Seirios




3. 誰もいない丘







 知っている。
 あんなに温かだった手が、こんなにも冷たくなってしまう、それが死なのだと。
 消えていく熱は、もう永遠に取り戻せない、命なのだと。




 一騎打ちの果てに斃れた手は、急速に冷たくなっていった。
 シフォンとその選んだ道に祝福を告げるうちにも、側近の将に遺言を託すうちにも。
 冷たくなって、ゆく。
「父さん、父さん……!!」
 どんなに呼び続けていても、それで失われてゆく熱を、命を繋ぎ止めることは出来ない。
 知っている。それが、現実なのだ。
「――なないでっ!」
 それでも、今でも"死"という言葉が音にならなくて。
 音にしたら最後、それがすぐさま眼前の現実とすり替わってしまいそうな気がして。
 あまりにも、恐ろしくて。
「シフォン……我が、息子よ……」
 力の抜け落ちた大きな手が、冷たい手が、必死に握り返そうとする。
「私は、幸せだよ……我が子が……自分を超えてゆく瞬間を、見ることが出来るのは……父として、最高の、幸せだ……」
 必死に、最期の力で握り返して、
「……頑張れよ……シフォン……」
 するりと、抜け落ちた。
「父さん……?」
 眠るように閉ざされた瞼も、淡く笑みを刻んだ唇も、もう動かない。
 どんなに小さな子供のように首を振っても、どんなに拒絶しても、この現実を否定できない。
 知っている。知っているのだ。
 握り締めた亡骸から不思議な光が抜け出して、それが右手へと吸い込まれたことなど、見えてもいなかった。
 目の前も、頭の中も、たった一つのことだけしか見えない。
 両手で握り締めた、父の冷たい手には、もう一欠片の熱も残っていない。
 流れた血の生温さと、横たわった肉の冷たさと。
 この重さが、死なのだから。
 目の前にぽっかりと口を開けた、真っ暗な穴に優しく引き寄せられる。
 飲み込まれる瞬間に見えた、真っ赤な空は、ひどく寒かった。




 花を投げ捨てる。紅い紅い花を。




 吸血鬼を滅することが出来るという星辰剣を求めたクロン寺院の洞窟で、ソウルイーターがテッドへと受け継がれた顛末を、計らずともその目で見ることとなった。
 出会うよりも過去の親友に、すべてを失ったばかりの頃の親友に、今は何処にいるのかも生きているのかもわからない親友に、彼は何を思って再会を約したのか。
 過去に通じていた洞窟を、目線を落としたまま出口に向かって歩く彼は。
 父親の死に、泣いた様子はなかったらしい。祝宴を欠席し、ひたすら眠り続けて、次に目覚めたときに。
 ――また、なくしちゃった、と。
 呟いただけだった。遠くを見るような眼差しを落として、ひどく疲れた微笑を浮かべて。
 それは一種の、拒絶にも等しい静けさで。
 一行のしんがりに立っているフリックからは、今のシフォンの顔は伺えない。
 たとい見えたとして、いったい、そこに何が浮かんでいるという。あの朝のような、心が揺れた素振りを見せることもなくなった。過去に飛ばされたときすら、外に出した動揺が大きかったのはクレオの方だった。
 いつだったか、シフォンの心が見えなくなったと呟いた、クレオの気持ちはもっと深いのだろう。家族である彼女でさえそうなのに、いったい自分に何が出来るという。
 そんな念が頭の片隅に巣くっていながら、それでも目を離せないのも事実なのだが。
 結局はそこに辿り着く堂々巡りの思考に胸中で嘆息したところで、フリックは腰に佩いていた剣の柄に手を伸ばした。
「団体さんのお出ましかい、面倒なこって」
「ああ、厄介だ」
 すかさず前に出てビクトールに並ぶフリックに対し、クレオはシフォンを庇いながら後ろに下がる。ルックは既に後方で傍観を決め込んでいるようだが、いつものことではあっても、それが今は少し苦い。
 よりにもよって細長い通路の途中でモンスターの一団と出くわしたのだ。この狭さで向こうには大型が多いとなると、地道に各個撃破するしかない。大きな魔法をこんな狭い空間で使うのは自殺行為になりかねないからだ。
 急いで戻りたいのにと舌打ちしても、それで相手が引き下がってくれるわけではない。と、
「二人とも、下がれ」
 棍を左手に持ち替えたシフォンが、小さいがよく通る声で静かに言い放つ。
 言われるまま咄嗟に飛び退りながら怪訝に振り返ろうとした一瞬に、彼は空いた右手を、十を越えるモンスターに向けて掲げた。悠然と、厳然と。
 その刹那、虚空に生み出された冷厳な闇は、死の抱擁でもって通路を塞ぐものすべてに絶対の静寂をもたらした。
 彼の右手に刻まれている真の紋章、ソウルイーターの力だ。
 それはフリックも知っている。だが。
 ――これは、何だ。
 思わずビクトールを振り返ると、同じ念を抱いたのだろう、難しい顔で闇が生み出されていた場所を凝視していた。
 以前この力が振るわれたとき、ここまで凄まじい力があっただろうか。
 グレミオの死後、フリックも自ら進んでシフォンと行動をほとんど共にしていたが、前にこの力を見たのは火炎槍を回収に行ったときだった。カレッカの廃墟を通り抜ける際、やはり群がってきた十近いモンスターの魂を、一瞬で喰らいつくしたのだ。
 ビクトールはその時にも同じことを感じたらしいが、その前回に見たときからは時間が経っていたので、単に気のせいか、紋章が馴染んだだけなのだろうと締めくくっていた。
 しかし、これは絶対に、違う。
 故郷では剣術と紋章術の両方に秀でた戦士となるよう求められることもあって、フリックも専門家にこそ及ばないが紋章に関して無知ではない。こと戦いのために紋章の力を振るうという行為においては、尚のことだ。
 シフォンが先天的に、非常に高い魔力と素質を持っているのは事実だろう。宿しているのもソウルイーターという、強大な力を有する真の紋章だ。それら要素が重なりあえば、尋常ではない力を秘めていて当然だろう。
 だが、この闇は。
 この奈落の底の色は、そんなものではない。
 空恐ろしくなって、思わずシフォンを振り返った。
「どうか、した?」
 感情を見通させない凍った瞳で、彼が首をわずかに傾げる。
「いや……」
 言葉を濁すと、追求する気はないのか、そう、とだけ返した。
 その後ろで、ルックがシフォンに向けた眼差しを気難しげに細めているのが見えた。




 そして、星辰剣によってネクロードが討ち取られたその夜。
 戦勝祝いとヒックス、テンガアールの、そして一時的に帰郷するビクトールの送別を兼ねた祝宴が、戦士の村で催された。ロリマー解放の知らせは急ぎ本拠の方へ送られたが、テンガアールの強い要望で、朝一で出発することとし、ささやかながらも執り行われたのだ。
「どれぐらいで戻れそうなんだ?」
 騒ぎの中心から少し離れたところに陣取っていたビクトールの隣に立つと、フリックは問いかけた。久々の故郷で旧知の顔に挨拶回りするのも一苦労だったが、ようやく片づいたのだ。
「出来るだけ急ぐ。あいつのことも気になるしな」
 火を囲んだ宴の中心には、クレオやヒックスと共にテンガアールの勢いに巻き込まれながらも、絶やすことのない曖昧な笑みを浮かべて、そつなく対応しているシフォンが見えた。
 子供は成長する。成長し、いつか大人になっていく。
 苛酷でもある環境下で、指導者としてシフォンは急激に成長していた。
 だが、それを手放しで喜べない、引っかかりは常にあった。
「あの時に、あいつを何が何でも置いて行ってりゃ、少しは違ったのかな……」
「だから、自分が代わりに死ねばよかったとでも考えるのか?」
 手にしているジョッキを干したビクトールの呟きに、すぐさまフリックは切り返す。
「……相も変わらず、直球だな」
「おまえみたいな奴に慰めなんか言いたくないぞ」
 呆れた声に、思わず嫌そうに顔をしかめた。
「そりゃ、ま、違いない。そういうのは、あいつの方がいいか」
「うるさい」
 笑ったビクトールの手元から、酒を注ぐ音が途切れて。
「こうも良くない方へ進んじまうと、無駄なことばかり考えちまうな。何処かで選び間違っちまったんじゃないかってな」
 確かに無駄だ。無意味だ。
 どう足掻こうとも、時は戻らないのだから。
 免罪符を求めているようなものだということはビクトール本人が一番わかっている。解放軍ひいてはオデッサと出会わせたのも、不吉な予感がありながら口に出しながら止められなかったことも。
「誰かが代わりに死んでいた、か……」
 あの日、斜陽の中でシフォンの言った言葉。
 そんな誰かは、何処にも存在しない。
 過ぎ去ってしまった時間は、不変なのだ。
「妙に暗いと思ったら、そういうこと」
「なっ、おまえ」
 不意に横から割り込んできた声に、フリックもビクトールも驚いて振り向く。果たして、小馬鹿にしたような半眼でこちらを見ているルックがいつの間にか立っていた。
「いつの間に……」
 騒がしいのは嫌いだと言ってふらりと姿をくらましていたから、てっきり寝たか帰ったかしたものとばかり思っていたが。
「莫迦じゃないの」
 冷ややかな言葉に思わず苦々しく眉をひそめる。と。
「どんなに後悔しても、間違ったとは思わないんだからさ」
 ルックが冷笑にも似た、しかし何処か違う、複雑な面持ちで吐き捨てた。






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