影法師と踊れ




 人が死ぬのを見るのは、これが初めてではなかった。
 記憶を失ってこのミラで目覚めてから。まだブレイドになったばかりの頃、バイアス人に殺されたチームの亡骸を見た。
 だが"人"が死ぬのを見るのは、これが初めてだった。
 自分も自分以外もこのミラにいる地球人は、誰一人として生き物ではないと知ってから。
 生き物の血は赤い。地球の常識など通用しないミラでもおかしなことにそれは変わらなかった。
 目の前の血だまりは赤くない。青い。
 B.B.の血は赤くない。生き物ではないから。
 だがB.B.は人だ。
 だからこれは人の死だと、そう思った。
 それにそう、直接の知り合いが死ぬというのもこれが初めてかもしれない。
 カール。インターセプター所属のブレイド。カリウは彼と特に親しかったわけではない。カリウがまだブレイドになったばかりだった頃、彼が持てあましていた討伐任務を、偶然と成り行きで押しつけられただけだった。それからはすれ違えば挨拶したりする程度の知り合い。気の抜けた喋り方で、自分はインターセプターに不向きだとよく愚痴っていた。
 これは報いだった。かつて自分たちは討伐対象だったズースの仔たちを、目先の憐憫に流されて見逃してしまった。決断を下せなかった。その結果、仔ズースたちが成長してカールを襲った。そのズースたちはすべてカリウが討伐したが、それで取り返せるものは何もない。カールも死んでしまった。
 人は死ぬ。
 今のB.B.は不死であって不死でない。B.B.であっても人は死ぬ。たとえセントラルライフを取り戻せば復活できるとしても、故にB.B.の死が仮そめの死でしかないとしても、人は死ぬ。当然続くはずと信じていた未来を唐突に失ってしまうという意味では、セントラルライフがない今、B.B.の死も一つの死だ。人が死ぬということは、その人がいなくなる、その人と生きる時間を失うということだ。
 トレバーの消沈した背中を見て、そう思った。
 どうやら相棒の死をまだきちんと認められないらしいイエルヴのことも、もう何も言えそうにない。彼にとって親友の亡骸を見つける旅は、同じ時間を生きられない現実を受け入れるためにきっと必要なことなのだ。
 カリウは緑の草むらに落ちた青い血だまりを見つめ、ふと自分の左腕が無くなったあの時を思い出した。
 ──もしもあの時、自分が死んでいたら。
「ばっかみてぇ」
 酷い妄想を笑い飛ばそうとしたら、口の端が引きつったように笑い損ねた。
 本当はわかっている。
 一度は目を背けて逃げ出した、黒い影に追いつかれて後ろから左腕を掴まれた気分だった。




 左腕を失ったのは一ヶ月前、タツを庇って敵ドールに撃たれた時だった。
 青い血を、そのとき初めて見た。
 今の自分は『本物』ではないのだと、そのとき思い知らされた。




 ――左腕を、後ろからくっと引かれて。
「おい、カリウ」
 不意の呼び声に思わず息をのんで、振り返った先に年上の友人の顔を見つけて、確かにその時カリウは安堵で胸をなで下ろした。ラオだ。
「……何でいるんだ?」
 一昨日から任務で外出中と聞いていたのに。またサボったのだろうかと気の抜けた顔で軽口を叩くと、むっとされた。
「いきなり失礼な奴だな」
「だってしょっちゅう行方くらましてサボってるじゃねえか」
 フットワークの軽いエルマを頼んで穴埋めの任務が回ってきたことも何度かある。
「まあ過去にはそういうこともあったが今日はちゃんと任務上がりだ。せっかく慰めてやろうと思ったのに可愛げねえの……つか、何度も呼んだのに聞こえてなかったのかよ」
「え、マジでか。ていうか何で?」
「さっき報告上げに行ったらエルマとリンに捕まってな。最近おまえの様子が変だから心当たりはないかと質問攻めにあった」
「マジでか」
 あの二人は加減を知らないので、女にも子供にも弱いラオはさぞやたじたじであったことだろう。少し疲れた顔なのは任務上がりというだけではないかもしれない。
「本当にぼけっとしてやがるな……もう洗いざらい吐いちまえ、酒の相手くらいしてやっから」
 首の後ろから腕を回してカリウを捕まえたラオが、小さく声を落とした。
「女子供相手には言いにくいこともあるだろ」
「あー。まあ、うん」
 だいたい経緯はわかった。気分のいい話ではないのであの二人には言っていなかったのだが、かえって気を遣わせたようだ。だったらここは女性陣の厚情に感謝して甘えるべきだ。あと不良に片足突っ込んでいるこの兄貴分にも。
「飲まなきゃやってらんねー感じです」
「んじゃ適当に買って部屋でやるか」
「いつものとこじゃねえの?」
 カリウは思わず目を瞬く。宅飲みも初めてではないけれども。
 記憶喪失で何も知らなかったカリウに、酒の飲み方を教えてくれたのはこの男だ。ついでに他人の部屋に入ったのもラオの部屋が初めてで、チーム用の大部屋であっても普通はあんなに広いリビングダイニングキッチンもミーティングルームも、あとドールガレージもないことをその時に初めて知った。統合政府軍エルマ大佐の執務室兼私室はかなり特別製だったらしい。
「おまえが潰れたら持って帰るの面倒くせえ」
「やりぃ、帰らなくていい!」
 それと人目を気にしなくていい。
 24時間営業のダイナーは朝も昼も夜も賑やかで、その明るさに救われることもあるが、それがつらいこともある。NLAにいる間は自分の部屋よりあの店に入り浸っているフライも、時折ふらりと姿を消すことがあった。
 ビルの奥からラオやダグが見つけてくる隠れ家的なバーは、ほの暗いオレンジの灯りがつくりだす陰影の空間に独特の居心地の良さがある。だがこの狭いNLAでは結局、知り合いに出くわす率も低くない。
「保護者殿に明日叱られん程度にしろよ」
「わかってるって」
 言われるまでもなくアルコールを引きずったままリンやタツのいるホームに帰るわけにはいかないが、今まで飲みすぎて潰れることはあっても二日酔いに悩まされたことはないので、そこの心配はしていない。
 端末で明日のスケジュールの確認と、我が家の台所を預かるリンに今夜は飲みに行く連絡を入れる。
 と、並んだ履歴を見て思い出したことがあった。
「そういやダグが拗ねてたぞ、最近ラオがつきあい悪いって」
「あー」
 カリウの言葉に低く呻いたラオが、決まり悪そうに長い黒髪をかき上げた。自覚はあるらしい。と、先に歩き出したラオを追いかける。下層に降りる道だ。
「おまえ、ダグと飲んだことあるか?」
「何度か」
「あいつ、めちゃくちゃ酒癖悪いってわけじゃないんだが、なんつうか……面倒くさいだろ」
「ラオの若い頃の武勇伝をいろいろ聞かされた。ラオって結構遊んでたのな」
「……あの野郎」
 途端ラオの表情から引け目らしき色が綺麗さっぱり消えて、忌々しげな舌打ちがこぼれた。
「ひがんでんだよ、あいつリアリスト気取りのヘタレだから」
「じゃあお返しにダグを酒の肴にでもすっか?」
「へ? ――や、あいつ地味すぎて、んな笑える話ねえぞ」
 揺らいだ目がすぐに、逃げるようにそらされる。
 わずかに自分よりも高いラオの目線を、カリウは見上げた。
 あれでダグは昔話が多い。それが彼なりのやりすごし方なのかもしれないと薄々思っている。置いてきた過去への感傷はラオの領分とうそぶきながら、そこに乗っかって吐き出しているようなところがある。
 ではラオは。
「昔話はつらい?」
「おまえな……わかってて言うなよ」
 きっと、まだ過去ではないのだろう。
 まだ本当の意味で誰かを喪ったことのない今のカリウには、その痛みも空虚も計り知れない。
「わかんねえよ。俺、記憶喪失」
 悲しい過去も恥ずかしい昔話も懐かしむ想い出も、今のカリウの中には何もないのだ。
 だからラオはカリウを構ってくるのだろうと何となく思っている。ラオの側から地球での話をこぼすことはあっても、カリウの側からはどれだけ酒が入ってもミラに来てからの話しか出来ない。
 皮肉げに薄く笑ってから、カリウはふと我に返った。
「ああもう」
 いったい何が楽しくてお互いの傷を抉りあっているのか。
「ほんとバカみてえ。マジで飲まなきゃやってらんねー」
「まったくだ」
 ラオにもこれ見よがしに深々とため息をつかれた。
 うまくないなあと苦笑いがこぼれる。
「話戻すけど、ダグってヒメリに気があんの? 親友の目から見てどうよ」
「そこにか。だなあ、あるんじゃねえの。あのツラで、ああいういかにも清純そうで守ってあげたい系が奴の好みだ」
「やっぱりかー」
「なんだ、何かやらかしたか」
 そこには心配より、意地の悪い期待がうかがえた。
「やらかしたわけじゃねえよ? うん、なんか変なだけで」
「ははっ、いい歳してサムいだろ、中学生レベルで。首突っ込むと面倒くせえぞー」
「相手がヒメリって時点でもう面倒くさい」
「まああの聖女様じゃ高嶺の花だよな……美女と野獣だな……」
「ラオってほんとダグに酷ぇよな」
 思わず言ってしまったら、ラオには素知らぬ顔をされてしまった。




 ――忘れたつもりになっていただけで、本当はよく覚えている。
 メンテナンスセンターを退院したあの時、なくなったはずの左腕は当たり前のように肩と繋がっていた。
 両手の指を握る。開く。左手も当たり前のように思い通りに動いた。何度か繰り返しても左右の手に違いは感じられなかった。神経接続の検査結果も正常な数値だった。
 だから左腕が千切れた激痛の名残のような、氷水に左腕だけ突っ込んだ痺れのような、ひどく曖昧にこびりついて消えない違和感はおそらく精神的なものだった。
 切り離された。繋がっている。
 この身体は機械の作り物だ。生き物ではない。
 それまで少しも不思議に思わなかった自分が間抜けだっただけだ。幸運にも怪我らしい怪我に見舞われていなかっただけで、身体能力は人間の域を遥かに超えていた。
 このミラのどこかで眠っているはずの、本物の自分はずいぶんと脳天気らしい。
 泣きたいような笑いたいような、酷い気分だった。
 だって。




 みるみる減っていく酒瓶を傍らにカールとのいきさつを話すにつれ、ラオが眉間にしわを寄せ、あからさまに憮然とした面持ちになり、終いには深々と嘆息をこぼされた。
「ガキが」
「……返す言葉もございません」
 反論などカリウにあろうはずがない。酔いが回れば口もなめらかに軽くなるが、ないものはない。
「わかってんならいいがな。で、何がそんなにショックだったんだ? 今の話だと、そのカールって奴が死んだのが堪えてるってわけじゃねえよな」
「そうなんだよなあ……」
 容赦なく先を促されて、カリウはからからとグラスを振った。
 中身が半分ほどに減ったグラスの中で、溶けかけて少し丸みを帯びた氷がきらきら転がる。
「たぶんカールが死んだのが悲しいって以上に、前に自分が死にかけたのを思い出しちまった」
「ああ、ノポンのガキ庇って敵のドールに撃たれたときのか」
「そうそれ」
 薄情なもんだ。ため息をつくと、そんなもんだろと言われた。
「んで今さら怖くなったか」
 続く声は多分に揶揄を帯びたものだったが。
「そうだよ怖くなったんだよ。……ずっと考えないようにしてたんだけどな、どうしようもねえし」
 左腕を失って、そして自分が生き物ではなく機械仕掛けであることを知ったあの時から、ぽっかりと空いた穴がある。暗く、深く、底知れない穴だ。
 まるで影のように自分の真後ろにつきまとう。
「ほう?」
 カリウは傷一つない左手を、天井の照明にかざした。
「この身体、人間じゃねえんだよな。腕だって丸ごと吹っ飛んでなくなったのに、簡単に取り替えられるし」
 傷一つない。左腕を失う前の日、爪を割ってしまった痕もない。治ったのではなく、初めからそんな怪我はなかったことになった。
「おいこら。B.B.の予備パーツも余裕がないと、エルマ先生に言われなかったか? あ?」
「い、言われた言われました! 司令から! それやめろ結構痛えっ」
 腰を浮かしたラオの尖った拳骨にぐりぐりと頭を抉られて、カリウは慌ててギブアップを訴える。なんだこれマジで痛い。
「わかりゃいい」
 離れていく手が、くしゃくしゃと髪をかきまぜるように荒っぽく撫でていった。完全に子供扱いされている。今の自分はそんなにも落ち込んで見えるのだろうかと、カリウはふて腐れた気分で手にしたグラスの中身をちびりと舐めた。
「でさ。そんなんでも、B.B.って結構呆気なく死ぬんだよな」
「助かるかどうかは壊れ方次第だな」
 ラオがため息をついた。
「前に技師連中から聞いた話だが、B.B.の手足は存外取れやすくなってるんだと。耐えきれない負荷がかかると、胴体までぶっ壊れる前にさっさと吹っ飛んで、少しでも衝撃をやり過ごすようになってるらしい。おまえも自分の腕の断面、見たろ?」
「……火花バチバチいって青い液体だらだら垂れ流してました」
「手足は、言っちまえば至極上等だが単なる義手義足だ。B.B.の重要な機能はだいたい頭と胴体に詰め込まれてるから、そこさえ無事なら助かることが多い。逆にB.B.でも、頭や胸のど真ん中を撃ち抜かれたら即死だ」
 グラスを左手に引っかけたラオの右手が、カリウの額と人間ならば心臓の位置を指さした。
「この身体は人間より丈夫で便利に出来ちゃいるが、急所はそんなに変わらねえ。ま、さすがに手足が丸ごと吹っ飛ぶくらいだと、すぐ応急処置しねえとヤベぇらしいがな」
「俺もリンがいなかったら危なかったと言われました」
「そう、おまえはラッキーだったのさ。優秀なメカニックがすぐ傍にいて、壊れたのも左腕一本、簡単に取り返しのつく範囲でよ」
 それでなくても壊れやすい手足の造形データはボディにも埋め込まれているので、セントラルライフがない今でも、スペアパーツの在庫さえあれば容易に復元できる。身元不明のカリウでもそれは同じだ。
 だからこそカリウの左腕は今もそこにある。まったく新しい腕を繋ぎ直したのに、肩の人工皮膚には継ぎ目も見えない。それどころか。
 カリウは唇を引き結んだままラオの左手を捕まえて引き寄せた。
「何だ?」
 訝りながらも好きにさせてくれるラオの左手と、自分の左手を並べてカリウは見比べる。ちゃんと別人の手だ。身長がほとんど変わらないので手の大きさは大差ないが、ラオの手は、二十代前半から半ばと目されているカリウの手よりもずっと骨張ってごつごつしていた。どうりで拳骨が痛いわけだ。
「俺よりごつい」
「当たり前だガキ」
 ダグによれば二人とも統合政府軍発足以前からずっと軍人をやっていたというから確かに当然だろう。元になった生身時代の鍛え方が違う。
 その人の生き方の結果も、そっくりそのまま写し取られて復元されている。
「どうせガキだよ。俺は軍人だったかもわかんねえしー」
「ああ、おまえの正体も相変わらず謎のままか」
「相変わらず何の進展もねえですよー」
 ぐてんと投げ出されたカリウの腕を、今度はラオが拾ってまじまじと見やった。
「こうして見るとやっぱ、おまえさんも白人って色じゃねえよな」
「この髪で肌の色をどうこう言ってもなあ……」
 鮮やかな赤い髪は通常ならコーカソイド系の中でもひときわ青白い肌とセットになる色だ。地球上ではヨーロッパの北方に見られた。しかし肌は言われたとおり、ラオに近いモンゴロイド系の黄色がかった色だった。
 B.B.の容姿は原則的に肉体を精密スキャンした情報を忠実に再現している。虹彩の色は、本来の肉体とB.B.が見た目で区別できないことで逆に精神に失調を来すケースもあることから自由な変更が認められているが、髪の色や顔立ちはそっくりそのままだ。
 しかし例外はどこにでもあるもので、あえて本来の容姿を再現せずに整形することもあるらしい。
 カリウのB.B.がどちらなのかは不明だが、この特異なカラーリングは人為的にデザインされたものだろうというのが大方の予測だった。B.B.と生身の差異が大きければ大きいほど特例が認められる立場にあったことになり、カリウが一般軍人ではなかった可能性も高くなるが、結局それだけでは何もわかっていないのと変わらないので、エルマも改めてカリウに言うべき事柄とは思っていなかったらしい。
 メンテナンスセンターからの帰り道、迎えにきてくれたエルマのその話に、カリウは途方に暮れたのをよく覚えている。自分は本当に脳天気だったとつくづく思ったのだ。説明されて初めて、自分の今の容姿が人種的に異彩で不自然だと気づいた。
「俺の生身もこうとは限らねえぜ?」
 あの時から、カリウは自分の姿形が信じられなくなった。
 作り物の身体の作り物の容貌。何が本当で何が偽りかもわからない。
「そりゃそうだけどよ、染めりゃいい髪やカラコン入れられる目と違って、肌は日焼けくらいしか変わらねえだろ、生身だと。だからつい、そういう風に思っちまう」
 苦笑まじりのその言葉にふと、ラオがリンにことさら弱いのも彼女が女の子だからというだけでなく、案外そんな理由もあるのだろうかと思った。
 少女の肌は室内にこもりっきりだった生身の時代そのままに生っ白いが、コーカソイド系の肌の白さとは微妙に異なっている。それに名前でも察しはつけられる。ファミリーネームは親から受け継ぐものだ。
「そういうもんなのかね」
 記憶がないカリウは、人種でも国籍でも民族でも出身地でも生まれ育ちでも昔の職業でも、どこにも帰属意識を持つことがかなわない。地球人であること、今ブレイドであること、エルマのチームに所属していること、信じられるのはそれだけだ。
 その意味では、カリウの身元を引き受けたのがあの超然としているエルマだったのは幸いといえるのだろう。
「昔のことを思い出したいと思うか?」
 そんな戸惑いを察したか、少し躊躇いがちにラオが言った。
「わっかんねえ。でもこのまま何も思い出せなくても、自分がどこの誰だったのかくらいは一応知っておきてえかな」
 カリウの身元に繋がる手掛かりは今のところ何も見つかっていない。結局NLAに集まった生存者の中には、記憶を失う前のカリウを知る者はいなかった。異星人の追撃部隊との戦闘とその後の白鯨不時着で多くのクルーが失われていたため、仕方のないことでもあった。白鯨の搭乗者リストもブリッジもろとも焼失している。今のNLAにあるのは不時着後に作成された生存者名簿だけだ。だが搭乗者リストはセントラルライフのデータベースにも独立して記録されているということで、まだ完全に望みが絶たれたわけではない。
 なによりセントラルライフには、コールドスリープされた本体があるはずなのだ。
 本物の、生きている身体が。
「だいたいさ、生身が別にあるってのに、こんなに何も思い出せねえなんておかしくねえ? 案外、本物の俺の記憶がぶっ飛んでんじゃねえの」
 喉の奥でくつくつと笑うカリウに、ラオが目を眇めた。
「笑い事かよ」
「だってよ」
 引きつった笑いがこみ上げる。何かの代わりに。
「生身の俺には記憶があるんだったら、じゃあ今の俺は何なんだ」
 これは泣き言だ。言ってしまってからカリウは後悔した。
 機械の身体でもアルコールは思考を酔わせる。B.B.はそういう風に造られている。だからこれは酒のせいだ。たぶんこれが泣きたいような気持ちだ。
 記憶がなくても何とかなっている、だから大丈夫、平気だと思っていたことが、本当はそんなに簡単ではなかった。それがこんなにも重たいなんて知らなかった。知りたくなんかなかった。
 重たい。のろのろとテーブルに突っ伏したカリウの、背中がぽんぽんと軽く叩かれた。
「おい。酒抱えて寝るなよ」
「眠くない。――俺には記憶がないのに、もし今のB.B.が死んでもう一度ライフから造り直されたら、それが同じ俺だってどうして信じられる」
 呻くように言いながらカリウは、するりと指からグラスが抜き取られていく感覚に、突っ伏したままラオの方に目を向ける。離して置かれたグラスに浮いた水滴が、つうと滑り落ちるのが見えた。
 泣きたいような気持ちだ。頭の奥がじんと熱を持ったような。
「なあカリウ。自分が人間じゃねえと知ったとき、おまえはどんな気分だった」
 ぼんやりとした頭に聞こえたラオの声は、切実にすら感じられた。どうしてか。
「ああ俺は空っぽなんだ、って思った」
 だから正直に答えてやったのに、それを聞いたラオがまるで自分が痛いような顔で眉根を寄せたので、カリウは口の端に色濃い自嘲を滲ませた。
 なんて酷い有様だ。
「俺は自分が何者かわからない。カリウって名前も唯一覚えてたってだけで、本当に俺の名前なのかもわからない。生身の、本当の俺がこんな姿をしてる保証もない。俺は俺の存在を証明できるものなんて何も持っちゃいない。だから空っぽ」
 並べ立てる、自分の声がひどく冷たかった。
 ラオに哀れまれているのか、それともカリウが哀れんでいるのか、どちらにせよ酷い有様だ。どうしようもないほどに。
 本当に、どうしようもなかった。
「でもライフには本物の俺がいるんだ。正直目が覚めたばかりの頃より、今の方が怖ぇよ。眠ってる本物の俺と、記憶を失くしてる今の俺は同じ存在なのか? 本物の俺が目覚めたとき、今の俺はどうなっちまうんだ?」
「……カリウ、」
 ひどく苦い顔で口を開きかけたラオが、しかし結局何も言わず唇を固く引き結ぶ。その代わりに、撫でるようにカリウの頭に触れてきた。
 幼い子供をあやすような、ひどく慣れた手だった。
 ――無性に泣きたいような気持ちだった。
 だって。
「ラオが生きるの苦しいのは俺にだって見てりゃわかる。でも俺はどっか羨ましいと思ってる。それだけ愛してるものがある、だからラオはラオなんだろ」
 薄闇の中で見上げた男の顔は、今にも泣き出しそうだと思うくらいに歪んでいた。




*   *   *




 テーブルに突っ伏したまま静かになった酔っ払いは、そのまま意識を手放したようだった。
 ラオが赤毛の頭を軽く小突いても、返ってくるのはささやかな寝息だけだ。普段ならばこの程度の酒量で潰れることもないし、B.B.の急性アルコール中毒など聞いたことがないので、どうせ気疲れだろう。
 念のために覗き込んだ寝顔はすっかり緩かった。おかげでいつにも増してガキっぽい顔だった。そういう顔立ちなのだ。ラオも若く見られやすいので無精髭で抵抗しているが、この青年ももう一回り歳をとったら仲間入りするに違いない。そんな日が来るとしたらだが。
 二本目の酒瓶は残りわずか。飲みきってしまえと自分のグラスに注ぐ。
 時計を見やれば、深夜と呼ばれる時間にさしかかった頃。思っていたより早いお開きだったが、たとえ夜中に目を覚ましたとしても見知らぬ場所でもあるまいし、このまま転がしておいても問題はなさそうだ。
 さんざんぶちまけて少しは気が楽になったなら、これでお役目は果たしたことになる。
 少し前まで何も知らなかったこの青年に、ラオが懐かれている方だというのは今さらエルマに言われるまでもなく自覚していた。物事の飲み込みも早く順応力も器用さもあるが、記憶喪失のせいか世慣れないところがあって、つい構ってやったら気に入られた。
 カリウの、あのエルマを介して始まった堅物中心の交友関係の中でラオは素行不良の部類に入るはずで、悪友にはちょうど良かったのだろう。ダグは説教くさいし、グインでは足りないのもわからなくもない。
 そうしてラオにくっついて一通り酒を覚えてからは、よそで友人を増やしてくるようになった。妙にクセ者揃いなのが少し気になったが、それを言うとカリウには類友と指を突きつけられたので考えるだけ無駄だと思っている。
 外見そのままと受け取れば年齢差はそこそこあるが、相応にガキっぽく賑やかかと思えば、ひどく静かに達観した透徹した眼差しを見せることもある、ラオにとってもなかなかに面白い友人だった。今夜のような泣き言に溺れるほど弱った姿はラオも初めて見たが、それでも感情的になるだけではなくどこか冷徹に見ているのが、ある意味この男のタチが悪いところかもしれない。
 本当に言いたい放題言ってくれたものだが。
「空っぽ、か」
 正反対だが同じだと思った。
 カリウが恐怖している本物など、もうどこにも存在しない。そんなものは誰にも存在しない。
 ラオは左薬指に刻まれた指輪の痕を見つめた。
 今ここにいる自分は何だ。本物はとっくに死んでしまっているのに、セントラルライフにあるコンピュータが取り込んだ人格と記憶のデータを基にそれらしく振る舞わせているだけの、滑稽な機械人形だ。
 自分のものだと思っていたものは何もかも、地球で死んだ本物のものだった。カリウが羨んだラオの家族の記憶すら、機械で写し取られたコピーでしかない。
 愛情も悲しみも。
 本物などどこにも存在しない。すべての命はまやかし、機械仕掛けの亡霊だ。
 そんな残酷な真実を教えてやったら、この男は安堵するのだろうか、それとも絶望するのだろうか。
 そもそも信じるだろうか。
「──へっ」
 喉が引きつったような自嘲がこぼれる。
 信じてほしいのだろうか。自分は。
 地球種汎移民計画と白鯨の真実をラオに明かしたのは、セントラルライフの保守スタッフの一人だった。妻子の死に鬱ぎ込むラオを哀れんで、彼なりに善かれと思ってのことだったらしいが、その言葉は救いにはなり得なかった。
 絶望の底は本当は二重底になっていて、さらなる底があったなどと知りたくなかった。
 何も知らなければよかった。
 最初から何もなければ、すべて奪われたとも、すべて失ったとも、思いはしなかっただろうに。




 いくら年上ぶったところで、この年下の友人に本当の意味で掛けてやれる言葉などラオは一つも持ち合わせていない。
 救われたいと思っているのは自分も同じだった。







ring around a roses,







5章のB.B発覚時、主人公がまともな人間だとは1ミリも思ってなかったので機械の身体は「やっぱりね!」だったんですが、その次の瞬間それが当然として応急処置に走るリンに愕然とし、エルマさんに言われてみんな機械だったんだと理解して呆然とした思い出。
主人公の記憶があまりにも戻る気配がないのでこのまま生身取り戻したらどうなるんだろうとビクビクしながら12章クリアしたら、実はコールドスリープされてる生身なんて無かった!に愕然とし、それどころか白鯨サーバー(※ゼーガペイン的表現)とっくに壊れてた!に呆然とした思い出。
落ち着いてきてから改めて考えてみると、これかなり恐ろしい話だも?と思えてきたのでこんな話になりました。

実はこの話は11章クリア後にED後想定でプロット作り始めてたんですが、寄り道しまくった後に12章クリアしたらまさかのラオさん未帰還で話が成り立たなくなったので没にして、だったらと5章直後で作り直したらこの時点ではラオさんの家族の話が出来ないと気づいて、今の形に再度作り直した代物です。二度の大改造で話の筋が歪んでる部分があったらすみません。

ちなみに個人的には主人公とイエルヴは同類とは思ってないです。あの相棒のパーツを集める旅はイエルヴの情操教育の一環だと感じたので…だからエレオノーラがいろいろ手を回してたんだろそうなんだろ。イエルヴも後日セントラルライフが見つかれば相棒も復活できるという認識まで進んでいたし。
あと主人公がエレオノーラから呼び捨てにされた覚えがない。

リンの名前ですが、ファーストネームのリンリーは英語系(イギリス系?)でファミリーネームのクーが中国系だと思ってます。
フルネーム判明してるキャラがあまりに少なすぎてもどかしい。

以下、ラオさんに同情的な語り。
家族置き去り問題がラオさんだけではないのはわかるんだけど、既に独立してる親兄弟や親元を離れた子供は一人前なので、個々人で選別されても致し方なしな面はわからなくもない。でも移民なのに子育て世代の若い夫婦から妻子切り捨てというのは、その人の未来の否定ではないだろうか。もし新天地で開拓一段落したら、政府に切り捨てられた妻子のことは忘れて新しい家族つくってね!なのか。忘れられないなら死ぬまで労働力してね!なのか。軍人なんてそんなもんなのか。
家族同伴の可能性ちらつかせて釣っておいて実際は人間扱いしてなさそうで気持ち悪かったので、ラオさんの復讐がグロウスよりまず『選別した側』に向いたのも、そんなにおかしいとは思わなかった。
地球人の生物としての種の存続はエルマさん正論なんだけど正しさが救いになるとは限らなくて、ラオさん個人の主観では搭乗権を巡って自分の家族も人生も否定されて、データ化で自分が人間であることも否定されて、汎移民計画と地球人には二重に裏切られ否定されているわけで。
そんで結局は人間の尊厳の問題なので、本人の気持ちというか「肯定された」という認識一つでひっくり返るのもわかる。