人が死に逝く様を目の当たりにしたのは、これが初めてではなかった。
親指と人差し指で金の鎖をつまむように目の高さまで持ち上げれば、雫の形をした一組のイヤリングが、ゆらゆらと揺れた。テーブルに置かれたランプの炎を映して、薄紅に透き通った二つの石はきらきらと光る。
あの時の血の色が、血の匂いが、微かにでも残されていないかと思ったが、とうに洗い流されてしまっていて、綺麗に輝いていているだけで、あの時、赤黒く血濡れた手で渡されたことなど悪い夢のようでもあった。
それでも。
すっとシフォンは両の目を伏せる。
まだ、はっきりと記憶に刻まれている。脳裏に描き上げることが出来る。
たった数日前、暗い地下水路の奥で、彼女の最期を見取った。彼女から二つの涙を託された。
あふれ出る血を押し止めようとすることもやめて彼女は、自分の耳朶から震える指でこのイヤリングを外し、シフォンの手に握らせたのだ。
その時の彼女の手の、ぞっとするほどの冷たさも、まざまざと覚えている。
これが、死に逝く人の手なのだと。
否定の余地など一欠片も与えないほど明確に厳然に、目前に押し迫った彼女の死を、その冷たさによって思い知らされた。
サラディで迎えた夜、皆が寝静まった後で、わずかながら彼女と二人きりで言葉を交わす機会があった。彼女の声すら鮮明に思い起こせるのは、さほど日が経っていないからだろうか。それとも彼女の存在が、その残す印象が、強いからだろうか。
「あなたは、あなたの見たものから、あなたの感じたものから、目を背けることは出来ないのよ。それをするのは、あまりにも罪深いことだから」
テラスの柵に重ねるように置いていたシフォンの両手が、彼女の手に取られたのは、そう言われた時だった。彼女が帝国貴族だったということは、その家名が示している。優秀な軍師を輩出する家として名高いシルバーバーグ家は、シフォンも聞き知っていた。彼女の手は長年ナイフを扱っているクレオなどとは違って、やわらかな滑らかさと皮が厚くなった硬さとが混在していた。そのアンバランスさが、道中で交わした、弓はフリックと出会ってからまともに修得できたという話を思い出させた。
かつては花や書物を愛でていただろう繊細な指で、今は武骨な弓に矢をつがえている。自分と、誰かの赤黒い血で汚している。彼女は己で選んだ道を、必死で歩んでいる。
彼女の手の温かさと感触が、彼女の生を教えてくれた。
それが。
――あんなに温かだった手が、こんなにも冷たくなってしまう、それが死なのだと。
もう永遠に取り戻せない、命の熱が消えていってしまったのだと。
彼女の手が、思い知らせた。
それでも、この死は、この人の死は、それまで見てきた死とは、まったく違うものだった。
そう、何もかもが、まったく違っていたのだ。
この冷たさは、違う。
「ここを開けろ! 開けるんだっ!!」
この重たく閉ざされた、扉の冷たさは。
「開けろ! グレミオ!!」
ありったけの力で殴りつけても、開かない、この扉の冷たさは。
「開けろ……!! ――開けて!!」
ただ、向こう側から聞こえる、優しい声が消えていく。
「お願い、だから、開けて……っ」
ただ、それだけだったのだ。
こんな死は、知らない。
帝国の凶刃に斃れ、彼女の命が消えた瞬間を、フリックは見ていない。その亡骸に縋ることもかなわず、ただ彼女の死を伝える言葉と、彼女の不在という事実のみで突きつけられた。
どうしようもなく無力だった。彼女を守ることを剣に誓ったというのに。
何もかもが、どうしようもないほどに終わった後だったのだ。
その時に感じた深い絶望を、彼に対する激しい拒絶へと、まったくすり替えていなかったとは言いきれない。
解放軍の新しいリーダー。十三という成人を認められたばかりの若さで、帝国の大将軍テオ・マクドールの嫡子でありながら、約束された未来を捨てて人々のために立つことを選んだ少年。
――オデッサの遺志を託された、後継者。
だが、彼女のための涙を流し、深い後悔に嘆いた後、愛する彼女が託したという点だけを根拠に彼を認めてしまうべきではないと思った。彼のことは自分自身の意志で認めるべきであり、またそうでなければ、戦場で心からシフォンという存在に命を預けることなど出来るはずもない。
散り散りになっていた旧解放軍とも相次いで合流しただけでなく、大森林のパンヌ・ヤクタにて六将軍の一人クワンダを打ち破った末にその一軍を麾下に引き入れ、今の解放軍は急速に育ち始めているのだ。旧解放軍の生き残りをまとめている立場のフリックが、シフォンに対してオデッサの代役という意識を、わずかでも引きずるわけにはいかない。
誰よりもつけねばならない、けじめだった。志半ばで命を落としてしまった彼女のためにも、そして生き残った自分自身のためにも。
今回のクナン地方攻略で彼の傍らに付き従うことを望んだのは、そのためだった。
名軍師たるマッシュから教えを受けながらも決して飲み込まれたりせず、主従を確固たるものにしている様に、変声期を終えていなくとも堂に入った命令に、拒絶を声高に叫ぶばかりの頑なな感情は失せていった。
近しい者に時折見せる多少の子供じみた些事などは、まだ磨かれていない原石のようなものだと。後は時間がより素晴らしい輝きを放つ宝石へと、より優れた指導者へと完成させていくだろうという評価にも、彼女の素顔を思い出して苦笑を浮かべられるようになった。
もう少しだろうと思った、そんな時だったのだ。
「グレミオ、グレミオ!!」
幼い子供のように泣きわめきながら、シフォンが閉ざされた扉に両の手を叩きつけている。
帝国五将軍の一人ミルイヒが残していった人喰い胞子。
それ以外に逃げ場がなくて、戻るしかなかった扉のこちら側。
この扉の向こうへ、この扉を閉めるために一人残ったグレミオ。
この扉一枚隔てた向こう側で起きているのは、死だ。
守ると誓った人の生を守るために、自ら死ぬことを選んだ、彼の死だ。
「おい、シフォン!!」
突然上がったビクトールの慌てた声に、フリックもはたと現実に立ち戻る。
歯止めの利かない激情に任せて鉄製の頑強な扉を叩き続けていたら、どうなるか。
「もうやめろ、手が!」
口で言っても聞くはずもないので扉から引き離そうとするものの、まだ少年とはいえ暴発した感情の力も手伝って、動揺を抱えたビクトール一人では完全にはシフォンを押さえられず、
「フリック!」
「あ、ああ」
フリックがシフォンの正面から両手首を掴んで扉から無理矢理引きずり離し、力が浮いたその隙にビクトールが後ろから羽交い締めにした。身長差の分で完全に足を浮かせているので、このまま手が潰れることは避けられた。
「グレミオ……!!」
だが、それでもなお必死に手を伸ばし、彼の名を叫び続ける姿はひどく痛ましかった。
扉の向こうから聞こえる、声はもう途絶えていた。
泣くというのは、存外に力を使う。
しばらく続いていた嗚咽が掠れてきた頃には、座り込んだビクトールに抱えられたまま完全に虚脱しきっていて、まるで人形か何かのように、ぐったりと項垂れていた。
ずっと、誰も、何も言わなかった。
閉ざされたままの扉が、開かれなければ本当の意味で助かったことにはならない。人喰い胞子からは逃れられたが、閉じこめられていることも確かなのだ。
だが、と。汚れた石の壁に背を預けながらフリックは思う。
扉が開かれた向こうには、いったい何があるのか。
グレミオの無惨な亡骸なのか。それとも、亡骸すら残されていないのか。
そして、シフォンは。
重苦しい凍りついたような沈黙が降りてから果たしてどれだけの時間が経った頃だろうか、金属の軋む耳障りな音がして、細く光が射し込んだのは。
それと共に、生臭い空気が流れ込んでくる。
眩しさに目を細めながら、血臭にも似た異臭に吐き気を覚えながら、立ち上がったフリックは開かれていく扉の前で、念のために剣の柄に手をかけた。と。
「ああ、シフォン殿、皆さん!」
「シフォン様!!」
扉のすぐ向こう側にいたマッシュと、扉の開閉装置を操っていたパーンが、安堵の声を上げる。
「どうして」
「ここの様子がおかしいとの報告がありましたので、一軍を率いて参ったのですが……やはり何かおありだったようですね」
フリックの問いに、シフォンの様子に目を留め、またグレミオの姿が見えないことに気がついてか、マッシュが言葉の後半で声を潜めた。パーンも察しはついたのだろう、厳しい表情で押し黙っている。
「まずはここを出よう。今は、こいつを休ませることが先決だ」
ゆっくりと首を横に振ったビクトールが、シフォンを抱えたまま立ち上がろうとした、その刹那。
「あ、おい」
突然するりとビクトールの太い腕をすり抜けると、誰かが止める間もなく、ふらつく足取りで扉の向こう側にまろび出た。
「――っ」
引きつれた息を飲み込みながらシフォンは、若草色の前で膝をつく。ぬらりと濡れたグレミオのマントを、きつくきつく握り締めて。
「坊っちゃん……」
悲痛な面持ちのクレオが、その肩をそっと抱いた。そのまま支えるようにして、シフォンを立ち上がらせる。彼の手から、マントの裾が滑り落ちた。
クレオの反対側にパーンも寄り添うと、小さく頷いたマッシュと共に、促されるまま外に向かって歩き出す。
シフォンは、一度も振り返らなかった。
「なあ、――おい、ビクトール?」
その背を見送ったフリックが、たまらず振り返った先では、ビクトールがグレミオのマントを見つめて立ち尽くしていた。
「あいつ、扉を閉めるときに微笑ってやがったな」
何処からか、ぴちゃんと水滴の落ちる音が聞こえる。
「……ああ、そうだな」
薄暗く湿った空気を、ひどく寒いと感じた。
「あんなことになっちまうなんて、ね……」
最上階に通じる階段に座り込んだクレオが、独り言つように口を開いた。
「戦争やってる以上、死は付き物だろうけどさ、それでも……あんなの、惨すぎるよ」
黙って首肯するパーンの、握り締められた拳の戦慄きは、憤りか、やるせなさか。
「くそっ、やっぱり残していってりゃこんなことには」
「そうしたら、誰か別の人が死んでいたよ」
吐き捨てるようなビクトールの言葉に、不意に違う声が重なった。
「シフォン……」
いったい、いつからいたのだろう。
斜陽が入り込む踊り場の上から、赤黒い逆光の中、シフォンが静かに佇んでいた。
「どう、したんだ?」
完全に絶句してしまった他を押しのけてフリックが問いかける。城に戻ってすぐに、最上階の自室でクレオたちに寝かしつけられてから、まだ何時間も経っていない。
「マッシュは、何処に?」
ゆっくりとした歩調で階段を下りてくるシフォンに、クレオたちが慌てて道を開けた。そうして灯りの届く範囲に入った彼の顔を、フリックはそっと伺う。瞼こそ腫れていないものの、傷悴しきった顔色は疲労が色濃く影を落としていて、お世辞にも良いとは言えなかったが、ただ。
「マッシュ殿なら、さっき下に降りていくのを見たぜ。用があるんなら、一緒に探すが?」
ただ、その黒い双眸が。
「頼むよ」
「ああ」
フリックは自分の前をシフォンが通り抜けるのを待ってから、次の階段へと踵を返す。すぐ後ろに従いながら、ささやくように言葉を綴った。
「オデッサがおまえに託そうと思った理由、わかったような気がする」
立ち止まったシフォンが、大きく目を見張って振り返る。その目を真っ直ぐに見据えて、
「オデッサと、あいつの信頼を裏切ってやるなよ。シフォン」
そうして、フリックは出来損ないの苦笑いを浮かべた。