still love

2nd day








 この狂おしいほどの痛みが、君を永遠に失い続ける傷。




 駅の階段を下りると、綺麗に整備されたマンション街が広がっていた。
 この何処かに『彼ら』が暮らしている。
 この向こうにある埠頭で、一ヶ月前に『彼ら』は戦った。
 ここに『彼ら』はいる。
 だから見つけ出さなければならない。
 出会わなければ、始められない。
 失ってしまったあの日、自ら断ち切ってしまった、償いも何もかも。
 初夏の風に、朝の光を弾いた金髪がさらさらと流れた。




 小さな子供の声が遠くに聞こえる。
 日陰になった階段の端に腰を下ろして両足を投げ出して、大輔は立ったまま携帯で話している賢の横顔を、ぼんやりと見上げた。
 今、現実世界に戻っているのは大輔と賢の二人。大輔は右足の診察でお台場クリニックに、賢はその付き添いだった。一晩経って痛みはだいぶ引いていたが、腫れはまだ残っている。数日はあまり動かさないようにと言われ、つんと強烈な匂いがする湿布の上から、右足首はしっかりと固定された。それで診察も終わり、後はデジタルワールドに戻るだけのはずだったのだが。
 いつの間にか京もこちらに戻っていて、賢の携帯に掛かってきたのだ。
「ええっ?」
 相づちを打っていた賢の声が突然、喫驚を帯びて跳ね上がる。
「何だ?」
 賢は携帯に耳を押し当てたまま、眉根を寄せて困惑した表情を浮かべていた。大輔が首を傾げると、ちょっと待ってというように手を掲げられる。
「今、その人は? ──わかった、うん、僕らもすぐ行くよ。じゃあ」
「いったいどうしたんだよ、京の奴」
 通話が切られたのを待って再度問いかけると、賢は困惑の色をいっそう強めた。
「それが……太一さんの家を探してる人がいるって」
「は?」
「たぶん大学生くらいの男の人。外国人みたいで、店の前で地図とか持って何処か探してるようだったから京さんのお姉さんが声かけたら、メモにあったのが太一さんの家の住所だったらしい。ディアボロモンの騒ぎもあったし、心配して知らせてくれたらしい」
 それで京も今、現実世界に戻ってきたところだという。
「……タイミング良すぎんな」
 賢の手を借りて立ち上がる。と、囁くような声で賢が付け足した。
「しかも金髪で、顔も似てる気がするって」
 昨夜の、あの少年と。
「急ごう」
 小さく頷きあって、二人は階段を駆け下りた。
 ここから京の家のコンビニはすぐ近くだ。大輔の足を庇って全速力で走らなくてもすぐに辿り着けるほどに。
 道路に沿って交差点に出ると、もう店の前で京が待っていた。
「二人とも、こっちこっちー!」
 声は控えめだったが、振り回す腕はめいっぱいだ。
「京、どいつだ?」
「奥の方、見える? 冷蔵庫の前」
 店内には入らずガラス越しで探す二人に、京が位置を囁く。
「あいつか」
 京の言った通り、その青年は大学生くらいの歳に見えた。それに確かに、染めて作ったものではなく、ヤマトやタケルのような本物の金髪だ。長く伸ばさず短く切っているが、色合いも似ている。
 そして何より、その面差しが。
「他人のそら似にしては、よく似てるね」
 たとえばあの少年とは歳の離れた兄弟だと言えば、誰もが信じるだろう。
「やっぱり、そう思う?」
「そっくりだな。光子郎さんたちにはもう連絡したのか?」
「まだ。一応、二人と合流してからにしようと思って」
 最初に姉からメールで連絡をもらったときは、ちょっと来てほしいという内容だけで、詳しい用件は書かれていなかったらしい。それで京一人で戻ってきたのだが、待っていたのはこの、予想外のことだった。
 しかし姿を巻き戻されてしまった面々はゲートを越えるときに何が起きるかわからないという理由で、今はこちらに戻ってくることは止められている。結局たとい連絡したところで助っ人に来ることが出来るのは伊織だけなので、京も大輔と賢を待ったのだ。
 京は店の裏に二人を誘うと、光子郎の携帯にコールを始めた。通話はすぐに繋がったらしく、ちらちらと店の出入り口を窺いながら心持ち早口で話し出す。そうして、こちらの現状を伝え終わると、大輔と賢に手招きする。二人も耳を寄せると、受話音量が最大になった携帯から声が聞こえた。
《確かに気になりますね。大輔くんや賢くんも、似てると思ったんですよね》
「はい」
「あの野郎がでっかくなったら、ああなるだろうなーってくらい似てます」
《となると、こちらの手の内は明かさずに、太一さんを訪ねてきた目的は何なのか、今の事件と関係があるかどうかを探ってみた方が――、え?》
 不意に光子郎の声が遠ざかる。電話口にではなく、別の誰かに話しかけられたようだ。
《賢くんも携帯持ってましたよね?》
 再び声が近くなると、光子郎はそんなことを言いだした。
「え、ええ、ありますけど」
《写真は》
「出来ます」
《その人の写真、丈さんのところに送ってもらえませんか? ゲンナイさんが顔を確かめたいそうです》
「……店の外からでも大丈夫かな」
「あ、んじゃ任して。何とかしてみる」
 賢から借りた携帯を手に、京が裏口から店の中に入っていく。
《大輔くん、足の方はどうでした?》
「はい、きっちり診てもらいました! 状態は良いらしいんでもう大丈夫っす」
 大輔がそう答えると、丈の良かったと言う声が聞こえた。
《あ、メール届きました。ちょっと待っててください》
 光子郎がそう言うが早いか、京が裏口から戻ってきた。
「届いたって」
「ちょっと遠かったけど、顔はわかると思う」
 賢に携帯を返しながら京も硬い面持ちで、光子郎の次の指示を待つ。
 だが、その次に聞こえてきたのは彼の声ではなく、聞き慣れない子供の高い声で、慌てたような叫び声だった。
――ヒカリちゃん!!》
「ヒカリちゃんに何かあったんですか!?」
 今の声が誰のものかわからなくて一瞬戸惑った大輔の手から、咄嗟に自分の携帯をもぎ取った京が詰め寄る。
 電話の向こうで、朝食の後片付けを引き受けていたヤマトたちを呼ばわる、丈のひっくり返った声が遠く響いている。
《それが、写真を見たヒカリさんが急に飛び出して……タケルくんがすぐに追いかけたみたいですけど、もしかしたら》
 ヒカリは、ゲートを越えようとするかもしれない。
 飲み込まれた言葉の先を察して、三人とも息を飲んだ。




「ヒカリ!!」
「ヒカリちゃん!!」
 テイルモンが大きく跳躍してヒカリの行く手を遮り、その隙に追いついたタケルが手首を辛うじて捕まえた。
 ゲートまで、後もう少しだった。
「離してっ」
「駄目だよ!」
「ヒカリお願い、落ち着いて。無茶をしては駄目よ」
 懇願しながら身を寄せてくるテイルモンに、びくりと身体を震わしたヒカリの抵抗が途絶えた。
「太一のことが心配なのもわかる。じっとしていられないのも、よくわかる。けど、もしヒカリに何かあったら、帰ってきた太一がとても悲しむわ」
 わかるでしょう。優しく諭す声に、ヒカリの強張りがほどけていく。
「……うん。ごめん」
 力が抜けたのか、項垂れるように肯いたヒカリに、テイルモンもほっと胸を撫で下ろした。
「気にしてるのって、その、やっぱり暗黒の海のこと?」
 タケルの言葉に僅かに目を見張ったヒカリが、硬い面持ちで振り返る。
「コロモンが」
「え?」
 ぎょっとタケルが身を僅かに引く。
「コロモンが、教えてくれたの……お兄ちゃんは海にいるって。助けてって」
 そこまで言って、ふっとヒカリは口元だけを緩めた。
「ごめん。聞こえちゃったの。お兄ちゃんを連れてったのコロモンだって、気づいたときの大輔くんの声」
 欠落してしまった、八年前のコロモンの記憶。
「そう、だったんだ」
 何と言っていいのかわからなくて、タケルが口に出来たのはそれだけだった。
「うん。お兄ちゃんもコロモンも、あの暗黒の海にいるかもしれなくて、早く助けに行かなきゃって思ったら……」
 と、はたとヒカリがゲートを振り返る。
「……波の音が聞こえる」
 砂浜に寄せては引いていく、静かな波の音が。
「D−3が」
 こぼれる淡い輝きに気づいてタケルが取り出すと、D−3そのものも発光し、ゲートから聞こえる波の音に共鳴しているかのように、明滅を繰り返している。
 まるで鼓動のように。
「ヒカリ!」
「タケル!」
 異常を理解したパートナーたちが二人にしがみついてゲートから引き離そうとするが、それよりも早く、ゲートから放たれた強烈な光が二人を包み込んで、溶けた。




 投げ出され、虚空を切った手を、不意に誰かの大きな手が掴んだ。
「やはり君はこうなったか」
 苦笑の滲んだ男の声がして、長い黒髪がさらりと揺れて。
 声のした方をヒカリは見上げたが、顔は見えなかった。
「大丈夫。正常化するだけだから」
 穏やかな声と共に、途方もない落下感は消えて。
 ――繋いでいた手がするりと離れて、ふわりと地面に下ろされた。




「あれ?」
 くたりと座り込んだ、この場所は見覚えがあった。
 京の部屋。電源が入ったままになっている彼女のパソコン。昨日はここからデジタルワールドに入って、今はここに戻ろうとしたのだから、無事にゲートを越えられたのだ。
「ヒカリ!?」
 驚いたテイルモンの声に振り向くと、座っているのに見下ろせた。
「あれ?」
 タケルがぽかんとヒカリを指差して固まっている。
 そのタケルを見て、ヒカリも固まった。
 何故なら。
「どうして元に」
「ヒカリちゃんこそ……」
 D−3の発光はもう止んでいる。
 波の音も聞こえない。
 ヒカリは右手に目を落とす。異常なゲートに飲み込まれた瞬間、何処かに落ちていく自分を、この手を、誰かが掴んで。
「助けて……くれた?」
 呟くと、タケルが怪訝そうに首を傾げた。
「何のこと?」
「さっきの男の人、見なかった?」
「いいや……僕には何も見えなかったけど」
 ならば、あの男を見たのはヒカリだけなのだ。やはりこうなったかと、大丈夫だとヒカリに言った黒髪の男を見たのは。
 右手に残った感覚を、ヒカリはなぞる。大きな手だった。少し体温の低そうな、スポーツをやっている兄たちとは違って少し薄く、しかし骨張った、大人の手。
 と、その時。
「ヒカリちゃんっ! いるのっ!?」
 ばたんっと大きな音を立ててドアを開けた、京が部屋に飛び込んできた。その京も、やはりそのままの姿勢で動きを止めてしまう。
《二人ともそっちに行ってるのか!?》
 怒鳴りすぎてひび割れたヤマトの声が、京の握った携帯から響いてきた。
「え、ええと……はい、います、いました」
 呆然としたまま何とかそれだけを京は答えて、申し訳なさそうに手を合わせてきたタケルに、手渡した。
「ごめん兄さん、ゲートが急に変なことになって、気がついたらこっちに戻されてた」
《タケル、か?》
「うん。それでさ、僕もヒカリちゃんも、元の姿に戻ってるんだけど」
《……何だって?》
「僕のこの声が証拠。でも、それ以外は何ともないみたい。たぶんゲートがおかしかったのとD−3が光ったのが関係あると思うけど、何が起こったのか僕らにもさっぱりで」
 言葉にならず呻くような兄の声が、ふと遠ざかった。
《二人とも無事なのか?》
 ゲンナイの声だ。
 タケルがヒカリの方を見やる。ヒカリは手を差し出し、携帯が渡された。
「はい、何ともないです。それとゲートを越える時に一瞬だけ、男の人が見えたんです。たぶん、黒い髪の。その人が私に、やっぱりこうなったかって言って」
《男? ふむ……君たちの異変に関してはまだ不明な点が多い。もしかしたらゲートを越える時の処理の影響で君たちのデータが正常化されたのかもしれないが、まだ何とも言えないな。後できちんと調べてみよう。それと、どんな些細なことでも、異常を感じたら知らせてほしい》
「わかりました」
「で、この後はどうするんですか?」
 ヒカリに顔を寄せた京が口を挟んだ。店の影では今も、大輔と賢が例の青年を見張りながら待っているのだ。
 ゲンナイの返した指示は、思いも寄らない言葉だった。
《この写真の人物と、話がしたい》




 京に外へ誘い出された金髪の青年は、そのまま四人が待ち構えていた裏に案内されると、まず碧眼を瞠り、それから嬉しそうに微笑んだ。
 その笑い方もあの少年と似ていたが、あんな非現実さは感じられない。
「君と君、エンジェモンともう一人の天使デジモンの肩にいた子だね?」
 タケルとヒカリに目を向けた青年が、少し発音に癖のある、しかし流暢な日本語でそう言った。
「ディアボロモンとの戦いを見ていたんですか?」
 突然の指摘に面食らうタケルとヒカリに、彼は小さく首を振る。
「いいや、僕は写真で見ただけだ。でも会えて良かった。選ばれし子供たち、君たちを探していたんだ。これの意味を知りたくて」
 そう言って差し出されたのは、折り畳まれた白い紙だった。
 大輔が受け取って開くと、パソコンのメール表示画面をそのままプリントアウトしたらしいそれには、シンプルな英語のメッセージが一つ、ぽつんと記されていた。
「ええと――、『もしあなたがあの夏の日々を今も愛しているなら、もう一度あなたの力を貸してください』?」
 頭の中で訳しながらメッセージを読み上げた大輔はまず賢を見やり、賢が肯くと青年を見上げた。
「これは」
「メールの差出人はわからない。だから確かめたかったんだ。僕らを呼んだのは、デジタルワールドなのか」
 デジタルワールド。
 そう言って、青年はやわらかに微笑んだ。
「自己紹介が遅れたね。僕の名前は五堂大河。元・選ばれし子供の一人、とでも言えばいいのかな」
 ひどく悲しげな微笑み方だった。
 それを聞いた賢が、手に持っていた繋ぎっぱなしの携帯に囁く。
「今から彼に替わります」
 そして、それを青年に――大河に差し出した。彼は少し戸惑ったようだが、受け取って受話器に耳を当てる。
《君は本当に、大河なのだな……?》
 電話の向こうの震えた声が、こぼれて聞こえた。
「……ゲンナイ?」
《ああ、私だ。君の話は聞こえていた。そのメールを送ったのは我々ではないが、我々が助けを必要としていたことには違いない》
 息を飲む、深く深く。
《大河。我々は、君たちに助けを求めてもいいのだろうか?》
 つと大河の返事が途絶えたのに大輔が見上げると、彼は今にも泣き出しそうな顔で、こぼれそうな嗚咽を噛みしめていた。
「今から、あいつに、会えますか?」
 それでも彼は、笑っていた。




 ゲンナイは手にした携帯を下ろすと、伊織の隣でずっと押し黙っているバイフーモンを、ゆっくりと振り返った。
「これから大河をデジタルワールドへ招く。……会うだろう?」




 それは1995年の夏が終わる頃。
 デジタルワールドが光が丘で初めて子供たちの心と出会ってから、ついに迎えた最初の運命の日。
 世界の大きな変化、世界の進化に比例して急速に肥大化していったアポカリモンの脅威を排除するために、デジタルワールドの安定を望む意志は五人の子供を選んだ。
 選ばれた子供たちは、それぞれのパートナーである五体のデジモンと心を繋ぎ、その力でもってアポカリモンを封じた。
 デジモンたちは、パートナーと守り抜いたデジタルワールドを守護する存在、四聖獣へと新たな進化を果たした。
 そして子供たちはそれぞれのパートナーデジモンと別れ、自分達の世界に帰った。
 最後に、もう二度と会わない約束をして。




「もう二度と会わない……?」
 こぼれた声はひどく掠れて。
 思わず大輔はチビモンを抱いていた腕の力を、ほんの少しだけ強めた。
「大輔?」
 僅かに強張った腕に気づいた、チビモンの見上げてくる視線にも笑みを作れなかった。
 パートナーと、もう二度と会わないなんて。
 自らその手を振りほどいて、離すなんて。
「何で、そんな」
 信じられなかった。そんなことがあるなんて。
 そう感じたのは大輔だけではなくて、ショックを隠しきれない子供たちにゲンナイは苦い苦い微笑を滲ませた。
「あの頃は大河たちもまだ幼くて、何より我々はまだ、あまりに心というものを知らなさすぎた。ある事件が起きたとき、ひどく心が傷ついた大河たちに、我々は為す術がなかった。それどころか、いっそう傷つけるようなことにもなってしまった」
 大輔たちに背を向けたまま、ゲンナイが独白のように言った。
「あの日、大河たちが我々を拒絶したのも、無理からぬことだった」
 それでも今、再会することが叶った。
 彼らが望んだから。
「人間は強いな……本当に」
 やわらかに微笑んで、振り向いて。
「君たちの心が、その強さが、いつもデジタルワールドを守っているんだ」




 広い広い草はらに、黄金の光を帯びたデジコアを纏った、巨大な白虎が悠然と降り立つ。
 エイリアスではなく、バイフーモンの本体が。
 同じ四聖獣のチンロンモンと比べれば小柄だが、それでも通常のどんなデジモンが進化した姿よりも、ずっと大きい。その巨躯を屈めて、バイフーモンは地面すれすれにまで鼻先を下げる。
 そこに大河が、たった一人のパートナーがいるから。
「バイフーモン……」
 恐る恐るといったように、大河がその鼻先に手を伸ばす。
 今にも触れそうで、なかなか触れられない。
「大きくなったな……大河」
 愛おしむ声に、彷徨う手が震える。
「おまえ……おまえこそ、大きくなりすぎじゃないか。これじゃもう、昔みたいに抱きしめられない」
 声も震えて、そうして。
 ついに縋りつくようにして、抱きついた。
「身体はもう元気になったのか?」
「なった。もう何ともない。ちゃんと頑張ったんだ、おまえと約束してたから。それだけでも、絶対に守りたかったから」
 約束。その言葉に、バイフーモンが微かに身じろぎをした。
「すまない、大河。もう二度とデジタルワールドには来ないという約束だったのに」
 あの日。泣きながら告げた、最後の言葉。
 あの日のように、やはり溢れる涙は止まらない。あの日、あれだけ泣いても、一生分の涙を流し尽くしたと思えるくらい泣いても、枯れることはなかった。
「違うんだ……違うんだよ、謝らなきゃいけないのは、僕の方なんだ!!」
 でも今は、あの日とは違う。
 あの日の涙とは、まるで違う。
「大河?」
 ――もしあなたが、あの夏の日々を今も愛しているなら。
 そのメッセージが目の前に現れた瞬間、息が詰まりそうだった。
 あの夏の日々。
「あんなことになってしまって……辛かったのはおまえだって同じはずなのに、僕は自分のことばかりで、デジタルワールドからも、おまえからも逃げてしまった」
 悲しくて、苦しくて、信じられなくて、泣きじゃくるしかなかった、あの日。
 パートナーに背を向けてしまった、あの日。
 自ら捨ててしまったものの意味を知ったのは、すべてが終わってしまった後だった。
 どんなに大切で、どんなに愛していたか。
「ごめん……本当にごめん」
 あの最後の日から、もう七年も経ってしまった。
「本当は、もっと早く謝りたかった」
 もう何千年も経ってしまった。
「ずっと、おまえに会いたかった……」
 それでも、今からでも、取り返しはつくだろうか。




「行くのか」
 呼び止められ、セシルは後ろを振り返った。
「アル」
 壁に背をもたせかけた男が、僅かに目を細めて苦笑している。この十も離れた出来の良すぎる兄が妬ましく疎ましかった頃は、この笑い方が不快で仕方なくて、向けられるたびに睨み返して押し黙ってばかりいた。
 そう思わなくなったのは、そういえばあの日からだった。
 だからセシルは、自嘲気味に肩を竦める。
「ああ。大河が選ばれし子供たちを見つけた。アルがくれた情報のおかげだ」
 アルバートが、そうかと吐息のような呟きをこぼした。
 日本に行ってみろと大河に言ったのは、彼だった。
 東京に行って、この『子供たち』に会ってみろと言ったのは。
 そうして自分で確かめろと。
 自分のパートナーが今、どうしているのかを。
 そして大河は、見つけたのだ。
「それで?」
「もう一度会いたい、助けてほしいと言われた」
 答える、声が震えそうになる。手の震えは拳を握ることで無理やり止めたが、声はどうすればいいだろう。
「あいつにまた会えるなんてな……」
 アルバートの手が、セシルの短い赤毛をくしゃりと掻き上げた。
「そんな情けない顔をしていると、笑われるぞ」
「うるせえ」
 子供扱いしてくるその手を煩そうに払うと、アルバートはまた微笑んだ。
「おまえはおまえのパートナーを信じるだけだろう。それが、おまえの力なんだろう?」
「ああ、そうだよ」
 かつて兄にそう言ったのは、セシル自身だった。
 あの一瞬が、すべてを壊してしまう前の。
 あの日が来る前の自分たちには、もう決して戻れないけれど、それでも。
「俺はもう、あいつも自分も裏切りたくない」
 だから、もう少しだけ待っていて。
 会いに行くから。
 記憶の中のパートナーに、セシルは目を細めて笑いかけた。




 誰もいない部屋で、リュシーはサイドテーブルに置かれた写真立てを手に取った。
「大河がね、バイフーモンと会えたんだって」
 もうすっかり、上手く笑えるようになった。
 写真の中の、小さな小さな自分のようにはもう笑えないけど。
「私も、会いに行ってくるね」
 あの日、ひどい嘘をついた。
 大嫌いなんて嘘。
 今、こんなにも会いたい。
 大好きだから。
「私たち、もう一度……始めてくるね」
 もう一度、手を取り合って。
 リュシーは写真を、そっと元の場所に戻す。
 五人の子供が笑っていた。
 それぞれの半身をその小さな腕に抱きしめて、笑っていた。
 それは、七年も前に失ってしまったものだった。
 もう二度と取り戻すことが出来なくなってしまったものだった。
 だが今からでも、まだ守れるものがあった。
 まだ、あったのだ。
 だから。
「リュシーはデジタルワールドへ行ってきます」
 部屋の前にいた父に、やわらかに微笑んで、告げた。
「そうか」
 眼差しの向く先が、ひどく遠い。
「大河は、彼らに出会えたのだな」
「はい」
 つい先ほど兄から届いたメールは、七年ぶりの再会を告げていた。
 もうすぐ迎えに行くからと、書かれていた。
「すまないが、これを届けてもらえるか」
 そう言って差し出されたのは、一枚のディスクだった。
「あの子への償いに、私が出来るのはこんなことくらいだった」
「お父様」
「現状は今の子供たちに優しくない。おそらく今後は厳しくなっていく一方だろう。だからこそ彼らはそれを正しく知らねばならん。そのために、少しは役に立つだろう」
 今の、選ばれし子供たちのために。
 あんな悲劇は、決して繰り返してはならないのだ。
「リュシー、おまえたちに光あらんことを」
 そっと別れの抱擁を交わして。
「行ってきます」
 大切なものを、今度こそ守るために。




 あの瞬間、すべてが終わった。




 あの日から、幾千幾億の夜が過ぎただろう。
 悲しみは尽きることを知らず、憎しみはとどまることを知らない。
 この夜は終わりなき夜。永劫の一瞬。
「あれが、大河……?」
 愕然と呟いて、そして自分の手を見下ろした。
 小さな手。
 あの日と変わらない、あの日のままの。
 大河と違って。
 今バイフーモンに笑いかけている大河の、バイフーモンに伸ばしている手は、この手とはまるで違ってしまった。
 こういうことなのだ。
 これが、七年という時間の流れなのだ。
 時間の流れが、もたらすものなのだ。
 失われてしまった、あったはずのそれを見ることは叶わない。決して。
 それ故に、こうして突きつけられ思い知らされる。
 大河の姿を見つめたまま、昏い昏い笑みに口の端を歪めた。
 これが、失ったということなのだ。




 それでもまだ、愛している。君のことを。




 今は空っぽの右手を、まじまじと見下ろした。
「小さかったな」
 たった十一歳の、子供。
「それでも、君たちは強い」
 感嘆を込めた声で独り言ちながら、砂浜を歩く。
 その先には。
「どんな深い絶望にあっても、信じ続けている」
 力なく項垂れていた顔が重たげに持ち上げられて、目があった。
 だから微笑み返す。
 強い眼差し。
「本当に、強い」
 だからこそその輝きに、真実を見出せた。








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