいた隙にグレイモンが追い打ちのメガフレイムを、直撃と地面に向けたものを交えて数発叩き込んだ。
 生じた爆発は先ほどとは比べ物にならないほど大きく、もうもうと巻き起こった土煙は視界を完全に遮った。
「今のうちに!」
 身を屈めたライドラモンに太一も急いで乗ろうとした、その時。
 爆煙の中から不意に黒い腕が伸びて、鞭のようにしなりながらグレイモンをしたたかに打ち据えた。
「なっ」
 腕の非力そうな見かけに反し、凄まじい勢いで吹っ飛ばされたグレイモンは地面を転がりながら、どんどんとその姿が縮んでいく。
「グレイ――、コロモンっ!」
 そのまま幼年期のコロモンにまで退化してしまったパートナーに、太一が弾かれたように身を翻す。
 と、再び伸ばされた腕が、今度はライドラモンに襲いかかった。
 咄嗟に避けきれず、足をすくわれたライドラモンはやはりチビモンへと退化しながら、空中に投げ出されたパートナーの名を悲鳴のような声で叫ぶ。
「大輔っ!」
 地面に落ちた一瞬だけ衝撃に息が詰まり、続いて転げながら身体中に響いた鈍痛に大輔は思わず呻いた。
「ってぇ……!」
「大丈夫か!」
 コロモンを腕に抱えた太一が慌てて駆け寄ってくる。
 膝を落とし覗き込みながら問われて、大輔は息を吐いて上体を起こした。
 あちこちを打ったが、頭から落ちることだけは回避できた。腕も両方とも動くし、起きあがる際に身体を支えても骨に響く痛みはない。だが。
「右足……捻ったみたいっす」
 立ち上がろうと地面に着けた右の足が、ずきんと脳の奥まで激痛を訴える。痛みに顔をしかめると、チビモンが心配そうに、わたわたしながら腕に縋りついてきた。
「大輔ぇっ」
「走るのは無理だな」
 右足首をさっと視線で撫でてそう呟く太一を大輔が見上げた途端、地面に黒い影が差した。
 はっとする間もなく、コロモンを大輔の腕に預けて振り返った太一は、三人を背中に庇うように立ちはだかる。
 そして、どちらの動きも止まった。
 二メートル以上はある影を睨め上げる、太一の顔は大輔からは知れない。
 ただ。
 太一の肩がびくりと、驚愕に跳ねたことに気づいた。
 ほとんど吐息に掠れた声で、小さく小さく、何かを呟いたことも。
 だから。
――太一センパイっ!!」
 咄嗟に大輔は、力いっぱい叫んだ。
 呼び止めなければいけないと、何故かそう思った。
 しかしその声に太一が振り向くより一瞬早く、無明に染まった地面が太一を引きずり込んで。
「セン、パイ……?」
 音もなく、消えてしまった。
 草はらに初夏の風が吹く。影すら消えた後の、何もない草はらに。
 太一の姿が何処にもなくなってしまった、草はらに。
「大輔……」
 舌っ足らずなパートナーの震え潤んだ声に、大輔は何も答えられなかった。
 影は太一を飲み込んで、消えた。
 目の前で、消えた。
 だから。ここにいない。
 きつく唇を噛んで、自分の腕の中を見つめた。
「太一、太一、太一ぃっ……!!」
 ぽろぽろと大粒の涙を零しながら、消えてしまったパートナーの名を呼び続ける、小さなコロモンを。




 そのメールが届いたそのとき、ヒカリと京は連れ立って、デジタルワールドへ持っていく土産の買い出しのために街に出ていた。
 一ヶ月近く現実世界を離れているパートナーたちは、大好物とも随分と御無沙汰だ。ゴールデンウィーク計画を連絡した際、持っていくと伝えたときの、彼らの目の輝かせようといったらなかった。予算をかき集めるための苦労も苦労と感じさせないほどに。
「カンピョウ巻きとおはぎの材料、チョコレートはこれでオッケーっと……あ、ケーキとか何処のにしよっか?」
「最近出来たお店、結構美味しいらしいよ」
 弾んだ声と足取りの京にヒカリも笑顔を返す。その手にはオムライスの材料が入った袋が提げられている。
「じゃあ、とりあえず見に行ってみよ!」
「うん!」
 笑って頷きあった刹那、軽い電子音が二重に響いて、二人のD−ターミナルがメール着信を知らせた。
「あれ」
 二人揃って自分のD−ターミナルを確認し、同じタイミングで怪訝な顔を見合わせる。
 メールボックスの新着に現れた、それは奇妙なメールだった。サブジェクトが空っぽなのはまだあるとしても、差出人までが空っぽになっている。名前だけではなく、メールアドレスすら空っぽなのだ。
「どうなってるのかな」
「何これ、悪戯かウィルス?」
 京は口を尖らせてメールを開くことなく削除してしまおうとするが、リスト上で選択した途端にメールは勝手に展開し、本文が表示された。
「……え?」
 何の気無しに短い文面に目を走らせた、京の動きが止まる。
「どうしたの?」
 京の様子を訝りながら、ヒカリもその手元を覗き込み。
「ねえ……これ、どういう意味……?」
 すぐさま愕然と目を見開くと、ひび割れた壊れかけの笑顔で呟いた。
「待って、ちょっと待って……」
 消え入りそうなヒカリの声で我に返った京は、慌てて自分の携帯電話を取り出す。
 春になって学年が一つ上がって、携帯を持つ仲間が増えた。六年になった彼もその一人だった。番号は交換したものの、何だか特に用もないのに掛けるのは照れくさくて、結局は今まで通りのメールばかりで、その番号に電話を掛けたことはまだなかったけれど。
「ねえ、Missingって、どういう意味?」
 繋がった相手に問いかけながら、心の中で否定してと繰り返し願った。
 もう天才じゃなくなったと言いながら、それでも彼は今でも、ずっとずっと頭の良い人だから。きっと、自分が知っている意味とは違う意味を教えてくれるに違いない、間違いだと言ってくれるに違いない、そう思った。思いたかった。
 けれど。
「そっか……やっぱり、そうなんだ」
 いなくなってしまった。
 このメールは、そう言っているのだ。
「うん、うん……わかった、ヤマトさんの家にだね」
 話を続けながら空いている方の手で、京はヒカリの手を握り締める。
 震えていた。とても。




 初夏の爽やかな風が踊る緑の草はらに、黒く焦げた穴がいくつも穿たれている。
 その真ん中で片膝を抱えている大輔の姿を見て、思わず賢は、いったん足を止めてしまった。
 そしてすぐに、ああそうかと歯噛みする。
 たちの悪い悪戯などではないのだ。彼からのメールとほぼ同時に届いた、あれは。
「大輔!」
 D−ターミナルの画面を強張った顔で睨んでいた大輔が顔を上げ、走ってくる賢を見つけて少しほっとした顔を見せた。
「賢!」
 しかし立ち上がろうとはしない。
 怪我の具合を賢が訊ねるより先に、大輔は今まで見ていた画面を賢に向けた。とても短い、たった三つの単語から成る文章が書かれているだけの、差出人不明のメールを。
「うん、僕のところにも届いた。じゃあ、本当なんだね、Missingって」
 ――Taichi went Missing.
 太一がいなくなった。
 ただそれだけのメール。
 賢の言葉に、のろのろと腕を降ろした大輔の、視線もふらふらと地面に落ちていく。
 Missing。いなくなった。
「俺にも何が何だか、よくわかんねえけど……急に変な黒い奴が現れて、それで太一センパイが」
 消えた、という言葉は声にならなくて飲み込んだ。
「黒い奴?」
 肩に掛けていたスポーツバッグを地面に下ろしながら、賢は大輔の向かいに膝をつく。素足で真っ直ぐ伸ばされている右の足首辺りが、目に見えて赤く腫れ上がっている。賢の肩から飛び降りたワームモンが、それを見てぎょっとした。
「それって、どんな感じの」
「あんまデジモンっぽくなかった。真っ黒いバケモンっつーか……ええと、顔のないカオナシみてえな感じ」
 一昨年に公開されたアニメ映画に登場するキャラクターの名を挙げた大輔が、つと顔をしかめる。賢の手が患部に触れたのだ。
「ああ、あれか」
 しかし、あれと似た外見のデジモンに心当たりはない。
 とにかく記憶をくまなく探しながら、賢は自分のバッグから取り出した冷湿布を貼りつけると、続けて弾性包帯で大輔の足首を直角に固定していく。やり慣れた処置に意識を集中させるまでもなく、手が覚えている。
「カオナシ?」
「顔がないのに、顔があるの?」
 大輔の影でずっと静かだったチビモンとコロモンが、ちょこりと首を傾げる。
「え、コロモン……?」
 アグモンよりも高く響く声に驚いた賢へ、大輔が顔を曇らせて囁いた。
「グレイモンもライドラモンも、黒い奴の攻撃を喰らったら退化しちまったんだ」
 それからカオナシというのは名前で、白い仮面みたいな顔があるんだと説明してやっている大輔の横で、賢は眉根を寄せる。
 単に力を使い果たしての退化であれば、あのグレイモンがライドラモンと同じ幼年期に退化することは考えにくい。しかし敵を強制的に退化させる能力とすれば、野生デジモンの進化の過程を考えれば明らかにイレギュラーすぎる能力だ。
「賢ちゃん」
「うん」
 ワームモンの見上げてくる視線に気づいて、賢は軽く首を振る。自分だけで考えていても、解決できる問題ではない。
 例の英語のメールは選ばれし子供たち全員に届いていて、既に外でも事態は動いている。新たに着信していた仲間からのメールに素早く目を通した賢は、なるべく平静を努めた声で問いかける。
「大輔」
 ここに他の誰でもなく、賢が来た理由。
 チビモンはまだ少し涙が滲んでいる目の下を真っ赤に腫らしていて、もしかしたら賢たちが来るまで、ずっと泣いていたのかもしれない。その隣のコロモンの方が、今は落ち着きを取り戻しているように見える。残る涙の跡に押し込めたかのような沈鬱な陰りとその強さは、いなくなってしまった彼と同じ強さだ。だから。
「もう、行ける?」
 動けない大輔から助けを求められたのは、メールでだった。彼の声が聞ける電話ではない。だが、助けを求められたのだ。普段の、たとえば宿題などで口に出されるそれとは、わけが違う。
 あの助けてくれという言葉は、違うのだ。
「……おう」
 少しはにかんだように視線を彷徨わせ、大輔は肯いた。




 三本目のペットボトルを飲み干して、光子郎は深々と息をついた。
 ノートとデスクトップのパソコン二台を、そして持てる技術をフルに使って調べ上げた結果は、やはり最初に見つけた答えを補強するだけのものにしかならなかった。
 傍らに置いてあるD−ターミナルを引き寄せると、受信メール一覧を開く。
 リストに並んだ、サブジェクトも差出人も、発信時刻すら空欄になっている奇妙なメール。それが告げたのは、太一が消えたこと。
 このメールを受信して、即座に発信元の逆探知を試みた。様々なサーバーを渡り歩いた痕跡を順番に辿って、差出人を見つけ出してやると思ったのだ。だが。
「これ以上ここにいても仕方ない、か」
 時計の針は、もうじき五時を指そうとしている。
 光子郎はノートパソコンの電源を落として鞄に突っ込むと、D−ターミナルでヤマト宛にこれから合流する旨を伝えるメールを送信した。ひとまず彼の家が集合場所になっている。真夜中のアメリカにいるミミ以外は、もう揃っている頃だろう。
 状況を確認して情報を整理して、そして動かなければならない。
 太一の所在は掴めなかった。D−ターミナルでも未だに応答がない。大輔は何故かデジタルワールドにいるらしいと賢から連絡があった。今は賢が向かっているはずだ。
「太一さん……」
 何かが起こった、それだけは確かなのだ。




 お台場とはまるで違う草はらの風に、ヤマトは少し目を細めた。
 光子郎から連絡を受けたゲンナイの誘導もあって、ヤマトの家から開いたゲートはこの場所にぴったり繋がった。
 見ればもう、言われるまでもなかった。
 真新しい戦闘の痕跡が、草はらにはっきりと残っている。
 ここでなのだ。
 ここで、何かが起きたのだ。
 その結果、太一がいなくなった。
「ヤマト……」
 気遣わしく控えめにガブモンが見上げてくる。だが、言葉は続かない。
 ゴマモンを伴った丈は既に大輔の傍らで、捻挫したという右足の様子を見ているようだった。応急処置を施した賢とも言葉を交わし、労るような笑顔を浮かべている。
 その大輔の横にはチビモンだけでなく、コロモンがいて。
 そのことが、ヤマトの目にはひどく奇妙に映った。コロモンの姿はもう随分と見ていなかった気がする。ひょっとしたら四年前の冒険の時以来かもしれない。しかもそれが太一の傍ではないことが、違和感ばかりを突き立てる。
 だが、太一はいないのだ。
「大丈夫だ。――大丈夫だよ」
 ヤマトがうっすらと苦笑しながら答えると、草を踏む音が隣に並んだ。ヤマトが振り向くと、沈んだ顔で微笑む空がいた。
「無理しちゃって。顔、真っ青よ」
「お互い様だろ」
「そう、ね。でも私たちがしっかりしてなきゃ」
 言って空が見やった先には、京に付き添われたヒカリがいる。少し離れて、タケルや伊織たちが前の女の子二人を窺うように歩いている。デジモンたちは、それぞれのパートナーにぴったりと寄り添っている。
 誰もが不安に染まっている。
「そうだな。あいつがいなくなった途端ばらばらなんて、みっともないこと、繰り返してたまるかよ」
 誰からも僅かに距離を置いて立っているゲンナイがちらりと目を向けてきたような気がして、ヤマトは努めて軽口のように言い放つ。
 ディアボロモンの事件がテレビや新聞で報じられているのを初めて見たとき、太一と二人で大変なことになるかもしれないなと言いあって、そして二人揃って声を立てて笑った。あの一件のせいで何か厄介事に見舞われるとすれば、名前がばらまかれた二人で一蓮托生だと思っていた。
 けれど今、起きていることが何だとしても、いないのは太一だけだ。
「格好つきませんよね」
 ノートパソコンを脇に抱えた光子郎がヤマトの言葉に乗ってきて、軽く肩を竦める。
 四年前の夏、あの砂漠で太一がいなくなって、残された仲間はまとまりを失って、散り散りになった。それをもう一度集めたのも、それから皆の先頭に立ち続けたのも、太一だった。あの旅は、太一がいなければ駄目だった。
 だが、今度は。
 一つ息を吐いて、ヤマトは大輔たちの方へと歩き出した。




 初めに理解したのは、もう声が聞こえないということだった。
 あの最後の一瞬、あんなに強く鮮やかだった存在感も、もう何処にもなかった。
 それでも、もう一度会えると信じていた。
 ずっと信じていたから、ずっと呼び続けた。
 たった一つの、その名前を。
 ずっと、ずっと。








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