あの日の空も、よく晴れていた。
鋭くそびえる岩山の、頂まではっきり見えて。
「そういえば」
懐かしくなって、バリルは笑った。
「あの日も、おまえが一緒だったな」
あの日から幾度となく見上げた、ファロース山を見つめて。
それでも。あの日とは、変わったことばかりだった。
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インフェリア王都にある、最高学府たる王立天文台に移籍してこの十三年、バリルは一度も帰郷したことはなかった。
それは、ずっと潜んでいた亀裂がついに決定的なものとなり、天文台を飛び出した後も続いた。失意と諦念のままにバロールに帰る、大学時代からの研究仲間とも袂を分かって。
ただ、捨てきれなかった。それだけで。
だから賭けてみた。たった一通の手紙に。三年前にバリルのもとへ届いた、幼なじみであり――親友と呼べる、彼からの手紙に。
ラシュアン。最果てとも呼ばれるこの古くからの村に、そこで出会った女性と共に彼が落ち着いたことを、その手紙は教えてくれた。
「これはまた、ひどいざまだな」
目に掛かる薄汚れた金髪を払いのけながら、降ってきた第一声にバリルは苦笑をにじませた。呆れも驚きもなく、ただ淡々としただけの、この紅毛の幼なじみの物言いも懐かしく感じる。
「それが久しぶりの友人に、真っ先に言ってくれることか?」
ひどいざまなのはわざわざ言われなくとも、バリル自身ではっきりと認識していた。なんせ王都からこの奥地まで遠路はるばる、強行軍を果たしてきたのだから。
「船を使えないせいで悲惨だったんだ、もう少し優しい言葉ぐらいくれたって罰は当たらんと思うんだがな……ビッツ?」
バリルの反論などどこ吹く風と言わんばかりの幼なじみは、やはりいたわりの言葉をくれるわけもなく、ただうっすらと笑っただけだった。
それにバリルは小さく肩を竦め、疲労が沈殿している身体でなんとか立ち上がる。と、やはり自分の方が目線は上になった。最後に会ったときすでに青年期は過ぎていたのだから、あれから追い抜かれる可能性はあまりに低く、以前のままで当たり前だ。
しかし軽く言ってはみても、南の都市ミンツで行商の馬車と出会えなかったときのことは、あまり考えたくないことだった。必死に頼み込んで、行商人がビッツを知っていた幸運も手伝って、ここまで乗せてもらえたのだ。
バリルが改めて礼を述べると、笑いながら早くその格好をなんとかしろと言われ、頷いたビッツも小さく笑う。荷台の隅で眠ってしまっていたところを起こされるまで、ビッツとこの行商人の間でどんな会話が交わされたのか、――自分はなんと言われたのか、少し気になったが。
「しかし驚いた。また頼ってくるとは」
さっさと歩き出したビッツに、バリルも慌てて追いかけ。
「何…?」
あっさりとそう言った彼に二の句を失う。まだ何も言っていないどころか、事前の連絡すら送っていないのだ。それなのに。
「あの頃から変わらんヤツだよな。幼なじみのよしみだ、頼られてやるからそのざまを先になんとかしろ」
向かう先にある木造の家の、裏手に回るとビッツはそこにある井戸に桶を放り込んだ。それを悠々と滑車で引き上げながら、
「何があった?」
至極、簡潔な問いだ。
「天文台を出てきた」
至極、簡潔な答えだ。
「なんでまた」
不思議そうに眉をひそめて見上げてくる、ビッツのその様がもう壮年に差し掛かる年だというのに、昔そのままに思えた。
「何を笑う」
失笑にも目敏い。
「いや。背、おまえに抜かされなくてよかったなぁと」
些細なものでも昔と変わらないことが、情けないかもしれないが慰めになる。自分はそんなにも参っていたのかと、笑いながら気がついた。
「で?」
手の届くところまで上がってきた、地下水を湛えた桶を引き上げながら、ビッツが相変わらずの淡泊な調子で問いかける。
「――いや、……私の追いかけていた夢は、いったい何だったろうかと…思った」
自嘲の色濃い掠れた声にビッツはゆっくりと振り返り、その青の目でざっと幼なじみの全身を眺めると。
その刹那、盛大な水音がした。
「…………無惨だ」
ぐっしょりと濡れて張りついてくる金髪を掻き上げ、バリルは息をつく。いくら、夏とはいえ。と、黙ったまま家の裏口に向かうビッツに気づき、バリルは慌てて呼び止めた。
「ビッツ?」
怒っているのではないと、思う。
今のように突然押し掛けて頼み込むなんて、昔からよくあったことで。そう、バロールにいた頃、大学にいた頃、そっくりなことをした。
だから立ち止まった彼が発した声からも、やはり怒りはうかがえなかった。
ただ。
「ロナが逝った。半年前だ」
唐突に。それだけを言い残し、家の中へ消えた。
「……そう、か――」
ただ、寂しさにも似た、ひどく複雑な色があった。
ただ苦く苦く、バリルは口の端を自嘲のなり損ないに歪めて。
「無惨だ……」
遠くから、幼い子供たちの笑い声が聞こえていた。