stay
1st day
君の時間が、なくなってしまう。消えてしまう。
雲一つない灰色の空、白くくすんだ砂浜、黒く陰った海。
何もかも色彩の抜け落ちたモノクロームに沈んでいて、この世界で色が生きているのは唯一、自分だけだった。
「ずっと、ここにいたんだな」
掠れた声で呟いて、太一は足下を見やる。
あんなに大きかった黒い影はすっかり太一より小さくなって、サッカーボールほどにまで小さくなって、血のように真っ赤な瞳で太一を見上げていた。
白い砂が、うっすらと身体の向こうに透けて見える。
砂浜に膝をついた太一は手を伸ばして、そうっと触れようとしたが、指先に感じたのはシャボン玉のように曖昧なだけの感覚だった。
もう、形すら失われていた。
「ごめんな」
もう、抱きしめることも叶わない。
影は何も言わない。ただ大きな目だけが泣き出しそうに震えながら、太一だけを見つめている。
太一ももう、すべてを理解していた。
「ごめんな」
もうすぐ消えてしまう。
自分のせいで、消えてしまうのだ。
「ごめん……」
繰り返すその言葉は、それでも諦めの言葉ではなかった。
かさりと乾いた音を立てて、砂に指を立てた。
「何があった?」
努めて抑えられたヤマトの声が、低く響く。
起きたこと、それを知らなければ何も始まらない。始められない。
唐突に訪れたメールが告げた、あの一言から先に進めないのだ。
大輔は傍らのチビモンに、次いでコロモンに目を向けると、意を決したように皆の方へ向き直って口を開いた。
「俺たちの目の前で、太一センパイが消えました」
濁す言葉も淀む言葉も、もうない。
「たぶん、ですけど……連れ去られたんだと思います」
ヤマトたちの少し後ろにいたヒカリが、声にならない悲鳴のように、喉をひゅっと鳴らす。
「デジモンか?」
「見たことない奴っす。真っ黒い影のかたまりみたいな、あの――カオナシみたいな、何だかよくわからない奴でした」
「カオナシというのは?」
「ええと、こんな感じかしら」
ゲンナイの疑問に、空が拾った木の枝で急勾配の放物線のようなシンプルな輪郭を描き始める。
「あの仮面がなくて真っ黒で、目だけ信号みたいに赤く光ってて」
「細い手はね、もうちょっと頭の上の方にあったよ。ボクみたいに」
大輔の膝の上に飛び乗ったコロモンが、犬か兎の垂れた耳のような自分の手を掲げて、言葉を付け加える。
と、はたと大輔が動きを止めた。
「大輔くん?」
「い、いや。そんで、その手を使って、そいつ攻撃してきたんっすよ。そしたら、殴られたライドラモンとグレイモンがいきなり幼年期に退化しちゃって」
この言葉を聞いて、ヤマトと光子郎がゲンナイの方を振り向く。だが彼は首を横に振った。
「思い当たるデジモンはない。データは取得できなかったのか?」
答える代わりに差し出された大輔のD−ターミナルはアナライザーを表示していたが、最新データに挙げられているのはアーマゲモンの名前だった。
「どういうことですか?」
常ならば遭遇したデジモンのデータは、アナライザーが自動的に記録している。
「アナライザーにリストアップされないということは、つまり、その影はデジモンではない、ということになる。アナライザーはデジコアからデータを読み取って表示しているんだが、どんなデジモンでも最低一つ以上はデジコアを持っているからね」
デジモンにとっては心臓とも脳とも、魂とすら言えるデータだ。四聖獣のようにデジコアを十二個も有し、さらに外から視認可能なデジモンは非常に特殊な例だが、逆にデジコアを一つも持っていないデジモンは存在しない。
「新種という可能性は」
「ありえないと断言できる。名前のないデータは存在し得ない」
情報がすべてを生み出すデジタルワールドにおいて、存在するということ自体がデータの上に成り立っている。存在した瞬間、デジタルワールドはそれを認識し、記憶し、デジタルワールドというシステムに組み込むのだ。
「最初はまったくの奇跡の産物だったオメガモンに"オメガモン"という名が付き、その後も自由に進化できるのも、そのためなんだよ」
ヤマトとガブモンがちらりとお互いを見やる。
「それで結局これがデジモンの仕業じゃないのなら、一番怪しいのはやっぱり、あのメールの差出人か」
「そうですよ! 逆探知ってどうだったんですか?」
勢い込んで訪ねる京に、光子郎が視線を落とした。
「差出人の特定は出来ませんでした。ただ」
「ただ?」
「あのメールは、外部のネットワークを経由してきた痕跡がなかったんです。D−ターミナルのメールサーバーに侵入して、僕たちのメールボックスに直接あのメールのデータを置いていった可能性が高い。だから僕も、人間ではなくデジモンじゃないかと思ったんですけど」
そう続けた声は、ひどく重い。
デジモンの中には現実のネットワークに精通し、メールを使いこなす者も存在する。もともとデジタルの存在であるためか、その気になれば高度な偽装もお手の物だ。今回のメールも宛先が世間から秘匿されている選ばれし子供たち全員であったため、そういった類だろうと見当をつけていたのだが。
「それって」
「つまり僕たちとデジモンのことも、僕たちがD−ターミナルを持っていることも、そのアドレスが何かも、全部知っている人間がやった、ということですか……?」
伊織の言葉に、全員の表情がぞっとした色を帯びる。
「でも、そんなの誰が? これ、普通に売ってる物じゃないわよね」
D−ターミナルはもともと東京都港区のお台場周辺に住む小中学生を対象に、試作商品のモニターとして配布された物だった。それが偶然デジメンタルの端末になったこともあって、返却義務がないのをいいことに今ではデジタルワールドに合わせて随分と改造を施してあるが、本来は普通の電子機器だ。
しかし未だに一般販売は始まっておらず、現存する台数は限られている。さらには港区以外で配布された形跡はなく、存在自体が決して広く知られてはいない。
それを今、ここにいる全員が所有し、こんな形で利用された。
「中の基盤にはシリアルナンバーと、アメリカにある会社の名前が書いてありました。D−ターミナルを配布したのも、そこの日本法人だったはずですが……けど、まさか」
「まさかでも、最悪の想像はかなり怖い話になっちゃうな」
詰まった光子郎の言葉を継いだ丈も、自分のD−ターミナルを取り出すと、苦笑じみた暗い声で言った。
「僕らの手に必ず渡るように、でもその狙いに気づかないように、お台場辺りの子供全員に配ったかもしれない、ってさ」
「わかった」
ゲンナイの呻くような低音に、全員がびくりと振り向いた。
「光子郎、会社の名前は?」
「マーチエレクトロニクス社です」
その名にゲンナイが驚愕したように目を見開いたのは、ほんの一瞬のことで。
「そう……か。よし、太一の捜索もだが、念のためその会社のこともこちらで調べてみよう。何か手がかりが出てくるかもしれないしね」
すぐに、僅かに目を伏せた。
薄紫に染まった空は、この世界の夕暮れの色だ。
もうじき太陽が沈んで、夜が来る。縁側に出ていた空は、夕焼け色を映した頭上の湖面から手首の腕時計に目を落として、ふうと小さくため息をこぼした。
「空?」
「ううん、もうじき七時だなって思って」
ぴったりと寄り添っているピヨモンの、やわらかい羽毛に包まれた頭を優しく撫でながら空は微笑みを作る。
犯人の正体も、どうして太一が狙われたのかも、何もわからない現状だ。現実世界に戻るべきかデジタルワールドに残るべきかを判断するための材料すら乏しいが、結局は皆が予定を繰り上げたという名目で、いったん荷物を整理してゲンナイの屋敷に集まり直すことに決めた。
ヒカリは、外出中の母親には太一の不在も含めて、適当に言い訳した置き手紙を残しておくと言っていた。今はテイルモンや京と一緒に、怪しまれない文面を考えている。大輔の口から太一が消えたことを知らされたときにはそのまま卒倒してしまいそうだったが、気丈に振る舞っている今は今で、憔悴した様子が痛々しい。母親に顔を会わせれば何かあったと気づかれることは火を見るより明らかだ。
しかし二人分の荷物も持ち出して、嘘をついて、そうして連休中にすべて元通りになれば、何事もなかったように『日常』に帰ることが出来る。
帰らなければならない。
「その足、明日の朝にでも一度、病院で診てもらった方が良さそうね」
ちょうど賢が冷湿布を張り替えていた大輔の右足は、空の目にも放っておけば済む程度には見えなかった。やはり丈も肯いて同意する。
「無理をして変な癖がついてもいけないしね。それに病院でもらえる湿布の方が、やっぱり市販のより効くから」
「……はい」
「ったくもう、しゃきっとしろよなー!」
「こら、ゴマモン」
そして歯痒そうに俯く大輔の様子に苦笑すると、とんとその肩を叩いて、
「何か動きがあったときのためにもね。もしかしたら、君たちを頼りにしなきゃいけないかもしれないから」
声を潜めて囁くように言った。
「丈先輩?」
その言い方が何かを含んでいるように聞こえて、空は目を眇める。
今は紋章の力を自由に使うことが出来ない。その力は四聖獣によって、デジタルワールドの安定のために常に使われているからだ。全員で完全体に進化することは難しく、太一もいない今、最も大きな戦力となるのは確かにメタルガルルモンか、四聖獣チンロンモンの力を借りたインペリアルドラモンだろう。
だが、相手の正体の、見当すらついてないというのに。
疑問の視線を察した丈が、苦笑の色合いを別のものに変えた。
「さっきタケルくんが言ってたんだ。ヒカリちゃんは今回のこと、暗黒の海が関係してるかもしれないと思ってるみたいだってね」
はっと賢が顔を上げた。
真っ黒な謎の影を、暗黒の存在と結びつけてしまうのは早計だろう。謎のメールの件もある。だが可能性がないわけではない。たとえば及川の時のような形で、人間が利用されているとしたら。
「――センパイ」
俯き加減のまま呟くような大輔の声が、沈黙に響いた。
「こっち来る時に、呼ばれてる気がするって言ってたんです」
「それは」
太一が今日デジタルワールドを訪れた理由はもう聞いている。
それに空も知っている。四月頃から太一が時折見せていた奇妙な素振り。ヒカリが暗黒の海の関与を疑う理由は、おそらくそれもあるのだろう。彼女自身、海に呼ばれて引きずり込まれそうになった経験がある。
「アグモンの声に似ているように聞こえたから、だろう?」
少しだけ顔を上げた大輔の視線が、何かを探すように彷徨う。
「……違う、かもしれない」
「大輔?」
不思議そうに見上げてくるチビモンの頭を、小さく笑って撫でて。
「太一センパイ、何かを探してたような気がするんです」
何故そう思うのかも、わからないけれど。
いつの間にか夕暮れの色に、紺色が混ざりつつあった。
もうすぐそこまで、夜が来ている。
何かを、見落としている。とても重要なはずの、何かを。
だが、その何かが見つからない。濃い霧に巻かれたように混濁している。右足の痛みはじんじんと熱を帯びている。もどかしさと情けなさがない交ぜになって、少しでも紛らしたくて吐き捨てた苛立ちは、ほとんど吐息にしかならなかった。
あの時のことを話していた間、大輔は一度もヒカリの顔を見れなかった。先に賢と話していなければ、言葉を続けることも堪らなかったかもしれない。
だって、届かなかったのだ。
部屋の真ん中で大の字に寝転がっていると、廊下を歩く振動が微かに伝わってくる。戻ってきたのは誰だろうかと、思った途端に木が滑る音がして襖が開いた。
「大輔くん、預かってきたよ」
声がした頭上を見上げると、スポーツバッグを二つ腕に提げたタケルが逆さまに見える。
「……さんきゅ」
「あとこれ、捻挫したこと伝えたら君のお姉さんが持ってけって」
診察券と保険証をひらひらと振ってみせるタケルに、大輔が苦い顔になる。
「何だよ、姉貴に言っちまったのかよ」
「心配してたよ。ねえ、パタモン」
「うん、歩けないくらい酷いのって」
「どうせバカにしてんだよ、間抜けって」
「だいぶへこんでるね」
「……」
ふつりと大輔が会話を途切れさせた。
部屋の奥でやはり大の字に転がっているチビモンの、くうくうと立てる寝息だけが規則正しく聞こえる。
「目の前で、消えたから?」
言うタケルの声は、不自然なまでに素っ気ない。
大輔は黙り込んだまま、上体を起こした。そして背後になったタケルの方に身体を捻ると、計ったようなタイミングで再び襖がするりと開く。
「あ」
襖にしがみつくようにして開けたのはワームモンで、賢がタオルケット一枚と枕を一つ抱えて立っていて。
唐突に中断された何かが、ぎこちない空気を漂わせたのは、瞬きほどの時間で。
「大輔。これ、足の下」
「わりぃ」
賢は折り畳んだタオルケットで枕をくるんで、それを大輔が軽く持ち上げた右足の下に滑り込ませる。重心がずれた状態で座っているのは辛いので、そのまま大輔は再び上体をごろんと後ろに倒した。途端に視界へ飛び込んできた電灯の眩しさに、目を細める。
と、タケルが覗き込んできて、影が落ちた。
「僕もね、去年の夏、ミミさんが目の前で消えたとき、しばらくしてからだんだん怖くなった。兄さんたちも、みんないなくなったって聞いて」
薄暗い路地、吹きつけた風、生温い冷たさから目を背けた。
ひたすら走り続けた。
「ヒカリちゃんが最初にあのデジモンのことを感じ取ってなかったら、どうしたらいいかわからなくて途方に暮れるしかなかったと思う」
立ちつくす、今のように。
「あん時か……」
乾ききった夏の記憶。何気なくそう呟いて。
記憶の中で、蒼い月明かりの中で、蒼い森の中で、振り返った、ガラスのように透き通った眼差しで遠く何かを見つめていた、ウォレスが。
見ていたのは。
「そうだ」
ふと耳元に囁かれたように、唐突に気がついた。
唐突に、重なった。
夏の風が吹く地で、七年前に消えたパートナーを捜し続けていたウォレス。
デジタルワールドに行きたいと言ったあの時の太一の、眼差しの色は彼とひどく似ていたのだ。
だから、その色を知っていると思ったのだ。
「そうだよ、ウォレスみたいだって思ったんだ、あん時の太一センパイ……!!」
ならば二人の、何が同じだという。
その答えも記憶の中にある。
「大輔?」
「大輔くん?」
唐突な話についていけず困惑する賢とタケルに、勢いをつけて起き上がった大輔は身を乗り出して言葉を続けた。
「あの影の声、俺、アグモンに似てるって思わなかったんだ」
たとえば同性の親子や兄弟ほどには似ていたかもしれない、だが、何かがまったく違ったのだ。
「そうだよ、太一センパイ、アグモンの声がするなんて一回も言ってねえ!」
右足にも構わず立ち上がろうとした大輔を、慌てて賢が支える。
「大輔、どうしたんだよ急に?」
「光子郎さんたちとこ!」
しかし壁伝いか肩を借りるかしても、少しずつしか歩けないだろう。僅かに躊躇いながら賢が、大輔を挟んで反対側に立つ形になっていたタケルに目を向ける。視線に気づいたタケルは僅かに瞠目したが、すぐに大輔の左腕を自分の肩に回させた。
と、いきなり身体を浮かされた大輔が慌てて片足立ちのまま、両腕に力を込める。
「って、おまえら言ってからしろよ!」
子供とはいえ三人揃って運動神経に自信があるからこそ出来る荒技といえるが、無事な左足も踵が床につかない有様では、両脇の二人との縮まらない身長差を思い知らされるばかりだ。
「変な力入って悪化したらいけないし」
「そうそう」
荷物を取ってきた年長組が集まっているのは、寝室として割り当てられた部屋の一つであるここからは少し離れている、庭に面した大部屋だ。
いち早く出た光子郎と丈、空が戻ってきたのは知っている。タケルが戻ったならヤマトも戻っているだろう。しかし京や伊織と一緒に、置き手紙を用意していて最後にここを出たヒカリは、まだ戻ってきていないはず。
「俺、思い出したんだ」
そうだ。見つけた。
思い出した。
ずっと前に一度だけ話してくれたことがあった。太一が初めてデジモンと出会った日のことを。たった一日だけの存在を。夜明けには消えてしまった存在を。
その時に太一は、同じかもしれないけど、たぶん違うと言った。
今、傍らにいる存在とは。
「違ったんだ……」
答えは、とっくに目の前にあったのだ。
自分達を背に庇ったあの時、太一が呼んだのは背後のパートナーではなく、目の前の。
「太一センパイ、あの影をコロモンって呼んでたんだ……!!」
その瞬間。
ポーンと一つだけの『音』が鳴り響いて、何もかもが暗転した。
真っ先に湧き起こったのは、あの時に問い質すべきだったという後悔だった。
最初に気づいたのは始業式の日だった。それから急に立ち止まったり、話している途中に視線が唐突に彷徨ったり、そんなことが、ヤマトが目にしただけでも数回あった。それが四月も後半になった頃、様子のおかしさの質が少し変化していた。
太一から戸惑うような様子が消えたのだ。その代わり、おそらくその声が聞こえたときに、意識を澄ますようになった。
目に見えない警戒網とも言える鋭い空間知覚は、命の危険に晒されていた四年前の冒険の最中で自然に、必要に迫られて獲得していったものだったが、太一は八人の中でそれが最も鋭敏だった。もともとサッカーで司令塔役を果たしていたこともあるのだろう、そしてそのことが四年経った今でもほとんど鈍らせていない要因でもあるのだろう。フィールド上の動きをつぶさに把握し、その流れを正確に読み切って指示を飛ばす太一の姿は、あの頃を彷彿とさせた。
彼が集中を始めたと、知覚の糸で緻密に編み上げた『網』を周囲に広げたと、察するのは容易い。何がどう変わったと言い表すことは難しいが、それでも何かが変わるのだ。かつてそんな話をしたときに空は苦笑して、だが深く同意して、ほんの少し空気が変わるような感じと表現した。
だから、そう、気づいていたのに。
「ヤーマート」
掛けられた声にヤマトが顔を上げると、少し陰った微笑で、空が自分の眉間を人差し指で軽く小突いた。
バンドを始めたばかりの頃、ことある事に眉間に皺を寄せて顰めっ面で押し黙っていたヤマトに、まず太一が呆れたように始めて、すぐに空も真似をするようになった仕草。タケルまで真似し始めたときには、何とも言い難い気分になったものだった。
「また内にこもってるでしょ」
肩の荷物を床に投げながら僅かに顔を背けて、ついたため息は我知らず深いものになった。
だって、通り過ぎてしまっていた。
兆しに気づいていながら。
「太一の様子がおかしかったのを特に気にしなかったのは私も同じだわ。太一が何も言わないからって。……あいつが何にも言わないこと、忘れてた」
空がくしゃりと泣きそうな笑い方を浮かべる。
「太一さん、どうすべきか自分の答えが出せてないようなことは、ほとんど言ってくれませんからね」
そう口を挟んだ光子郎の目はディスプレイを見据えたままだ。キーボードの上を踊る指は絶え間なくコマンドを綴り続け、表示されている画面はいつもと違って黒く、味気ない白い文字が大量に、酔いそうなほど高速にスクロールし続けている。
「それで光子郎はんもよう嘆いてはりましたなあ」
「テントモン……」
「まあまあ。だから僕らのリーダーだったけど、裏返ったらそれも太一の悪い癖だね。早いところ連れ戻して、文句の一つも言ってやらないといけないな」
丈がやわらかく微笑んでそう言うと、押し黙っていたデジモンたちが強張っていた表情を僅かに緩めた。
と。がたんと鳴るほどの勢いで、部屋の襖が開け放たれた。
「やっほー!!」
ついで響いた明るい声は、聞き慣れた声だった。
「――なぁんて、のんきに言ってられる場合じゃなくなっちゃったんだっけ、今日は」
大きな鞄を肩に引っかけて、少し困ったように笑っているのは。
「ミミちゃん!?」
「はぁい。って、やけに少ないわね、小学生組は他の部屋?」
「ミミ、ミミー!!」
その姿を認めるなり、部屋の隅にいたパルモンが弾かれたように飛びついた。そうして彼女の足に縋る様は、まるで幼い子供がはぐれていた親を見つけて抱きつくようで。
「やあね、パルモンったら。あたしは何ともないのよ」
なだめるようにミミの手が、花を優しく撫でた。
「早かったのね、こんな時間に」
「んー、いつもより早起きはしたけどね。そしたら変なメールは来てるし、みんなからは見たらすぐに来てってメールも入ってるしで、超特急で来たの。もう、ゆっくりセットする暇もなかったわよ」
自分の髪の毛先を摘んで、ミミが少し口を尖らせる。
「ええと……今そっちって何時だっけ」
「空さん、もうサマータイムですよ。日本で夜八時だと、ニューヨークは朝の七時」
「あ、そうか」
「そういうこと!」
また少しだけやわらかくなった空気に、ヤマトは立ち上がると縁側に足を向けた。ここは湖の底だから厳密には外とは言えないのだろうが、それでも外の空気を吸って、思い切り伸びをしてしまいたい気分だった。
「あれ」
何も言わずについて来たガブモンが、急にヤマトを追い越して縁側に走った。
「どうした」
「あそこ、誰かいる」
そして庭の一角を指差す。しかしその場所はちょうど竹垣の影になっていて、ここからではよく見えない。が。
「あれは……!」
理解した瞬間、ヤマトはガラス戸を力任せに開け放つと、縁側から沓脱石に飛び降りた。
ちらちらと揺れる、金色が見えた。
「ヤマト!?」
ガブモンが驚いた声を挙げるが、構わずヤマトは険しい表情で誰何の声を発する。
「そこにいるのは誰だ!!」
金髪だった。だが長い。タケルとは違う。
くすりと、耳元で何かが笑って。
まるで音叉のような、単一の『音』が打ち鳴らされた。
そして視界は、真っ黒に塗りつぶされて。
真っ暗闇の足下で、ぱしゃりと水音がした。
「な、何だ!?」
石と変わらぬ硬さで、しかし突如として地面も何も見えなくなった不安定さに、ヤマトは思わず蹈鞴を踏んだ。黒い水が跳ねても少しも足は濡れていない。ただ、黒い水面はしっかりと踏みしめられる足場でありながら曖昧で、ひどく奇妙な感触をもたらした。
また、くすりと笑う声がして、ヤマトは声の方向を振り返る。
「誰だ」
「初めまして、選ばれし子供たち」
笑みの残響と共にふわりと闇に舞い降りた、金色の人影はほっそりとした少年だった。日本人ではないようだったが、おそらくタケルたちとそう変わらない年頃だろう。
しかし、ひどく非現実的だった。
まるで西洋の御伽話に出てくる魔法使いのような艶のない黒いマントに全身を包み、癖のない長い金髪をそのまま背に流している。唇がたたえる微笑は余裕に満ちていて、不可思議な輝きをはらんだ緑の双眸は圧倒的ですらあった。
「やっと全員揃ったね」
そう呟く、声変わり前の少年特有の硬い響きは、静かな愉悦を帯びていた。
全員という言葉に、目の前の少年への警戒はそらさぬままヤマトが周囲を見回し、息を飲む。
周りに広がっていたのは、何もかもが異質に変わり果てた空間だった。ゲンナイの屋敷にいたはずが、庭に出ただけのはずが、何もなくなっていた。地面すら何処にもない。何もかもが闇に塗りつぶされていた。
その闇の中に、子供たちだけが全員いた。ヤマトたちも、大輔たちも、そして戻ってきたばかりだったらしいヒカリたちも、全員が。だのにデジモンたちはいない。太一も、いない。
何も見えない無明の闇の中で、子供たちと金髪の少年だけが、自ら光を放っているかのように浮かび上がっている。
「てめえ、太一センパイをさらった影の、仲間か」
厳しい表情で問うた大輔の声が、重く低く、闇に響く。
「兄さんっ」
駆け寄ってヤマトに並んだタケルも、少年を厳しい目で見据えて。
「太一さんをさらった影が現れたときも、さっきと同じ音がしたって」
そう言って、賢に肩を借りて立っている大輔に一瞥を向けた。
あの音がして、黒い影が現れて、その影が太一を連れ去ったのだ。
それと同じ音がして、今この少年が現れた。
「そうだね。そう思ってくれて構わないよ」
タケルが隣で、ひどく不愉快そうに眉根を寄せた。
先ほどの大輔の言葉と、今のこの少年の言葉。
「なるほどな。そっちから来てくれたってわけか」
口の端を歪めたヤマトが剣呑な笑みを浮かべる。
「太一は、無事なのか」
「もちろん」
しかし笑顔で肯く少年の声は、ヤマトの声に含まれている怒気など、まるで意に介していないようだった。
「大切な、とても大切な人なんだから。当たり前だろう?」
ひどく癇に障る余裕だった。
「かえして!! お兄ちゃんをかえしてよっ!!」
弾かれたように飛び出してきたヒカリが、絶叫のような声を投げつけた。
「ヒカリちゃん!」
そのまま少年に突っ込みかねなかった身体を、間一髪でタケルが引きとめる。すぐに追いついてきた京や伊織も、ヒカリを引き戻しながら少年を睨みつけた。
「……おまえが何者なのかも目的もどうだっていい。今すぐ太一を帰せ」
声が掠れるのは、喉の奥が灼けそうな程に熱いからだ。
「それは出来ない」
少年が、ふつりと笑みを消して。
「もう時間が、ないんだ」
すうっと翡翠の目を細めて。
「選ばれし子供たち。君たちから時間をもらうよ」
見上げた瞬間、頭上の闇が崩れて剥がれ落ちて、真っ黒な雨のように、海水のように生温く重たい水が一気に、全員に降り注いだ。
悲鳴が上がる。
ぱしゃんっと最後の一滴が跳ねて、大きな波紋が地面に、水面に描かれる。
その波紋が収まったとき、ゆらゆらと僅かに揺らめく水面はまるで磨き込まれた鏡のように、上に立つ者の姿をはっきりと映していた。
「何だよ、これ」
ヤマトは愕然と呟いて、おそるおそる顔を上げた。次いで、まずタケルに目を向けた。そして空、ヒカリ、ミミ、光子郎、丈を。
七人全員、同じように自分の姿と仲間の姿を目にして、立ちつくしている。
後輩たちは呆然と視線を彷徨わせている。
その理由はわかっている。
だが、わからなかった。
「何で戻ってんだよ……?」
あの四年前の夏に。
あの頃の、そのままの姿に。
「さあ、戻ってくるよ」
水を打ったような沈黙の中で、少年の声だけが響く。
彼は綺麗に微笑んで。
「君たちの力が」
静かに、だがはっきりと、告げた。
その声が言葉が合図になったように、きぃんっと甲高い音を立てて、七人の前にそれぞれの紋章が浮かび上がる。
かつての眩い輝きを放って。
「……バイバイ」
小さなヒカリの頭を一度だけ優しく撫でると、少年は闇に溶けるように消えていった。
無明の闇も、ぱちんと泡のように弾けて、消えていった。
「マーチグループ、だと」
白い光球が、ちらちらと不規則に瞬く。
ゲンナイは無言で肯いた。
ダークマスターズの攻撃によってデータを破損し封じられたときですら、彼らがこんな動揺をしたことはなかっただろう。こんな、心の奥底からの動揺など。
「懐かしい名だ……」
「その名を再び聞く日が訪れようとはな」
赤と青の光球から響く声も、感慨深さを押し隠せていない。
永すぎる時間にさらされてすっかり錆びついていたはずの感情が、たった一つの名前で呼び起こされて、揺らいでいる。
「御主はどう考える、ゲンナイよ」
緑の光球だけがただ一つ、飄々とした声音を保っていた。
「何らかの意図や目的はあるとしても、まさか子供たちへの害意ではないだろう。少なくとも今は、太一の捜索をこそ優先すべきだ」
「ふむ。探るにせよ、その件が片づいてからということじゃな」
「はい」
「儂もその意見に賛同する。他はどうするかね」
「我も異存はない」
「選ばれし子供たちのために、我らは持てる力を尽くそう」
「彼らもまた、我らが守るべき存在だ」
「決まりじゃな」
言葉と共に、ふつりとスイッチが切られた灯りのように、赤と青とそして緑の輝きが消えていく。
「まだ何か?」
ただ一つ残った白い光球に、ゲンナイが怪訝に目を眇めた。
「ひと月ほど前から、暗黒の海が騒がしいようだ。我とリンクしている勇気の紋章にも今、陰りが出始めている。おそらくは『夜』の気配だろう」
発せられる声が微かに苦悶に陰っている。
「それは、まさか……!」
「奴が目覚めた可能性がある……万一の事態を考えておくべきやもしれぬ」
そう告げた白い光球が、不意に無数の光の糸に引き裂かれ、霧散した。
「バイフーモン!?」
そして、世界が大きく震えた。
index