fade away
1st day
そして僕は独り、永遠の夜の淵に立ちつくす。
声が聞こえた、気がした。
「消えてしまうよ」
心が。
ぽつりと、そう呟いて。
屈み込んで、俯せに倒れている彼の顔に、そっと手を伸ばす。
手を伸ばして、けれど頬に触れる寸前で止めて結局、指先で掠めるように、目元に掛かっていた前髪を払った。
瞼は閉ざされている。
顔色は失われつつある。
「消えてしまう」
命が。
「時間がない」
立ち上がって、頭上を仰ぐ。
黄金の色をした、太陽の輝きも月の輝きも、今はない。
「取り返さないと」
金髪の少年は踵を返した。
「僕の声、聞こえてるのかな」
ぽつりと、そう呟いて。
――シャボン玉が、ぱちんと弾ける。
閉ざされていた重たい瞼を持ち上げても、ぼやけた視界の何処にも誰も、いなかった。
声が聞こえた、気がしたのに。
「ばっかやろ……」
胸の奥で確かに息づく鼓動の感覚を抱きしめて、太一は無性に泣きたくなった。
こんなにも自分は小さかったのかと思った。
難しい表情で押し黙っている兄の横顔をこうして見上げる、角度も距離も、こんなにもあったのかと思った。
それでももう、兄を大きいと思わない。
自分は、こんなにも小さかった。
「タケル」
「パタモンって、こんな重かったっけ」
頭に飛びついてきたパートナーに笑い返した自分の声が、ひどく甲高く聞こえた。
「えー、重くなってなんかないよう、だってボクは変わらないもん」
「そっか、そうだよね」
変わるのはタケルの方だから。パタモンを重いと感じなくなっていたのも、今また重いと感じるのも。四年分が巻き戻って、年少組の中では一番背が高かったのに、今は逆に伊織より小さいはずだ。
「小さくなっちゃったんだなあ……」
小さかった、あの頃の自分。
声変わりする前の声、小さかった頃の声。なのに自分の声ではないような気すらして、本当にこんな声だったかも思い出せなくて、奇妙な齟齬感に襲われる。
一瞬だけ、きゅっと眉根を寄せた。
けれどそれ以上は、言葉にも表情にも出さない。
「タケル」
暗い声のヤマトの呼び掛けに、明るく笑って振り仰いで。
「四年前じゃ仕方ないよね。ほら兄さん、一人でぐるぐる考えてないで、みんなのところに戻らないと」
手を引っ張ると、困ったような苦笑いを返された。
「その声でそう呼ばれると、何だか変な気分だ」
「……うん、僕も変な感じがした、『お兄ちゃん』」
戻してみた呼び方に、ヤマトがいっそう苦笑いを強める。
ひどく馴染まない気がする。
あの頃とは違う。姿形が同じになってしまっても、もうあの頃のままではない。
ならば、何が変わっただろう。
あの頃は、ずっと見上げて、追いかけて。
そうして追いついた時に、なりたかったのは何だっただろう。
今ここに太一はいない。
タケルは兄の手を引きながら、ちらりとヒカリの方を見やる。
その視線に気づいた京が、少し戸惑いがちに、それでもやわらかな笑顔で手を振った。もう片方の腕は、項垂れたヒカリを抱き込むようにして支えている。
小さいヒカリ。手を繋いで、必死で逃げて、必死で守った。
今の自分は、あの頃の自分より、何が出来るようになっただろうか。
ふと、霧のような、海風のような、湿り気の残滓を感じた。
「大輔大輔大輔大輔ぇーっ!!」
力いっぱい飛びついてきた青いかたまりを、反射的に抱きとめたものの右足が踏ん張れずにバランスを崩しかけた大輔の肩は、賢が咄嗟に支えてくれた。
そしてもう片方にも、別の手が伸びていた。
「うっかり右に体重をかけないようにね」
「セン、パイ」
ほんの少し見上げるだけの位置に、穏やかな、だが苦い丈の笑顔がある。
「すんません」
あるはずの距離がない。
そのことに、どうしても戸惑わずにいられないけれど。
「ってブイモン、泣いてんのかよ」
チビモンは大輔の胸にしがみついたまま、わーわー声を上げて泣いている。その様に、小さく笑みがこぼれた。
「だってぇ、大輔、何処にもいなかったからぁ」
そういえば眠りこけているチビモンを、部屋に置き去りにしてしまった。
「あーそっか、悪かったって、ごめん」
困ったように賢を見ると、やはりワームモンを抱えた賢も同じような苦笑を浮かべた。
と。
「うわ、丈ー! 何だよその格好っ」
「何だよはないだろう? まあ、変なことにはなったけどさ」
振り返った丈が、するりと大輔から離した手で、転がるように跳ねてきたゴマモンを抱き上げる。
「うーん、あの夏ってことは、僕はぎりぎり大輔くんたちよりは年上かな? でもみんなは逆転しちゃったね」
「逆転とか言うな」
渋い顔で即座に口を挟んだヤマトに、ガブモンが苦笑した。
「人間が退化すんの、わて初めて見ましたで」
「テントモン……」
その冗談なのか本気なのか掴みきれない声に、光子郎ががくりと肩を落とす。
「変な音がしよった思たら急に、だーれもおらんようなってしもて。それがいきなり戻ってきはった思たらこれやさかい、えろう驚きましたで」
「そっちには僕たちが急に消えて、急に現れたように見えたんですね」
「せや」
あの闇に飲まれた瞬間には散らばっていたはずの距離が、吐き出された今はなくなっている。向こうでいったん寄り集まったからかもしれない。
「空、何ともないの?」
「そうよう、人間って元に戻ったりしないんでしょ?」
首を傾げるピヨモンとパルモンの言葉に、空とミミは顔を見合わせる。
「うーん、目の高さが急に変わったから、見え方が違って変な感じはするけど」
「チョコモンの時は、ほとんど何もない世界だけだったもんね……ホント、変なの。でも、それだけみたい」
ぐるりと自分の身体を見回しても、懐かしい当時のままということしかわからない。
巻き戻ってしまった自分の姿も、目線の位置も、かつて確かにそうであったというのに、まるで馴染みがないような気がするのは、不思議だったけれど。
「何かあるとしたら、おそらく紋章でしょう」
姿が変わったことそのものに、何もないのなら。
騒いでいる皆の脇をすり抜けて、思考に半ば沈みながら光子郎がノートパソコンの前に戻る。
「紋章?」
「ええ。僕たちの力と、あれは言っていましたから。もしかしたら――いえ、とにかくゲンナイさんに戻ってきてもらわないと、どうしようもないですね」
「そうだな……太一を連れ去ったっていう犯人も、一応わかったんだし」
ヤマトが、庭を横目で睨むように見やった。
あの少年は、自分でそう言ったのだから。
だが、あの影は。
「あ、あの」
「どうしましたか、大輔くん」
光子郎が振り返ると、離れた位置で京たちに付き添われているヒカリを大輔は一瞥し、声をことさら潜めて囁いた。
「俺、ちょっと思い出したことがあるんす」
「わかったわ。ヒカリちゃんもだいぶ疲れてるみたいだし、ね」
空が微笑んで、頷いてみせた。
太一が消えたことで神経を尖らせていた上に泣き疲れたこともあってかヒカリの顔色は芳しくなく、先に休ませるべきなのは変わらなかっただろう。
その笑い方はやはり、年上らしく大人びていた。
「影が、あの時のコロモン……?」
縁側に座って庭を睨むように見つめながら発せられた大輔の言葉に、ヤマトと光子郎、丈の反芻が重なる。
「センパイが消えてしまう直前、あの影にそう呼びかけてたんです」
ひどく驚いたように、悲しそうに、痛むように。
そして、懐かしむように愛おしむように。
影のことを、太一がコロモンと呼んだのだ。
「ちょっと待て……その影がコロモンってどういうことなんだ。太一のコロモンは、この」
「太一が呼んだのはボクじゃないボク。そういうことでしょ? だってボクは、ファイル島で太一と会えた時、初めて会った気がしなかった。けどボクは、それより前に太一と会った記憶はないんだ」
狼狽えるヤマトの言葉を遮って、大輔の隣でコロモンが落ち着いた声で言った。
「光が丘のこと、懐かしい気がするって言ってなかったかい?」
「うん、それもホント。だからそれはきっと、ボクだけどボクじゃないんだ」
それはまるで謎かけのような言い回しではあったが。
「──ああ、そうか」
光子郎が息を飲む。
「そうですよ、パートナーデジモンはたとえデジタマに戻ってしまうようなことがあっても、再び生まれた時、きちんと前の記憶を持ったままじゃないですか。タケルくんとパタモンの時も、賢くんとワームモンの時も、そうだったじゃないですか!」
たとえ命を落としても、パートナーのことは忘れない。
普通のデジモンはデジタマから生まれた時、死んでデータに還る以前の記憶など、少しも持ち合わせていないのに。
「なのにコロモンは、昔のことをほとんど覚えていないんです。だったら八年前の光が丘で消えたあのグレイモンは、その記憶は、いったい何処に行ってしまったんでしょう?」
コロモンが一つ肯いて。
「──同じであって同じでない、確かにそうと言えるだろう」
光子郎の投げた問いに答えたのは、聞き慣れぬ声だった。
「太一を連れ去った影があの光が丘に落ちたデジモンであるならば、その正体はロストしたデータと見て間違いない」
微かな残響を含んだ声と共に、ゲンナイと白い光球が庭の手前につと姿を現した。
「とんでもないことになっているようだな」
そう言って子供たちを見回すゲンナイの視線が、深刻さをはらんでいる。
「しかし、まさかあの時のロストデータが今も生き長らえていたとは……」
「そのロストデータってのは何なんだ? それにその白いのは」
詰め寄るヤマトをゲンナイは軽く掲げた手で制すると、その手を次に白い光球の方へ向けた。電池が切れかけた、懐中電灯のように色褪せた光だった。
「そうだな、先に紹介しておこう。彼は四聖獣の一柱、バイフーモンだ。厳密には今ここにいるのは、彼のエイリアス――つまり本体ではなく、実体のない分身のようなものだがね」
「四聖獣……!」
子供たちがめいめい、驚愕に顔を見合わせる。
チンロンモン以外の四聖獣と接触するのはこれが初めてになる。デジタルワールドの神にも等しい彼らは、滅多なことでは人間と接触を持とうとしないという。その四聖獣が、エイリアスとはいえ今また自ら出向いてくるとは。
「今し方、デジタルワールドに厄介な事態が生じた。おそらく君たちの異変とも無関係ではないだろう。とりあえず、君たちの身に何が起こったのか聞かせてくれないか」
滲む焦りを無理やり抑えた声で、ゲンナイは言った。
夢の中の部屋は、薄暗いオレンジ色に染まっていた。
「ごめんね、ヒカリ」
聞こえてきた、しゅんとした声の主を探して部屋の中を見回すと、ベランダの窓ガラスの前に、射し込む夕陽で長い長い影を引いたコロモンの姿を見つけた。
「あなた、コロモン……?」
ヒカリがそう呼ぶと、少し嬉しそうに、だがひどく悲しそうに笑った。
「うん、ボクはコロモン」
違う。
ヒカリの中で何かが断言する。はっきりと。
何が違う?
――何と違う?
オレンジ色の部屋。
今の、お台場の家とは違う、でもよく知っている部屋。
ひどく懐かしい、場所。
コロモンの大きな真っ赤な瞳が、こぼれそうなくらい必死にヒカリを見上げている。
そうだ、違う。
ヒカリはしゃがんで、そっと手を伸ばした。
「本当にコロモンなのね……?」
兄の、今のパートナーではなく。
幼かったあの日、たった一日だけの、夢のような出会いだった。
「あの『コロモン』なのね?」
コロモンはまた笑った。やはり悲しそうに。
「ボクのこと、覚えててくれてたんだね。ヒカリも」
「当たり前じゃない……!」
愛しげに抱き上げようとした手を、しかし寸前でヒカリは止めてしまった。
まざまざと記憶から再生される、あの言葉が。
「ねえ」
震える指を、握り込む。
「本当にコロモンがやったの?」
闇に飲まれる寸前、聞こえた大輔の声。小さな声だったが、それでも大輔は言ったのだ、兄が太一が、黒い影をそう呼んだと。
コロモンと、呼んだと。
「本当に、コロモンがお兄ちゃんを……?」
「ヒカリ」
オレンジの光に、ブルーの陰りが混じり始める。
「太一は今、海にいるんだ」
沈んでいく。太陽が。
消えていく。オレンジの光が。
あの日の想い出の部屋が。
「助けて、ヒカリ。このままじゃ太一が」
コロモンの姿も吸い込まれるように、夜の陰りへと消えていく。
「――待って!!」
叫んで、伸ばした手は空しく空を切った。
そこにはもう、オレンジの色もブルーの色もなかった。
「え……?」
「ヒカリ」
心配そうな顔のテイルモンが覗き込んできて、ようやくここがデジタルワールドだと、ゲンナイの屋敷だと思い出す。
「大丈夫? まだ休んでいて大丈夫よ」
身体を起こしたヒカリに、テイルモンがそっと問いかける。
「うん……ありがと」
まだ身体が緊張で強張っている。これは無意識だ。
夢から浮き上がる一瞬、ヒカリを飲み込もうとした別の気配に、覚えのある総毛立つ感覚がした。そこから、突き飛ばして逃がしてくれた気がした。
ならば、そうなのだろう。コロモンが海と言った、あの場所は。
そしてその何処かに、太一とコロモンがいる。
ヒカリは膝の上で、きつく手を握りしめた。
声が、聞こえたのだ。
「そっか、君も独りなんだね」
子供のような声だった。
「僕もなんだ。独りになっちゃった」
親とはぐれた、子供のような。
「……会いたいよ」
泣き出しそうな声だった。
同じ、だった。
シャボン玉がまた一つ、ぱちんと弾けて消えた。
話を聞き終えたゲンナイは、重いため息をついた。
「その少年が何者で、何の目的で、何をどうやってこの事態を引き起こしたかはわからないが……何をしたかだけは明白だ」
あの金髪の少年は、時間をもらうと言った。
そう言って黒い水を降らせ、七人を四年前の姿に戻したのだ。
その結果、発生した出来事は。
「紋章のことですね」
光子郎の言葉に、ヤマトやタケル、丈も自分の胸元に目を落とす。
紋章の力は今も確かに、ここにある。パートナーを完全体まで進化させようと思えば、おそらく出来るだろう、昔のままに。
「ああ、そうだ。ずっと君たちの紋章の力を、デジタルワールドの安定のために使わせてもらっていたんだが……」
あの夏が終わって、初めての再会を果たした時。この世界を立て直すために、もう一度その力を貸してほしいとゲンナイが頼んだのだ。
ダークマスターズによって力の大半を失ってしまった四聖獣は、封印から解放されてもすぐにはこのデジタルワールドを支えきれないほど弱ってしまっていた。だから彼らは選ばれし子供たちの力を、紋章の力を借り受けることで、力を補う必要があった。
「紋章とは君たちの心そのものだから、紋章と君たちを切り離すことは出来ない。だから正確には、君たちの元に紋章が戻ったわけじゃない。今まで紋章の力は、君たちから、その特質に近い波長を持ち合わせ、リンクすることの出来た四聖獣に流れ込むようになっていたんだ」
たとえばチンロンモンが、タケルの希望の紋章とヒカリの光の紋章の力を借りていたように。だから完全体に進化させるだけの余力がなくなっていただけに過ぎず、紋章そのものは一瞬たりと、なくなってはいなかったのだ。
「だが君たちの姿が変えられたと同時に、そのリンクが断ち切られてしまった」
「四聖獣は今、どうなってしまっているんですか?」
ゲンナイが背後に漂う白い光球を振り返る。
「君たちに補ってもらっていた分の力が失われて、今すぐではないが、いずれ四聖獣たちではデジタルワールドを支えきれなくなるかもしれない。それに」
「──すまぬ。現状では太一の行方を捜すこともままならなくなってしまった」
「もう一度リンクし直すことは出来ないんですか? このままじゃ……」
デジタルワールドの安定までが失われていけば、それこそ太一を捜すこともいっそう難しくなるだろう。
「何度か試したが、無理だった。君たち人間のデータにはもともと強力なプロテクトが掛かっているんだが、それが必要以上に強固なものに書き換えられてしまっている。四聖獣のアクセスすら拒否してしまっていて、我々には手が出せない。パートナー以外に、今の君たちとリンクすることは不可能だろう」
「他に手は、何かないんでしょうか」
太一は、まだ見つかっていないのに。
ようやく敵が、見えてきたのに。
「……僕たちでその代わりは出来ますか」
不意に賢が、呟くような細い声で言った。ぱっと、大輔が表情を輝かせる。
「そうだよ、俺たち、ちょうど四人だしさ!」
「それは駄目だ」
だがゲンナイが、即座にその案を否定した。
「何で!」
「二人がかりだったからこそ四聖獣一柱を支えることも出来たんだ。それを一人でなんて無謀、いや危険すぎる。許すわけにはいかない」
「でも、このままじゃ!」
それでもゲンナイは、首を横に振った。
「君たちの気持ちはわかるつもりだ。だが本来のパートナーではない以上、君たちにとっても四聖獣にとっても、お互いは異質な存在でしかない。一対一の関係では、リンクの安定を保つことが出来ないんだ」
その言葉に、俯いていた顔を上げて、
「あの……四聖獣にパートナーはいないんですか?」
ぽつりと、少し舌っ足らずになってしまった声でタケルが問うた。
本来のパートナー、そんな言葉が出たから。
「それは」
「――今はいない」
ゲンナイが咄嗟の返事に詰まった一瞬をついて、バイフーモンが答えた。
今は。その何かを含んだ言い方に疑問が挟まれるより先に、言葉が続けられる。
「我ら四聖獣は確かに、かつて人間のパートナーを選んだことがあった。アポカリモンが初めてこの世界の存続を脅かした時代に。だが、それも遥か古のことだ」
「でも、その頃のデジタルワールドは僕らが最初に来たときのように、時間の流れが違ってたんですよね、だったらその人たちは、まだ」
「タケル」
その先の言葉を遮った、ゲンナイの声は苦しげだった。
「それは無理なんだ」
――声、だったのだ。それだけが。
「もう一度、会わせてあげる」
ほんとうに?
「本当だよ。今なら会いに行ける」
あえるの?
「会えるよ。ううん、会わなきゃいけないんだ。会わないと、消えてしまう」
きえる?
「そう、消えてしまう。二度と会えなくなる。名前を呼ぶことも、待つことも、出来なくなる。そうなってしまう前に、会うんだ。会って、力をもらうんだ」
ちから?
「そう、力。もう一度、パートナーになるんだ」
パートナー。
「そしたら君は消えない。彼なら、彼の紋章なら、きっと……とどめられるから」
もんしょう。
「君は、彼に会うんだ」
パートナー。
トモダチ。
たいち。
太一。
――泣きたくなった。
とても苦しくて、悲しくて。
どうすればいいのかは、もうわかっていた。
幾千幾億もの、終わりなき夜。
それを知っていた。
ずっと、ずっと前から。
モノクロームの海岸を照らした金色の、輝く意味を。
だから今、迷うことなんて何もなかった。
長い長い時間が経つということは、どういうことなのだろう。
寝つけなくて縁側から庭に下りた伊織は、頭上の湖面を見上げた。
夜空は見えなかった。ゆらゆらと青みを帯びた色が様々に混じり合いながら絶え間なく色合いを変え続ける不可思議な覆いは、今は外の色を透かすことをやめていた。
振り返って自分が抜け出した布団に目を向けると、当たり前にアルマジモンがいて、ぐっすりと眠っている。
当たり前に。
一年前に出会ってからずっと一緒で、離れていたのはこの一ヶ月だけ。何度も何度も、つい目が探してしまって、今はいないことを思い出して、言いようもない寂しさを空白の隣に感じた。ある日そのことをタケルに漏らしてしまって、そうしたら彼も笑って、四年前に別れた時も皆そうだったと教えてくれた。
けれど。先輩たちがいつしか空白を受け入れていたように、いつか、たとえば十年二十年という時間が流れたら、もっとずっと一緒にいないことが当たり前になった自分が、もしかしたらいるのだろうか。
想像も出来なかった。
だから、知りたいと思ったのだ。
「先ほどのあなた方のパートナーのこと……何がもう無理なのか、訊いてもいいでしょうか」
だから庭の池の畔で佇むように灯っていたバイフーモンのエイリアスに、伊織はそう潜めた声を掛けた。
白い光球は鼓動のように緩慢な明滅をしていたが、伊織の声が届いたということを示すかのように、光量を上げた。
「紋章の力とは心の力。それを繋いでいるのがパートナーとの絆だ。しかし我らは、我らが過ちを犯したが故に、その最も大切な絆を……喪ったのだ」
そう言葉を綴ったのは、深い苦悩と後悔に満ちた声だった。
以前チンロンモンに対して抱いた、超然とした四聖獣のイメージとはかけ離れている。だが、かつて彼らが自分たちと同じようにパートナーと共に生きていたなら、心を持っていて、感情を露わにして、何がおかしいだろう。
大切な人が、去ってしまったなら。
自分の過ちのせいで、去ってしまったなら。
「喧嘩、してしまったんですか?」
答えはない。
ただ少しだけ、褪せた光が弱くなった。
どうしてと思わず声を張り上げそうになって、伊織は寸前で飲み込んだ。
四聖獣が、どんな過ちを犯してしまったのかはわからない。だが、バイフーモン自身が自分の過ちを許せないから、許されないと思っている。思い込んでいる。
かつての賢が、そうだったように。
「間違えてしまっても、やり直すことは出来ると思います。やり直したいという気持ちがあるなら」
そんな賢を救ったのは、信じたのは、大輔だった。
まっすぐに信じて、信じ続けて、彼が自分を許せるようになるまで、いつも何度でも笑いかけて手を差し出して。
そして今の二人がある。
「それとも、パートナーの人のことを嫌いになってしまったんですか?」
一度でも過ちを犯してしまったら、終わりなのだろうか。
「あるはずがない。――嫌うなど」
そうだ。あるはずがない。
「僕も、どんなにひどい喧嘩をしてしまっても、パートナーのことを本当に大嫌いだと、憎く思う人がいるなんて思えません」
そんなことはないと、今ははっきりと思う。
「助けてほしいと言ったって、いいんじゃないでしょうか?」
力が必要なら、全力で助けたいと思う。
デジモンたちが、いつだって助けてくれるように。
「パートナーに会いたいと思うことだって、すごく当たり前のことなんじゃないんでしょうか」
大切な存在だから。
それ以上の理由なんて、きっと何もないのだ。
まるで砂時計の砂がさらさらと落ちていくように、止めどなく。
抜け落ちていく。こぼれ落ちていく。
消えていく。
「――っ、くそ……」
思い通りに動かない、足が重い。
引きずるようにしか動かない、身体が重い。
息が詰まりそうなくらい、苦しい。
それに、ひどく気分が悪い。
世界がぐるぐると滲んで溶けて、霞んで見えない。
それでも。
「俺は……諦めない、からな……っ」
ひどく荒い息の合間に、本当に声が出せているのかすら定かではないけれど。
ようやく辿り着いた漆黒の柱に、倒れ込むようにしてもたれかかり、そのまま崩れ落ちる。
身体が柱に触れた瞬間、震えるような、あの音がした。
「おまえは、俺が絶対……守る、から……」
だから、どうか。
この声が聞こえていたら。
「絶対、助けるから……っ!」
どうか。
天を見上げると、あの音を奏でる柱は高く遠く果てしなく、彼方まで続いていた。
「なあ……俺の声が」
聞こえるか。
胸に弱々しく灯ったオレンジの輝きを抱きしめながら。
太一は祈るように、呟いた。
index