hepatica




雪の下のい花




 つとホームのドアが開く音がして、キッチンにいたカリウは顔を上げて怪訝に目を眇めた。
 この部屋の住人はカリウを含め四人、その誰もがこの時間に戻ってくる予定はない。プランター越しに身を乗り出して廊下を覗くと、そこにはこのホームに帰ってくるのが当然な、だが今はNLAにいないはずの青白い人影がそこにはあった。エルマ。
「おかえり。早かったな?」
「……ただいま」
 エルマの力なく落ちた肩はいつになく心細げで、答える声も俯いた表情もひどく暗かった。
 ただ事とは思えなかった。エルマを中心としたテスタメントの特別チームは、セントラルライフの調査でまだ数日は戻らない予定だった。それがもう帰還している。調査が中断あるいは中止されている。
 カリウはキッチンに戻ると少し考えてから冷蔵庫に手を伸ばした。目的の物はすぐに見つかったので、小鍋で火に掛ける。
「あなただけなの?」
「リンは試験場、タツはバザー。夕飯の買い物はしてくると言っていたから、たぶん二人とも夕方まで帰ってこない」
「そう……」
 今ここに子供たちはいない。その意味を理解したらしいエルマは、とぼとぼとした足取りでリビングに入ると、手前のソファへ落ちるように座り込んだ。そのまま背もたれにぐったりと頭まで預けて、ぼんやりと天井を見ている。
 その青ざめた横顔には、色濃い憔悴の影が落ちていた。
 それを横目で見ながらカリウは適度に温まったミルクをマグカップに移すと、蜂蜜を少し垂らしてかき混ぜた。彼女の好みの甘さなら知っている。それを持って近づくと、緩慢な動きでエルマが目だけで振り向いた。そこに困った色が浮かんでいるのは、何と説明しようか考えあぐねているのだろうか。
「ひっでぇツラ」
 だから苦笑いを浮かべてカリウは彼女にマグカップを手渡すと、その隣で、ソファの背もたれに逆から腰掛ける。身体が触れるほど近くもないが、ささやく声を拾えるほどには近い。
「今のうちに少し寝ておいた方が良いんじゃないか。もとからこんな顔色だと言い張っても無駄だぞ」
 セントラルライフをコントロールする都合上、今のエルマは生身のままだ。B.B.ほど無理は押し通せない。
「……ありがとう」
 甘い。カップに口を付けたエルマがほうと息を吐いた。
「キッチンで何かしていたの?」
 わざわざエプロンをしているのだからホットミルクのためだけにキッチンにいたわけではないのは一目瞭然だ。
「それはまだ教えられません」
「じゃあ楽しみにしておくわ。あなたの作ったお菓子、美味しいもの」
 エルマが微笑んだ。少しだけ。
「おう」
 空になったカップをテーブルにこつんと置いて、エルマはもう一度深く息を吐く。
「ねえ。言わなければならないことがあるの」
 彼女の声に、少しだけ、意志の強さが戻った。
「何だ?」
「ごめんなさい。まだ詳しくは言えないのだけど、あなたの身元、しばらく調べるのは無理みたい」
 セントラルライフにはコールドスリープしている地球人の肉体など存在していなかった。地球人類の人格と記憶はすべてデータ化され、それを収めた巨大サーバーが白鯨によって運ばれていたのだ。
 つまり今のカリウの記憶障害は、記憶データの問題の可能性が高い。
 それが単なるアクセス不良に類する問題であれば、あるいは肉体を復元すれば記憶も戻るかもしれない。またB.B.のままでも、ある日唐突に記憶が戻らないと決まったわけでもない。
 しかしスキャンされたデータそのものが損傷していたら、記憶の回復は絶望的だ。ライフの開発中にも事故で記憶の欠落や人格の変容が発生した事例はあったというが、オリジナルが失われている今、データの破損は取り返しがつかない。
 改めて自分の置かれている状態を説明された際に、ライフにあるはずの人格記憶データがどういった状態であるにせよ、本来の自分の身の上は知っておきたいというカリウの希望はエルマやヴァンダム、ナギにも通っている。
 だからこれは。
「そっか」
 やはりセントラルライフで何かトラブルがあったのだ。しかもエルマがここまで打ちのめされるような、地球人類の復元に大きな障害が生じるような、重大な何かが。
 そしてそれは既に箝口令が敷かれていることだろう。だからエルマも直截的には何があったか言わない。セントラルライフに同行しておけばよかったかとカリウはちらりと思う。ラーラ・ナーラと約束があったので留守番を選んだが、テスタメントの一員としてエルマの部下としてカリウも希望すれば参加は可能だった。しかし今さら悔やんだところで詮無いことだ。
 カリウは一つ嘆息を落として、努めて普通に、言葉を続ける。
「それはエルマが謝ることなのか? もともと何千万ってデータから、名前すら不確かな俺を見つけようってのが結構無謀じゃねえか。他に優先すべきことは山ほどあるし、超長期戦は端から覚悟の上だぜ」
 本名かも定かではないカリウという名前も、手が加えられているB.B.の外見も、手がかりではあるが大して絞り込めるものではない。一応はナギの推測した日系の線から当たることになるだろうが、それに当てはまるのは途方もない人数だ。
「もう一つあるの」
 こちらが本題だ。彼女の声音の重たさにカリウは察しを付けた。
「みんなの前にラオを引っ立ててくると約束したのに、どうなるか私にもわからなくなった」
 ごめんなさい。彼女らしからぬ、途方に暮れたような声だった。
「……そっか」
 エルマの出発前にかわしたあの約束は半分冗談のような会話から出たものだった。ダグだけ抜け駆けはずるい、みんなでラオを一発ずつ殴って落とし前を付けよう、それからみんなでラオにつきあって頭を下げて回ろう、そんなことを言い合った。でも約束だった。
「でもね、ラオだから駄目というわけではなくて、」
「わかってるよ」
 カリウは思わず苦笑した。
「あいつの処遇に関しちゃエルマより俺の方が詳しいかもしれないぜ」
 あの若さで政府に妻子を切り捨てられたラオの境遇に、ブレイド内でも同情的な空気は少なからずあった。
 ラオとルクザールとウィータを飲み込んだ原形質溶液から発生した最後の怪物に関しては現在一切非公開であり、情報公開されているのがセントラルライフを破壊しようとしたルクザールを割って入ったラオが制止したところまでということもあるだろうが、その行為が償いの一つと受け止められている向きがある。
 もともと政治家を始めとした名士や資産家、各種有力企業に所属する民間人、白鯨の航行や入植先の開発に求められる特殊技能や専門知識を有する研究者技術者とは異なり、一般の軍人では家族の帯同がかなわなかったケースが多いとは言われていたことだ。
 白鯨はアメリカの移民船ではあるが、搭乗した軍人はアジアやロシア、中東、アフリカ系の人間も半数以上を占めている。ラオのような若い夫婦や未成年の子供であっても一切考慮されなかったケースは、実際そういった軍人に集中していた。これまでは私的な身の上話の枠に押しとどめられていたので、ラオの裏切り発覚以降の調査でようやく、人種や国籍でも有意差があったと公式に認められたことになる。
 ――移民船のクルーに選ばれたといっても、開拓の労働力や戦力として必要とされただけで、我々の血が新天地に根づくことまでは望まれていないのでしょう。
 達観した目でそんな風に言われてしまったわと、くだんの調査をとりまとめたコンパニオン所属の"彼女"は物憂げに話していた。
 そうやって将来を否定された苦しみを飲み込んできた人たちがいる。ラオもあるいは、セントラルライフの真実を知ってしまったから飲み込みきれなくなってしまったのかもしれない。
 このミラで多種多様な異星人と共存し、グロウスという共通の外敵が瓦解した今、地球人の間で人種国籍問題が不信や分裂を引き起こす事態は避けたいと暫定自治政府でも考えられている。ラオの問題すべてを彼個人に押しつけて片付けるには、現在B.B.で活動中の地球人は数が少なすぎ、そして偏っている。
 だからおそらく、ラオ個人が否定されたのではないのだろう。
 それに政府上層部は生前の接触のみならずルクザールの記憶にも直に触れたらしい、ラオの持つ貴重な情報も欲しがっている。大義名分ならばいくらでも付けられるはずだ。
「それでリンと、あとダグにはどう伝える、俺は同席した方がいいか?」
 ラオに憧れめいたものを抱いていた節のあるリンは、空元気で誤魔化しているがときどき何かを思い詰めたように考え込んでいる。今回のエルマの言葉をどう受け取るか危うくもあった。
 結果的にだがエルマとリンには何の後腐れもない。だがオ・ラ・シームでラオを撃つ撃たせないと言い争ったときのように、エルマでも感情的になることはあるし、意固地になったリンは納得するまで一歩も引かない。
「そうね……お願いしてもいいかしら」
「おう。ダグの方は明後日まで遠征だからその後だな」
「わかったわ。でも同席を頼んでおいてなんだけど、別にあなたが私の側に立つ必要はないのよ。気を持たせるようなことを言っておいてこのありさまだもの、何を言われても仕方ないわ」
 エルマが伏し目がちに微笑む。それがあまりに弱々しくて、見慣れなくて、だからつい、カリウは声に出して言ってしまった。
「そういう、自分はそっち側じゃないって態度やめたらいいんじゃねえの」
「え?」
 返ってきた困惑に、カリウは思わずがしがしと頭を掻く。ああ踏み込んだ。踏み込んでしまった。
「これは俺の勝手な見立てだがな。エルマのそういうところ、たぶんリンは拒絶っつうか、距離を感じてる。だから食ってかかるんだろうさ」
「だって、現実に私とあなたたちは違うでしょう」
 エルマにとってそれは自明のことなのだろう。きっと地球に来てから三十年あまり、そうやって生きてきた。
 誰よりもエルマ本人が、自分自身を他所者扱いしている。
 けれど。
「だからって全部が他人事でもないだろ。そりゃ俺もラオを一発殴る日が待ち遠しいけどよ。エルマにも個人的に、誰かそういうヤツがいるんじゃねえのかよ」
「私、にも……?」
 思いも寄らなかったとばかりに、エルマが目を瞠る。
「そう、もう一度会いたいヤツ」
 そしてその誰かとは、エルマやナギが垣間見せる空白に、かつて立っていたのだろうと思っていた。
 エルマがミラ不時着以前に駆っていたという二人乗りのドールで、パートナーを務めていたのも。野暮な詮索は控えていたが、あの堅物すぎるエルマを休日のドライブに連れ出し、クラシックカーについて熱く語ったというのも、あるいは。
 だからエルマはあんなにも生き急いでいたのだと思っていた。
 時に極端にも思えるほどの彼女の合理主義は、汎移民計画を成功させなければいけないという強迫観念じみた使命感に突き動かされた、どこか肩肘張ったものだったので。
「……あれ、違ったか?」
 あまりにもエルマが動かないので、カリウは表情を伺うように首を傾げる。と。
「いいえ、いいえ、あなたの言うとおりだわ。私、あの人に、どうしてあんなバカなことをしたのって、……どうして私だけ助けたのって、ずっと言いたかった」
 呆然とした面持ちのエルマが、どこか遠くを見つめて言葉を続ける。
「あんな風に自分を犠牲にしなくたって、私のアレスならきっと、二人とも助かる方法だってあったはず」
 そうして自分自身の言葉に驚いたように、痛々しいほどに身を震わせた。
「エルマ」
 泣き出すかと一瞬思った。そんなことはなかったけれど。
「いいえ――違う、彼の判断は正しかった、私がセントラルライフのコントロール権を持つ一人だから、あの人は自分のことより私の安全を優先したの、あの人は正しかった、人類を生き延びさせるために、何億もの命を切り捨てて、多くの人の尊厳を踏みにじってきたからには、私たちはそれだけの犠牲に報いなければならない義務がある」
 ただ堰を切ったように言葉をあふれさせたエルマは、それでも何かを押し込めるように深く深く項垂れ、膝の上で手をきつく握りしめた。
「だったら、せめて地球人が救われなきゃ……帳尻が合わないじゃない。ねえ、」
 彼女の声が途切れて、音もなく唇が震えた。
 その形はたぶん、誰かの名前だった。




 しばらくして顔を上げたエルマは、のろのろとカリウを振り返って微笑んだ。
「本当にごめんなさい。おかしなことを言ったわね。……私にはそんな資格、ないのに」
 泣いていないのに、その微笑みはまるで泣き笑いのようだった。そして。
「さっきのは忘れて」
 やわらかなものを削ぎ落とすような声でそう言い置いて、エルマは奥の寝室に姿を消した。
 その細い背中に、それはとても寂しくて悲しいことだと言いたかったが、今の彼女はそんな言葉を決して受け入れはしないだろうとも思った。
 だからカリウは何も言えなかった。
 せめて彼女の後を音もなく追いかけていった猫が少しでも慰めてくれればいいと願いながら、自分の足下にすり寄ってきて気遣わしげに見上げてくる犬に抱きついた。
 無性に、誰かに助けを求めたい気分だった。







Frozen Hepatica







前書きのとおり、ORアレスにエルマとタンデムしていた「英雄」と、エルマの言っていた車好きの「彼」と、ついでにナギの言っていた刀使いの「アイツ」はすべて同一人物で、地球人の青年のつもりで書いています。
妄想逞しくするなら、ナギさんの甥っ子とか兄弟子の息子とか師匠の孫とかのご縁で真エルマさん知ってて憧れて軍人になってドール乗りの才能発揮してパートナーの座をゲットする一方、プライベートでも使命一直線だった超堅物エルマさんを遊びに引っ張り回して最初に「よそ見」をさせた、元気少年が立派に成長したパワフル系だったりすると私が萌えます。

汎移民計画の人種国籍問題はかなり盛ってます。でも2周目やってると民間人の家族同伴が結構いてフクザツな気分です。それにラオさんに同情的なブレイド代表がミカとワンさんやん…二人とも名前がアジア系やん…
あと各地の探索員について、忘却の渓谷はアメリカ出身が多くて、夜光の森はアジア系が多くて、白樹&黒鋼がロシア・中東・アフリカ系が多いってのはゲーム内で言及あり。初期は元軍人が中心のはずで、出身でチーム固まる傾向はあったようだ。

以下、エルマさんについてのネタバレ語り。
序盤の自分がいなければ…的な発言や、エピローグのリンが生体兵器群側の文明にもさらっと触れた=生体兵器群のことは知ってたけどグロウス何それだったエルマさんは、三十年前までは生体兵器群の社会に浅く属していたのかなと勝手に思ってます。生体兵器群と対立するサマール星間連合のことは大枠は知ってるけど、その内部のパシリ組織なんていちいち知らないという感じで。
あとエルマさんがマクロ視点で地球人類や文化の存続に固執するのは、故郷が既に滅亡していて生き残りが他にいるとしても少数すぎて、技術は他所に受け継がれたけど文化は絶えてしまっているのかも、とか勝手に思ってます。自分が生まれ故郷の文化的アイデンティティ喪失してるから同様の危機に瀕してる地球に同情して介入したら、今ではむしろ地球人が拠り所になってる的な。

まああれだ、私の中じゃエルマさんの分類はシズノ先輩やテオーリアさんやヤンチャー王子と似たようなカテゴリらしいですよ!