血塗られた記憶



 ずっと思い出せなかったことを、思い出した。
 あの雪の日のことを。


 学園の占拠事件が解決した翌朝。アトワイトの手引きで地下都市の転移装置を利用し、ルーティがダリルシェイドを訪れた。それを出迎えたフィリアは、城内は事件直後でまだ騒がしいことと、なによりスタンとリリスが兄妹だとは公にしていないので、二人とも今は人目につかないようリラの実家に滞在していると、ルーティを案内する。事件の事後処理はアッシュとディムロス、クレメンテがすべて引き受けており、今はリオンもリリスの傍についている。だがスタンも犯人を殺してしまったショックが強いのか、塞ぎ込んだ姿を見かねたフィリアがアトワイトに頼んで、ルーティを連れてきてもらったのだ。ルーティを送り届けたフィリアは、急ぎ神殿に戻る。もう少しで何かが掴めるかもしれない、調べ物があった。
 リラの実家には、チェルシーとマリーの姿もあった。事件でしばらく学校は一時閉鎖されることになったが、ファンダリアへの帰国準備が整うまで時間が掛かるのでここで待たせてもらっているという。地下都市に存在する転移装置の存在は現在極秘扱いで、二人は公的な立場もあって地下都市経由の裏道を使うわけにはいかなかった。夕食はみんなで食べましょうとチェルシーが笑う。マリーに昨夜からスタンが部屋に閉じこもったままであると告げられ、ルーティは笑顔で応じた。
 犯人の一人を殺してしまった原因は、象力の暴発だとアトワイトから聞かされていた。それまでディムロスから借りた力をソーディアンを介して操ることしか知らなかったスタンが、突然目覚めた自分自身の力を持てあましてしまうのは当然だと。スタンに斬りかかった男が本当に殺そうとしていたのかはわからないが、危険を感じて身を守ろうとしたことは本能的な反射だ。その結果として、相手は惨い死に方をしてしまったかもしれないけれど。
 それを仕方ないと言うべきなのか、忘れろと言うべきなのか、それとももっと別の何かを言うべきなのか。結局何も思いつかないままルーティは、スタンがいるという部屋のドアをノックする。


 ぼんやりとしていたような考え込んでいたような、茫漠としていた目がルーティを見つけて驚きに瞬いた。
「どうして」
「大変だったって、聞いたから」
 ちょっと顔を見に来たの。軽い調子で答えたルーティに、スタンは苦笑したような、笑おうとして失敗したような、ひどい顔をした。
「ごめん」
「なに」
「俺、まだ」
 言いさして、スタンはそのまま口を噤んでしまう。
 だからルーティは、その隣に座った。
「怖い夢、見たような顔してる」
 殺してしまったことだろうか、異能の力を持っていたことだろうか、それとももっと別の何かだろうか。真夜中に目が覚めてわけもわからず怯えている子供の、形のない恐怖のような。
「そっか。俺、怖いのか」
「そうよ」
 投げ出されていたスタンの手に指を絡めて、冷えていたけれどそれでもルーティはもう一度ほっとした。ああ、この人はちゃんと無事だった。無事に生きていた。ほっとした一度目は、事件のことを知らされた時だった。事件はルーティの知らない、遠いところで始まって、終わっていた。
 思えばこうして彼と会うのも、一ヶ月ぶりだった。
 不意に、彼の指にほんの少しだけ、握り返すように力がこめられた。


 しばらくして、スタンはぽつりぽつりと昔話を始めた。今から八年前、彼の母親が死んだ時のことを。

 母が死んだ日のことを、スタンはあまり覚えていなかった。
 その数日前から雪が降り積もっていたことは覚えている。その数日前から祖父トーマスに連れられて、リリスと一緒にロスの街にいたことも。母は家に、村に残っていたことも。なのにその日は何かがあって、スタンが一人だけで母のところへ戻って、そして母が死ぬ瞬間に出くわしたことも。
 村のあちこちに、壊れた人形のように手足の千切れた死体がいくつも転がっていた。
 白い雪は、流れた血で赤く染まっていた。
 辿り着いた家には、思い出せない怖ろしい何かと、死んでいた誰かと、まだ生きていた母がいて、振り返った何かが手にした血まみれの剣が自分に振り上げられて、けれどその刃がスタンに届く前に母が自分に覆い被さっていた。
 そして気がついた時には、ルートの振るった真紅の剣が怖ろしい何かの首をはねていて、自分は母の血を浴びて真っ赤に濡れていた。

 ──だから、なんだと思う。
 スタンが語った過去の断片的な記憶は、ルーティが聞いていた昨日の惨状と、少し似ていた。


 ずっと思い出せなかったことを、思い出した。
「あなたは、いきなさい」
 抱きしめられて耳元でささやかれた、それが母の、最期の言葉だった。


 全員揃った夕食後、兄妹の様子見に顔を出したルートを、難しい顔のルーティが掴まえて空き部屋に引っ張り込む。ルーティはスタンが話してくれたという八年前の惨劇を語り、スタンの母親がどうして死んだのかを真剣な目で訊いてきた。
 彼女の懸念を察して、ルートはそれはないと断言を返す。あの時に暴発はなかった。スタンの母親ファルンを殺したのは、村を襲った魔物だった。ルートがリコリスに辿り着いたのは、スタンを庇ってファルンが切り裂かれた瞬間だったのだ。その言葉にルーティは悲痛と安堵をないまぜにした顔で、小さく礼を口にする。半年前の父親のことだってきっとまだ堪えているのに、もし母親までだったら本当にたまらないと思ったという。そんな彼女にルートは、スタンを支えてやってくれと微笑んだ。


「ああ、そうだ」
 扉を開きかけて、ふとルートが思い出したように振り返った。
「スタンはどんな魔物だったか覚えてないって、そう言ったんだよな?」
「そうだけど……それが何かあるの?」
 子供の心には怖ろしい何かという印象だけが強く焼きついて残ってしまったらしく、魔物のことは思い出せないと言っていた。だがこの男はその魔物を退治した張本人のはずだ。そんなことを改めて確かめてくることにルーティが目を眇めて問い返すと、ルートは困ったような笑みを強めた。
──いいや。だったらいいんだ」




アイリス



 翌朝、アトワイトが小さなアイリスを伴って屋敷を訪れる。どうやらルーティを追いかけてヴェストリに入り込んだらしい。これまで素直だった少女が今回は頑なに院へ戻ることを拒んだので、一番慕われていたルーティに任せると院長に頼まれ、連れてきたという。
 ルーティは困ったように笑いながら、アイリスを初対面の皆に紹介する。
 その時、これまでほとんど表情を動かすことさえなかったアイリスが、スタンとリリスに笑いかけられて初めて、微笑んだ。

 少女を囲む輪から少し距離を置いて、ディムとシャルティ、そしてアトワイトは複雑な顔で黙り込む。
 アイリス。ただの偶然とはいえその名前は、三人にとって特別な少女と同じ名前だった。

 千年前の天地戦争のただ中、遺伝子欠陥を抱えたアイリスの命はあと数年しか残されていなかった。
 彼女はディムロスにとっては妹のような存在であり、アトワイトにとっては見守るべき患者の一人でもあり、シャルティエにとっては堕天してから見失っていた「為すべきこと」をくれた、おそらくは初恋の人だった。だが最期まで笑顔であり続けたアイリスの命を奪ったのは、彼女がずっと背負っていた病という限界ではなく、もっと早くに訪れた天上軍の襲撃だった。
 その少し前、天上軍からある「場所」を奪い取ることが出来た地上軍は、そこから得られた高純度レンズの原石によってソーディアン開発を最終段階にまで進めることに成功していた。そうしてついにソーディアンとそのマスターの選定が始まった、矢先の出来事だった。
 アイリスの死から数日後、ディムロスとシャルティエは自分がソーディアンに志願する決意をそれぞれ己のパートナーに告げ、さらにアトワイトもその後を追うようにしてソーディアンに志願したのだった。




消された過去



 カルバレイスの状況は芳しくない。
 セインガルドの属領であるカルバレイスへの物資供給は、最も高い生産能力を持ったノルズリを擁する、セインガルドの管轄になっている。国軍が一切を担うアクアヴェイル以外は、主にオベロン社の流通網やストレイライズ教団の組織を頼りに全国的な物資の供給・分配を行っている状態だが、オベロン社も教団も組織力が弱いカルバレイスでは供給網が充分に機能しておらず、港町であるチェリクと神殿のあるカルビオラ以外にはろくに物資が行き届いていない状況が続いている。住民登録も穴だらけで、どの都市も住人の数を把握できていない問題もある。略奪や横流しが最も多いと目されているのもこの地域だった。
 そのカルバレイスから、セインガルドを抜かして世界復興会議(というよりロス領)に現状改善への陳情が舞い込む。本国を無視した形は問題だったが、それでも内外でどんどん悪化していくばかりのカルバレイスを立て直せるチャンスかもしれないと、アステルは市長からの会談の申し出を受ける。
 諸々の調整の結果、スタンとリオン、さらに地下都市の代表としてディムロスとシャルティエも同行し、ルート率いる一部隊が護衛につくことが決まる。が、リリスもついていきたいと言い出した。どうせ学園は休止中で何も出来ないし後学のためにもと、メイドに紛れ込むので構わないからと頑として譲らず、最終的に家族なんだからとルートからも取りなしされたアステルが折れて、同行が許された。


 一方、チェリクへ発つ船を見送ったルーティとフィリアは、大人しくしているという約束でアイリスも一緒に、ダリルシェイド神殿へ向かう。正門からではなく人目につきにくい裏口から入り、そのままこっそりと神殿地下にある教団の記録保管室まで来た三人を、バティスタが待っていた。
 教団の記録から抹消されたクリス・カトレットのことを、リオンとフィリアはずっと調べ続けていた。真実を隠しているであろう者たちから全貌を引き出せるまで追い詰めなければ、リオンがそうだったように、当たり障りのない範囲ではぐらかされるだけだ。しかし教団が葬ったらしい何かを探ることに、まさかスタンたちを巻き込むわけにはいかない。そのため今まではリオンとフィリアの間で秘密裏に続いていたことだったが、今回リオンのカルバレイス行きと重なったことと、ルーティにとっても他人事ではないからと引き込むに至ったのだ。

 教団総本山で予言の祭儀を司る巫女だったというクリス・カトレット。ジョニーがもたらした写本だけでは手がかりが少なく、なかなか先に進めなかったが、二十年ほど前に行われた最後の予言祭を、バティスタが覚えていた。司教の勤めに忙しいフィリアが、近頃わずかな休日を費やして古い記録を熱心に調べていることを見かねたバティスタに問い詰められ、根負けしてクリスのことを話してしまったのだが、それが思わぬ手がかりに繋がった形だった。
 バティスタが覚えていた予言祭のおおよその時期と内容から、予言者の名前こそ異なるものの、該当する祭儀の記録を見つけ出したフィリア。さらには差し替えられた名前である、家名バルサムにも見覚えがあった。だが現在の教団名簿にバルサム家の人間はいない。ならば過去にいた人物か、結婚などで名前が変わったかだが、その行方を追うには大量にある教団の資料から探し出すしかなかった。よくも面倒なことになってから押しつけたわねと今は海上の弟へぼやくルーティに、フィリアも苦笑いを返すしかない。

 どっさり積み上がった資料の山を多少消化した頃、普段はほとんど近づく者のないこの資料室に、ひょっこりとシトラスが顔を出した。こんなところで司教たちが何を調べているのかと訝る彼を、見知った仲らしいバティスタが面倒くさげに追い払おうとする。
 バティスタから露骨に邪魔者扱いされながらもシトラスは、めげずに初対面のルーティに声を掛けてきた。「フィリア司教とご一緒ということはソーディアンマスターの方ですよね」と軽いノリで彼は、何くれとルーティの出自に絡むような話を振ってくる。リオンのような偽りの経歴を持たないルーティは、現代のマスターで唯一身元が公には不明であるため、ソーディアンの出所など興味を持たれているらしい。だがルーティが対応に困る暇もなく、見かねたフィリアが割って入り、叱り飛ばす。
 さすがに退散しようとするシトラスだったが、部屋の隅で乱雑に積み上げられた本を黙々と丁寧に積み直していたアイリスに目を止める。だが近づこうとした途端あからさまにアイリスから警戒されてしまい、小さな子供と動物とは本当に相性が悪いと彼はぼやきながら、もしかしてリリス様の妹さんか何かですかと首を傾げた。きっぱり否定するフィリアがそう思った理由を問い返せば、よく似ている気がしたのでと答えて、彼は今度こそ資料室を出て行った。

 シトラスがいなくなって、ルーティはどっと疲れたように何あれと机に突っ伏した。すっかり恥じ入って謝り倒すフィリアを適当に宥めながら、彼について訊ねる。
 リリスは公的にはエルロン姓のままであるため、スタンとも兄妹ではなく、ロス領主が身元を保証するロスからの奨学生という身分になっている。故に表立ってはセインガルド国軍が護衛につくことが出来ず、領主代行のアステルと教団大司教であるフィリアの母との間で、教団僧兵でありながら現在は学園の研究生でもあるシトラスを学園内での護衛としてつける約束が秘かに交わされたのだ。
 シトラス自身、教団とも縁の深いセインガルド有数の貴族アグライ・アキレギアに養子として引き取られてから頭角を現し、今では文武に秀でたエリート司祭として教団内でも将来を期待されている存在だという。さらにシトラスがまだ助祭だった頃、総本山でグレバムの研究チームに加わっていた時期があり、フィリアとも多少なりと交流があったのが護衛役に選ばれた理由の一つらしい。
 そしてシトラスのこれ以上に詳細な経歴ならリオンが詳しいはずだとフィリアは微笑む。「とても熱心に調べていましたから」と。




カルバレイスの闇



 一年ぶりのカルバレイスは、記憶にあるよりずっと暗く沈んでいた。
 この大陸の気温は今はまだ氷点下に達していないものの、もともと熱帯地域だったために人も建造物も寒さを知らなかった。暗い冬が始まって半年、粉塵が鎮静化する兆しは見えず、寒さに耐える余力に乏しいこの地域は他国より深刻な閉塞感が蔓延している。それでもチェリクは港があり、さらにオベロン社を通じてファンダリアの技術を取り入れていっているためまだ活気があったが、内陸に入るほど目に見えて環境は悪化し、周辺地域から多くの人が流れ込んでいる首都カルビオラも例外ではなかった。
 市長との一回目の会談に臨むアステルとディムロスをカルビオラ神殿の会議室に残して、スタンたちは神殿内と周辺を見て回る。
 教団の僧兵が巡回していることもあり、神殿に身を寄せているのは、病人や老人、女子供など弱者が多い。彼らは礼拝堂に運び込まれた毛布で夜を凌ぎ、神殿の炊き出しで食いつないでいるという。
 それでも最悪な状況に陥る手前で、踏み止まっている。先のグレバムの事件でごたついたカルビオラ神殿の立て直しと物資供給の整備は、司教に叙されたフィリアが最初に手がけた大仕事だった。山奥の総本山を一時閉鎖したことで行き場をなくした僧兵たちをまとめ上げ、自らもカルビオラに数ヶ月滞在し、治安維持と住民保護の指揮を直接執った。教団の現大司教の一人娘で新たな司教、そして救世の英雄という目立つ立場で、あえて派手に活動したのだ。現在ではフィリアはダリルシェイドに戻り、カルバレイスへの支援が細らないように尽力している。そうして半年が経った今では、かつて住民と断絶していた神殿も受け入れられるようになってきた。今回のカルバレイスからの陳情も、市長から教団へ依頼があって復興会議に届けられたのだ。

 カルバレイスの抱える問題は、単純な物資の不足ではない。
 生産能力の低いスズリはファンダリア全土のみを、ヴェストリはロス領と地下都市を持たぬアクアヴェイルへの供給も担い、アウストリはノイシュタットへの供給の他、供給が不安定な国境・中央山脈付近への援助も行っている。セインガルド北中部を余裕で養える地下都市最大の生産能力を誇り、ダリルシェイド港とも近く船で輸送を行いやすいノルズリが、カルバレイスへの供給を担うのは当然のことだった。そして生産量だけで見れば、これほどまでに困窮することはないはずだった。だが、その物資の一部は何処かへ消えてしまっている。何者かが蓄えられているのかもしれないし、闇で売買されているのかもしれない。
 ピンハネされても余裕で行き渡るくらい輸送力が上がればいいんだけどと、シャルティエは苦笑する。元ソーディアンたちは地下都市の管理こそ握っているが、それ以降の段階にはあまり口出しできないのが現状だ。
 リリスは粉塵で黒く覆われた空と、暗く赤く輝く太陽を見上げた。半年前にソーディアンたちが外殻を除去した時は、粉塵も幾ばくか巻き込んで減少させているが、それでもすべてを取り除くには遠く及ばなかった。あの状況では神の眼をもってしても、外殻を消滅させるだけでせいいっぱいだったのだ。早くこの空が晴れればいいのに。その呟きに、スタンははたと目を瞬く。千年前、巨大隕石とベルクラントによって巻き上げられた大量の粉塵は結局どうなったのか、現代に伝わる天地戦争のお伽噺では語られていないのだ。天上人に勝利した地上の人々は、平和を取り戻した大地で現代に続く国々を興していったという話でお伽噺は終わっている。

 千年前、粉塵は今より遙かに大量に空を覆っていたので、自然に任せていれば環境が正常化するまで数十年と掛かっただろう。しかしセインガルド王国とファンダリア王国の建国、ストレイライズ教団の設立は、どれも天地戦争終結から十数年以内であることが記録に残っている。
 しかしシャルティエもディムロスも終戦後の後始末を見届けることなく早々に眠ることを選んだので、当時、地上から晴れた空を見たことはない。
 そもそも惑星全体に力を行き渡らせようとするなら、神の眼のように巨大なエネルギー装置が必要になる。天地戦争終結後、神の眼を利用して粉塵を消滅させる計画が考えられていたのだが、その時はシールドを形成していた神の眼が、外部からのコントロールをまったく受け付けなくなっていた。このため神の眼との接触実験を行うことすら出来ないまま、計画は凍結されてしまったのだ。そして粉塵問題のその後については一番最後に眠りについたシャルロットすら知らず、地下都市にもそれに関する記録は残されていないという。
 千年前の空はいつ晴れたのか、誰も知らなかった。




夢について ~ reprise 01 ~



 そこは、いつかの闇だった。
「また来てしまったのか」
 巨大な結晶の上から、男は音もなく飛び降りた。その声がまるで怒っているようにも聞こえて、スタンは思わず顔を俯ける。
「ここに来てはいけないと言っただろう」
「でも、俺にもよくわからないんです」
 どうして、こんな夢を見てしまうのか。
「この闇に引きずられるな。このままでは君は、本当に飲み込まれてしまう」
「夢なのに?」
「そうとも言える。だが、君の夢じゃない」
 その時、スタンの目に初めて、男の姿がはっきりと見えた。
 この闇しかない世界に溶け込んでしまいそうな、黒髪と黒衣。瑠璃色の瞳だけが本当に鮮やかだった。
「言うなればこれは、神の夢だな」
「じゃあ、あなたは神様なんですか?」
 スタンの問いに、彼は苦笑しながら首を横に振る。そして背後の結晶を振り返った。
「夢を見ている神は、こいつだ」
 透明な硝子のような結晶の、球体の中心には果実の種のように薄紫の核がある。
 見覚えがあった。今度は、思い出せた。
「神の眼……?」




燃え落ちた花



 翌日。少し遅めの朝に、リオンとリリスがスタンを叩き起こしに掛かる。
 あの二人に任せておけば問題ないと、にわかに賑やかになったフロアを出たディムロスとシャルティエは、カルビオラ神殿の中を歩き回る。今朝から、うっすらと引き延ばされ薄められたような、妙な気配を何処かに感じていたからだ。そうして軽く一回りした二人が出した結論は、もっとずっと『下』の方からそれを感じるということだった。

 その頃、寝ぼけたままのスタンをせっついてなんとか朝の支度を済ませて、リオンとリリスの朝の大仕事は無事に片付いた。それから三人でとっくに仕事を始めているアステルたちのところへ向かう途中、神殿を突然の轟音が揺るがす。慌てて窓辺に駆け寄った三人が見つけたのは、神殿の一角から立ち上る黒煙と炎だった。事務棟で爆発が起きたのだ。そこの会議室には今、アステルとルートがいたはずだった。

 爆音を聞きつけて間もなく現場に辿り着いたディムロスとシャルティエは、撒き散らされた炎がフロアすべてに燃え広がる前に、象力で押さえつけ消してしまう。しかし黒く焦げた大穴が空いた部屋の何処にも、天井や床の瓦礫が落ちた下の部屋にも、動くものの姿は何一つ見えなかった。
 呼びかけに返事もなく、下に積み上がった瓦礫をひっくり返すしかないとディムロスが飛び降りようとした時、スタンがこの場に辿り着いた。


「叔母さん、たちは……」
 震えたスタンの声に、シャルティエに先に行けと目配せを送ってからディムロスは、答えるための言葉を探す。
「……わからん」
 だが結局、言えたのは、そんなどうしようもない言葉だけだった。
 無残に破壊されたこの部屋に、アステルとルートはいたはずだった。今は二人の姿は何処にもない。わかっているのはそれだけだ。
 声もなくその場にのろのろとくずおれたスタンの傍らに、ディムロスは片膝をつく。
「ここは危険だ」
 狙われたのは、きっと、昔と同じなのだ。
 ロスマリヌスだから。ディールライトだから。小さく咲き誇る紫の花はいつの時代も、セインガルドの貴族にとって無視できない影だった。決して王にならない、しかし王の影だった。
「なんで……なんで、こんな」
 ああ、同じだ。項垂れるスタンの腕を取って立たせながら、ディムロスはきつく歯噛みする。
 同じだ。あの日もこんな風に、突然ロスマリヌスの会議場が炎に包まれて、シオンは母親を奪われた。
 あの時とは違って自分は言葉しか持たない剣ではなくなったけれど、人の姿を取り戻した今も、こんな理不尽に無力であることに変わりはなかった。


 瓦礫の下からも何も見つからないまま、事件から数時間が経過した。
 厳重な警備がされた客間に押し込められ待つことしかできないスタンとそれに付き添う形だったリリス、ディムロスの分まで動き回っていたリオンとシャルティエが、その報告を持ってくる。


「そっか」
 リオンの話を聞いて、スタンはため息のように声を落とすと、きつくその目を閉じた。
「ルートさんの隊の人たちは、何て」
「こちらの決定に従うそうだ」
「何人かを調査に残らせて、あとはなるべく早く帰国、するしかないよな」
「だろうな」
 こんなことになってしまっては、当初の目的どころではない。
 リオンも重く嘆息をこぼす。と。
「スタン」
 それまで二人の会話を黙って聞いていたディムロスが、硬い面持ちでスタンを見据える。
「……それで、いいのか」
 ディムロスはたったそれだけしか言わなかったが、スタンは苦く微笑んで、肯いた。


 アステルもルートも、まだ死んだと決まったわけではない。だが現状、生死も行方も不明だ。
 これによって差し迫った問題となる一つが、ロスマリヌス領主が不在となることだった。
 先代領主であるシオンが死んだ時には、スタンたちがまだ幼すぎたこともあり、アステルが代行に就くことで領主が空位になることを回避した。

 アステルはシオンと血の繋がった兄妹ではない。
 二十六年前、セインガルドとアクアヴェイルの和議決裂をもたらした議場爆破事件での数少ない生存者の一人がアステルだった。頭部に重傷を負って記憶喪失となった彼女は親類縁者が見つからなかったため、保護したディールライト家がそのまま養女として引き取ったのだ。この事件ではシオンだけでなくルートも母親を失っており、アステルの世話をしたのはもっぱらルートの姉ラティルスだった。

 また領主代行という地位は、領主家の血を何より重んじるロス領ではままあることで、爆破事件当時ロス領主だったシオンの母カーリアの死後はその夫が、次期領主シオンの後見人として代行となっていた。アステルの場合は非公開だったシオンの嫡子の後見人として代行に就く形を取っていた。

 その後、リコリスの惨劇を経てロス領は閉じこもるようになり、シデン領など一部を除き外交は途絶えるようになった。そうして、スタンとリリスの存在もセインガルドの貴族で把握していたのはほんのわずかだったほどに、ロス内部の情報を隠してきたのだ。
 だが半年前、スタンはディールライトの嫡子として公式に名乗り出ている。正当な後継者であると宣言している以上、帰国すれば新たなロスマリヌス領主として求められることは必定だった。


「俺が継ぐ。ディールライトを名乗った時から、覚悟はしてたさ」
 すべてを引き受けると決めた兄の言葉に、リリスは唇を引き結んだまま泣き出しそうに顔を歪めた。









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