Seirios




2. 愛のかけらを残して







 たとえば。
 もしも、あの時、無理にでも押し切っていたならば。




 ――あの時、代わりに死んでいたのは、誰だっただろうか。




 ガランでの言葉通りに、グレミオはその命を懸けてシフォンを守り、死んだ。
 いつかはこうなってしまうことを、予感していたかもしれない。それでも、シフォンが命を落とす可能性を少しでも無くす、そのために。
 だとすれば、もしもあの時、自分が折れなければ、グレミオのように譲らず押し切れば、オデッサは死ななかっただろうか。
 トラン湖に映る月は、ただ彼の視界に入っているだけだった。
 無意識のうちに彼女の名を冠した剣の柄に手を添えていることにふと気づいて、フリックは自嘲を滲ませると、無意味な問いと共に手放した。
 無意味だ。現実に、今、オデッサという存在は、もうこの世の何処にもいないのだから。
 もう、喪われてしまったのだから。
 もう、二度と戻らないのだから。
 だから、こんな馬鹿げた問いに答えなど存在しない。
 オデッサの死を知らされ城を飛び出し、泣き明かした夜が明けて、空が白み始めた頃、彼女のために今の自分は何が出来るかを考えた。
 そうして誓ったからこそ、今ここにいる。
 彼女が生きた証を、彼女の望みを願いを実現することを。
 それがきっと、彼女の心を生かすことにも繋がる。
 かつて婚約者を喪った彼女が、誓ったように。
 だが、喪った痛みは今も変わらない。
 涙と共に、悲しみも苦しみも流れることはない。
 遺された者は、この痛みを抱いたまま、ずっとずっと生き続けなければならないのだから。
 そのことを、知っている。




 白い光に、目が覚める。
 何かを探しかけて、何を探そうとしたのかを思い出せなかった。
 頭痛にも似た、気怠さが重くのしかかっている。
 扉は閉ざされていた。
 夢の中で、水の落ちる音がしていたことだけ、思い出した。




「この男に、罪はない」
 跪くミルイヒの前に立つと、静かに、だがはっきりと、シフォンが言い放った。
 クレオやパーン、ビクトールのようにグレミオの仇といきり立つこともなく、静かに。
 ウィンディの魔力に操られていた以上、確かにそうかもしれない。だが、それを容易に受け入れられるほど、許せるほど、人間の感情は器用ではない。だが。
「シフォン様! グレミオの仇を取るのではないのですか!?」
「そうです、許すわけには!!」
「ああ、俺も納得できねえ……!」
 三人がシフォンに詰め寄るよりも早く、フリックは自分の身体を割り込ませた。
「やめろよ」
「止めるんじゃねえ! 俺は」
 勢い胸ぐらに掴みかかられるが、その腕を掴み返すと、ゆっくり首を振った。
「やめるんだ、ビクトール。リーダーが決めたことだ。それに、従うんだ」
 そして、一言一言を噛みしめるように、言った。
「フリック、リーダーって、おまえ……」
 その言葉に含まれた意味を理解して、ビクトールは呆けたように呟く。
「さっさとその手を離せよ」
「あ、ああ、悪い」
 戦力として、大義名分として、ミルイヒとその軍を引き入れることは、確実に解放軍にとってはプラスとなる。それも確かなのだ。
 戦場は冷酷で、犠牲がいて当然で、私情ばかりを声高に叫んでいていい場所ではない。
 簡単には消えようのない怒りと憎しみを燻らせながら、それを飲み込んで、ビクトールたち三人ともが耐えるように視線を落とす。心の整理をつけるためもあるだろう、ミルイヒもいるここからは離れ、兵をまとめるために一足先に城内に戻っていった。
 それを見送ってからフリックは、兵士たちに毒の薔薇へ火をかける指示を出しているマッシュをの方を向いていた、シフォンの肩を叩く。
「大丈夫か」
「ありがとうって、言えばいいのかな」
 ぽつりぽつりと抑揚の欠けた声で、シフォンが言った。フリックと目を合わせるでなく、さながら視線を投げ捨てたような、茫漠とした曖昧な眼差しで。
「さあな。俺は当然のことをしただけだ。そんなことより」
 低い位置にある肩に置いていた手に力を込めて、振り向かせる。
「何?」
「――いや、その」
 しかし上手く言葉にならず言い淀むフリックに、シフォンはゆるりと微笑んだ。
 ひどく綺麗に形作られた、微笑み方で。
「ありがとう。心配してくれて」
 毒々しい薔薇を舐めつくす、赤々と輝く炎を映し込んだ漆黒は、何処までも冷たく凍てついていて、底をうかがい知ることは出来なかった。
 少しだけ、ぞっとする。




 このままでいいのか、と。
 単なる直感に過ぎないとはいえ、それでもフリックは確信していた。このままでは何か取り返しのつかないことになってしまいそうな、そんな予感があった。
 しかも今は、シフォンの父テオ・マクドールの軍を相手にしているのである。
 この一幕がどういう決着を迎えるかは、わからない。緒戦は初の負け戦を喫したが、今のこちらには火炎槍がある。今度も負けるとは限らないし、オデッサの形見とも言えるそれがあるのだから、必ず勝てると信じている。
 だが、結果がどうあれ、その経過がシフォンに大きな精神的苦痛を与えることになるのは、火を見るより明らかだ。
 何より。グレミオの死を乗り越えたとは、到底思えなかった。
 そこまで考えて、ふと気づく。
「少し前まで、あいつを毛嫌いしていたような気もするんだがな……」
 思わず苦笑が漏れた。
 だが、大切な存在を喪う辛さも苦しさも、フリックも嫌というほど思い知っている。だからこそ気になってしまうのだろう。傍にいるクレオの話では、シフォンはあれから泣くことすらしていないらしい。
 それは、あまりに危うい。
 しかし何をどうすればいいのかまではわからず、とうとう出陣の朝を迎えてしまったのだ。
 沈んだため息を吐き捨てて、階段に続く角を曲がると。
「おはようございます」
「あ、ああ」
 出会い頭にぶつかりそうになったにも関わらず、マッシュは眉一つ動かさず挨拶を寄越した。
「何でマッシュ殿がこんなところに? もうじき時間でしょう」
「レパンド殿たちには、もう下へ行っていただきました」
「は? どういうことですか」
 フリックが首を傾げると、マッシュは上へ向かう階段を指差して。
「すみませんが、シフォン殿の様子を見てきてもらえませんか?」
「俺がか?」
 他にもっと相応しい者がいるはずだと、言外に問い返すと、
「今のクレオ殿とパーン殿に、表面上はともかく、そこまでの余裕はないでしょう。それともビクトールの代わりに、私と一緒にそちらの二人の方へ行きますか?」
 二人は今ミルイヒ殿に預かっていただいていますがと続けられた瞬間、別館の屋上の一角に現れた、妙に華美な庭園がフリックの脳裏を過ぎり、思わず口の端が引きつった笑みを形作る。
「いや、それは、ちょっと……」
 クレオやパーンはグレッグミンスターにあるというミルイヒの屋敷を知っているようだし、マッシュもかつては帝国軍人だったためか、あれを見ても呆れた笑いを必死で噛み殺していただけだったが。
「では決まりですね」
「え、はあ……」
 押し切られ、頷きながらも躊躇いが残るフリックに、ふとマッシュは柔和な笑みを浮かべた。
「何も難しく考える必要はありませんよ。思うようにしてください。あなたは誤魔化したり偽ったり、しない人ですから。それが妹にとっても救いになっていたのだと、今ならわかります」
 だから他ならぬ、あなたにお任せしたいのです、と。
「買いかぶりすぎですよ。俺はもっと莫迦で、情けない人間です……」
 返す苦笑は自嘲じみるだけで、素直に受け取れる気分ではなかった。
 それでも、動かない理由にはならない。




 白い光に、目が覚める。
 何かを探しかけて、もう何もないことに気がついた。
 頭痛にも似た、気怠さが重くのしかかっている。
 扉は閉ざされていた。
 水の落ちる音がしていたことを、思い出した。
 もう、あの呼び声は聞けないのだ。
 二度と、聞けないのだ。




 最上階に続く階段を登り終えれば、後は一つ角を曲がれば目指す部屋の扉だった。
 曲がった途端、壁の高い位置にある窓から飛び込んでくる、真っ白い陽の光がひどく眩しくて、フリックは思わず手をかざす。そうして目を細めたまま廊下の先を見やると、光で薄く霞んだ視界に、紅い色彩が佇んでいた。
「リー、――っ」
 呼びかけようとして、だが気づいた瞬間に声は途切れた。
 シフォンは自室の扉のすぐ脇で、何もない壁を見つめたまま、立ちつくしていたのだ。
 あのスカーレティシアで見せたのにも似た、静かすぎるほどの眼差しで。
 言葉を失ったフリックが思わず立ち止まった時、いやに響いた足音で、ようやく気づいたシフォンがはっと顔を上げて振り向いた。
 そのまま立ちつくす姿に、何となく安堵を覚えたフリックは笑みを浮かべる。
 あれっきり感情の振幅をほとんど見せなくなったシフォンが、驚きを露わにしている。
「め、珍しいね?」
「そういえば、滅多になかったっけな」
 ふと天井の方に視線を彷徨わせて、フリックは答えた。
 わざわざここまで来るような用事など、ざらにあるものではない。実際シフォンの室内に入ったことがあるのは、クレオやパーン、歳が近いせいか仲がいいらしいルック、軍師であるマッシュの他には、せいぜいビクトールぐらいであろう。
 グレミオがいなくなった、今では。
「まあ、……おはよう。起きていたんなら、下りてこいよ。軍師殿も遅いって心配してたしな」
 言ってから、なんだか変だと痛切に感じた。笑みも、不自然に引きつってしまった気がした。
 案の定シフォンも、大きく目を見開いて。
「おい、リーダー?」
 何故か、愕然としていた。
「フリック」
「何だ?」
 黒い瞳は、ひどく揺れていた。
「前はさ……いつも、朝はグレミオがここに立っていて……僕が起きてくると、おはようございますって言ってくれたんだ……」
 哀しげな笑みは、愛おしむような、しかしひどく疲れたような、苦い苦い微笑みだった。
「よく眠れましたかって……いつも笑って、言ってくれてたんだ……」
 シフォンは誰もその前にはいなくなった壁に向き直ると、その壁に縋りつくように、ずるずると床にくずおれて。
「いつも、僕の傍にいてくれたんだ……」
 そのまま壁に額を押しつけると、深く項垂れるように顔を伏せた。
「そう、か」
 優しい日々は、今はもう、過去形でしか語れなくなってしまったのだ。
 その隣に片膝をついたフリックは、まだ小さな肩を抱くように腕を伸ばした。びくりと一度だけ震えが走ったことに気づいたが、構わず力を込める。
 そうだ。小さいのだ。
 女であるオデッサの肩も細かったが、シフォンは小さかった。この肩に、どれだけの重圧がのしかかっているのか。
 ずっと、ああやって誰もいなくなってしまった場所を、ただ見つめていたのだろうか。
 小さな身体は、朝の風に冷え切っていて、フリックは少し自分の方に引き寄せるとマントの中に包み込んだ。
「テッドは僕を逃がすために捕まって……グレミオも僕を守るって、死んじゃって……」
 しばらくは硬く身を強張らせていたシフォンから、するりと力が抜けていく。
「どんどん、なくなっていくんだ……」
「恐いか? 父親と戦うのが」
 そっと問うと、息を詰まらせて喉がひゅっと鳴った。
 そしてひどく緩慢に、機械的に、首を横に振る。
「恐がれよ。なあ、恐がっていいんだぞ、おまえは」
 いっそう頑なに首を振るシフォンを、床に座り込んだフリックは力任せに引き寄せた。くたりと倒れ込む小さな身体を、そのまま腕に抱き込んで。
 それでも、彼の顔は、見ない。
「否定するなよ。おまえは恐いんだよ、父親と戦って、父親と別れるのが」
 殺しあいを、するのが。
「でも、僕は」
 力なく反論しようとする引きつれた声は、隠しきれない湿り気を帯びている。
「恐いと思うのは、何も間違ってない。リーダーだろうが何だろうが、何も感じない奴の方がおかしいんだよ。だから、恐がっていいんだよ。戦うと覚悟しても恐いのは、おまえが大切な者を失う意味を知っている証だろう」
 フリックの肩の位置にある、深い緑色のバンダナが巻きつけられた頭をくしゃりと乱暴に撫でると、くぐもった嗚咽が漏れだした。
「大丈夫だよ……こっちにはもう二人も、帝国の将軍がいるじゃないか。おまえの父親だって、わかってくれるさ……」
 祈るような気持ちで、慰めが現実となってくれることを願った。






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