それは、ひどい雨の日だった。





空の向こう、風の街へ


Syank the passing shower story






 多少の雨など今の身体でも気にすることではなかったが、わざわざ重たい雨に降られる酔狂な趣味はない。本格的に降り出す前に偶然見つけた洞窟に滑り込み、彼女はのんびりと雨宿りを決め込んでいた。
 洞窟の中から見上げた空は黒い雲に塗り潰されていて、降りしきる雨の音はうるさくてうるさくて、他のものは何も見えなくて、他の音は何も聞こえなくて、彼女の他には、本当に何もなかった。
 何もなかった。
 ずっと、ずっと何もなかった。
 洞窟の入り口に小柄な人影が一つ現れたのは、雨が降り出してから、どれくらい経った頃だったろうか。
 酔狂な人間もいたものだと、暗がりの中から彼女は、金色の目をその人影に向けた。
 安物だろう革製の外套に身を包んでいたが、この豪雨の中、それが雨よけの役に立っているとはお世辞にも言えない。傷んだ裾から大量の滴をしたたらせながら、その人影は洞窟の壁に手をついて、引きずるような足取りで洞窟の中へ入ってくる。と、その足音が躊躇うように途絶えたかと思えば、次の瞬間にはまっすぐ彼女の方へ向かってきた。
 彼女の存在に、気づいたらしい。彼女は慌てて隠れ身を使いはしたが、既に明らかな注意を向けてきている者に対して隠れ身は意味を為さない。果たしてその人影は、彼女の手前で足を止めた。
「こんなところに、猫……?」
 人影は掠れた声で不思議そうに呟きながら、彼女の前で膝を折り、重たく濡れそぼったフードを肩に落とす。こぼれた紅い色の髪が、重く濡れてなお鮮やかな色彩が、ちらりと彼女の視線を引きつけた。
 若い男だった。それも、まだ子供と言っても過言ではない年頃の少年だ。
「野良って感じじゃないけど」
 その子供らしい大きな目が、彼女をひたすら見つめている。悪意こそ感じられないが、その不躾なほどの視線に幾ばくか居心地の悪さを覚えた彼女は、彼の目をまっすぐに睨み返した。と。
「綺麗な猫だな、迷子か? だったら……おまえも、ひとりぼっちか」
 彼が、そんなことを言いながら笑った。
 その言葉に、何の意図もない無色透明の笑い方に、思わず睨むことも忘れて立ちつくした彼女は、今度こそ彼に視線を奪われていた。
 そのまま彼女が呆けていたのはそう長い時間ではなかったが、背を撫でようとしたのか伸ばされた彼の手を、すんでのところで我に返ってすり抜ける。
 だが、雨に濡れた指先だけが、掠めるように触れた。
 ぞっとするほど冷え切った、指先の感触が黒い毛に覆われた肌を突き刺して、逃げた先で彼女はそっと振り返ると彼の顔を見上げた。
 彼は行き場をなくした手を力なく落として、苦笑いしていた。
「はは。こんな濡れネズミに触られたくないよな、おまえも……」
 明かりがないので良くは見えなかったが、その顔色は異常なほど蒼白くはないか。
「なあ……もう、触ろうとしたりしないからさ」
 その笑い方も声も、この雨に潰されそうなほど力がない。
「外に出てったり、するなよ。この雨、ひどいしさ……外は、危ないぞ……」
 ああ、やはりそうなのか。
 彼の宥めるような言葉を聞いて彼女が思考を巡らした、その僅かな時間で、辛うじて彼の上体を支えていた力さえ失われていったらしい。後ろの岩壁にもたれかかった彼の身体はそのまま、濡れた地面にくずおれていく。
「………」
 とうとう倒れ伏してしまった彼の目の前に、彼女は音もなく歩み寄った。
 彼が起き上がる気配はない。そんな力も残っていないのかもしれない。
 だが、まだ生きている。意識もある。
 彼女は一つ小さな嘆息をこぼすと、邪魔な雨音を遮断した。
 そして、口を開いた。
「君、このままじゃ死ぬよ」
 ──ほんの気紛れ、だったのだろう。この時は、まだ。
「猫……喋ってる……?」
「ちゃんと人の話を聞きなよ。このままじゃ死ぬよって言ってるんだ」
「ああ……そう、かも……」
 まるで他人事のような返事に、彼女はひくりと細いヒゲを揺らす。
「君はいいの、それで」
「よく、ない……」
「死にたくないから?」
「まだ……探し物、見つけてない……」
「探し物って?」
「不死、秘法……届け、ないと……」
「君ってもしかして、秘儀盗賊ってやつ?」
「……まあ、一応……」
 魔法使いから魔法の研究を盗み出す、魔法使いならざる盗賊。
「まだ子供のくせに、そんなことしてるから死にかける羽目になるんだよ」
「はは……猫に、説教、されるなんて」
「何、笑ってるのさ」
「だって、おかしいだろ……」
「おかしくなんかないよ。だって」
 ぼんやりとした彼の顔を、彼女が間近から覗き込む。
「ぼくは魔法使い<シーカー>だもの」
 途端、彼の目がゆるゆると見開かれ、弱りきった吐息が震えた。
 染めている色は驚愕か、それとも恐怖か。
 何にしろこの反応に、彼女は少なからず気分を良くした。
「君を助けてあげようか」
「どう、して……」
「取引だよ。魔法使いは自分のためだけにしか力を使わない」
 甘い笑みを含んだ声で、彼女は彼の耳に囁きを流し込む。
「ぼくも探し物をしてるんだ。でも、この姿での旅は何かと不便も多くてね、ちょうどいいから君を利用してみようと思いついたのさ」
「魔法使いが……秘儀盗賊と組むって、言うのか……?」
「莫迦げてる? でも君みたいな子供が魔法を盗もうとするよりは、まだマシだと思うけど」
「……そう、だな」
 また彼が笑おうとしたが、体温を失い続けているからか、上手く笑えていなかった。
「さあ、どうするの。あまり時間はなさそうだけど」
「………」
 彼女の問いかけに続いた沈黙は長く感じたが、おそらくは短かっただろう。
 揺らいでいた彼の眸が、意を決したように彼女を見定めた。
「なあ……おまえの、探し物って……?」
 彼女を見つめる彼の手が、もう一度、ひどくゆっくりと伸ばされる。
「いなくなった、ぼくの母さん」
 今度は彼女もかわしたりせず、その手が触れてくるのを待った。
 とても冷たい指先だった。だが、温かい手だった。
「我、羊の群の中に贖える者の位置を示しその力に乞う」
 金色の目をすっと細め、彼女は呟くように呪文を唱える。
「あたたかい、な……」
 泣き出しそうにも見える顔で、彼はまた、彼女に笑いかけた。
「当たり前だよ」
 つんと取り澄ましながら、彼女も笑い返した。




「──いっしょに、いこう」
 そう言ったのはどちらが先だったか、ブリアンは覚えていない。








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 お題no.5「雨」。
 showerは通り雨のshowerですがshow+erでもあるかもしれない。

 読みたい読みたいが高じて書いてしまった出会いストーリーですが、やっぱり駄目だ、秋田先生のが読みたい……!!
 というか小説物の二次創作は文体のこととかもあるので、しないつもりだったんですが……敗北。

 シャンクとブリアンのあの関係がたまらなく大好きです。まさか秋田作品で、カップリング萌えにすっ転ぶ日が訪れるとは夢にも思わなかったです。オーフェンでは一応オーコギではあるのですが、本当に何となくレベルなので(笑)
 前半は、お互いに絶対にばらせない秘密を隠し持ってたり、ブリアンの正体とかおよそ報われそうにない片恋で萌えまっしぐらなんですが、それを踏まえての後半のあの展開はもう、恐ろしい破壊力でした。ごろごろ転がれました。三巻のエピローグで目覚めたシャンクの第一声とか「やっぱり」とか、四巻の何もかもとか!!