もう取り戻せない何かなんて、この世にはありすぎる。
例えば。空白の時間、とか。
いつかどこかで、何かが決定的に変わって。
幼い永久は、消えてなくなった。
例えば。知らずにいたこと、とか。
遠く離れていた時間はとても長くて。
共有しなかった、たくさんの日々があった。
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「子供が…いたのか」
しばらくの逡巡を経てからようやく、どこか間の抜けた調子でバリルはそうつぶやいた。なにやら不思議そうに見つめながら幼子にこわごわ手を伸ばす様は、なかなか滑稽と言えるだろう。
「いくつなんだ?」
「一歳」
「名前は?」
「リッド」
大きな碧の目で見知らぬ人間をやはり不思議そうに見つめ返す息子を、幼なじみが向かい合って床に座り込んで、のぞき込んでいる。
やはり、微笑ましいというか、おかしい。
「おまえは結婚しないのか」
長らく研究一筋だったこの男に訊いても、先のことでしかないだろうけれど。
「さぁな。運命的な出会いでもしたら、そのときに考えるさ」
首だけぐいっと振り返らせると、バリルは手で幼子をからかい遊びながら口の端をにやりと歪ませ言い放つ。
「おまえと同じ紅い髪だが、おまえにあんまり似てないな」
「そうか?」
「目の色も…おまえのじゃないな」
父親の青とも似ているが、もっと不可思議な、空を映した海の色。何を察したのか微笑みを残し奥の台所に引っ込んだ、母親譲りの光だ。
「あいつのだ。……確かに、俺よりもあいつに似てると言われることの方が多いが」
父親似と言うのは、その当の妻ぐらいで。
「おまえ、あまり愛想よくないからな。よく笑う可愛らしい子供と、あんなに綺麗な人だったしな、おまえに似てると言うよりずっと縁起物だろう?」
それに。ビッツはこの村で子供時代を過ごしてはいないのだから。
「どういう意味だ?」
「そのままの意味だ。そうだな、幼なじみのよしみで、おまえにも似ていると、私も言ってやろう」
そろそろ慣れてきたらしく、バリルがリッドをそっと抱き上げ、あぐらをかいた膝に下ろす。
「おまえもお母さんに似ておけよ、きっと美人になれる」
ふわふわとした紅をやわらかに撫でながら、抱き込んだリッドに、何がそんなに楽しいのか、バリルは明るく言った。
「リッドは男だぞ、何を言ってるんだか…」
さすがにビッツが憮然とため息をつくが、刹那、バリルが笑みを消したことに気づいて怪訝に眉をひそめた。
「バリル?」
「……ロナの息子はロナによく似ていた。あれは将来、美形になるぞ」
意外な一言だった。
「会ったことあるのか」
「一度だけな。貴族の嫡男として、いろいろ学びに行かされる直前に」
再びビッツの方を振り返ったバリルが、何かを言いかけ、しかし声は途切れて言葉が続かない。しばらくして結局。
「なぁ。ロナのことを、訊いてもいいか?」
ひどく、寂しげだった。
「後にしておけ。おまえの用件次第だ」
そういえば。昔にもこんなことがあったと、思い出した。あの時バリルは、大学から支給されるわずかな研究費でなんとかするために、自分に護衛役を頼んできたのだ。そうして何年も、バリルの研究仲間と一緒に世界各地の遺跡を巡った。
あの日までは。
「――ファロース山に行きたいんだ」