sky blue, clear blue.






 ベッドは空っぽだった。
「お兄ちゃんのバーカ」
 小さく小さく、呟く。
 空っぽに向かって、呟く。
 決して聞かれたりしない届かない声は、喉の奥に飲み込んで飲み込んで、くるりと踵を返した。
 軽やかな足取りで寝室を出て、エプロンのリボンをきゅっと締める。
 今日もいい天気だ。
 今日の朝食は何にしよう。
 大好きなイチゴのジャムがほとんど残っていなかった。その隣にあるマーマレードの瓶はまだ半分以上残っているけど、少し苦手だ。
 買ったばかりのチーズがあるから、それをスライスしようか。
 野菜は何が残っていただろうか。真っ赤なトマト、トゲトゲのキュウリ、レタスはまだ新しいのがあっただろうか。
 タマゴはいくつ残っていただろうか。二つくらいはあったはずだけど。
 レタスはさっと水洗いして、切り屑はポテちゃんにあげて、タマゴは固めに茹でて輪切りにしよう。それとも軽く炒るだけにしようか。
 とりあえず焼きたてのパンを買いに行こう。
 朝の散歩に行っている祖父が帰ってくる前に行こう。
 今日は何が朝一のパンだろう。ブレッド、ロールパン、コッペパン、何でもいい。でも堅焼きパンは大きくて、二人だけでは食べきれないから駄目。
 この頃はすっかり自分で焼かなくなった。
 そうしたら、少しだけ遅くまで眠っていられるから。
「お兄ちゃんのバーカ」




「だいたい、無茶もいいところよね」
 長い長い髪を梳く。
「一人じゃ朝も起きれないくせに」
 長い金髪、同じ色の金髪。
「そんなんで、どうやって一人で旅なんて出来るのよ!」
 同じくらいの長さの、同じ色の金髪。
 それはそうだ。
 自分の髪は兄に切ってもらっているけれど、兄の髪を切っているのは自分なのだから。
 きっと気づいていないだろうから、帰ってきたら変わってしまっているかもしれないけれど、その時はまた同じにすればいい。
 顔も声も覚えておけないくらい小さかった頃に両親は死んでしまって、自分たち兄妹を育ててくれたのは祖父で、そして自分を守ってくれたのは兄だ。
 いつでも兄の側にいたし、いつでも兄の後を追いかけていた。
「よしっ」
 広がらないように、長い髪を先に近い背中の辺りで束ねてするりと括る。上手くやらないと右側と左側が変な形に歪んでしまうけれど、もうすっかり慣れた。
 すぐに散らばってしまう髪に困っていたら、笑ってリボンを結んでくれたから。
 それからずっと、続けているから。
 肩の後ろに結んだ髪を弾いて、オシマイ。
「……あれ?」
 最後に鏡を見ると、久しぶりに失敗していた。




 たとえば、いつかの話。
 いつか祖父はその一生を終えるでしょう。
 いつか兄は生涯の伴侶を見つけるでしょう。
 いつか自分も、この家を出る日が来るのでしょう。
 いつか。
 だがそれは遠い遠い『いつか』の話で、目の前の『今』ではなくて。
 ──なかったはずで。
 それ以外の何かなど考えたこともなくて、『いつか』は『いつか』でしかなかった。
 こんなにも唐突に兄が家から村からいなくなるなんて、考えたこともなかった。
 だって、知らなかったのだ。
 いなくなるとはどういうことなのか。
 顔も声も覚えておけないくらい小さかった頃に両親は死んでしまって、自分たち兄妹を育ててくれたのは祖父で、そして自分を守ってくれたのは兄だ。
 いつでも兄の側にいたし、いつでも兄の後を追いかけていた。
 だが今、兄はいない。
 兄の側にいることは出来なくなったし、兄の後を追いかけることも出来なくなった。
 遠い遠い、自分の知らない何処かに、一人で行ってしまった。
「行ってらっしゃいも言えなかった」
 早く帰ってきてねとも言えなかった。
 気をつけてねとも言えなかった。
 何も言えなかった。
「お兄ちゃんのバカ」
 だから祈るしか、出来ない。




 けれど、祈る神を知らない。
 普段は近づくこともほとんどなかったその場所に足を向けたのは、だから他にどうすればいいのか思いつかなかったからだ。
 顔も声も覚えておけないくらい小さかった頃に両親は死んでしまって、自分たち兄妹を育ててくれたのは祖父で、そして自分を守ってくれたのは兄だ。
 だが、兄も自分も、両親がいたから、いる。
 そのことを特別に意識したり考えたりしようにも、結局のところ『予め存在した欠落』でしかありえなかったが、やはり特別なのかもしれない。こうして覚えていなくても、どうしてか信じられるくらいに。
 死んだら何処に行くのと、祖父に問うたのは兄だった。
 いつのことだったかは覚えていない。けれど、覚えている。祖父がひどく困った顔で何も言えなかったことを。だからそれは両親が死んだ時ではない。だって、両親が死んだのは顔も声も覚えておけないくらい小さかった頃なのだから。
 死んだら何処に行くのと、兄に問うたのは自分。
 細い細い雨の降っている日だった。少し冷えた手を繋いで、走って家に帰る途中だった。兄の腕には、血まみれの子ウサギ。食い殺された親ウサギの、血にまみれた子ウサギ。でも生きている子ウサギ。
 立ち止まって振り向いた兄は少しだけ困ったような顔をして、繋いでいた手をするりと離して。
「あそこだよ」
 灰色の雨雲に覆われた、何もない空を、まっすぐ指差して。
「空の、上」
 優しい声で、そう言った。
「俺たちの父さんと母さんも、空の上にいるんだって。だから、こいつの母さんも、同じところにいるよ」
 微笑んで、そう言った。
 だからきっと、空の上にいる。
 生身であるこの目は何処にいるとも知れぬ兄の背を見ることは叶わないし、生身であるこの手は今この場所にいない兄に伸ばすことも叶わない。
 けれど空の上からなら、何処にいても、とてもよく見えるだろう。
 こんな晴れた日なら、なおのこと。
「お父さん、お母さん」
 顔も声も覚えていないけれど。
 ──どうか。




 帰り道、ふと見上げた空は、真っ青だった。




 今日もいい天気だ。
 こんな日は、外に布団を干そう。
 自分のと、祖父のと、そして兄のを。
 そうしたら、いつでも太陽の匂いがするから。







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 リリスがどれだけお兄ちゃん子かという話。

 拙作では今のところ唯一の、『夢の彼方へ』シリーズ以外のToD小説です。とは言っても、エルロン兄妹の両親の設定がオリジナル準拠で叔母もいないという程度の違いしかないですが。そのはずですが(笑)
 あ、PS2リメイク版ではリリスの髪型がポニテになった&ポテちゃんの存在抹消なので、そっちとも合わないのか……

 畏れ多くも2005年10月に発行されたToDアンソロジー「運命〜デスティニー」に寄稿させていただきました。なのに私が原稿のフォント指定でポカをやってしまいまして、本文のフォントが明朝体から行書体っぽい物に化けてしまっていたのは今でも悔しいやら情けないやらです。本当に申し訳ありませんでした。