Seirios




6. 幻想の世界







 夜明けの最後の、一雫がおちる。




 語られなかった夢があった。
 血にまみれた夢があった。
 捨てられた夢があった。
 失われた夢があった。
 叶わなかった夢が、数え切れないほどあった。




 奇跡は、たった一つだけ、あった。




 歌うように紡がれた言葉は、美しく響いた。
「我が身に宿る門の紋章よ、彼岸を隔てし次元の門をひととき開け。此岸に集いし一〇七星の縁を繋ぎ、失われし彼の星を、今ここへ導け……」
 緩やかに掲げられたレックナートの右手から眩い光が生み出され、集まった者を白く染めた。しかし光はすぐに収束し始めると、彼女の前でゆっくりと人の形を象ってゆく。
 そして。
「まさか」
 奇跡だ、と最初に呟いたのは誰だったろう。
 そこに立っていたのは、見間違えようもなく、その人で。
「……グレ、ミオ?」
「坊っちゃん? ――わ、私は死んだのでは!? それとも、これは夢なのですか?」
 あたふたと周りを見回すグレミオを見たまま呆然と立ちつくすシフォンの、右手をレックナートがすくうように取った。
「シフォン。門の紋章と、あなたの下に集結した一〇八星の力です。しかし、その力を持ってしても、こうして彼を呼び戻せたのは様々な巡り合わせが重なった故。次はありません」
 彼女の言葉が進むに連れて、シフォンは息を深く飲む。
 歓喜とも畏怖ともつかぬ甘い痺れに、咄嗟に唇を噛まなければ震えてしまいそうだった。まるで後ろから抱きすくめられ、耳元でささやかれたような気がしたのだ。
 何故グレミオだけがこんな奇跡を甘受できたのか。
 強く強く、引き寄せた右手を握り締める。
 と、突然マッシュが声を張り上げて、奇跡に呆けた空気を突き破った。
「帝国との戦いも終わりが近い。我々解放軍にも多くの犠牲が出た」
 予め聞かされていた段取り通りの口上だ。大量の痛み止めも投与されているとはいえ、重傷を負っているとは思えないほどに。
 残る命を削りながら、彼は立っている。ここに。
「死んでいった友のために、そしてこの地に生きる者すべての未来のために、我らは進まねばならない」
 優しくて残酷で、終わりゆく、もの。
「我ら解放軍の旗の下、シフォン殿の下、この戦いを終わらせなければならない」
 ゆっくりと息を大きく吸い込んで、シフォンは一歩前に進み出た。
 いくつもの視線を、痛いほどに感じる。
 見渡した、すべてに響く声で告げる言葉は、ただ一つ。
「我らは明朝、全軍グレッグミンスターに進軍し、赤月帝国からすべてを解放する! ――我らに勝利を!!」
 そう、すべてを解放するのだ。
「我らに勝利を!!」
 すぐさま、脇を固めていた解放軍の幹部たちが繰り返す。
「我らに勝利を!!」
 復唱は瞬く間に広まり、ホールを、そしてこの城を揺るがすほどの大音声となって。
「グレミオ!!」
「おまえって奴は!!」
 熱狂的な唱和が続く中、グレミオを知る古参のメンバーが、わっと勢い込んで押し寄せてきた。
「クレオさんにパーンさん! あの、私は何が何だか――あ痛、ということは夢じゃないんですか? って、何するんですかパーンさんも、クレオさんまで!?」
 頭をはたかれたり背中を引っぱたかれるなど手荒い喜びの表現に見舞われて、困惑顔のグレミオはもみくちゃにされている。
「この! これくらい当然だ、よくもまあ帰ってきやがって!!」
 とんでもない言い草を叫びながら、ビクトールが力いっぱいグレミオの背中を突き飛ばした。
「もう、何するんですか!」
 不意をつかれた彼が思いっきり蹈鞴を踏んだ先には。
「……坊っちゃん」
 もう二度と聞けないと思っていた、もう記憶の中にしかないと思っていた、声。
 胸が詰まるとは、まさにこのことだろうと思いながら、シフォンは目をきつく閉じる。そうでもしなければ、今にも声を上げて泣きわめきだしてしまいそうだった。が。
「行けよ」
 いつの間にか背後にいたフリックが、笑いながら肩を小突く。
 だから。
 もう勝手に、許されたと思うことにした。
「――グレミオ!!」
 涙など流れるに任せて、差し伸べられた懐かしい腕に飛び込む。
 蹌踉めきながらもしっかりと抱きとめた、グレミオは温かい。
 生きている。
 本当に、生きている。
「グレミオ、グレミオ……!!」
 冷たくなどない。
 冷たい手など、知らない。
「申し訳ありません、坊っちゃん。お辛い思いをさせてしまったみたいで……」
「駄目。許さない」
 顔をうずめたまま、シフォンは言い返した。
「ええっ! そ、そんな、どうすれば許していただけますか?」
 案の定の言葉と、哀れにも思えるほど狼狽えている声に苦笑する。
 だって本当は、許す必要もない。許さなければいけないことも、何一つない。
 弱り果てたグレミオの顔を真っ直ぐ見上げて。
 これはだから、最後の嘘。
「この戦争が終わったら、一つだけ、一つだけでいいから、僕の言うこと何でも聞いてよ」
 シフォンは鮮やかに、笑顔を浮かべた。
 これはきっと、最後の夢。




「レックナート様」
 騒がしい再会を遠巻きに見ていたルックが、ついと視線を背け、師を見上げる。
「何故、こんな奇跡が起こったのですか?」
 こんな奇跡。
「死んだ人間が、生き返るなんて」
 こんな、優しくて、残酷な。
 傍らに立つレックナートは閉ざされた目を向けて、微笑みをたたえた。
「シフォンが運命をも味方にしたのだと、私は思います。その強き意志の力が、彼の紋章からさえも奇跡を引き寄せたのだと。ルック、あなたはどう思いますか? 彼をずっと傍らで見ていた、あなたは」
 彼女の声は、ひどく優しい。
 ひどく優しくて。
「……僕にはよくわかりません」
 ひどく残酷だった。
 幻想でしかない、甘く輝く希望を、身勝手に信じてしまいそうで。




 語られなかった夢があった。
 血にまみれた夢があった。
 捨てられた夢があった。
 失われた夢があった。
 叶わなかった夢が、数え切れないほどあった。




 それでも、永い永い夜に夢を見る。
 いつか来る夜明けを夢に見る。




 落日の中、赤月帝国は終焉を迎えた。
 帝国の崩壊と共に永い眠りについたマッシュも含め、両陣営での戦死者を弔う合同葬儀が執り行われると、今までの戦乱を振り切るかのように、宵の訪れと共に黄金の都では解放を祝う宴が盛大に開かれた。
 それは今も続いている。
 だが、その喧噪も、ここまでは微かにしか届かない。
 無数に焚かれた篝火もこの付近は少なく、月明かりが冴え冴えと道を照らしている。
 ここは、静かだった。
 時折吹く風が、木の葉を小さくさざめかせるだけで。
 瞬く星を数えるほどに、静かだった。
 それ故に、その足音が近づいてくるのも、途切れたのも、はっきりとわかった。
 その背に向けて咄嗟に発しかけた声を押し止めて、それでも逡巡したのは一瞬だけのことで。
「新国家の立て役者が、そんな格好で何してるんだい」
 驚き振り返ったシフォンの手には愛用の棍が握られていて、もう片手には小降りの革袋がぶら下がっていて、何よりその身を覆うのは厚手のマントで。
 わざわざ問うまでもなく、旅装だった。
「ルック、どうして」
 葬儀が終わった後、間もなくルックはレックナートと共に姿を消したので、塔に帰ったと思っていたのだろう。それは間違ってはいない。
「夜が明けたら、君が消えたと気づいて大騒ぎになるんじゃないの。別に、僕には関係ないけれどね。君がこの国を出ていこうが」
 シフォンがふっと微笑んだ。
「気が向いたら、ごめんって伝えて」
「何で僕が。そういうことは自分で言いなよ」
 そうルックが言い返すと、今度は困ったような苦笑を滲ませる。
「まあ、手紙は残してあるんだ。……未練がましいかな、やっぱり」
 未来の標は既に決められていた。共和制国家。最初はまだ満足に機能しないだろうが、時代を重ねれば成熟する。しかし大統領の座にシフォンが収まることは、そのままこの体制の崩壊にもつながりかねない。彼は英雄であり、不老であり、死神でもあるのだから。
 それでも殊更にシフォンが心を残すものがあるとすれば。
「あの二人の帰りを待ちたい?」
 探しに行ったのは告別の儀が始まる前の、黄昏時だった。
 そこにはもう、誰もいなかったけれど。
「うん……でも、ここには帰ってこない気がするから、もういいんだ」
 皇帝バルバロッサが最後に発動させた覇王の紋章の余波で崩壊したのは、空中庭園のある最深部とその周辺のみだった。二人とそれぞれ別れた場所はどちらも、崩落の危険はあっても完全に崩壊するまでには至っておらず、二人が瓦礫の下敷きということはありえない。死体も何も見つからなかった。誰もいなかった。
「何処に行ったんだろう、星辰剣は」
「近くに出口を作り損ねたんじゃないの」
 ルックは小馬鹿にしたように鼻で笑う。
「そっか。最後まで、本当にずるいな。結局、ほとんど何も言えなかった」
 つと、青白い月明かりが陰って、雲が深い影を落とした。
「そのうち、何処かで会うこともあるんじゃないの。旅をしてたら、さ」
「それも、いいかもね」
 篝火の炎が、遠くでちろちろと揺れているのが見えた。
「やっぱり一人で行くのかい」
 雲が通りすぎた後には、穏やかな表情に陰りなど見当たらなかったけれど。
「いや、そのつもり、だったんだけどさ」
 そこで苦笑したシフォンに、ルックが怪訝に眉をひそめる。と。
「私が坊っちゃんのお側を離れるはずないでしょう」
 荷物を肩に木陰から現れた人影は、潜めた声ながらも堂々と言い放った。
「お待たせしました坊っちゃん、これでしばらくは問題ないはずです」
「……へえ、意外だけど、意外じゃないね」
 意外なのは同行を承諾したシフォンで、意外ではないのはそんなことを言い切るグレミオで。
「もう次はないって、レックナート様に言われたくせに」
「それでもです。坊っちゃんをお独りにするなどということは、私にはもう絶対に出来ません」
 少し哀しげに、だが深く慈しむ眼差しでシフォンを見やる。
 そうは言っても、シフォンがそう簡単に同行を許すはずがない。先ほどの苦笑がそれを物語っている。何より、グレミオが生き返ったときに突きつけていた"許す条件"はこのためのものであることは想像に難くなく、当然かなり揉めたはずだ。それでも。
「まあ、せいぜい長生きしてよ」
 呆れたように肩をすくめて、ルックはグレミオに言った。
 それでも結局、また押し切られてしまったのだろう、シフォンは。
「ええ、もちろんそのつもりです」
 ソウルイーターのことも聞かされているだろうに、こうも自信に満ちて頷ける神経には、感嘆すら覚えてしまいそうだった。
「僕も絶望しないことにしたから」
「そいつを御してみせるって?」
 顎で彼の右手を指し示すと。
「あいつと一緒だった間、あいつが笑っていたことを、僕は信じる」
 まっすぐな眼差しで言い切ったシフォンは、透き通った笑みを浮かべていた。
「それに、あいつの分も生きるって約束したからね」
 思わずルックが目を細めた刹那、すっと彼の左手が突き出される。
「わざわざ来てくれて、それに今までのこともいろいろ、ありがとう。最後に話せて嬉しかった」
 すぐにはその手の意味がわからなかった。
 が、理解した途端、ぱしんと音を立てる勢いで手を払ってみせた。すると今度は逆にシフォンが呆気にとられたことに、ルックは口角をわずかに歪める。
「僕はレックナート様に言われたから来ただけだよ。餞別代わりに教えてあげるためにね。君の紋章の、本当の名前を」
「紋章の、本当の名前……?」
 それを伝えるために来てもいいと思ったのは、本当に気紛れだった。
 ソウルイーター、魂喰いの紋章とは、その禍々しい本能から呼ばれるようになった二つ名で。
「そう。そいつはね、生と死を司る紋章っていうんだ」
 生の裏側には死があり、死の裏側には生がある。
 言葉もなく大きく瞠目したシフォンが、しばらくして、また声を上げて笑った。
「……何」
「ううん、ルックが教えに来てくれて、本当に嬉しいよ」
 手袋を外した右手を、今度は差し出して。
「ありがとう。またいつか、何処かで」
 幻想かもしれない。
 こんな夢は、莫迦げた幻想かもしれない。
 それでも意味はあると、信じてもいいのだろうか。
「……気が向いたらね」
 その手を取ったのも、気紛れに過ぎない。
 それでも。
 少しだけしっとりとした手は、確かに温かかった。




 夜明けの最後の、一雫がおちる。
 紅い、紅い花におちる。
 この矛盾だらけの世界は、綺麗で汚くて、優しくて残酷で。
 それでもこの幻想だらけの世界は、まだ美しいのかもしれない。




 もうじき、夜が明ける。






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