透明な、でも確かな籠の中。
近くて遠い、空を夢見た。
どこまでも広がる、果てしない空の中。
遠くて近い、空を夢見る。
四章 いつか見た夢
ストレイライズ教団総本山の中央に、象徴的にそびえる知識の塔。
フィリアは呼び声に導かれ、その最上階に来ていた。
今まで足を踏み入れたことのない塔だが、造りはいたって単純で、その階の中央にある階段をひたすら上るだけでよかった。
一階からつい先ほどまでの三階は、多少――いやかなり隙間が目立っているようにも感じたが、書物があふれていた。
だが、この最上階である四階は、それまでとはまったく趣が異なるものであった。
書物は一冊も見あたらない。
四方の壁に刻まれた幾何学模様が淡く光を放っている。緩やかに円を描く壁を六等分した間隔で並ぶ直方体の柱も、やはり複雑な線が走っている。が、一本飛ばしに三本は闇に眠ったままだ。
「これは……?」
誰に問うでもなく、思わず口から疑問がこぼれる。
フィリアが訪れたことのある古代の遺跡に、生きてはいなかったが、これとよく似たものがあった気がする。だが、それがなんなのかはわからなかった。
『退魔結界の礎じゃよ。周囲にモンスターを寄せ付けぬ、古代の遺物の一つじゃな』
「――!!?」
どこからか返ってきた答えに、思わずフィリアは身を強ばらせる。
『怖がらんでもよい。
わしの声が聞こえるな? 階段の反対側まで来てくれんかの』
あたたかみのある老人の声だ。
フィリアは意を決し、言われたとおりに階段の反対側へ回り込む。
『ほぉ、なかなかに可愛いらしい娘じゃな』
壁に飾られた大剣がまず目についた。だが。
「――あの……?」
『わしはクレメンテ。おまえさんの名は?』
「あ、は、はい。フィリア・フィリスと申します。
…あの……、クレメンテ…さん、どこにいらっしゃるのですか……?」
辺りをきょろきょろと見回しても、人影は見あたらない。声は、本当にすぐ近くから聞こえるのだが。
『さっきからお主の目の前におるよ。壁にかかった剣がわしだ』
「――っ?!」
フィリアは思わず息を呑む。
この剣も、あのダリルシェイドから来たという人たちの持つ剣と同類ということになる。それが、知識の塔に眠っていたとは。
彼らの操る晶術を目の当たりにしたから、わかる。この剣の存在が、知識の塔に入る者を制限していた理由なのだろう。ソーディアンとは、それだけのことをするべき力を持っている。しかし――
「あの…なぜ、私をお呼びになったのですか?」
自分など、なにもできやしないのに。
自分など、なんの力も持ってやしないのに。
伏し目がちにそう問うてきたフィリアに、剣の老人が小さくため息をもらしたような気がした。
『わしにお主の声が聞こえた。
そして、わしの呼び声にお主は応えてくれた。
わしはお主に力を貸そう。
わしがお主の力となろう。
どうかね?』
「――それは……」
『まずは、下の騒動に決着をつけんとな。話は、その後でもよかろう。
お主が終わらせるのだ。これは、"お主にしかできん事"だ。
やれるな?』
すべて、見透かされているような気がする。
やってみても、いいのかもしれない。
「………はい」
眼鏡の奥の瞳に、凛とした光が灯った。
ずざざっと床を大きくこすり、なんとかその場にとどまる。衝撃波の勢いを殺し損ねたのだ。
「どうすればいい?」
荒い息の中、スタンが手の中の相棒に問う。視線はホールの中央に向けたままだ。
『どうすればと言われてもな……』
自分やシャルティエの使う晶術は物質的なものだ。アトワイトも。それでは、"彼女"は倒せそうにない。昔もそうだったから。
といっても、それ以外のを操るとなると、まともに扱える自信はなかった。ディムロス自身はともかく、スタンの方が問題だ。――いや、危険と言うべきか。
『……できるか?』
『ムチャ言わないでよ』
ディムロスの問いかけに、シャルティエは即答する。
ひとまず今は、マスターを死なせないように結界を張るのでお互い手一杯だ。こんなことで、こんなところでまた失うのはまっぴらなのだ。
考えるのは俺の役目じゃなかったからなぁ…とディムロスは心中でぼやく。最初のマスターであり兄のようであった親友に甘えていたから。
(どうすればいい……?)
どうすれば、人を殺せるのだろう。
なんて馬鹿馬鹿しい問いかけなんだろう。
いつも、どこかで何か狂ってしまう。
でも、このままではいられない。
そのとき。
―――タス…ケテ……―――
"彼女"がつぶやいた。
いや、それは"声"ではなかったのかも知れない。けれど。確かに響いてきた。
「どっちも……助からないんだよな」
『……気づいていたのか』
ねっとりとした鮮血。
それは、幻。
けれど、現。
時間が止まったように、音が消えて。
強いられる、救い。
しかし、吹っ切るには欠け落ちたトコロがうずいてしまう。
「……?!」
足に妙な感覚が伝わる。
硬いはずの床が波打っているような、そんな不安定さに動揺が生まれる。
『――跳んで!!』
シャルティエの声に、とっさに二人がその場を飛び退く。
床を砕いたそれは、漆黒の触手。"彼女"の波打つ髪。"彼女"との間の床に小さな亀裂が走り、触手は全体を現した。
大きくうごめきながら、触手は着地したばかりの二人へ襲いかかる。
「ちぃっ!」
「くっ!」
片膝をついた無理な態勢ながらも、二人は大きく剣を振り、向かってくる触手に斬りつける。が、
「な、なんだ!?」
触手は切れず、剣が振りきられるまで伸びた。
「スタン! リオン!」
モンスターを片づけ終わったルーティがちょうどそちらに気づき、悲鳴を上げる。
ソーディアンごと二人をからめ取ると触手は、そのまま繭のように二人を包み込んでしまったのだ。
『―――!!』
アトワイトも言葉を失う。そして、すぐに、
『早く助けないと! あのままでは、あの二人まで――!』
悲痛な叫びを上げた。
あんなこと、何度も繰り返させるわけにはいかない。そう誓っていたのだ。
「なんですって!!?」
ルーティの方へ、なにもない"彼女"の顔が振り向く。
―――タスケテ……―――
「どうするんだ?」
モンスターの体液がこびりついた剣をピッと振り、マリーが問う。
「どうするもこうするも……最初っから殺すっきゃないじゃない」
ぎりっと奥歯をかみしめる。嫌な予感は、あたってほしくないモノだった。
「ルーティ!!」
マリーの叫びに間髪入れず、前から大きな圧力が押し寄せてきた。
(しまった!)
思った瞬間、後ろの壁に叩きつけられる。アトワイトがとっさに結界を張っていなければ、死んでいたかもしれない。
『大丈夫、ルーティ!?』
「――大丈夫に…決まってんじゃ…ない………」
強がってみせるが、大きく引き伸ばした分結界が弱かったため、生きてはいるが打ちつけられた身体は動きそうにない。目だけでマリーの方を向けば、やはり似たようなもの。晶術での治癒も間に合いそうもない。
……死ぬの……?
漠然と、そんな思いがよぎる。
やだなぁ……まだ、やり残したことがいっぱいある………。
『――まだよっ!』
薄れかけたルーティの意識を、アトワイトの強い声が呼び戻した。
ここからは左斜め後ろに見える、知識の塔。
その扉の前にしっかりと立つ、白い神官服の少女。
彼女の両手に支えられた、か細い少女には不釣り合いな幅広の大剣。
一気に頭上へと振り上げられた剣の周囲に、光が弾けた。
小さな、青とも紫ともつかない光の粒。
無数の光が、弾けながらも少女の周りに浮かぶ。
剣が振り下ろされた。
その瞬間、光は消え、刹那、"彼女"へ巨大な落雷として降り注ぐ。
真っ白な閃光と轟音が、ホールを埋め尽くした。
「……ふぅ…………」
すべてが静寂に戻った後、ホールの片隅に気を失っている二人の姿を認め、大きく息をついた。同時に、その場にへたり込む。
『ようやった。上出来じゃ』
「ありがとうございます、クレメンテ」
『なぁに、たいしたことはしとらんさ』
フィリアは微笑む。
「ありがとうございます」
一音一音、かみしめるように、再び言った。
「あ〜あ」
下からルーティの声が聞こえた。
「ひとまず…終わった、終わったぁ〜…!」
ルーティはその場で大きく伸びをする。そして、そのまま後ろにもたれかかった。
「いいのか、あの二人は」
隣で座っているマリーが目で、気を失ったままのスタンとリオンを指す。
「いいんじゃない」
『よくないわ! 早く無事を確かめなさい!』
アトワイトががなりたて、ルーティはしぶしぶ起きあがる。
「うるさいわよ、そんなに心配?」
まだ少しふらつく足で立ち上がった。
『あなたねぇ……もう!』
「大丈夫ですか?」
そこに、ホールへ下りてきたフィリアが駆け寄ってきた。
「やるじゃん、あんた」
彼女に、ルーティはウィンクしてみせる。
「はい、独りではないので」
やわらかな笑みでもって、フィリアは応えた。
『クレメンテ…ですね?』
『おぉ、アトワイトではないか』
驚きと喜びがない交ぜになった声で応えるクレメンテ。
「お知り合いなのですか?」
『なぁに、昔の仲間じゃよ』
「ソーディアンって、いったいいくつあるわけ?」
笑って答えた彼の言葉に、ルーティが疑問を挟む。
『六本造られたわ。そのうち一本は……もう壊れてるけど。
そんなことより!』
「あー、はいはい」
倒れている二人に目をやる。
『起きろ! おい!!』
『起きてくださいよ〜!』
どうやら、ソーディアン二人は大丈夫のようだ。目覚めないマスターを起こそうと騒ぎ立てている。
『なんじゃ、あいつらまでおるのか』
『そうですよ。それと……何を聞いても絶対に驚かないでくださいね』
『どういう意味じゃ、それは』
『すぐにわかります』
「あ、お〜い!」
頭を振って起きあがった二人に、ルーティがあいている腕を大きく振り回す。
「あ、ルーティ。何がどうなったんだよ?」
「あれは…片づいたのか?」
飲み込まれてからの記憶がない二人は、"彼女"がいた場所を中心に、床が大きくえぐられているのに怪訝な表情を浮かべる。
「片づいたわよ。――あれ、そういえば名前何だっけ?」
思い出した。まだお互い名乗りもしていない。確か、アイルツが彼女の名前を呼んでいたが、そのままだ。
「私、フィリア・フィリスですわ」
「ルーティ・カトレットよ。これはアトワイト。で、あっちはマリー。
ほら、あんたたちも! 命の恩人なんだからさ」
離れた二人に大声で呼びかける。
「じゃ、その人が倒したのか?」
「そーよっ! すごかったんだから!!」
返ってきたルーティの答えに、二人とも面食らう。
立ち上がった二人は、意外としっかりとした足取りでこちらに来た。
「スタン・エルロンです」
そっぽを向いていたリオンも、スタンに肩をつつかれ、
「わかってる。……リオン・マグナスだ」
それでもやはり、正面で向き合おうとはしない。
『ほほう……。さて。久しいの、ディムロス、シャルティエ。元気そうでなによりじゃ』
『な――っ!!』
『クレメンテ老ですか!?』
二人が驚愕の声を上げる。
『ここのフィリアを使い手に選んでな、ついさっき起きてきたところじゃよ』
「で、でも、なぜ私などを……?」
先ほどから聞こうと思っていたことを口にする。
『やはり、若くて美しい娘が使い手の方がよいからのぅ』
さらりとそんなことを答えたクレメンテに、
「スケベジジイ……」
『クレメンテ……あなたという人は……!』
間髪入れず、ルーティとアトワイト。
『こりゃ失言だったかのう。そんな目で見んでくれ。ほんの茶目っ気ではないか』
だが、クレメンテは相も変わらずひょうひょうと返した。
唯一無傷で残っていた、神殿内の一番奥の宿舎。
さすがに陽が暮れてから山を下りるのは危険だからという言葉に、リオンもしぶしぶ承知して、今夜はここで過ごすことになった。
そして、自室が使えなくなっていたフィリアもこちらに移っていた。
「クレメンテ」
簡素なベッドに腰かけ、壁に立てかけられた大剣に声をかける。
『どうした、フィリア?』
レンズの灯りの中、フィリアが真剣な面もちでいた。
「答えてください。どうして、私なんですか?」
夕刻、皆の前でした質問。はぐらかされた質問。
『なぜそんなことを訊く?』
「――…それは………」
問い返され、フィリアは思わずうつむいてしまう。
こっそりと苦笑をこぼすクレメンテ。しばしの沈黙の後、
『フィリアや。己の弱さを知っている者は強くなれる。
お主は、お主の選んだ道を進むがいい。進みたい道を進むがいい。
わしは、できうる限りの手助けをしよう。それぐらいしかできぬからの。
後に後悔せぬよう、自分の道は自分で選ぶんじゃ』
ゆっくりと、優しく、諭すように彼は言った。
「後悔しないように………」
『今にしかできん事もある。したいようにするがよい。
大切なのは、できるかどうかよりも、するかどうかじゃからな』
生きているのは、今なのだから。
『それと…だな。あまり気に病むことはない。
人の死が仕方ないなどという言葉ですむとは思っとらんが、だからといって、お主が思い悩んだところでどうしようもない。過ぎてしまったことなのだ』
どうしたところで、失われたら戻ってはこない。
「……ありがとうございます」
大きく息を吐く。
もやもやしたものなど、全部吐き捨ててしまおう。
「そうですね。自分に負けてなどいられませんわ」
後悔しないように。
自分で選んだ道を行こう。
立ち上がったフィリアは、静かな足取りで部屋を出た。
「あ〜らあら、結構大量じゃん☆」
ルーティに割り当てられた寝室。
床の上には今日の騒ぎの中で回収したレンズが灯りを照り返し、並べた当人はそれを前にニタニタと笑っていた。
『ルーティ。その笑い方、絶対に人前ではしないでよね。もう、恥ずかしいったらありゃしないんだから』
その様子に呆れ返って、アトワイトが口を開く。
「ん〜?」
が、笑いは止まらない。
『あ〜あ……明日から長旅でしょ! もう寝たら?』
「いいじゃない。いちいちうるさいわよ。アトワイトったら、大年増だからって母親気取ってんじゃないわよ」
『なに言ってるのよ。それに……誰が大年増だって?!』
「あんたよあんた。千歳越えてんでしょ。立派に年増じゃない。
そ・れ・に。神の眼だか蟹の眼だか知らないけど、このあたしに任せときなさいって。すぐに見つけて、グレバム叩きのめして、報酬もらって、んで、また荒稼ぎよ☆」
並べたレンズをかき集め、うきうきと袋に詰め込む。
『はぁ…もう、あなたって――』
「金の亡者なんだから、でしょ?」
アトワイトの方を向きもせず、ルーティが彼女の後を続けた。
「この世の中、お金がすべて!
だって、そうじゃない。お金があれば、幸せになれるんだから」
『……そうね、お金も大切よ。でも、そればっかりでも、ないでしょ』
いろいろあったから。
彼女の言葉を否定なんてできやしない。
「――ねぇ、アトワイト。あんたにも、夢があるの?」
『夢……?』
その問いに、アトワイトはドキリとした。
『そ、そうね………』
――昔はあった。
その部分は、飲み込んだ。今は、と訊かれたら、答えられる気がしなかった。
「あたしもあるの。
……わかってんでしょ?」
アトワイトに振り向いたルーティの笑顔は、子供のように無邪気だった。
「そのためにできることがあるから、あたしはやるの」
窓を開き、両手をついて、軽く身を乗り出す。
夜の風は少し冷たく、心地よかった。闇の色をした短い髪が風に揺れる。
待っているのは性にあわない。
何もしないで、そして後悔だけするなんて、まっぴらゴメンなのだ。
と、扉が軽く叩かれる。
「誰?」
ルーティが開けた扉の向こうには、フィリアがいた。
かつーんと、ホールの静寂の中、音が思っていた以上に反響する。
足音の主は一瞬ためらうように立ち止まったが、すぐに思い直して歩き出す。
「くそ……」
携帯用の簡易ランプの光に、リオンの瞳の中に明らかな焦りが揺れる。
『どこに落としたんだろうね……』
「それがわかれば苦労しない」
ホールの、夕刻戦闘を繰り広げた辺りまで来ると、床を照らして目を凝らす。
しかし、捜し物は見つからない。
落としたとすれば、ここが一番可能性が高いのだが。
徐々に、焦りが募る。
よりにもよって、あれを失くすなんて――
「どうしました?」
突然響きわたった穏やかな声に、慌ててその方へと振り向く。
「……脅かさないでくれ」
アイルツ司教が、知識の塔の前に立っていた。
「それはすみませんでしたね。驚かすつもりはなかったのですが。
何か、捜し物ですか?」
問いかけながら、彼は静かに階段を降り、リオンのそばまで歩み寄ってくる。
「……たいした…ものじゃない」
突き放すように言ったリオンに、アイルツは、
「ならば、あなたはそのたいしたものでもないものを、こんな夜更けに、わざわざ捜しに来たというのですか?」
どこか微かにからかいを含んだ声音で訊ねた。
「――っ………」
『素直に負けを認めたら?』
思わず言葉を失うリオンに、シャルティエがささやきかける。
肯定の代わりに、ため息まじりに肩の力を抜いた。
「リオン君…でしたね。捜し物は、これですか?」
言って、アイルツは左手を、リオンの目の前でぱっと開く。人差し指と親指に摘まれた金色が、ランプの明かりで鈍く輝いた。
「―――! …そうだ……」
リオンの左耳にいつも揺れているイヤリング。細長いプレートに、何か文字のような模様が刻み込まれているものだ。由来は知らない。あの時の手のあたたかさだけがすべてなのだから。他にはなにも要らなかった。
「そうですか。ならば、お返ししましょう」
アイルツがリオンの手にイヤリングを握らせる。
「…これはあなたが持つべきものです。
単なる偶然と思っていることも、遠い日に約束された運命なのですから」
静かに告げた彼の顔を、リオンは怪訝な表情で見返す。
だが、アイルツはもう何も言わず、宿舎の方へと去っていった。
「………シャルティエ」
呆然と手の中の金色を見下ろしたまま、リオンが力なく呼びかけた。
『なんですか?』
「――……なんでも、ない」
イヤリングを左耳につける。
『……エミリオ…………』
もう、なにもかも、思い出の中。
信じてなどいない。
信じても、裏切られるだけ。
信じていても、哀しみが残るだけ。
だから、信じるのは、もうやめにしたのだ。
空が遠い。
月が蒼い。
星が皓い。
晴夜の下、幻のように淡い光が浮かぶ。
神殿の敷地の中で、老いた桜が一本、狂い咲いていた。
風に窓の中へ舞い込んできた花びらは、なびく金糸に絡みついた。
いつかと同じではないのに、いつかと同じ気がする。
見上げれば、いつかと同じ空。
見上げれば、いつかと違う人。
窓枠に重ねた両腕をつき、空を見上げていた。
“彼ら”の面影を探してしまう?
“幻”を認めたのではない、“今”を認めてる。
そう、思いこんでるだけ?
月の蒼を映し込み不可思議な光をこぼす瑠璃の瞳に、確かに既視感を覚えた。
そう、あれは旅が始まったとき。
そう、あれは厚い霧に風が吹き込んだとき。
そう、あれは遥かに遠い過去―――
『スタン?』
救いを請う者は、請われる者の心を知らない。
絶対に。
窓の外からディムロスの方へ、スタンが振り返った。
「なんだよ?」
ひどく幼く見える表情で。
『いや……なんか、泣いてるように見えた』
言われて苦笑いをこぼし、スタンは窓を背に身体を入れ替えた。流れ込む風で、金が瑠璃の前をよぎる。
いつかのように細い声で、答えが返ってくる。
「そっかな。……立て続けにいろいろあったけど、なんか、こう、ふっと落ち着いたのって、今夜がやっとだからかな」
この後にスタンが続けた言葉は知ってる。昔、自分も言った。
あのときの俺も、こんな顔していたのかな。
「――何かをしてれば、よけいなこと考えなくてすむから」
いなくなった人は、もう帰ってこない。
そしてまた一つ、静かになる。
「それにしても、大変なことになっちゃったよな。ちゃんと約束果たせるかな」
スタンはふと笑って言った。
『約束?』
――泣きそう?
誰が泣く? まさか。
奥底に、青くて蒼い氷が見えた。
同じだし、だが違う。
とても静かになる。
「そう。“家に帰る”こと」
その命と共に消えゆく優しい笑顔。
最期まで。
また、一つ静かになるのを見た。
不意に、淡紅色の花びらがふわりと目の前をかすめる。
それを追うようにして、スタンの視線がディムロスを外す。
「……昔もさ、強くなるって、約束したんだ〜。父さんとガキの頃に。
みんなを守れるぐらいに強くなるんだって。そうしたら、誰も哀しい思いしなくていいって思ってたから」
でも、そんな簡単なものじゃなかった。
「でも、母さん、守れなかった……」
澄んだ夜の風が長い金糸を揺らし、煌めきがこぼれる。
どこまでも静かになった。
「――村を襲ってきたモンスターに殺されたんだ」
遠い昔に植えられた、長老の桜の向かいにある墓碑。
スタンとリリスが生まれたときに植えられた、二本の若木の前にある墓碑。
二つの名が刻まれた、墓碑。
いつまでも静かになる。
『妹が…いるんだろう?』
あの頃とは、もう、変わってしまった。なにもかも。
だが、約束は生きている。少なくとも、今ここに自分がいる限り。約束を交わした相手がこの世にいなくとも、約束は生き続ける。
「…あ、あぁ。それが――?」
急に飛んだ話題についていけず、怪訝に眉をひそめるスタンに、
『ちゃんと還ってやれよ。今回のことが終わったら。
……まだ、守るべき人がいるんだ。今は、それでいいじゃないか』
過ぎてしまったことより、これからを見よう。
昔死んでしまった人のことを嘆くより、今生きている人のことを考えよう。
哀しみを繰り返さないように、今やるべきことを見失ったりしないように。
どこか哀しげに、美しくも儚げに散る、淡い紅の下で。
約束は、心の中に。
約束は、夢の中に。
過去に囚われ、未来を見失ってはいけない。
過ぎ去った日々よりも、未だ来ない日々に夢を見よう。
いつか、振り返ることができるかもしれない。
淡く青に色づきながらも、まだ朝焼けの白い名残が残る空。
朝靄の白い海の中、所々で顔を出す濃い緑。
窓を思いっきり開け放つと、朝の風が心地よい。
「いい感じじゃない。ね、アトワイト」
『ヤケに機嫌がいいわね?』
不思議そうに、アトワイトが訊ねる。
今日からグレバムを追って旅に出なければならない。ルーティの性格なら、てっきり不機嫌に朝を迎えるような気がしていたのだが。
「ん、ちょっとおもしろそうだから、見に行ってみようかと思って☆」
なにやら、にまにまと笑っている。イタズラを仕掛けた子供のように。
『はい? 何を言っているの?』
「いいからいいから。ちょっくら朝の散歩といこうじゃない」
言いながらアトワイトをひっつかみ、窓から軽やかに身を躍らせる。
『ちょっと、どこに行くつもりよ!?』
アトワイトが思わず出した大声に、
「そんな大声出したら他の人が起きちゃうわよ? ……スタン以外ね」
出会った次の日の朝、なかなか起きなかった彼を、部屋に乗り込み叩き起こしたのはついこの前のことである。かなり前のような気もするが。
そう、この二日間、詰め込みすぎだと思うぐらい、振り回された気がする。
「何をなさっているのですか?」
「ほら、起きちゃ――ったぁ!?」
突然横手からかかった声に、ルーティは飛び上がって驚く。
「――あ、なんだ、フィリアか」
「はい。ルーティさん、朝食もとらずにどちらへ?」
問われて、ふと思案するルーティ。
「ん。なんだかおもしろそうなトコがあるかもしれないのよね」
「……ほう、どういう意味だ、それは?」
さらに一つ向こうの部屋の窓から、揶揄するようなリオンの声がかけられた。
彼の顔を見て、ルーティは一瞬心底嫌そうな顔をするが、
「いや、ちょっとね。どうせスタンはもうしばらく起きるわけないから、気になることを確かめておこうかな〜と思って」
思わせぶりに答えてやる。だが、
「神の眼の搬出口のことか」
あっさりと言われ、ルーティは小さく舌を鳴らす。忌々しげに。
『ふむ。確か、下にリフトがあるはずじゃったな』
クレメンテが不意に口を挟んできた。
「やはり、改めておいた方がよさそうだな」
つぶやき、リオンは思案に腕を組む。右を支えに、左を顎に添えて立たせて。
「なに、あんたって左利き?」
それを見て、ルーティが何気なく言った。
「なんだ、それがどうかしたのか」
「んーん。あれ、でも昨日は――」
なんとなく、右利きのように振る舞っていた気がする。
「剣でなければ両方とも同じように使える。そういう訓練もしてある」
「へぇ、なかなかやるじゃん」
「ふん」
「お褒めの言葉は素直に受けなさいよね。もう」
ルーティが腰に手を当て、そっぽを向いたリオンにつぶやく。
「あ、あの、私も御一緒してもよろしいでしょうか?」
会話の切れ目に、おずおずと言い出すフィリアに、
「敵のスパイを連れ歩く趣味はない」
冷たくリオンは言い捨てる。
「そんな……」
助けを求めるかのようなフィリアに、ルーティは思わせぶりな視線を送る。
「大丈夫よ、フィリアはそんな子じゃないって」
ルーティは笑って否定した。
「仮にそうだとしても、発信機のような細工をされている可能性があるだろう」
『それもなしじゃ。ヤツの植物は塔の結界にひっかかりおるよ』
お次はクレメンテ。
「……ふん、勝手にしろ」
「って、結局大所帯で行くんじゃないの。なら、朝御飯食べてからにしよ」
ルーティは軽く肩をすくめ、部屋に戻ってしまう。
ちょうど、スタンの部屋からディムロスの怒鳴り声が聞こえてきた頃だった。
とてつもなく太い柱の並ぶ、神殿下部。
神殿は、両側の崖に渡され、下からは柱で支えられた、板の上に建てられているようなものなのだ。
大聖堂の真下はまだ地面が続いており、この内側にリフトとその操作室などが造られているのだ。
「へぇ、こんなところに出るんだ」
リフトから降りると、まっすぐ広い通路が続く。その両脇にいくつか部屋があり、突き当たりには出入り口。外からは岩壁に巧妙に隠されている。
『それにしても広い道ね。当然だけど』
「なるほど……神殿に神の眼を隠すときに使った道ってわけね……」
洞窟の入り口はもちろん、こことリフトをつなぐ道もばかでかい。神の眼とはいったいどれほどの大きさを持つものなのやら。
「…あれ? あんた、来たことないの?」
『まぁね。事後処理に関しては、クレメンテ以外無関係よ。上が事後処理にもめている頃には、私たちは研究所にいたから』
「なんの?」
『ソーディアンを開発した研究所よ』
元に戻るため。だが、その試みは徒労に終わった。開発は敗戦色濃厚の頃だったので、人間をソーディアンに変換する際のデータ管理がかなり杜撰だったのだ。長期に渡る開発の中、初期段階のものには失われてしまったものもある。データベースに侵入され、壊されたものもある。それらすべてを一から算出せねばならないのだ。中には、彗星落下で失われた技術に関するものまで含まれている。結果、復元には途方もない時間が必要と判断された。
苦しげに湿った彼女の声は、記憶の底にしっかりと残っている。気丈な彼女は涙は流さなかったが、確かに泣いていた。
「あんたが昔どんな顔だったのか、見てみたい気がするわ」
まじまじとコアクリスタルのはまっている柄を眺めて、どういうつもりなのかルーティがつぶやく。
『少なくとも、あなたよりは美人だったわよ』
「でも、ディムロスは落とせなかったんでしょう?」
ニヤリとルーティが笑みを浮かべる。
『なんでそこにいくの!!』
照れない照れない、ピンッと柄をはじいた。
『だから、全然そういうのじゃないの!』
「そーお?」
こういうとき、声だけで読むしかないのはもったいないと思う。表情がわかればもっとからかえるのにな。
しかし、
「ルーティ〜、遊んでないで、こっち手伝えよ〜!」
「……わかったわよ!」
奥からスタンの声が響いてきて、ルーティはしぶしぶ中に戻る。
リフトになっていたのは、神の眼の台座があった、あの一段高くなっているところ丸ごと、であった。
「どう? 何かありそう?」
散乱した書類や書物と格闘している、四人へと。
「ありそう、じゃないだろ」
呆れた声で、スタンが言う。
「この書類はすべて、遺跡に関するものですわ」
『ほぉ…結構発掘されとるものなんじゃのぅ』
目を通した書類を丁寧に積み上げていくのはフィリア。
「だってぇ、あたし、読書なんてガラじゃないのよねぇ」
「それなら片づけをしたらどうだ?」
ルーティの笑顔の抗議は、あっさりとマリーに言い返された。彼女は用なしの書物を隅にまとめている。別に皮肉を言ったつもりは彼女にはないのだろうが……
「――ぅ………」
ないのだから、よけいに始末が悪い。はぐらかせないではないか。
「これ……ここのじゃないよな………?」
ルーティのうめき声と重なって、スタンが怪訝なつぶやきをもらす。手にした書類には、どこかの建物の見取り図が書かれてあった。それを横からのぞき込んだフィリアが、声を上げる。
「これは……カルビオラの神殿だったと思いますわ。大聖堂が二階分あるのはカルビオラの神殿しかなかったはずです。私自身は訪れたことはないのですが、そういう話を聞いたことがあります」
「本当だろうな?」
フィリアの言葉に、リオンが口を挟む。が。
「あんたも疑り深いのねぇ」
「その娘は信用してもいいぞ。嘘を言っている目ではない」
すぐさまルーティとマリーが助け船を出す。
「とにかく行ってみればいいじゃないか。他に手がかりも見つからないんだし」
場をまとめたスタンへの返事の代わりに、皆が立ち上がった。
その中、一人膝を折ったままのフィリア。
「どうしたんだよ、フィリア?」
しばらく沈黙していた彼女だが、すぐに意を決して口を開いた。
「あの……お願いします。私も連れていってください!」
「なんだと……?」
その言葉に、思わずリオンが眉をひそめる。
「私が止められなかったせいなんです。それなのに、何もしないでいるなんて、できません。後悔、したくないんです」
きっとリオンを見返すフィリア。
「フィリア。グレバムと戦うことになるかもしれないのよ。それでも?」
昨夜と同じ、問い。一語一語かみしめて。
「はい。もちろんです」
昨夜と同じ、答え。迷いなくきっぱりと。
「――連れていきましょ。あたしたち、グレバムの顔知らないわけだし」
『クレメンテもいることですし』
「いいじゃないか、リオン」
『断る理由も、もうないだろう』
「……………………」
四人に言われて、不機嫌そうに黙り込んだリオンだったが、
「……おい。グレバムのヤツに敬称をつけるな。大司祭とも呼ぶな」
「?」
「あいつは僕たちの敵だ」
リオンはそっぽを向いて言い捨てた。
「は、はい!」
フィリアも立ち上がる。
「え、じゃあ、外に出るのは初めて?」
言って、フィリアを一気に馬上へ引き上げる。
「は、はい。ずっと神殿にいましたの。……だから、少し、ドキドキしてます」
小さく笑みをこぼすフィリアに、
「あ〜、そういえば、俺もロスマリヌスから出たのは今回が初めてなんだよな」
スタンが苦笑する。
「…昔はよく勝手に村から出て叱られたっけなぁ」
今更戸惑うフィリアには気づかず、スタンは大きく手綱を引いた。
短くも長い、旅の始まり。
それは、目覚めの始まり。
再び動き出した歯車。
そして―――