夜明け前に夢を見る。紅い紅い花の、行く先を。
冷たい暗闇に燃え上がる炎はまるで、紅い紅い花びらが舞い散るようだった。
もう随分と遠ざかってしまった言葉にもう一度、首を振る。
かつて彼が言った通り、不幸になったかもしれない。
少なくとも、幸福は失った。
けれど、彼のことを恨めるはずがない。
知っている。
微笑んで逝った親友の、心は安らかではなかったことを。
ようやく訪れた永すぎる生からの解放を、心から喜びはしなかったことを。
知っているのだ。
まだ置いて逝きたくないと、一緒にいたいと願ったことを。
最期の最後で、彼が生を望んだことを。
花を投げ捨てる。紅い紅い花を。
何もかもがぼやけて見えた。
「テッド……?」
真っ青な色と、少しくすんだ色の金髪。
何故か、困ったように微笑んでいるのがわかった。
「目、覚めたか」
ささやきと共に、大きな手が額に乗せられた。
少しひんやりとした、大きな手が。
そっと触れてくれている手が、心地よい。
冷たくない手が。
「――フリック」
そこで、シフォンもようやく気づく。
ベッドの隅に浅く腰掛けている彼の顔が、はっきりと見えた。
「ああ」
するりと離れていった彼の大きな手を、何故か無性に名残惜しく感じた。
「熱があったんだが、もうほとんど下がったようだな。少し前までクレオもいたんだぜ」
低く響くささやくような彼の声を、何故か無性に心地よく感じた。
ぼんやりと聞きながら、だんだん視界がクリアになっていく。ぼやけていた、記憶も。
生々しく紅い色も。
「そう……」
頭痛のような嫌な気怠さが残っている。ひどく右手が重い。
当然だ。
「手の傷はルックが治してくれた。包帯を巻いてあるのは一応だ。騎士団にも誤魔化してある。今はゆっくり休め」
見下ろしてくる碧眼を見返せなくて、たまらず彼から視線を背けた。
痛い。苦しい。――彼は、優しい。
「すまない。莫迦なことをして」
サイドテーブルに飾られている、白い花瓶が目に留まった。
あれと同じ物を床に落として、壊したことを覚えている。
中に入っていた水が床にこぼれて、挿してあった、花が落ちたことも。
同じ、紅い紅い花が。
花を投げ捨てる。紅い紅い花を。
夜明け前に、息絶えた。
こぼれた血はまるで、毒々しい口紅のようだった。
紅く濡れた唇で、微笑みながら彼女は言葉を遺した。
冷たい手で、二つの涙を託して逝った。
一つは無辜の民のための涙を。それはこの国を解放するための、礎となった。
もう一つは、彼女が愛した男を想う涙を。
もう二度と会えない、会いたかった男を想う涙を。
知っている。
微笑んで逝った彼女の、心は少しも微笑んでいなかったことを。
彼を置いて逝きたくないと泣いていたことを。
知っているのだ。
まだ死にたくないと、会いたいと願ったことを。
最期の最後で、彼女が生を望んだことを。
花を投げ捨てる。紅い紅い花を。
夜明け前に息絶えて、堕ちてゆく。
帝国の凶刃に斃れ、彼女の命が消えた瞬間を、フリックは見ていない。その亡骸に縋ることもかなわず、ただ彼女の死を伝える言葉と、彼女の不在という事実のみで突きつけられた。
すべて終わってしまった、ずっと後だったのだ。
「謝罪より、聞きたいことがあるな」
ついと背けられてしまった目は、やはり拒絶なのだろうと思う。
「聞きたいこと? 僕を問い詰めでもする?」
いつだって自分は、間に合っていないのだ。
だが今なら、まだ終わっていない。
「別に、おまえを詰りたいとか思っちゃいねえよ。ただ」
誤魔化さない。偽らない。そうすることしか、出来ない。
それしか、知らない。
「憎かったのか?」
そう問うた瞬間、いつかのようにシフォンは息を詰まらせて、喉をひゅっと鳴らした。
声にならない、悲鳴のように。
「その紋章が」
帝国の凶刃に斃れ、彼女の命が消えた瞬間を、フリックは見ていない。その亡骸に縋ることもかなわず、ただ彼女の死を伝える言葉と、彼女の不在という事実のみで突きつけられた。
愛する人を喪ったことはあっても、目の当たりにしたことはない。
冷たくなる手に縋って、名を呼んだことはない。
彼の、ようには。
「フリックにとっても憎いだろう。この紋章はオデッサさんも喰ってる」
顔を背けたまま吐き捨てられた声は、ひどく鋭利で冷え切っていた。
「その紋章が直接殺したわけじゃないだろう。あいつは子供を庇って死んだんだ」
「きっと、この紋章がそうなるように偶然を仕組むんだろうね。運命みたいに」
冷たすぎる、これは。
「オデッサが自分を盾にしてでも助けたのは、あいつ自身がそうしたいと思ったからだ。真の紋章だか何だか知らないが、そんなものに操られてじゃない。だから、おまえのせいじゃない。おまえが殺したわけじゃない」
これは、ただの自虐だ。
「でも、この紋章がオデッサさんを選んだのは、僕のせいだ!!」
弾かれたように振り返りざま上体を起こしたシフォンが、顔を泣きそうに歪めて叫ぶ。
「リーダーとして立派な最期だった? 僕とマッシュに後を託して、表面上はそうだったかもしれない、でも、ソウルイーターから伝わったんだよ、あの人は心の中で死ぬことをとても恐がっていた、未練だってたくさんあった、フリックのいないところでフリックを置いて死んでしまうことに絶望だってしていた!!」
初めて聞かされる話に目を見張るフリックの、胸ぐらを震える手で掴んで引き寄せて、詰め寄って。
「フリックだって聞いていただろう、テッドの言ったことを! ソウルイーターが、僕がいなければ、帝国の襲撃は、あんな最悪なタイミングじゃなかったかもしれないのに!!」
叫んだシフォンの声は、ひび割れて悲鳴じみていた。
間近にある黒い眸を真っ直ぐ見つめ返すと、怯んだように、わずかに揺れた。
同じ色をしていると思った。彼の紋章が生み出す、冷たい闇の色と。
それでいながら、彼の眸は凄絶なまでに深く輝いている。
花を投げ捨てる。紅い紅い花を。
夜明け前に息絶えて、堕ちてゆく、行く先は何処。
「そんなことを、ずっと考えていたのか?」
驚きに見開かれていたフリックの目が、すうっと細められた。
「――そう、だよっ」
頭の芯が痺れたように熱い。
ひどい眩暈にも似た恍惚の中で、どす黒く吹き出す激情に身を投げて。
「醜いだろう! 愚かだろう! 失望、した!?」
莫迦みたいに叫びながら、莫迦みたいに嗤っている。
「俺もな、何度も考えたことがあるよ」
なのに彼は、静かだった。
「譲らなかったグレミオは死んでもおまえを守ったのに、俺は何で肝心なときにオデッサから離れちまったんだろうって、もし俺もあの時に折れていなければってな」
ゆっくりと静かに言いながら、彼の表情は苦く歪む。
「でも俺は、オデッサを置いて死んじゃいけないんだ。あいつは遺される側の気持ちを痛いほど知っている。俺は遺されたあいつの苦しみを少しでも知っている。だから、もし一緒にいたら守れたかもしれないのにと後悔しても、今こうして自分が生きていることを後悔しないし、それを罪とは思わない」
彼女を喪った痛みは、今でも彼の眸を染めている。
それでも、罪ではないと言い切る。
「フリック……」
呆けたように力が抜けた手を、落ちる前にフリックが掴んだ。
彼の手は、少しひんやりとした手だった。
けれど、ちゃんと温かい。
生きている。
「なあ、シフォン。おまえにとって、生きることは罪なのか? そうやって目に見えた死を、すべて自分と紋章のせいにしていくのか? 一人で背負いこんで、それだけしか、ないのか?」
「でも、僕は」
何かを言い返しかけて、けれど言葉が続かない。
本当は、知っている。
「一生のうちに何の後悔もしない人間なんて、いないだろう。こんな戦争やってる中で、何も失わない人間なんていないだろう。だから、みんな必死に守ろうとするんだろう。命を懸けるんだろう。おまえは決して、誰の死も心から望んではいないだろう」
戦場では、敵も味方も、顔も知らない名前も知らない無数の人間が、死んでいく。
どんなに美しい夢も、輝かしい理想も、形になれば血にまみれるのだ。
「誰かに許されなければ自分を許せないのなら」
掴んだままの手を引き寄せられて、やんわりと抱き締められた。
小さな子供をあやすように、何処か不器用に。
「俺がおまえを許す。どんな泣き言でも、俺が許す。どんなに醜くかろうが、愚かだろうが、おまえが生きていることを許し続ける」
それでも、信じているのだ。
「だから、そんな風に抱え込むな。一人で追い込むな。頼むから」
本当はもう、知っていたのだ。
「……ずるいよ」
この矛盾だらけの世界は、綺麗で汚くて、優しくて残酷で。
「ずるいよ、ずるすぎる」
何かが壊れたように、まるで小さな子供のように、泣きじゃくる自分がいる。
「そうか?」
「フリックに、二度も泣かされるなんて」
「妙な言い方をするな、おまえって」
呆れたように苦笑しながらもフリックは、背中をあやし続けていた。
「だって、そうじゃないか」
すべてを許すと言い切ったこの人も、いつかは失うのだろう。
夜明け前の、最も暗い空。暁に熾る星の光。
紅い、紅い花は何処。
「ああ、そうだ」
「何」
ひとしきり泣いて落ち着いた頃には、疲れたのかシフォンの声はだいぶ掠れていた。
「おまえ半日も眠りっぱなしだったんだよ。いい加減、腹減ってるだろ」
フリックは下で何かもらってくるからとベッドを降りかけたが、すぐにその動きを止めざるを得なかった。マントの合わせに近い辺りが引っ張られていて、動けない。
きつく握り締めているのは、シフォンの右手で。
「まだいらない。どうせ寝るから」
「え、おい、寝るって、水分くらい取っとけって」
黙ったまま肩に顔をさらに埋める、仕草がやたらと子供じみていた。
「シフォン?」
「心臓の音がする……」
本当に眠いのか、呟いた声の調子もひどく緩い。
「鎧をつけてないからな」
今日は砦の外に出ることもないので、インナーにいつものマントを防寒に羽織っているだけだ。
「ほら、そんなに眠いんなら、ちゃんと寝ろよ」
「フリックは」
寝かしつけようとする手に抗って、顔を伏せたままでシフォンは何かを言いかけるが、逡巡したように途切れさせた。
「俺が、どうした」
「フリックは優しいね」
「ん……どうなんだろうな、自分ではよくわからないな。難しいことは出来ない性分なのに、誰かが莫迦みたいに溜め込むから、いつも必死なだけだ」
苦笑しながらフリックが答えると。
「ビクトールかクレオから、聞いた? オデッサが最期に、君にあてて言ったこと」
「――いや、初耳だ」
思いも寄らぬ言葉に、咄嗟に声が震えないように抑え込むだけで精一杯だった。
「じゃあ、今から伝える」
そう言って、シフォンが息を吸い込んだのがわかる。フリックも固唾を呑んで、続けられる言葉のために耳を澄ませた。
「あなたの優しさは、いつもいつでも、私を慰めてくれた」
思わず、目をきつく閉じる。
――大丈夫。彼女の声も、笑顔も、忘れていない。
「そう、か。オデッサが……」
大丈夫。自分も、笑える。
「ありがとうな。伝えてくれて」
つと身体を引き剥がすと、シフォンはフリックを見上げて。
「僕も、オデッサさんの気持ち、何となくわかるよ」
彼がそう肯いて笑ったとき、その眸は光が射すと、わずかに紅く映ることに気づいた。
初めて、気づいた。
紅い、紅い花が咲いている。
次に目覚めると、真っ青なマントにくるまったフリックが部屋のソファで寝転けていた。
思わず呆れながらも、それでも少し嬉しさを感じている自分に、シフォンはくつくつと喉の奥で笑う。
もう許されないと今まで思っていた。けれど、許されていいのだと、今なら思える。彼から、そして父からも。
不思議なくらいに、そう思える。受け取れる。
ふとサイドテーブルに飾られている、白い花瓶が目に留まった。
あれと同じ物を床に落として、壊したことを覚えている。
中に入っていた水が床にこぼれて、挿してあった、花が落ちたことも。
同じ、紅い紅い花が。
けれどもう、気持ち悪くない。
花を投げ捨てようとは、思わない。