帰国
カルバレイスでの事件と、ロス新領主就任が発表されて、三日。
完全に閉め切られロス領関係者以外は立入禁止の迎賓館を、リオンに引っ張られてルーティが訪れる。リラの実家に身を寄せてスタンたちの帰国を待っていたのだが、今回のカルビオラ神殿爆破事件に伴う騒ぎで、出迎えるどころか会うことさえ出来ずにいたのだ。今日リオンを掴まえることが出来たのも、チェルシーとマリーに頼んで、次の復興会議の準備でダリルシェイド入りしたばかりだったウッドロウに繋ぎを取ってもらったからだ。
それもただスタンの様子はどうか聞きたかっただけなのだが、有無を言わさずそのまま迎賓館に引きずり込まれてしまった。さすがにリオンは顔パスで、しかしその連れであるルーティも今はただのロス領に済む一般人でしかないのだが、入口でも何ら咎められることはなかった。
ファンダリア国王であるウッドロウは言わずもがな、教団司教を務めるフィリアも、そしてロス領の要人となっているスタンもリオンも、元ソーディアンたちでさえ、世界復興に何かしらの役割を担うことで関わっている。
世界を救った頃、ただの仲間だった頃には、誰の地位も身分もことのほか意識したことはなかった。ロス領やスタンの出自に関することでも、ただ自分の父親がスタンの父親を殺したらしいということ以上に重たいことなどないと思っていた。
なのに今は、見えない線で住む世界が隔てられてしまった感覚が拭えない。
かといってリリスやチェルシーのように追いかけようとしているわけでもないから、自分はこれからも遠ざかる一方なのだ。
こうして連れてきてもらわなければ、こんな時に、会いたい人に会いに行くことも出来ない。
そんなことを愚痴のようにこぼすルーティを、リオンは思いっきり顔をしかめて、殊勝すぎて気味が悪いとため息をついた。
「どうせ今ここには他に誰もいないから、言うが」
顔を合わせるなり問答無用で腕を掴んでこの迎賓館に引きずり込んで、ルーティが何を言おうと振り返りも立ち止まりもしなかったリオンはつと向き直って、少しだけ言葉を探すように逡巡した。
「何よ」
「今のスタンに一番近いのはきっと、姉さんだ」
いきなり姉と呼ばれて、ルーティは面食らう。それからじわじわと、言われた意味もとんでもないと気がついた。
「ちょ、ちょっと!?」
「何だ」
「ええと……だから、そうじゃなくて、リリスちゃんは。たった二人の兄妹じゃない」
「兄妹であることも秘密にしたまま、ひたすら守られてることしか出来ないんだ。あいつは」
苦々しく返された弟の言葉に、ルーティはこの迎賓館の何処かでひっそりと身を潜めている少女の悲痛を思う。カルバレイスに同行していたリリスなら、外に出なければそのままこの場所にいられるはずだ。だが、だからこそ彼女は何も出来ない。兄に守られる妹であることしか出来ない。
「だから、あの莫迦は姉さんが何とかしろ」
リリスは僕が守るから。
呟くようにそう言った声は逞しい響きで、一年前のような捨て鉢の脆さは何処にもなかった。
「……エミリオ」
弟を少し見上げて、ふと思う。彼は背が伸びた。一年前に旅をしていたは自分と同じくらいしかなかったのに、今はもうスタンとほとんど並ぶほどになった。年齢を考えれば、これからもまだまだ伸びていくかもしれない。
「何だ」
「相手がブラコンだからって、思いあまって早まったことしちゃダメよ?」
「……殴っていいか」
「イヤ」
人づてに聞くより自分で会った方が話が早いとリオンに放り込まれた、スタンの部屋は静まり返っていた。
入れ違いで部屋にいないのかとルーティは首を傾げるが、リビングの照明はついたままだ。よくよく室内を見回すと、続き部屋になっている寝室の扉が開けっ放しになっている。そっと忍び込んでみれば果たして、やわらかなシーツに突っ伏すように倒れて眠り込んでいるスタンが見えた。
しかも熟睡だ。ルーティがベッドの端に腰掛けて顔を覗き込んでも、まったく反応がないくらいに。
本当に、小さな子供みたいによく寝ていた。つい先日も、母親を亡くした時のことを話してくれたスタンはそれから間もなく寝入ってしまっていた。旅をしていた頃も朝には弱かったが、それとは少し違う気がしていた。疲れているのだろうし、気を張っているのだろうし、もしかしたら限界が近いのかもしれない。今はとんでもないところに立ってしまっているこの男は初めて出会った頃から、超人でも何でもない田舎育ちの青年だ。
毛布を掛けてやるついでに、ほどけかかっていた髪留めを外してみると、手入れされるようになった分、以前よりなめらかになった金髪がさらさらとこぼれ落ちていった。それでもやはり、ぴくりとも動かない。しかし、いたずらして起こすわけにはいかないが、このまま起きるまで待っているのも手持ち無沙汰で退屈だ。さっきの今で弟の邪魔をするのもさすがに忍びない。結局どうしようもないままスタンの寝顔をぼんやり眺めていたルーティの意識も、いつの間にか眠りに落ちていった。
そのしばらく後、目を覚ましたスタンが目の前のルーティに驚きすぎた大声を上げてしまって、何事かと飛び込んできたリオン(合い鍵持ち)がベッドの上で固まっているスタンと大あくびしている姉の姿を目撃、そのまま二人揃って説教を食らうハメになるのだった。
その頃、人けのないジルクリスト邸の書斎で、ヒューゴとシャルティ、とディムロス、そしてアッシュが集まっていた。
「捜索は続けています。が、何の痕跡も見つからない」
血痕も死体も見つからない。
書棚に背を預け、アッシュが絞り出すような声で言った。
「あの爆発の規模からすると、多少燃えたところで、巻き込まれて何も残らないとは考えられん。少なくとも、あの場で殺されたわけじゃない」
ディムロスの言葉にシャルティエも肯く。
「僕もそう思う。でもわからないのは、何者が、何の目的で、あの二人を拉致する?」
ロスマリヌスの領主代行と、セインガルド王国七将軍の一人。どちらも要人ではあるが、二人の身柄と引き換えに何らかの要求が為されたわけでもない。犯行声明も何もないまま、沈黙が三日も続いているのだ。
「となると、ロベルトの紅焔を確認する必要があるな」
これまで三人の言葉を黙って聞いていただけだったヒューゴが、嘆息まじりに口を開いた。
「まさか」
「既に青水も狙われているのだ。ありえぬとは言い切れまい。あの剣の真の価値を知らなくとも、高密度レンズというだけで価値を見出す輩はいるだろう」
「では私が」
身を乗り出したアッシュを、ヒューゴが軽く手を挙げて制する。
「いや、アシュレイは今ダリルシェイドを離れるべきではない。ここは隠居同然の私が行こう」
「……わかりました」
二人の話がついたのを見計らって、シャルティエがひょいと割り込む。
「ヒューゴ、あの剣の真の価値って何のこと?」
「レンズ以外に、何かあるのか」
ディムロスも怪訝な目をヒューゴへ向ける。するとヒューゴは、口の端に苦い笑みを滲ませた。
「金陽、銀月、白光、黒影、紅焔、青水、翠風、黄土。この世界にはそんな名前の剣が八本存在していて、それらはかつて女神が世界の涯てに封印した『滅び』を解き放つ鍵である。──お伽噺だがな」
そうしてヒューゴが地下都市経由の裏道を使ってロス領へ向かい、ディムロスとシャルティエも借りた青水を調べるため地下都市に戻った、その日の夜。
厳戒態勢のセインガルド城に、何者かが侵入した。
離れた手
その日は、風の強い夜だった。
警備兵からの定時連絡が途絶えた、セインガルド城、東の城門。異常が発覚した時に詰め所に居合わせ、夜番の兵たちと駆けつけたアスクスが見たのは、サイフリスのツタに絞め殺された兵たちの死体だった。
すぐさま警報が鳴り響き、城内はにわかに慌ただしくなる。
だがそれと同時に迎賓館一階に火の手が上がり、瞬く間に一階フロアが炎に埋め尽くされてしまう。炎の勢いは激しく玄関も窓も燃えていて、駆けつけたアスクスとミライナも、燃え盛る迎賓館の中に入ることはおろか近づくことすら叶わない。周りには建物も木もないので上階の窓に飛び移ることも不可能だ。消火作業と地下都市への緊急連絡を命令した二人は、炎に包まれていく迎賓館を見上げることしか出来なかった。
迎賓館三階、異変に気づいたリオンが部屋を出た瞬間、サイフリスのツタが廊下の死角から襲いかかる。だがその先端は、リオンと奥のリリスに届く寸前に引き抜かれた剣に弾かれ、さらにリリスの肩にいたヒエンによって跡形もなく消滅させられた。
そして。
奇妙にくぐもった音の、気のない拍手を打ち鳴らしながら悠然と廊下を歩いてきた襲撃者は、二人の見知った顔だった。
「ムカつくな。忌々しいその銀の守護者がなかったら、サイフリスで支配してやれたのに」
木の枝のように変貌した左腕を見せつけるように掲げて、シトラスが酷薄に笑う。
びくりと身を竦ませたリリスをその目から隠すように背後に庇って、リオンはまっすぐ剣を向けた。
敵は、こんなにもすぐ近くにいた。
「女神様を守る騎士きどりかい、格好いいね」
「すべて貴様の仕業だったのか」
「そうだ、と言ったら?」
この男が、サイフリスの宿主だったのだ。昔の傷跡が残っているからと常に肩まである長い手袋に覆われていた左腕は、サイフリスの種子を宿していたのだ。学園占拠事件だけでなく、あるいは一年前のグレバムの事件にさえ関わっているかもしれない。
「洗いざらい吐いてもらう。力ずくでもな」
するとシトラスは面白がるように目を眇め、そして。
「僕を返り討ちにして掴まえるつもりなんだ? 怖い怖い。でもそんなこと、おまえに出来るかな、エミリオ・カトレット」
色濃い嘲りを込めて、リオンを本名で呼んだ。
「──何のことだ?」
少し震えたリリスの手が右腕に触れるのを感じながら、リオンは冷然と言い返す。
「しらを切るの。まあ仕方ないよね、今や忌まわしい汚点でしかない名前だ。おまえの存在は穢された血の、穢れた証そのものなんだから!」
侮蔑と憎悪がないまぜになった声で、シトラスは高らかに叫んだ。
シトラス・アキレギアはストレイライズ教団で生まれ育った人間だ。素性と経歴は、リリスの護衛役に選ばれた時に調べ上げていた。カルビオラ神殿に勤める神官の両親から生まれ、あの国で幼少期を過ごし、アキレギア家の養子になってから総本山へ移ってきた。教団の記録ではそうなっていた。
ストレイライズ教団。母クリス・カトレットはかつてそこにいたらしい。だが記録は何一つ残っていない。記録から抹消されたと思しき痕跡をフィリアが見つけ出しただけで、カトレットの名そのものが闇に葬られているはずなのだ。
シトラスは、カトレットの何かを知っている。
握りしめた剣が、微かな音を立てる。
だが唐突に熱狂をかき消して、シトラスが冷ややかな薄笑いを浮かべた。
「ソーディアンもないくせに、本当に僕に勝つつもり? でも残念、時間切れだ」
ぱちんと何かが爆ぜる小さな音がした刹那、シトラスの背後とリオンたちの背後の廊下が、油か何かに引火したように瞬く間に火の海と化す。
「おまえと遊んでる暇はなくてね。ほら、お姫様が大事なら、さっさと逃げないと焼け死ぬよ」
リオンの視線が背後の炎に向けられた隙をついて、シトラスが踵を返して火の海に飛び込む。その後ろ姿が揺らぐ熱気の向こうで、上階へ続く階段に消えていく。
「くそ……っ」
まんまとはめられたのだ。
シトラスの狙いは、最上階にいるはずの、スタンだ。
四階にいたスタンはルーティと、紅焔の件を報告に訪れたアッシュと一緒だったのだが、突然の炎と、廊下に張り巡らされたサイフリスのツタによって分断されてしまった。みっしりと絡み合ったツタは壁のようにあちこちの道を塞いで、アッシュの合流を阻む。
またスタンとルーティの方も、脱出路をことごとく塞がれ、階段の下から溢れる黒煙と、なぶるように散発的に襲いかかってくるツタによって、ついに屋上庭園にまで追い詰められてしまう。
そしてそこへ、リオンを撒いたシトラスが姿を現した。夜空は完全な暗闇だが、火災の照り返しで何も見えないわけではない。異様な左腕に絶句するルーティの隣で、襲撃者を厳しく見据えたスタンは「叛乱組織の人間だったのか」と問うた。
「そうですね。そう呼ばれる組織に属しています」
逃げ道はない。だからかシトラスは、余裕のていで答えを返してきた。
「カルビオラ神殿で、アステル・ディールライトとロベルト・リーンを襲ったのもおまえたちか」
「さあ、どうでしょう? 残念ながら下っ端の僕では知らないことが多すぎるので、詳しいことは我らがクィーンに直接お尋ねください。ちょうど、あなたをお連れするように命令されていることですし」
「やっぱり目的は俺か」
スタンが苦々しく呟く。
「狙いは現王朝の転覆か?」
「クィーンの望みは、この歪んだ世界を変えることだそうです」
「馬鹿言ってんじゃないわよ! 救済を謳って、あんたたちはどれだけの人を犠牲にしてきたの」
横から怒鳴り返したルーティに、シトラスが表情を嫌悪に染めた。
「ああ、そういえば前はフィリア司教に邪魔されて最後まで聞けなかったけど、おまえ、カトレットなんだろう? ルーティ・カトレット。今更こそこそ名前を隠して出てくるなんて、おまえもあのヒューゴ・ジルクリストとクリス・カトレットの子供なんじゃないの。姉弟揃ってまたディールライトに取り入って、今度は何を破滅させるつもり?」
「なっ──」
この男はいったい何を言っているのか。
思わずルーティが凍りついた刹那、それまでシトラスの足下にわだかまっていたツタが鋭く突きかかった。
「ルーティ!」
息を飲み込むより早く、彼女の前に割り込んだスタンの剣がツタの矛先を逸らす。だが断ち斬るまでには至らず、弾かれたツタは大きく跳ねて彼の右腕を切り裂いていった。
我に返ったルーティはすかさず前に踏み込んで今度こそツタを斬り落とすと、そのまま膝を落とした彼を背に庇う。
「バカ……!」
「ごめん、失敗した」
違う。今のは自分が悪い。斬られたツタをいったん引っ込めたシトラスから目を離さないようにしながら、一度だけスタンに視線を送ってルーティは唇を噛む。
軽く苦笑してそれほど深くないと彼は言うが、左手で押さえられた右袖が黒く染まりつつあった。深くはないかもしれないが、浅くもない。一年前ならアトワイトの力を借りてすぐに直せた程度の傷だろう。だが今ここにソーディアンはないし、象力者もいない。利き腕を負傷して、しかも相手はただの賊ではなくあのサイフリスの宿主だ。大半のツタは迎賓館内部を覆うだけで、複雑なコントロールをされているのはシトラスの側にある太い一本だけのようだが、それでも十二分に脅威には違いなかった。
逃げ道は塞がれている。低いフェンスを乗り越えた下は雪が積もっているが完全に凍りついていて、しかも五階の屋上ともなればいつかのように飛び降りるわけにもいかない。
そこまで考えて、ふと思い出す。
「ねえ。あの金色のは」
「いるけど、俺の言うこと聞いてくれるかわからない」
ルーティの鋭いささやきに、スタンは少し困惑した声で返す。
ヒギリ。子猫のように小さな金色の龍を、ディムロスは守護者だと言っていた。肩の上で丸まっていることもあるが、今はスタンの影の中に潜り込んだままのはずだ。強い力を持っているらしいが、勝手に何かをすることはあっても、意図してヒギリに何かをさせたことはなかった。
「内緒話も結構ですが、その怪我じゃ剣も満足には握れないでしょう。大人しく僕と来てくれませんか」
「断る」
左手の血を袖で拭い取ると、立ち上がったスタンは剣を右から左に持ち替える。
他者の支配は受けない。名を継ぐと決めたからには。
「では、邪魔者もいることですし、力ずくで大人しくしてもらうしかないですね」
シトラスがそう言うが早いか、冷たい夜風を切り裂いて二人の背後から突然現れた巨大なツタが、ルーティの身体をフェンスの外へ弾き飛ばした。
破られたフェンスから空に投げ出されたルーティの手を、間一髪でスタンが掴まえる。だが左腕で手すりを掴み、ルーティを支えているのは負傷した右腕だ。見上げたルーティの頬に、彼の右腕からこぼれた血が落ちる。この傷でルーティを引き上げるのは無理だ。ましてシトラスもいる。手を離してと叫ぶルーティの声を、スタンは聞かない。それでも血に濡れた指は少しずつ滑って、ほどけていく。逆にフェンスから手を離そうとするも、それはサイフリスに絡め取られ繋ぎ止められてしまった。
そしてついに手が離れた瞬間、スタンがヒギリの名を叫んだ。
落ちていく、ごうと風を切る音は一瞬だけだった。
凍りついた地面に叩きつけられるより前に、ルーティは大きくなったヒギリの背に受け止められていた。
呆然と屋上を振り返ったルーティの目の前で、迎賓館を包んでいた炎が、蝋燭を吹き消したようにふつりと消える。
間もなくディムロスとシャルティエ、アトワイトが地下都市から到着した。リオンもリリスを伴って外に降りてくる。
アトワイトとミライナにリリスを預け、未だ熱の残る迎賓館をルーティたちは屋上まで走る。
だが風が吹き荒ぶ屋上庭園にはもう、誰の姿もなかった。
声もなくくずおれるルーティの肩には、もとの小さな姿に戻ったヒギリが座っていた。
こぼれおちて、そして…
「どうして……」
自分のものではない血に塗れた、自分の手を見つめて。
「あたしの、せい……?」
少しでも支えに、助けになりたかった。
ただ、それだけだったのに。
「あたしが、いたから……」
その結果がこの現実なのか。
「あたしなんて、来なければよかった……!」
自分が泣くことは、許されない気がした。
虚脱状態のルーティをなんとか部屋に寝かしつけたアトワイトは廊下で、何故かヒエンを伴ったディムロスに出くわす。
リリスの影に潜んでいるヒエンは、普段はディムロスの意志を受けて彼女を守護している。ヒギリも同様に、スタンを守護しているはずだった。だが今のヒギリは、ディムロスの支配下にないという。むろん二龍はスタンやリリスだけを守るのでなく二人の願いを汲んだ行動も起こすので、ヒギリが落下するルーティを救ったことはおかしなことではない。だがその後もルーティから離れないことは、ディムロスが与えた命令から外れている。なにより今のヒギリは、ディムロスの声を受け取らない。
ヒエンは変わりないので、ヒギリの支配者だけが移っているとすれば、それがスタンにだとすれば、それが何を意味するのかがわからない。ディムロスがハロルドから教えられたのは、この金と銀の守護者はディムロスが母親から受け継いだ運命そのものであり、故にディムロスを生かすことを第一の使命とし、それに反しない限りはディムロスの守りたいものを守ってくれるということだけだった。
「どうして」
こんなにも寒いのは、きっと深い夜の冷たさからだけではなかった。
「どうして!? アッシュ、あなたがついていたのに、どうして……どうして、あの子から離れてしまったんですの!?」
肩を支えてくれている彼の腕がなければ、凍え死ぬことも出来たかもしれない。
「そんなに責めてやるな、出し抜かれたのはみんな同じだ」
「わかっています……!」
無力だった。
世界一の大国の王となっても、何も変わっていないのか。
ただ目を固く閉ざし耳を塞ぐしか出来なかった、あの頃と何も変わっていないのか。
シトラス・アキレギア謀反。
リオンの証言により、その夜のうちに七将軍ドライデン率いる一軍がアグライ・アキレギアを重要参考人として確保に向かうが、既に屋敷から彼の姿は消えていた。取り残された使用人たちも主人の失踪に混乱しており、外出禁止のうえで翌朝以降に聴取が行われることに決定される。
ストレイライズ教団は深夜にもかかわらずフィリス大司教自ら登城し、今回の事件への教団の関与を全面否定。しかしシトラスがサイフリスの宿主であったことで昨年のグレバム・バーンハルトの事件との関連も疑われるため、現在はフィリア・フィリス司教の監督下にある元背約者バティスタへの事情聴取を許可する。
フィリアとバティスタが知るシトラスは、カルビオラ神殿から総本山に異動してきた五年前から、グレバムが神の眼を強奪する数ヶ月前までの間のことだった。そのうち最後の一年間は、同じグレバムの部下として研究に勤しんでいた。
グレバムの娘であるアルメリアが、植え付けられていたサイフリスの暴走によって脳を損傷したのもその頃だったとバティスタは言う。ある日突然、部屋を埋め尽くすほどの大量のツタに囲まれて、彼女は生ける人形と化していた。その直前に何が起きたのかはわからないままだ。
故意か事故かはともかく、アルメリアの件はシトラスが関与した可能性もあると、同席したクレメンテは重く息を吐く。異なる宿主に支配されたサイフリス同士が接触した際、相互干渉で暴走事故を引き起こした例は天地戦争時代にもあった。サイフリスのコントロールは一年足らずで安定させられるものではなく、その頃のシトラスは既にサイフリスを宿していたと考えられた。
そしてグレバムに種子を渡したのもシトラスである可能性が高まった。一年前の総本山占拠も、先日の学園占拠事件も、そして今回も、サイフリスは同じ型だった。しかしその型は、ミクトランが用いていたものとは別の型だ。ならばシトラスがサイフリスの種子を入手した経路が問題になる。
夕刻、ロス領から戻ったヒューゴは、再び激変した状況をアッシュとジョニーから聞かされる。
ヒューゴに残るミクトランとミオソティスの記憶を辿っても、やはりシトラスの存在はない。ミクトランは神の眼を見つけるためにアルメリアを人質に取っていたが、あの時点のグレバムに逆らう気配がなかったこともあり、意味もなく人質に危害を加えようとはあの狂人も考えなかったはずだ。
古代技術に深く通じた何者かが他に存在し、叛乱組織のバックについている可能性がある。
さらには紅焔も、リーン家の隠し場所から持ち出されていた。
剣の末裔に話が及び、アッシュとジョニーも目を瞠る。まず青水が狙われ、次にルートと紅焔が消えた。そして昨夜はスタンだ。あるいはディールライトの政治的な価値だけでなく、剣の伝承こそが目的である可能性も否めない。もしそうなら、次に狙われるのは一度失敗している青水か、それとも。
苦い顔になる二人に、ところでリリスの傍を離れてリオンは何処へ行ったのかとヒューゴは問う。この一室にアッシュとジョニーが揃っていたのは、リリスがいるからだ。だがリオンの姿はここにはない。
するとリリスが、たぶん迎賓館と答えた。それから彼女は、シトラスがリオンに投げつけていった言葉を伝えるのだった。
立入禁止のテープが囲む境界線から、リオンは黒く煤けた迎賓館を見上げた。
ソーディアンもないくせに。シトラスが嘲笑った言葉が耳に残る。
行方不明のスタンは拉致されたと考えられている。間違いはないだろう。ルーティが聞いたシトラスの目的は、叛乱組織の首謀者らしきクィーンなる人物に引きあわせるためスタンを連れ去ることだった。それが次にどんな事態を招くかは別として、差し当たって命の危険はないと思いたい。
だがアステルに続いてスタンが消えたことは、別の問題も引き起こしている。ディールライトの名は今、空っぽになってしまった。誰もまだ何も言わないが、リリス本人は理解しているようだった。万が一の時には、彼女が決断しなければならないかもしれない。
その名の重さを自分は、本当の意味では理解できていないかもしれないけれど。
──力が欲しかった。守りたいものを守れるだけの、力が。
事件の数日後、地下都市ではメインシステムの復旧に全力をそそいでいた。
千年前に機能を凍結された地下都市は、不慮の事故で再起動することがないよう、システムを細分化した上で厳重なロックが施されている。故にまずは個々のロックを解除し、それからシステム全体を再構築しなければ完全復旧には至らないのだが、現在は生命維持と食料・燃料生産に関わる最低限しか機能していない。今までは物資供給を第一にしていたためほとんどが手つかずのままだったのだが、管理システムが生き返れば、一年前の天上都市攻略時にスタンに持たせた発信機の痕跡を追うことが出来るかもしれない。今もまだ、シトラスの逃走ルートすら何もわかっていないのだ。
実作業に当たれる人数は少ないが、凍結作業の一部に携わっていたシャルロットもいる。さらには大半の作業を担ったのがカーレル・ベルセリオスとジニア・カイザイクということもあり、彼らの教え子であるディムロスやイクティノス、リリーにしてみれれば知ったクセで組まれた暗号だ。集中的に取りかかれば、再構築を含めた完全復旧まで一ヶ月程度という目処が立っていた。
そうして他のメンバーに比べればシステムに精通していないアトワイトが連絡役として、登城してリラたちにそのことを報告した帰り。今はチェルシーとマリーのところに預けられているはずのアイリスが、地下都市へ降りる扉の前でアトワイトに飛びついてきた。小さな身体を抱きとめたアトワイトはどうしたのと訊ねて、そういえばこの子は喋れないのだったと思い出す。アイリスは彼女の手を引いて、早く都市へ戻れと急かすように扉を指差した。さらに都市の中に入ってからも、アイリスは手を繋いだまま走り出す。何処へ行くのかと怪訝に思いながら黙って引っ張られていくと、辿り着いたのは、ディムロスが凍結解除作業をしているシステムルームだった。
急にどうしたのかと驚くディムロスに、アトワイトも何と答えればいいのかわからない。アイリスは俯いて、ここから動こうとしない。困った二人は顔を見合わすが、結局、この子の好きにさせてみようとディムロスが笑った。
そして、せっかくだから一休みにしましょうかとアトワイトが誘って、隣接のラウンジで二人分のコーヒーとホットミルクを用意する。アイリスは何事か思い詰めたような顔をしていた。あの事件のせいで消沈したままのルーティも心配だが、アイリスも放っておけない。
他の皆はシステム復旧に掛かりきりだ。地下も地上も今は大変で、医者の自分がしっかり見ていなければ。そっと気合いを入れ直してディムロスとアイリスを呼んだその時、異変は唐突に生じた。
席を立ちかけたディムロスが突然くずおれ、その場に膝をついた。慌てて駆け寄ったアトワイトは、彼の傾いだ上体を床に落ちる前に抱き止める。だが。
どうして。
ひどく遠いところから聞こえるように、自分を呼ぶ声が聞こえる。
どうして、こんなことになっているのだろう。
理解など出来なかった。
だって、この感覚は、まるで。
まるで引き剥がされていくかのように、五感が遠ざかっていく。
霞んでいく視界が捉えた人影に、そんな泣きそうな顔するなよと言いかけて。
そして、思い出す。
――ごめんという声も、もう届かない。
落ちるように意識を失ったディムロスはそのまま目覚めることなく、呼吸を止めた。
何の前触れもないまま、唐突に、命の火が消えた。
今でもまだ眠っているようにしか見えないのに、これはもう亡骸になってしまっているのだ。
死因はわからない。異常は何も見つからない。
病室のベッドに横たえられた彼の傍らに、アトワイトはただ立ちつくす。
ありえない。青ざめた顔のシャルロットが掠れた声で呟く。
この世界に涯てが存在している限り、生かされるはずではなかったのか。
それともこの死さえ、運命だというのか。
もしここに君がいたら、何か視えていただろうか。シャルティエは記憶の中の親友に、帰らぬ問いを投げかける。
彼の眼は望むと望まざるとに関わらず、無数の運命を視ていた。
生かされる運命も、死すべき運命も、彼自身が命を捧げるべき瞬間も。
前触れは、本当に何もなかっただろうか。
視界を横切った小さな少女の姿に、アトワイトはのろのろと顔を上げた。
こんなことになってしまって、リリーに連れ出されていたはずだが、アイリスは一人でここまで来たらしい。
この子は何者なのだろうか。あるいは、この運命を知っていたのだろうか。だがアトワイトの知っている運命視は、リオン・カイザイクとクリス・カトレットは、その目で運命を見通すことは出来ても、それがいつ起きることなのかまでは知れなかった。
アイリスはディムロスの手に触れ、祈るように目を閉じる。
そして。
動かないはずの指が、ほんのわずか動いて。
ゆっくりと起き上がった彼は自分の手を見つめ、大きく息を吐いた。
「上手くいったのか」
それから小さなアイリスに向けて、助かったと小さく礼を言う。その信じられないような光景を目の当たりにしながらアトワイトはしかし、奇妙な確信に意識を囚われていた。
「──あなた、誰?」
呟くようにこぼれたその声に振り向いた彼は、面白がるように口の端で笑った。
その日、アトワイトとアイリス、そしてディムロスが姿を消した。