Seirios




4. 過去も未来も消えた君







「テッド!!」
 ソウルイーターから発せられた闇色の光が収縮した瞬間、くずおれる身体を咄嗟に抱きとめた。
 右手には、まだ光が小さく残っている。
 疼くように右手が熱を持っている、この感触にも覚えがある。
 もうすぐ命の熱が消えて、ゆく。
 目の前の、親友の、テッドの、命が。
 そのことを、知っている。
「そんな顔……するなよ、シフォン……」
 それでも彼は、笑っていた。
 ふらふらと伸ばされた手を夢中で掴むと、弱々しく握り返された。
「俺が、選んだことだ……」
 彼の命を盗み取った、右手を。
 残った力を振り絞るかのように、必死に。
「……今度、こそ……お別れだな……元気で、な……」
 彼の目には涙が滲んでいて、それでも笑っていた。
「テッド……」
 ずっと右手に灯っていた、淡い光の残滓が薄れていく。
「シフ」
 一雫、つうと頬を流れ落ちた。
 悲しそうに苦しそうに痛そうに、それでいて、ひどく優しそうに。
「俺の、分も……生きろよ……」
 笑ったまま、ふつりと静かに息絶えた。
 彼の手を握り締めたままの右手が、ひどく重たかった。
 ひどく冷たい、手だった。




 花を投げ捨てる。紅い紅い花を。




 ソウルイーターとはよく言ったものだ。
 戦乱を起こし、死者の魂をかすめ取っていくなどと。
 紋章の宿主にとって近しい者の死を招き、その魂を喰らうことで、より力を増していくなどと。
 シフォンの腕にある少年は、最期の別れを伝えながら、命が終わる苦痛に歪んだ顔を留めず、ただ親友の幸福を祈る笑顔を遺した。
 この死は、ひどく残酷で、ひどく幸福な死だ。
 水晶の谷間を、うるさいほど吹き荒ぶ風に目を細めたとき、フリックはついと顔を背けたルックに気づいた。
 あからさまに眉をひそめて顔を苦々しく歪めて、ひどい痛みにも似た感情を滲ませて。
 まだ彼らに何も起きていなかった頃に、近衛隊として星見の結果を取りに来たシフォンたちの案内役をしたことがあると、随分と前に聞いたことがあった。そのときに同行していた者の中にテッドがいたことも。
 第一印象があまり――いや、かなり良くなくて、つんと澄まして大人びた風を装っているルックにしては珍しく、テッドとは子供じみた喧嘩をしたいうことも。
 あれはそう、グレミオがまだ生きていて、シフォンがまだ笑顔を見せていて。そんな頃の話を、思い出の一つとして語っていた。ビクトールに突っ張っていてもまだまだ子供だなと言われたルックが怒りだし、ちょっとした騒ぎになったりもした。
 それが、何故こんなことになってしまったのだろう。
 シフォンにとってこの親友は、帝国からあの魔女から解放したかった、大切な人だったろうに。
「クレオ」
 振り返ることなく呼ばれた名に、クレオがはっと顔を上げた。
「頼む、テッドを……弔ってあげて」
「――はい」
 ずっと握り締めていた手を名残惜しそうに離して、亡骸を地面の上へと静かに横たえると、ゆるゆるとシフォンが立ち上がる。
 彼が離れると、クレオの手に宿された火の紋章から鈴のような音が響いた。刹那、炎が亡骸を包み込んで赤々と吹き上がり、周りの水晶で光が乱反射する中、強い風が火の欠片を舞い上げる。
 その赤い炎を、シフォンは黙って見つめていた。
 グレミオが死んだ日、夕焼けの中で見せた、静まり返った眼差しで。
 さながら燃え上がる氷のような、凄絶な眼差しで。
 燃え落ちて崩れて消えていく、親友の亡骸を見つめていた。
 真紅の欠片が、ちらちらと花弁のように散って、暗い谷底へと消えていった。




 磨き込まれた刀身が、持ち主の姿を映し込む。
 砦の客室で一人、剣の手入れをしていたフリックは、つとその手を止めた。
 竜洞騎士団との同盟はおろか、まだ竜の目を覚まさせることも出来ていないが、今は待つことしかできない。薬の調合に必要な、帝都の空中庭園にしかない黒竜蘭を手に入れるために、見習いの竜騎士が飛び出していってしまったのだ。ミリアが急いで追いかけていったが、途中で追いつけると思っていないのは騎士団長であるヨシュアも同じのようだった。無茶をする前に思いとどまっていてくれればと、蒼白な顔で呻いていた。
 窓硝子越しに見上げた空は薄暗い。今にも雨が降り出しそうだというわけではなかったが、嫌な灰色をしていた。
 故郷は辺境の村だったので硝子の入った窓を見かけることはなかったが、大きな街に出て初めて見たときは不思議だった。氷でもないのに、硬くて透き通っているのだ。
 手の中にある剣は、鋭く光を弾いている。手入れを欠かしたことはない。
 傷だらけになった鋼は、何も映さない。光も弾かない。
 罅だらけになった硝子も、何も透かさない。
 同じことだと思った。
 剣を鞘に収めたフリックは立ち上がり、部屋を出た。
 静まり返った細長い廊下に、ずらりと客室の扉が並んでいる。向かいの扉をノックして、開けると。
「あれ? リーダーの部屋は」
「あいつなら、もう一つ奥」
 開けっ放しの窓の前に立っていたルックはこれ見よがしにため息をつくと、馬鹿に仕切った声で言葉を続けた。
「何ぼけてるんだか。もっとしっかり――」
 だが、壁越しに聞こえた、がしゃんという何かが砕ける音に、はっと表情を変える。
 聞こえたのは、シフォンの部屋からだ。フリックは慌てて部屋を飛び出すと、隣にある部屋の扉を乱暴に開け放った。
「リーダー! どうかしたのか?!」
 すると、挿してあった紅い花もろとも、花瓶が床で無惨に砕け散っていて。
 そして何故か、その中で一番大きな、ナイフのように鋭く尖った破片をシフォンは左手に持っていて。
「――シフ!!」
 追いかけてきたルックの、鋭い声が上がる。
 彼は左手を振り上げたかと思うと、手袋のない右手の甲に、それを突き立てた。そのまま引っ掻くように引き裂いて、もう一度。
「……離せ」
 再び破片が皮膚に潜り込むより早く、フリックが両腕を掴んだ。
「それは聞けない」
 怒りを押し込めた声でフリックは答えるが、途端、シフォンが思いっきり下に両腕を引き、フリックがバランスを崩しよろめいた瞬間に両腕を拘束から解き放つ。自由になるとすぐさま、鮮血に紅く濡れて輝く破片を、今度は深々と突き立てた。
「やめろって!!」
 押さえ込むようにして再び止めに入ったフリックと、半ば取っ組み合いになりながら振り解こうとシフォンがもがくが、左腕を身体ごと抱え込んで、血にまみれた右手首を高く頭上に掲げさせると、さすがに身動きが取れなくなったようだった。
「離せ! 離せったら!」
 シフォンは身体をひねって抜け出そうとするが、身長差が物を言って簡単にはいかない。それでもなお力任せに暴れようとする彼に、フリックが懇願するような気持ちで怒鳴りかけた、その時。

  ……リィン……

 高い鈴のような澄んだ音が空気を震わし、室内で風が緩やかに渦巻いた。
 フリックに抗っていたシフォンの力が一気に失われて、がくりと崩れ落ちる。素早く次の魔法を唱えたルックが、右手の傷を塞いだ。
「助かった」
 完全に眠らされたシフォンの身体を受けとめて、フリックは安堵のため息をもらした。
「すぐに目は覚めないかもね。手加減し忘れたから」
 ルックもこの突然のことには焦ったらしく、ほっと胸を撫で下ろしている。
 出不精と言ってもあながち間違いではない今回までルックが同行を承諾した理由は、こんな事態を見越していたのだろうかと、ふとそんな考えがフリックの脳裏をかすめた。いつ頃からか、ルックとシフォンが一緒にいることが増えた。城にいるときでも。
 おそらく直接問うたところで、彼は絶対に肯定しないだろうが。
「シフォン様……!?」
 開けっ放しの扉から、騒ぎに気づいたクレオが悲鳴じみた声を上げて駆け寄ってきた。
 唐突に、のんびりしている暇はないと、頭の何処かがささやく。
「いったい、何が」
「その話は後だ。ここの向かいの部屋は?」
 青白い顔色のシフォンを抱き上げて、床に散った破片と、花瓶の水に滲んだ血痕を見下ろしながらフリックは問い返した。床の絨毯を汚した血は大した量ではない。流れた血のほとんどはシフォンの右腕と、フリックがマントの下に着ている服を赤黒く染めていた。
「ああ、私の部屋だけど」
 清潔な布でシフォンの腕を伝っている血を拭き取っていたクレオが答えると、
「こいつをそっちに寝かせる」
 言うが早いか開け放たれたままの扉を二つくぐって、ベッドに寝かせた。
 そっとそちらの扉を閉めて問題の部屋に戻ると、フリックは血がべったり付着した破片を拾い上げた。次いで血を拭くのに使われた布をクレオの手から抜き取り、血まみれの手袋を外すと、破片ごと血で汚れた部分を内側にして丸めて、ルックに投げ渡した。
 それから、おもむろに破片を一つ拾い上げ、それで自分の手のひらを傷つける。すっぱりと切れた一筋から流れた雫がぽたりと、絨毯の水溜まりに赤い染みを増やした。
「こんなもんか」
 ルックはそれに肩をすくめ、フリックが寄越した包みベッドの下に放り込む。
「花瓶は……そうだね、僕が過って落としたことにしてあげるよ」
 動揺を引きずったまま茫然と眺めていたクレオが、やっと合点のいった顔をした。
 ここは、龍洞騎士団の砦は、今はまだ気の置けない場所ではないのだ。解放軍にとっても、何よりシフォン個人にとっても。
 服についた血は、マントで上手く隠すしかないだろう。
「口裏を合わせてくれ。……すぐに人が来る」
 演技は苦手なんだがとフリックが苦笑を浮かべて間もなく、廊下を走る数人の足音がこちらに向かって近づいてくる。
 少しだけ血の臭いがした。自分のものではない血の、臭いが。
 傷だらけになった鋼は、何も映さない。光も弾かない。
 罅だらけになった硝子も、何も透かさない。
 同じことだと思った。
 凍てついた黒い双眸が訴える、凄絶なほどの闇は。






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