この砂漠は、死の世界だ。
 片膝を落として、エルンストは砂をその手にすくい上げた。
 さらさらとこぼれ落ちていくだけの砂は、死んでしまった大地の亡骸だった。
 数ヶ月前まではまだ、この大地はかろうじて生きていた。小さな草が、ひび割れた地面に根を張って生きていた。
 しかし今はもうわずかな命さえ枯れ果てて、すべて死に絶え砂に飲まれてしまった。
「もう、時間がない」
 彼は立ち上がって後ろを振り返る。
 ここは境界線だ。不毛の砂漠と、命ある緑の大地との。
 目の前にはまだ生きている大地が広がっている。
 けれども。
「殿下。境界がここ以外でも綻び始めております」
 少年に付き従っていた、この地域を担当する年老いた観測員が沈痛な声を落とす。
「数年内には本格的な砂漠化が再開するかもしれません」
 広がり続ける砂漠は、大陸を死に至らしめる病だ。
 その侵蝕を何十年と食い止めていた力が衰え、尽きようとしている。
「そんなことはさせない」
 この大陸は、滅びに蝕まれていた。
 だがそれを押しとどめるのが、グランオルグ王家の義務だ。







風と鳥と空







 砂漠化を病んだ大陸の北部に位置する王国グランオルグ。
 南から拡大を続ける砂漠に面しているが、長らくその被害を最小限に押しとどめてきていた。水が涸れれば緑が枯れ、大地の命が尽き、岩と砂だけの荒野となり果てる。そのために国内には古くから灌漑設備が敷かれ、王都に至っては地下に張り巡らされた水路も利用し、大地に水を行き渡らせることで砂漠化を防いでいるのだ。
 故にその中心であるグランオルグ王宮も、死の気配から縁遠いはずだった。
 建国した折から王家が背負う、使命の他には。




 引き込まれた水の流れるが聞こえる奥の庭は、鮮やかな花に彩られていた。
 乾いた砂にまみれた旅装を脱ぎ捨て、謁見の間へ向かっていたエルンストは、庭に面した回廊でその色を見つけて思わず足を止めた。
「そうか、もうそんな時期だったか」
 祖母が造り母が受け継ぎ、今ではエルンストと妹の二人で世話をしているこの庭は、冬の終わりから花の季節を迎える。真紅、薄紅、薄紫、そして純白。まっすぐ伸びた茎の先で、色とりどりの花は美しくも気高く咲き誇り、春の訪れを告げるのだ。
 まだ母が生きていた頃、この花は誓いであり約束なのだと教えられた。あの時は理解できなかったその意味も今は知ったが、母が何を思って花を見つめていたのかまではわからない。母はエルンストに多くを語ることなく、ただ一面の花だけを兄妹に遺して逝った。
 それでも今は、記憶の中の母に答えを求めずにはいられなかった。
 この先の未来に、折れることなく立ち続けるために。
「エルーカ……」
 甘く響くたった一人の妹の名も、今はひどく苦い。
 そのまま花の前で、どれほど立ちつくしていただろうか。
「ここにいたか、エルンストよ」
 横合いから不意に聞こえた声に、エルンストは我に返るとすぐさま声の主へと向き直り、姿勢を正す。
「はい、父上。これからご報告にうかがうところでした」
 そして回廊の先からふらりと姿を現した父王ヴィクトールに頭を垂れた。
「構わん、楽にしろ」
 息子に顔を上げさせて彼は庭の花を一瞥すると、小さく呟きを落とす。
「今年も咲いたか」
「はい」
 母上もきっとお喜びでしょう。去年までは言えたその言葉が、エルンストの喉の奥で行き詰まる。その代わりに、小さな疑問を吐き出した。
「父上もこの花を御覧になりに?」
 日は真上にあり、常ならばまだ謁見が続いているだろう時間だ。それに。
「まさか。おまえもよく知っているであろう」
 果たしてヴィクトールが冷笑を返す。
「そうですね」
 母が亡くなってから、父はこの庭に来なくなった。
 花を見ようとしない父の胸中も、なのに今ここにいる理由も、エルンストにはわからない。エルンストにとって父は何を考えているか理解しがたい存在だった。花のことも、国のことも、そして母のことも。
 だが何の意味もないわけではないだろう。エルンストが国境の視察で王宮を離れていた間に何かあったかとも考えたが、それならば戻ってすぐに出迎えた家臣たちが何か言ってきているはずだ。
 そう思ったところで、はたと目の前の父を覆う陰りに気づいた。
「父上、お加減が優れないのですか? お顔の色が良くないようですが」
 回廊に射し込む真昼の光はちょうどエルンストにまでしか届いておらず、ヴィクトールの手前で屋根に切り取られている。だがその薄暗さを差し引いても、視察に出る前と比べて父がやつれているのが見て取れた。
「おまえが気にすることではない。そんなことより視察はどうだったかね」
 息子の言葉を気のない声で一蹴したヴィクトールが言いながら背を向け歩き始めたので、エルンストも慌ててその後を追いかける。歩きながら話を聞こうというのだ。
「順調に進んでいます。もうじき父上にも良いご報告が出来るかと」
「ほう。こたびの計画も上々か。城内でも噂を耳にする」
「いいえ、王家の人間として当然の義務を果たしているだけです。それに私だけの力ではありません、協力してくれた多くの者たちあっての結果です。なにより父上が私の勝手を許してくださったからこそ、私も多くのことを学ぶことが出来ました」
 答えるエルンストの声が、思わず熱を帯びる。
 エルンストにとっては父との対立から始めた国政への関与だったが、内政も外交も理想だけでは多くの人を動かせない現実を、現場に立つようになって思い知らされた。理想だけで民の生活は守れない。未来は何年何十年先だけでなく、明日も明後日もある。さらには東の隣国アリステルとの戦争も、近年は小康状態にあるとはいえ今も続いているのだ。
 それでも最近は、折り合いのつけ方もわかってきた。王宮で長く政治に関わってきた貴族だけでなく、知識や技術を持った在野の人材との関係構築も進み、今も大掛かりな事業がいくつか動いている。
 そしてついに、父から認められたような言葉を掛けられた。
 影では暴君ともささやかれているヴィクトールだったが、傲慢であっても執政を放棄し停滞させることはない。彼が後添いの妃として迎えた市井の女が驕奢に耽っていても、彼本人にその趣味はなかった。
 思うように進まない国内の整備から対立しても、父が憎かったわけではない。実績を上げることで口先だけではないこと、王子として王の補佐として役に立てることを認めてもらいたかった。そして、いつかは。
 だが。
「ふむ、良い心構えだな。ならばおまえたち兄妹も、そろそろ義務を果たすことだ」
 笑むように口の端を歪めてヴィクトールが放ったこの言葉に、エルンストは表情を凍りつかせた。
──早くはありませんか。エルーカはまだ」
「異な事を言う。あれもじきに十四になる、儀式の重要性は理解していよう。なにより先代の偉大なお力でこれまで保ってこられたが、それも限界が近づきつつあることを、まさか、おまえが知らぬはずもあるまい」
「それは……ですが」
「まだ青いおまえが犠牲を要する儀式に異存を持つのは勝手だが、今この国を守るために、儀式の他に何が出来ると言うのだ? 現実を見よ。小僧一人が駆けずり回ったところで、一朝一夕に世界は覆らんのだ」
 暗く落ちくぼんだ目にぎろりと睨まれて、エルンストは今度こそ返す言葉を失う。
 残された時間がわずかであることは、その目で確かめてきたばかりだ。
 儀式を行わなくても滅びることのない世界。それはまだ、ただの夢物語でしかなかった。エルンストはまだ、何も見つけられてはいない。
 間に合わなかったのだ。
 俯き押し黙ってしまったエルンストに、ヴィクトールは宥めるように語気を緩める。
「奴が逃げ出したせいで私が儀式を行えず、エルーカがこの歳で使命を背負わねばならなくなってしまったのは哀れなことかもしれん。だが真の役目を全うできるのはまだ何年か先の話であろう」
 そうして肩に優しく手を置かれて、身体中から力が抜けていく気がした。
「父上……」
「今夜、儀式の術を伝える。世界の維持こそ我ら王家の、最も重要な義務だ。エルーカとともにその義務を果たせ」
「……承知、しました」
 震える声をきつく噛みしめ、離れていく父の背中にエルンストは答えを返す。
 そうでもしなければ、その場にくずおれてしまいそうな気がした。




 重たい足を引きずるように自室に戻ったエルンストを、弾んだ声が出迎えた。
「お兄様! お兄様、おかえりなさい!」
「エルーカ?」
 その声とともに左腕に飛びついてきた少女の、金色の長い巻き毛がふわりと揺れる。細く軽い妹の身体をやんわりと受け止めると、エルンストは努めて笑顔で返した。
「ただいま。待っていてくれたのか」
「はい。お父様へのご報告は終わられたのですか? お仕事の続きは」
 今回のエルンストの視察は一ヶ月に及んだ。昔のように構えなくても膨れっ面で拗ねるようなことはなくなったが、寂しい思いをさせたのだろう、エルーカは期待に満ちた眼差しで見上げてきた。
 母が死んでしまってから、威圧的な父を怖がるエルーカにとって、安心して甘えられる家族は兄のエルンストだけだ。懇意にしている侍女もいるが、やはり家族には代えられない。そしてエルーカがたった一人の兄を慕うように、エルンストもたった一人の妹を可愛がってきた。
「ああ……さっきお会いしてきた。仕事は、今日はもういい」
「本当ですか!」
 その答えに、エルーカはぱっと笑顔を輝かせる。花が咲いたように。
 ──気づいた時には、抱きとめていた腕に強く力を込めていた。
「お兄様?」
 エルーカのきょとんとした声に、エルンストの強張った腕が小さく震える。長身の兄にすっかり抱きしめられて、エルーカは兄の顔を見ようと身を捻るが上手くいかず、結局そのまま言葉を続ける。
「お兄様。お父様とまた何かあったのですか」
「……エルーカ」
「お兄様を悲しませることなのですか」
 頬が痩けて憔悴したような、それでいて目だけがぎらぎらと輝いていた、父の顔が脳裏にちらつく。
 まるで疲れ果てたような、何かを諦めたような、迷いを捨てたような、あの異様な様子が娘の痛ましい運命を思ってのものなら。その苦痛は、未来を生き続ける王が背負わねばならないものだ。
「大事な話がある」
 腕をゆるめてそう告げると、エルーカの大きな瞳が不安に揺らいだ。
「もしかして、わたくしたちの儀式のことですか」
 問うた声も硬かった。
「ああ。そうだ」
 父が言ったように、妹は正しく運命を理解している。
 大陸の砂漠化を数十年の間、押しとどめることが出来る儀式。その儀式はグランオルグの王家にのみ伝えられ、その血に連なる者にのみ行使できる、失われた時代の秘術だった。この儀式の術者は己の魂をニエとなる者に分け与え、ニエはその命をもって大陸を支える柱となるのだ。
 当代においては、王太子であるエルンストが術者となり、王女であるエルーカがニエとなる。
「それでは、お祖母様の力が尽きようとしているのですね」
「確かめてきた。もう時間がない」
 二人の父の代で儀式は行われなかった。魂を分け与えた直後に儀式は行えないが、その間にニエの役を負っていた王弟が姿を消したのだ。そのために次までに残された猶予は少ない。エルンストが儀式の真実を知らされたのも、叔父の失踪から間もなくのことだった。故に儀式そのものに異を唱えた。数十年に一度の犠牲を強いる、忌むべき邪法にいつまで頼るつもりなのかと。それはエルンストにとって、たった一人の妹を守るためでもあった。
 だが結局、儀式に替わる大陸の救済策は手がかりさえ見つけられないまま、この日を迎えてしまった。
「間に合わなくて、すまない」
「お兄様……」
 エルーカのまだ小さな手が、きゅっとエルンストの服を掴む。
「お兄様、エルーカがニエになっても、最後のお別れまではまだしばらく時間があります。お兄様の子供たちにまでこんな思いをさせなくてもいいように、私にも最後まで頑張らせてください」
 深く俯いたエルーカの言葉は気丈だったが、今にも泣き出しそうに震えていた。
「すまない、約束を守れなくて」
 だからエルンストはもう一度、妹を抱きしめた。




 季節が春に差し掛かっても、夜更けの地下は寒い。
 地下書庫のソファで深い眠りに落ちているエルーカの、毛布からこぼれ落ちていた手をエルンストはすくい上げた。
 妹の手は、まだあたたかい。
 今夜はいつものように、ここで古い書物を調べていて眠ってしまったわけではない。
 背後の机の上ではランプの横で、空になったカップがオレンジに染まっていた。ニエとなる者の負担をわずかでもやわらげるために、王族付きの薬師には代々、苦痛を感じさせることなく眠りながら死ねる毒薬の製法が伝えられている。エルーカがそれを飲み干してしばらく経つ。そろそろ全身に回ってくる頃だ。
 今はまだ眠っているだけの彼女も、もうじき静かに息を引き取る。
 つとその指に見覚えのある輝きを見つけて、愛しさと苦みがない交ぜになってこみ上げてきた。何年も前にエルンストが贈った指輪だ。もっと華やかなものも美しいものもたくさんあるだろうに、彼女がこれ以外の指輪を填めているところを見たことがなかった。
「エルーカ……」
 小さく小さく声を落とす。
 たった一人の妹がエルンストにとって、初めての守るべき存在だった。それでも国と妹を天秤にはかけられない。グランオルグ王家はこの大陸を維持するために在るのだ。
 ニエは過去を背負い、王は未来を背負う。
 ならば背負って、立つしかないのだ。
 立ち上がったエルンストは、眠る妹をその腕に抱え上げ、奥の遺跡に向かった。
 ここから妹を寝室に運ぶ時はいつも羽のように軽かったのに、今は重かった。




 王宮の地下に広がる遺跡の最深部に、儀式の間はある。
 旧き時代、この大陸で栄華を極め、その果てに大地の命の循環を破壊し、滅びた帝国の遺産だ。そしてわずかに生き残ったその末裔が、大陸の命を己が血脈の犠牲をもって繋ぎ止めるための、美しくも残酷な場所である。
 その儀式の間の奥に座す、巨大なクリスタルの前でヴィクトールが待っていた。
 地下空洞に手を加えたようなこのホールは天井にも岩肌を残していて薄暗かったが、中心で幻想的な輝きを宿す巨大クリスタルだけでなく、ホールの脇に並ぶ小さな水晶柱も光を灯しているので、意識のないエルーカを抱きかかえたままのエルンストでも足下に不自由はない。
「父上」
「エルーカをそこへ」
 淡い逆光を浴びたヴィクトールの影が、クリスタルの真下を指し示す。
 ひどくなめらかな砂の上は不思議と寒くない。毛布にくるんだままのエルーカを示された場所へそっと横たえると、エルンストは顔にかかっていた長い髪を払ってやった。
「よく眠っています」
 彼女の浅い呼吸は今も途絶えていない。
「少し薬の効きが遅いようだな。女にはよくあることらしい」
「そうなのですか」
 エルーカの傍らに片膝をついたまま、エルンストはヴィクトールを振り返る。灯りに乏しいここでは、父の顔色までは見て取れない。それでも、あのぎらぎらした眼差しだけは今もはっきりと感じられた。
「エルンスト。昼の続きを聞かせろ」
「続きとは何を」
 立ち上がって父の方へ向き直りながら、エルンストは怪訝に眉をひそめる。
 ある程度の段階に達したものや、まとまった結果が出ている計画は、口頭のみならず逐一書面で報告を上げている。
「灌漑施設や学院の整備の報告は紙でも受けている。だが、おまえがやっているのはそれだけではないだろう。あちこちの研究者や技術者に声を掛けて回っているな。かなりの数だ」
「……ご存知だったのですか」
「それだけにとどまらず、最近はアリステルの人間とも通じているな」
 凍りついたような冷ややかな父の声が、突き刺さる。
「誤解です父上、それは──っ」
 慌てて否定しようとした、言葉が目の前で炸裂した爆発音に吹き飛ばされる。
 それと同時に、エルンストの腹部を焼けるような痛みが貫いていた。
 咄嗟に押さえた手が、あふれ出す生ぬるい感触に濡れる。
 ──血だ。
「ち、父上……?」
 いつの間にか突きつけられていた銃口には、かすかな硝煙が滲んでいた。
 理解は一瞬だった。撃たれたのだ。あの銃に。父に。
 だが。
「違います、私は、内通など……してはいませんっ」
 暴れ回る激痛を奥歯に噛みしめながら、エルンストは父を見上げる。
 隣国アリステルは何十年も前に、グランオルグを捨てた一人の元王族が興した国だ。以来グランオルグとは緑の残る領土を奪いあって戦争が続いている。建国の経緯もあってか、エルンストが知る限りでも祖父や父がアリステルに向ける憎悪と嫌悪は強かった。近年では両国の戦争は小康状態になっているとはいえ、アリステル国民との協力体制が簡単に容認されるとは思えず、何かしら形になるまではと秘密裏に進めていたのが仇となってしまった。
「私は、ただ……っ!」
「おまえがアリステルの輩と何を企んでいようと、どうでもいいのだよ」
 ヴィクトールがそう言い捨てるが早いか、また引き金が引かれる。
 今度は右足の太股を撃ち抜かれ、立ち上がろうとしていたエルンストはその場に倒れ伏す。
「ああそうだ、おまえも奴と同じだ」
 その頭を踏みつけ、ヴィクトールが色濃く狂気に染まった笑みを歪ませた。
「私が気づいていないと思っていたのか? その目で私を見下していただろう、無能な王だと嘲笑っていただろう」
 さらにもう一発の銃弾が、どこかに撃ち込まれる。
 どんなに違うと叫びたくても、もう声も出せなかった。
「貴様は儀式を否定した愚か者だ! 私の国に背く反逆者だ!」
 声の代わりに滲み出た涙が、血の上に落ちた。
「そうだ、貴様などを王にさせてなるものか……!! 王は、この私だ!!」
 その直後にまた銃声が響いて、エルンストの意識は深い闇に落ちた。
 父の声が最後に、別の名前を叫んだ、気がした。







 エルーカが目を覚ましたとき、狂った笑い声を上げる父の足下で、兄は真っ赤な血の海に沈んでいた。
「お兄様……?」
 眠りに落ちる前、これから自分は死んで、兄の魂を分け与えられて目覚めるのだと思っていた。
 なのに今、命を失おうとしているのは兄の方だ。
「お兄様、お兄様!?」
 まだ薬の怠さが残る足をもつれさせながらエルーカは、血まみれのエルンストのもとに駆け寄った。
「どうして、どうしてお兄様が……!?」
 死ぬのは自分のはずなのに。
 パニックのまま縋りつこうとしたエルーカの腕を、しかし不意に横から伸びてきた手が掴んで立ち上がらせる。
「お父、様……!」
 ヴィクトールに痛いほど強く握りしめられ、愕然と目を瞠ったエルーカは振りほどこうと必死に身を捻るがびくともしなかった。逆に腕を捻りあげられるようにして、動きを封じられてしまう。
「お兄様が、お父様、このままではお兄様が……!」
 叫んだエルーカの足下に、ヴィクトールが手にしていた銃を投げ捨てる。
「そうだ。これはじきに死ぬ」
 愕然と目を瞠って、エルーカは地面に転がる銃を見つめ、次いで動かないエルンストに目を向けた。おびただしい命の赤が流れ出した、傷口は小さな穴だ。どす黒く変色した服の足と腹、そして胸に小さく黒い穴が空いている。
 兄の身体に穿たれたいくつもの銃創。硝煙の匂いが残る父の銃。
「どうして、どうしてこんな……っ!!」
 理解してしまえば涙が溢れてきた。
 父が、兄を手にかけたのだ。
「エルーカ。おまえが次の王になれ」
 泣き崩れたエルーカにそうささやいたヴィクトールの声は、おぞましいほどの歓喜の色に染まっていた。




 十年以上前になる。
 まだ叔父が、父の弟が王宮にいた頃。
 その頃の私は、王宮の誰より物知りだった叔父の後ろをよく、ついて回っていた。
 教師の出す問題が解けなくて困っていたら少しだけ助けてくれたし、そうして正しい答えを見つけられたら褒めてくれた。間違っていたらどうして間違ったのかを丁寧に教えてくれた。
 国の政に忙しい父より、妹が生まれた頃から体を壊して伏せがちになった母より、叔父はたくさんのことを教えてくれたし、私のことを見てくれた。
 けれど叔父は父を見ようとしなかったし、父も叔父を見ようとしなかった。




 泣いている。エルーカが。
 こんなにも泣いているのは、母が亡くなった時以来かもしれない。
「エルー、カ……?」
 その泣き濡れた声に意識を呼び戻されたエルンストの、ぼやけた視界にまず見えたのは果たして、涙でぐしゃぐしゃになった妹の顔だった。
「お兄様……っ! 目が、覚めたのですね」
 エルンストの覚醒に気づいたエルーカが目を瞠り、その大きな目からまた新たな涙をぽろぽろとこぼす。
 自分の手も、それを抱きしめている妹の手も、乾いた血に汚れていた。
 だが意識がなくなる前の、寒気も傷の痛みも消え失せていた。
「そうか。おまえが魂を分け与えてくれたのか」
 死んだはずなのに、殺されたはずなのに、だからこうして息をしている。
「ごめんなさい、お兄様。ごめんなさい……」
「泣くな、エルーカ」
「でも」
「おまえが術者で、私がニエだ。役割がひっくり返っただけじゃないか」
 泣き止まない妹をなだめようと手を伸ばしかけて、触れる寸前に引き止める。
 血の痕が手にこびりついていた。
 赤黒いそれは、噴き出した父の憎悪だ。
「あんなに……憎まれていたんだな」
 泣き言のように呟いてから、それはきっと正しくはないのだろうと思った。




 十年以上前になる。
 まだ叔父が、父の弟が王宮にいた頃。
 その頃の私は、王宮の誰より物知りだった叔父の後ろをよく、ついて回っていた。
 教師の出す問題が解けなくて困っていたら少しだけ助けてくれたし、そうして正しい答えを見つけられたら褒めてくれた。間違っていたらどうして間違ったのかを丁寧に教えてくれた。
 国の政に忙しい父より、妹が生まれた頃から体を壊して伏せがちになった母より、叔父はたくさんのことを教えてくれたし、私のことを見てくれた。
 けれど叔父は父を見ようとしなかったし、父も叔父を見ようとしなかった。




 ある日、叔父がいなくなった。
 そして私は、母から儀式の真実を知らされた。
 父のことも叔父のことも、何も知らなかったことを、知った。







 そして。
「父が私を見ていなかったように、私も父を見ていなかった」
 今にして思えばだけど。
 そう諦めのような自嘲のような苦笑を滲ませながら、長い長い階段の途上で、彼は振り返った。
「はじめまして、ストック。君が来るのをずっと待っていた」
「俺も、おまえに会いたかった」
 ストックのその答えに、彼は寂しそうに微笑むと一輪の花を差し出した。
 赤い花。
「君さえよければ、連れて行ってくれないか」
 ストックが黙ってその花を受け取ると、周囲は瞬く間に闇と炎に包まれた。
 あの庭が、花が燃えていた。
 猛り狂う炎の前に、黒い人影が二つあった。
 逆光の中で何かがぎらりと輝いて、影の一つが糸の切れた人形のように倒れ伏す。
 赤々と照らし出されたのは、ヴィクトールの、父の顔だった。
 その傍らに、ストックは片膝を落とした。
「父上」
 届くはずもなく、意味などないとわかっていた。これは過去ではなく、記憶の欠片でしかない。それでも呼び声がこぼれた。初めてのようにぎこちなく、慣れたように簡単に、声は形になった。
 大きく斬り裂かれ、血にまみれたヴィクトールの手が力なく伸ばされる。
 声にならない吐息が、それでも何かを伝えようとしていた。
 だが、その手のひらはストックに、エルンストに触れる前に細い剣で貫かれ、心臓に縫い止められる。
「最期まで見苦しい奴めが」
 どろりと血を吐いて息絶えたヴィクトールを見下ろし、まるで羽虫を潰すような呆気なさで、剣を引き抜いた男は言い捨てた。
 それから男はこの陰惨な光景にそぐわぬ、優しい笑顔を浮かべた。
「大きくなったな、エルンスト」
 燃え上がる花を背負ったその姿に、亡骸とよく似た顔立ちに、憎悪を叫び、また死なせないと叫んだ面影が重なる。
「ハイス」
 王は未来を背負い、ニエは過去を背負うという。
 立ち上がったストックは、後ろを振り返る。
 そこはもう、果てしなく続く階段の途上だった。
 手の中の、炎より血より赤い花が、灰になってさらさらと風に溶けて、消えていく。
 だからストックは、その手を彼に差し出した。
「一緒に行こう。エルンスト」
 彼が泣き笑いのようにくしゃりと笑う。
「ありがとう」
 そして、手を繋いだ。







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お題no.1「はじめまして」。
記憶と想い出の旅路。ひとつの旅が終わり、つぎの旅を始める。

ワールドガイダンス発売前にグランオルグ王家を書き逃げ。三〜四年くらい前のつもりです。何から何まで私が楽しい捏造です。何でこんなネタになっちゃったのかは、2010年11月のRHプレイ日記と妄想炸裂の流れでした。

ヴィクトール。エルーカやハイスにはけちょんけちょんの扱いでしたが、この二人は個人的マイナス感情が山盛りなので、公式サイトの書き方くらいがたぶん一般的な評価なのかなとか思ってます。そしてこの人が本当に怖かったのは、息子じゃなく弟の影だったんじゃないかとか思ってます。ハイスがヴィクトールを殺した後も縛られ続けていたように。
エルンスト。エルーカとハイスがめっさ持ち上げるから夢を壊さないよう頑張ってみましたが、儀式のこと、妹のこと、母のこと、父のこと、大人と子供の狭間でいろいろとわかりにくい屈折をしてしまった気がします。

エルーカが飲んだのは毒ではなく、ヴィクトールが自分用にと作らせた強い睡眠薬。
ところで個人的な声のイメージはストック:関智一さんでエルーカ:矢島晶子さんでした。