時は過ぎ去り、現実は記憶として片づけられる。
 時は過ぎ去り、心は思い出として片づけられる。

 そこに、未来はありますか?


「――夢、か……」
 ほのかな月の蒼が射し込む中で。
 色の消え失せた声で。
 ゆっくりと、月影はつぶやいた。
 静かに波のささやきが響く。
 まだ、夜明けには遠かった。


 ファンダリアの空は、重く、暗く、沈んでいた。






八章 雪に眠る






「ウッドロウ様ぁ〜っ!!」
 まばらの針葉樹林に、可愛らしい少女の声が木霊する。
「本当にお一人で行かれちゃうんですかぁ?」
 チェルシーが何度も言った言葉を再び口にした。
「いくらウッドロウ様でも、"こぐんふんとう"なんてムチャですぅ!」
 厚い外套を引き止めるように掴む。いや、実際引き止めてようとしている。
「それでも私は行かなくてはならないんだよ。私には、このファンダリアの民を守る義務がある」
 きっぱりと言い切られ、チェルシーは一瞬押し黙る。が、
「なら、チェルシーも御一緒いたします!」
 これまたきっぱりと言い切った。それから畳みかけるように、
「帰りなさいなんて言わないでくださいね。わたしの方向音痴はウッドロウ様もよく御存知ですよね、わたし一人で帰ったら、きっと迷子になってしまいますね!」
 普段は否定する方向音痴さえも武器にするチェルシーに、ウッドロウは困ったように眉をひそめた。
「チェルシー……」
 確かに彼女の方向音痴は素晴らしいものだ。それでなくとも、この子に帰る気は欠片もあるまい。帰るならウッドロウも一緒でなくては。そのつもりでこっそり出てきたに違いないのだから。
「あの……怒ってますか? 勝手についてきて」
 黙ってしまったウッドロウをうかがうように見上げて、不安げに訊ねる少女に、
「……ああ、怒っているとも」
 彼にしては珍しく、はっきりと苦笑を浮かべて答えた。
 しかしそんなことには気づかず、チェルシーは今にも泣き出しそうに瞳を潤ませて、
「ごめんなさいですぅ〜! …どうしたら許してくださいますか?」
「では、これからは私の指示にちゃんと従うこと。できるな?」
「はいです! チェルシー、誓います!!」


「さすがに寒いわね〜」
 灰色にたれ込める空を見上げて、ルーティがまた言った。
 久しぶりに外套を着込んで、それでもまだ顔が冷たい。
『ルーティ、寒い寒いって言ってたって暖かくなりはしないわよ』
「うっさい。寒いモンは寒いの!」
「確かに。ジェノス辺りはまだ暖かい方なんだなぁ…」
 この辺りは雪がなくなることはほとんどありえない。ファンダリア東部で唯一の港ここスノーフリアから南へ大きくまわって西に抜けると、王都ハイデルベルグがある。そこからさらに北上しないとジェノスは見えない。
『千年前はどこでも一緒だったけれどね…』
『世界中が凍えとったからのぅ』
『僕たちが物心ついたときはすでに災厄後だったからね。ねぇ、ディムロス』
『そうそう。ずっと建物の中にいたな』
「そうなんだ」
 雪も氷も飽くほど見てきた。空は夜よりも濃い闇で、凍てついた嵐がいつでもどこでも吹き荒れていた。
『人が生きるには過酷すぎだったからな。あの頃は人の寿命もかなり短かったし』
 人の死すら、飽くほど見てきた。
 心すら凍りついていく、そはまさに地獄。
「あら? どうしたのよ、マリー」
 ルーティが隣でぼうと立つマリーに気づき、顔をのぞき込む。
「……いや、別になんでもないんだ」
「でも、なんだか……」
 スタンも言うと、
「…積もった雪を見ていたら、なんだか懐かしいような、切ないような、変な気持ちになっただけだ」
 複雑な笑みを浮かべてマリーが言った。
「そういえばマリーの故郷ってこの国にあるのかも知れないのよね……」
 そう言ったルーティが少し淋しげな気がするのは、気のせいだろうか。
「どんなに辛い記憶だとしても、やっぱり思い出したいよね」

 ――イマワラエルノガ、ナニモナイカラダトシテモ?

「…ああ、そうだな。うん。
 だが、記憶が戻ったとき、もしそれが辛いことだとしたら……どんな記憶でも受け入れられるかどうか、私には自信がない……」
 真っ白な雪が、舞い降りてきた。
 それは、いくつも、いくつも。

 ――ナニモカモステテシマエバ、シアワセニナレルンダロウカ?

「おまえら、いつまで遊んでいる気だ! 早くしろ!」
 リオンが焦れたように叫んだ。
「ああ、悪い悪い」
 舗装された港から、踏み固められた街への変わり目へ、スタンたちは駆け寄った。
 街の至る所にある激しく踏みしめられた雪の痕が、新しく降ってきた雪に少しずつ隠されていく。
「襲われたのでしょうか……」
 そこからルーティがレンズを拾い上げたのを見て、フィリアがぽつりとつぶやいた。街は静かだ。港にも、人はいなかった。
 ふと、近くの民家の扉が、躊躇いがちに開かれた。しっかりと着込んだ、一人の女が出てくる。
「すみません、あなた方は船で来られたのですか?」
 駆け寄ってきて、おずおずと話しかけてきた。
「そうだけど?」
「お医者様はいらっしゃいませんか?」
 そして、すがりつくような眼差しで訊ねる。
「残念ながらいないが……」
 どうかしたのか、とリオンが問い返した。
「うちの子がひどい風邪にかかっていて……。お医者様がハイデルベルグに所用で出られたときにあの男たちがやってきたせいで、王都とも連絡が取れなくなってしまい、ここ二、三日は薬も飲ませてないのです」
「その男とはグレバムのことか?」
 リオンが訊ねると、女は首を振って、
「名前まではわかりませんが……ひどいものでした。どうやってかは見当もつきませんが、あの黒髪の男はモンスターの大軍を率いてやってきて、港も制圧されてしまって。この街にいた自警団も……。
 それが何故か昨日の夕方になって、どこかへ行ってしまったんですよ」
「どこかへ行ってしまった? ……それはどっちへだ?」
 "黒髪の男"という時点でそれはグレバムではないと断定していた。グレバムの髪の色は黒ではなかった。だが、モンスターを操るとなれば一味である可能性は高い。
「北のサイリル方面から来たモンスターと一緒に、南西のティルソの方へです」
 サイリルはここスノーフリアから北上した山裾の街らしい。一年中とけることのない、ファンダリアでも特に寒冷な氷の湖のそばにあって、雪の激しい頃には近づくこともままならない。寒さが厳しくなりだした頃、モンスターの襲撃を受けたとかで、生き残ったサイリルの人間がスノーフリアに逃げ込んでもきたそうだ。
 対して、ティルソはファンダリア南端から山脈の裾野までをおおう、広大な針葉樹林の名である。
「ですが、あいかわらず王都とは連絡が取れなくて……」
 女は言いながら家の方にちらりと目をやる。
「役に立てなくて悪い。できれば力になりたいが」
 マリーが心底残念そうに言った。
「しかし、もう王都は落ちたかもしれないな……」
 そう思うと、ティルソを通って大きく遠回りしなくて行けない状況が、仕方ないとは思いつつもとてもはがゆかった。


 ―――……
「今、何か聞こえなかった?」
 ルーティが怪訝な顔をしてそう言ったのは、スノーフリアを出て、ティルソの黒々とした影が見えた頃だった。
「来ないでください〜っ!」
「あ、ほらまた!」
 今度のは全員の耳にも入った。
(あれ、どっかで……?)
 スタンは眉をひそめて首を傾げる。
「誰か襲われてるんじゃないかしら。行こ!」
 ルーティが真っ先に駆け出し、皆もその後に続く。
 森の奥から、熊だったようなモンスターたちに追われて飛び出してきた少女の髪は見覚えのある淡紅色。
「あ――…チェルシー?!」
「ああっ、あなたは――…スタンさん!?」
 お互いにすぐに名前が思い出せなかったのだろうか、妙な間が空いていた。
「なんだ、知り合いか?」
「ああ、後で話すよ」
 訊ねながらシャルティエを抜いたリオンに、スタンもディムロスを抜きながら答える。
「あの、向こうにウッドロウ様が!」
 チェルシーの声と同時に無造作な一閃で一匹が倒れ、そのまま返す刀でもう一匹。瞬きする間にすべてレンズへと変じた。
 そのまま二人とも森の奥へと疾る。
「あ、わたしも行きますぅ!」
 チェルシーも慌てて後を追いかけてきて、先ほどの倍以上いるモンスターの群に、
「さっきのお返しですぅ!」
 と、手にしていた長弓に三本の矢をつがえ、放つ。
「えいっ!」
 三本の矢は三匹のモンスターを正確に射抜き、霧の中で雪に落ちた。
「まぁ、お上手ですのね」
 彼女の後ろで、フィリアがぽんと手を打った。
「放っといても大丈夫よねぇ」
 軽く上に投げたレンズをしっかと握りなおし、ルーティが気楽に言う。
「大丈夫じゃないです! ウッドロウ様が――」
 勢い込んでいって来るチェルシーに、ルーティがぴっとその背後を指さす。
「はい?」
 促されるまま彼女が振り返ったのは、ちょうどスタンが最後の一匹を斬り捨てたところだった。
「ああ! ウッドロウ様〜!」
 転がるように、チェルシーがスタンたちのいる方に駆け寄った。正確には、スタンが助け起こそうとしているウッドロウのもとへ。その後を、レンズを拾いながらルーティがついていく。
「ウッドロウさん、大丈夫ですか!? ―――……っ。
 ルーティ! 怪我してる!」
 いつまでも慣れない血の匂いに気づき、すぐに赤い雪を見つけた。
 スタンに呼ばれて、仕方ないなといったようにルーティも早足になった。
「そんな! ウッドロウ様〜! しっかりしてください〜!!」
 怪我という言葉に大騒ぎするチェルシーを、
「はいはい、大丈夫だからちょっと離れててね」
 ポンッと頭を叩いて、離れたところにいるフィリアとマリーの方に押しやった。
 ルーティがアトワイトに手をかけ、気を失っているウッドロウの傍らに膝をつく。と、スタンとリオンがさりげなくチェルシーの視線をさえぎった。
「ぅわ〜、腕、すっごいことになってる〜」
 チェルシーに聞こえないようにつぶやいて、癒しの晶術を行使する。
「どうだ?」
「ん〜、左腕がざっくりといっちゃって、結構失血してるわ」
『命に別状はないわね』
 淡い光に包まれ、ひどい傷口が見る間に小さくなっていく。完全にふさがった後、念のために清潔な布で保護をすると、
「はい、もう大丈夫」
「ウッドロウ様〜!」
 ルーティの声を合図に、治療中、ずっとはらはらそわそわしていたチェルシーがはじかれたようにそばに来た。
「……チェルシー……?
 ――君は……そうか、君たちが助けてくれたのか。ありがとう」
 泣きつくチェルシーの声に気がつき、次にスタンに気づく。辺りを見回し状況を把握すると、ウッドロウは礼を述べた。


 その後、スタンが間に立って紹介してから、
「なにがどうなっているのか説明してもらいたいが」
「…ハイデルベルグが落ちたのだ。その知らせを聞いた私は王都へ赴き、その後は追われるままに落ち延びてきた。そして、ティルソの外れで君たちに助けられたというわけだ」
「王都は誰に落とされた?」
「名前までは。だが、あの男はどうやってかモンスターを自在に操っていた」
 そんな男はそうそういないだろうと続ける。
「グレバムだろうな」
 先ほど聞いた話からすれば、その配下の可能性もあるが。
「君たちはあの男を追ってきたのか?」
「はい。セインガルドから、もう世界中振り回されましたよ」
 スタンが小さく肩をすくめて答えると、
「セインガルドから? ……君が?」
 ウッドロウが微かに眉をひそめ、スタンを見た。
「そうですけど、それが何か?」
「…いや。そうか……。
 それでは、私も同行させてもらいたい。少なくとも、君たちよりはこの国の地理に詳しいと思うが」
「……ならば、王都までどう行く?」
 リオンは逆に問い返す。
「ファンダリア西部は完全に敵の制圧下だ。ティルソを抜けられたとしても、ハイデルベルグまで行くことは不可能だろう。
 危険を伴うが、一つ、道がある。スノーフリアよりもずっと北にあるサイリルの方から、氷の大河を通って王都の北側から入り込む」
 雪に半ば埋もれていた自分の長弓を拾い上げ、ウッドロウは言った。
「え、ウッドロウ様ぁ?!」
 "氷の大河"の一言に、チェルシーが目を丸くする。
「大丈夫だ。今の時期、あの辺りも歩けないほどではない」
「……あの〜?」
 ウッドロウの答えに何かひっかかる気がして、スタンが聞き返す。
「氷の大河が流れている辺りはファンダリアでも特に寒さが厳しく、年中雪嵐が吹き荒れている。生物などいやしない、極寒の地だ。そこを通るなど、確かに正気の沙汰とは思えないだろうがな。だが、この国の者もほとんどが知らないことだが、この時期なら通ることができるのだ。寒さはともかく、あの辺り一帯がまったくの無風になる」


 スノーフリア近辺よりもなおいっそう寒さが厳しいとあって、上に厚い毛皮の外套を着込んだ全員は、翌朝サイリル近くの氷の湖に来ていた。
「やだ、モンスターじゃない、あれ?」
 ルーティが背伸びして、対岸のサイリルの街を眺める。はっきりとは見えないが、崩れた家々の間をうごめくのは人にあらざる影。
「見つからないうちに行きましょう」
「ああ、そうだな。こっちだ」
 ウッドロウが、凍てついた湖に流れ込む氷の道を先に立って進み始める。
「サイ…リル………」
 マリーはしばらくその街のあった場所を呆然と見つめていたが、ルーティに呼ばれて、後ろ髪を引かれつつもその場を離れた。


 樹々には樹氷が咲き誇り、幅のある河は完全に凍りついている。吹きつける風はまったくないが、細かな針のように鋭く冷たい空気が肌に突き刺さる。
「冗談じゃないわよ、なんでこんなに寒いのよぉっ!!」
 白い息と共に口を開けると、喉が冷気で痛む。
「少しぐらい黙って歩けないのか、騒々しい」
 騒ぐルーティの脇を通り抜けざま、リオンが吐き捨てる。
「うるっさいわね、寒いモンは寒いのよ!」
「だから黙ってろ、ヒス女!」
「ぁによぉ! 王都に着く前に凍死しちゃったらどうすんのよ!!」
「勝手に死んでろ! おまえだけな!!」
「な――っ! なんですって、クソガキ! あんたこそ死んじゃえばぁ!?」
 ぎゃんぎゃんぎゃん。
 どこからそんなに言葉が出てくるのやら。
 毎度毎度の恒例なのだが、いつもいつも不思議である。
「あのさ〜、二人とも〜……」
「あんたは黙ってて!!」
「おまえは黙ってろ!!」
 見かねて声をかけたスタンも、あっさり声を揃えて一蹴される。
 そして再びぎゃんぎゃんぎゃん。だもんで、
「あーもうっ!!」
 スタンは詰め寄り言い合う二人の肩を掴んで、力ずくでぐいと引き離すと、
「ルーティ、少しぐらい我慢しろよ。みんな――チェルシーだって文句も言わずに頑張ってるのに!
 リオンも、一緒になって騒いでてどうすんだよ」
 それぞれに向かって言った。
「わぁったわよ!」
「ふん」
 間に割って入ったスタンにそれぞれそっぽを向き、やっと静かに歩き出す。自然、リオンとルーティの間にスタンが入る形になった。
(いいかげん、パターンだよな〜……)
 挟まれたスタンははぅとため息をつく。
 そのしばらく前方で様子を見ていたウッドロウとチェルシーは、
「いつもあんな様子なのか?」
「お二人とも、"けんえんのなか"って感じですねぇ〜」
 それを聞いたフィリアは至極まじめに穏やかに、
「ええ、皆さん、とても仲がよろしくて」
「「誰がこんなヤツと!」」
 後方から、聞こえたらしい二人の声が再び重なる。
「……なるほど。確かにな」
 薄く笑みをこぼし、何に対してかウッドロウは同意する。
「それはともかく、そろそろ静かにしてもらいたい」
 横手に見える崖を見上げ、
「雪崩など起こしてもらっては困るのでな」
 笑みさえ浮かべて、続けて言った。


 幸運にも雪崩などには見舞われず、王都ハイデルベルグの北に出れた。三方を山に囲まれた王都の北端に、おそらくグレバムがいるであろう王城は位置する。
 ひとまず城を回り込み、街の中へ入るが、
「……モンスターばかりだな」
 民家の裏から通りを見回し、スタンがつぶやく。
 見える限り、門戸は堅く閉ざされ、闇も迫ってきたというのに灯りは一つも点かない。そしてなにより、熊のようなもの、鳥のようなもの、様々なモンスターが城門の周囲を徘徊していた。
「人の気配もないな」
「ねぇ、どうやって入る?」
 王城の周囲はさすがに、強行突破で行くには面倒そうである。
「………ついてきたまえ」
 ウッドロウは街の北東に出て、小さな森に入る。樹々が密集した森を通り抜けると、岩山にぽっかりと洞窟が開いていた。洞窟はすぐに行き止まりになっていたが、そこは光沢のない灰色の石で造られた石室だった。ウッドロウが左――西の壁の一ヶ所を強く押し込むと、右――東の壁ががこっと音を立てて浮いた。
「そこだ」
 すぐ前にいたリオンが壁を少し押してみる。壁は思いの外すっと開いた。
 壁の向こう側は暗闇だったが、しばらくすると天井や壁がぼうと淡い光を放ちだした。ウッドロウが、扉をくぐってすぐのところにある何か――砂時計のガラス部分を外したような――をいじったらしい。
「あれ、これ……」
 どこかで見たことあるような。
 続けようとしたルーティに、
「ほら、あの山の遺跡じゃないか。リオンにとっつかまった」
 同じことを考えていたスタンが答える。
「私も覚えているぞ」
 あそこでも、同じように石が光を放っていた。
「そっか。ところでここ、隠し部屋か何か?」
「城内に通じる隠し通路だ。城の者でもごく限られた者しか知らない。ここならば気づかれないだろう。確か、謁見の間の奥にある執務室につながっていたと思うが」
 いくつもの分岐路を迷うことなく選ぶウッドロウに、
「……ということは、貴様はその"ごく限られた城の者"の一人なのか?」
 若干の驚きを含んだ声で、リオンが確かめる。
「ああ、言っていなかったか。私は―――」
 ウッドロウが振り返ったとき、左の通路の奥から複数の足音と叫び声が響いてきた。
「侵入者か!!」
 すぐに、皆の視界に抜き身の剣を手にした男たちが十数人現れた。
「ここから先は一歩も通すわけにはいかん!」
 先頭の中年代も過ぎた辺りの老兵が怒号を上げる。その後に続く揃いの外套を着込んだ者たちも、気持ちは老兵と同じらしい。
「ならば、力ずくだ」
 と、シャルティエを抜きかけたリオンを、
「――! リオン君、待ってくれ!」
 横に下がった形になっていたウッドロウが慌てて前に出て止める。すると、男たちの顔が一瞬呆け、そして、
「――…殿下……? 殿下! ウッドロウ殿下ではございませんか! ご無事でございましたか……!!」
 老兵の感極まった叫びに、男たちが感激した面もちでわっとウッドロウを取り囲む。ちなみに、すぐ隣にいたリオンはその勢いに圧されて大きく下がらざるをえなくなっていた。
 よくよく見れば、男たちには皆、至る所に血の滲む包帯が見受けられた。彼らは皆ファンダリアの兵なのだろう。
「申し訳ございません! 奇襲を受けたとはいえ、陛下を――!」
「いや、おまえたちだけでもよく生きていてくれた」
 その輪からはじき出された方では、
「え……まさかウッドロウさんって……」
 呆然と眺めるスタンたちの横で、チェルシーが笑顔で言った。
「ウッドロウ・ケルヴィン皇太子殿下! ファンダリア王国第一王位継承者です☆」
『そうか! だからあのとき私の声が聞こえたのか』
 それを聞いて、ディムロスが声を上げた。その声が聞こえたのか、ウッドロウはこちらに振り返ると、
「ああ、私もマスターとしての資質は受け継いでいる。
 いつぞやでは嫌われていたようだが、よろしく頼むよ。ディムロス君」
『………ぅ……やはり………』
 彼の答えに、何故かひどく重い声でディムロスはそれだけつぶやく。
「ディムロス?」
『……はは〜ん、なるほどねぇ☆』
 きょとんとするスタンとは違って、シャルティエはニマリと笑ってでもいるような声で言った。続けて、アトワイトも思い当たったらしく、
『あ――ああ、そういうことね』
 それから、通路の奥に並んだ部屋の一つにまで来ると、
『ファンダリアにはイクティノスがおったはずだが』
 クレメンテが話を切りだした。
 イクティノス。ファンダリア王家に代々受け継がれる聖剣なのだが、実はれっきとしたソーディアンの一人である。
「ああ。私が旅に出ている間は、イクティノスは父と一緒にいたはずだが……」
 言いながら、ウッドロウは傅く老兵を見やる。
「おそらく敵の手に渡ったと思われます。
 我々には街の者を避難させるよう命じられ、陛下はイクティノス殿と共に為さねばならぬことがあると仰られて……」
「そうか……」
 ウッドロウがひどく気落ちする。
「グレバムはどこに?」
「そこまでは……」
「わかった。グレバムのことは私たちに任せて、皆は街の者を守ることに力を尽くしてくれ。必ずヤツらを倒し、平和を取り戻す。それと」
 兵たちにそう言うと、ウッドロウは今度はチェルシーの方を向いて、
「チェルシー、おまえも彼らと一緒にいなさい」
「えぇっ!?」
 まともにショックを受けて、懇願するように見上げる彼女に、
「おまえの弓で、みんなを守るんだ。これはチェルシーにだからこそ頼めることだ。やってくれるな?」
 ここまで言われて逆らうという考えは、チェルシーには欠片も浮かばないらしい。頬をかすかに赤く染め、力一杯の声で答えた。
「はい!! お任せくださいです!!」
 ウッドロウの後ろで、スタンとルーティ、フィリア、マリーは互いに顔を見合わせ小さく吹き出した。


「そうか、ヤツは神の眼を奪ったのか……」
「ああ。それがソーディアンまで手にしたとなると、厄介だな」
 毛皮の外套は脱ぎ捨て身軽になった六人は、ウッドロウの案内のもと、途中の隠し扉もすべてクリアして、地下通路を進んでいた。
「あのよくわからないサイフリスとやらもいるし」
 その言葉にフィリアがごく微かに一度震えたが、誰も気づかなかった。
「あの角を曲がったら後は城への階段があるだけだ」
 分岐もなくなった一本道の先に、Uの字を描く突き当たりが見えた。それを曲がると、
「まさかと思っていたが…来たか」
 ずっと上に向かって延々と続く階段のふもと、人形モンスターの一群の前に、黒髪の男が立っていた。おそらく、スノーフリアで聞いたのはこの男のことだろう。
「貴様らが街に侵入したのを見つけてな。もしかしたらこの通路は外にも通じているのではないかと思い、張っていたが、当たりだったな」
 男は言いながら、大剣の収まった鞘を留め具から外した。ひとまずそれを抜くことはせずに、後方に控えるモンスターに命令しようとした、そのとき。
「マリー!!?」
 ルーティの制止も届かず、マリーは驚愕と共に、呆けたような魅せられたような、そんな表情を浮かべ、ふらふらと前に出る。
「似ている……? ――いや、違う……」
 マリーは男の真正面に向くと、鞘ごと自分の大剣を引き抜いた。
「…おまえ、この剣を知っているだろう?」
 まっすぐと男の顔を見つめ、わかりきったことを訊ねるように問いかけた。
 あまりのことに、スタンたちも呆気にとられ、動けないでいる。
 それは、男の方も同じらしかった。
「その剣…は……貴様は…おまえは……誰だ……?!」
 男はまともに動揺を見せ、自分の剣を震える手でしっかりと握り直す。それは、柄の意匠の細かなところもすべて、マリーのそれと同じ物。
「マリー……まさか、あんた……」
 ふと思い出したルーティはかすれた声でつぶやいた。
 彼女の剣は、たった一つの過去とのつながり。
「私は――………そうか。
 私はマリー。マリー・ビンセントだ、ダリス」
 確固たる何かを感じさせる口調で、マリーははっきりと言いきった。
「何故私の名を知っている?! 何故、私とおまえは同じ名なのだ!?」
 男――ダリスの動揺はますます大きくなる。
「何故おまえは覚えていない? 私はすべて覚えて…思い出しているぞ! あの日、サイリルが焼け落ちたあの日、おまえに封じられた記憶もすべて!」
 すべての時間が鮮やかに蘇る。
 愛しいこの人を見た瞬間から。
「ダリス。私のことを、思い出してほしい。
 十年近く前の混乱期の中、ぼろぼろの剣だけを抱いて震えていた敗残者の私に手を差しのべてくれたのは、サイリルの街の自警団にいたダリスだったじゃないか。
 捨てられたとはいえ敵だった私を助けてくれたのは、そして愛してくれたのは……ダリスじゃないか。
 私はおまえに応えたくて、料理だって必死で覚えた。
 少しでも長い間、ダリスが笑っているのを見ていたかった。私が忘れていたあたたかさを、少しでも逃がしたくなかった。
 とても、幸せな時間だった」

 ――ずっと、一緒にいたんだ。あの日まで。

「その日、サイリルがモンスターの襲撃を受けて、街は炎に包まれた。街の者はスノーフリアや近辺の村落に逃がし、その頃自警団長になっていたおまえと私はそのための時間稼ぎをしていた。だが、明らかに組織的な動きをするモンスターどもを前におまえと私は追いつめられてしまい、死を覚悟したとき……」
 そこでいったんマリーは言葉を切った。そしてなんともいえない哀しい表情をダリスに向け、続ける。
「おまえは私を裏切ったな。いつまでも一緒だと約束したのに、おまえは私の記憶を封じただろう。その後のことはなにも覚えていないが、その時のことは今でははっきりと覚えているぞ。記憶を封じられ、次に気がついたときには、私にはこの剣と自分の名前しか残されていなかった………」
「違う! 俺の妻は死んだし、サイリルが襲われた話など聞いたこともない。…そうだ、俺はずっと以前からグレバム様に仕えていた!」
「では、おまえの"妻"はどんな人だった? いつ、どうして死んだ? …そもそも、どうやって知り合った?」
 ダリスは呆けたように立ちつくす。
 その答えを、彼は持っていない。
「ダリス、グレバムはつい最近までストレイライズ神殿にいたのだぞ。"ずっと以前から"仕えていられるわけがない。矛盾しているだろう?
 記憶が歪められているのではないか? おまえが私にしたのと同じように。
 ……私の話を受け入れれば、"今まで"は消えるかも知れない。けれど――それでも、真実が失われた生活よりはましだ」
 "真実"は時に残酷で。
「……俺…は……」
 がくりと崩れ落ちる。
 マリーが、そっとその傍らに行こうとしたとき。
『まだダメ!』
 アトワイトが叫び、即座にルーティがマリーを無理矢理引き戻す。同時に、ダリスの影から触手のように木の枝が伸びた。
「ダリス!」
 枝がダリスに絡みつくと、それまで微動だにしなかったモンスターが一斉に動き出し、襲いかかってきた。
 スタンとリオンが前に出てフィリアが援護に入ったそのさらに後方で、ルーティとウッドロウの二人がかりで、振りほどこうとしてくるマリーを押さえていた。
「ちょっとアトワイト! どうすればいいの!?」
『落ち着いて、ストレイライズでのようなことにはならないわ。あれは"種子"じゃない。単なる、操り人形の"糸"よ』
「なるほど。糸を切れば人形は自由、か。
 マリー、落ち着いて。早くダリスさんを助けなきゃ。ね?」
「………そう…だな」
 心からの強い口調で、マリーも我に返る。
「どうするつもりだ?」
「ひとまず…こうすんのよ! スタン、リオン、ちょっと下がんなさい!」
 二人がいったん飛び退くと同時に、乱戦になるほど広くない通路でひとかたまりとなっているモンスターが、虚空から現れ出た無数の氷塊に囲まれ、刹那一つの巨大な氷塊の中に閉じこめられた。
 それを、すぐさまフィリアが雷の晶術を使って粉砕する。
「後ろだけよ! マリー、行こ」
 スタン、リオン、ルーティが触手をからかう中、動きの甘くなった他の触手を素早くかわし、マリーが"糸"に迫る。そして、上段から一刀両断に立ち割った。
 だが。
「なに――!?」
 断ち割られた片方はあっけなく枯死、消滅したが、もう片方がマリーに向かって硬質化した触手を数本、突き出した。
「マリー!!」
 ずぶっという肉を貫く嫌な音。
 赤い雫が床にこぼれる。
「――ダリスっっ!!!」
 力を失った彼の身体を、マリーが慌てて支える。残っていた片割れはルーティに斬り捨てられ、そのときにはもう消えていた。
「マリー……どうして戻って――………」
 力なく目が閉じられていく。
「ダリス! ダリスっ!」
 声は焦りながらも、血に塗れたダリスの身体をできるだけ揺らさないように気をつけて横たえる。そこへルーティがすぐにやってきて、
「アトワイト!」
『クレメンテ、力を貸してください!』
 二本の力で、癒しの力を集められるだけ集め、ダリスに注ぐ。
 しばらく輝き続けた眩い光が徐々に薄れて、突然ふっと消えた。そして、ルーティが大きく肩で息をする。
「これで…ひとまず大丈夫……」
 おそらく"糸"のせいだろうが、ひどくダリスの身体は衰弱していた。それを補うとなると、止血が精一杯だった。あまり消費するとこの後に大きく響く。
「ルーティ…ありがとう……」
 目に涙まで浮かべて言うマリーに、ルーティは微笑んだ。
「いいの。それより、あんたはダリスさん連れて戻ってなさい」
「しかし……」
 言いつつも、本心はその言葉を受け入れたいのがわかる。
「大丈夫! グレバムなんかちゃっちゃと片づけてくるからさ☆」


 彼女らと別れ、長い階段を上りきると、はたして執務室に出た。
「神の眼はどこにあると思う?」
 ここを出てすぐの謁見の間にはいない。だが、神の眼は直系六メートル近い巨大レンズである。それが安置できるところとなると、かなり限られてくるはずだ。
「大時計塔の最上階だろう。あそこなら、城の外から直接中へ巨大な部品を移動するためのリフトもある。神の眼よりも巨大な、大時計のレンズも運べるほどのな」
「そんなに大きい時計なんですか!?」
 素直に驚くスタンに、
「見ればわかるが、かなり大きいぞ」
 ウッドロウは小さく笑って返した。


「来たか……」
 中央に神の眼を抱く樹が植わった広いホールに、彼の声は重く響いた。
「……アルム…………」
 なんの色もないサイフリスの黒の瞳を見つめる。
 そこに映るのは、ひたすら深い、哀しみ。


 城の最深にある尖塔までは、そう簡単に行かせてくれそうになかった。
「邪魔よ!」
 アトワイトの一閃で小型のモンスターが凍りつき、砕かれる。転がったレンズにふと手がうずくと、
「よそ見をしてる暇はないぞ」
 リオンが彼女の背後にすべり込み、モンスター二体を一気に斬り捨てた。
「よそ見なんかしてないわよっ」
「どうだか」
「はいはい…」
 また喧嘩を始めそうになってスタンが割って入った。
「ふん」
 最後の一匹が矢に貫かれると、
「こっちだ」
 ウッドロウは広間の奥にある階段を指した。
「あの上が、最上階になる」
 つながる一本の道を見上げて、
「……別ルートはあるか?」
「時計塔の機械室を渡っていけば、整備用の裏口から入れるはずだ」
「ん、二組に分かれない? こっから上がっていく方がグレバムを引きつけて、その隙に機械室側が攻撃、ってね」
「いいだろう」
「じゃあ、どう分かれる?」
「あの……」
 とんとん拍子の会話が、ぷつりと途切れた。
「その囮役、私にやらせてください。大丈夫ですわ、クレメンテも一緒ですから」
「そんな、危険すぎる!」
 すぐさまスタンが声を上げた。彼女は一人で囮をするつもりだと気づいたから。
「大丈夫です。皆さんを信じてます。
 それに――…いえ」
 何かを言いかけて、ふっと首を振った。
「私、信じていますから。絶対に、大丈夫です」
 止める言葉も見つからず、それでもやはり止めたい気持ちもあって。
「フィリア、気をつけて」
「頼んだわよ」
 スタンとルーティは言ってから、躊躇いがちな足取りでもなんとかウッドロウと奥へ向かう。その後、
「……危ないようだったら、囮なんかよりも逃げればいい。ここに来て戦力が欠けるのは痛いからな」
 言うだけ言って、リオンもさっさと行ってしまった。
 それを見送ってから、
『フィリアや、なにを気にしておるのじゃ?』
 クレメンテに問われて、フィリアは小さく苦笑する。
「やはり、気づいていたんですね。……クレメンテ、教えてください。サイフリスとはいったい、どういうモノなんですか?」
 逆に問い返した。
『寄生樹か……薄々気づいておるのだろう。ヤツは』
 フィリアは階段のずっと上を見つめた。
「私は確かめたいのです。真実を」
 そして、一段めに足をかけた。


 永遠に続くかのような長い通路は、唐突に終わりが見えた。
 ホールには、神の眼を抱いた樹がある。
 そのすぐそばにグレバムがいた。手に長い細剣を握っている。柄にサイフリスの触手が張りついているそれが、おそらくはイクティノス。
 円形のホールの床はその半径の半ばまで、厚いガラスに歯車が透けて見えた。奥の壁も、半分以上が夜の紺碧を透かして見せている。
「来たか」
 控える影のように、サイフリスも現れた。
 セピアの髪、黒い瞳。
 一度だけ見かけた彼女と、それは一致していた。
「わしを殺しに、来たか」
 ひりつく喉に、フィリアは無理矢理唾を飲み込んだ。
「どうしてですか、大司祭様。どうして、こんなことをなさるのですか? これが…これが神に仕える者の所業ですか?!」
「黙れ!」
 突如グレバムが激昂し、イクティノスを横に薙いだ。
「――きゃっ!」
 押し寄せた風圧に、フィリアはその場に倒れ込んでしまう。クレメンテが神の眼の力を防ぎきれなかったのだ。
「神がいったいなにをしてくれると言うのだ?! どれほど願ったとて、神は救いなど与えはしないのだよ! そうではないか、そうでないというのなら、何故、神はあのとき救ってくれなかったのだ!?
 しょせんこの世は力なのだよ! 力なき者は、どれほど大切なものでも、何一つ守ることができない!!」
 神の眼の中心に、淡い光が灯る。
「だから私は力を求めたのだ、復讐のために!」
 神の眼の力が注がれたソーディアンは刀身にその光をまとい、グレバムはそれをフィリアに向けて振り下ろす。剣の届く間合いではないが、放たれた晶術が襲いかかる。
 だが、届くよりも先に、ルーティがフィリアとグレバムの間にすべり込み、アトワイトとクレメンテ、二重の結界が二人をすっぽりと包んだ。結界の外で炸裂音がホールを揺るがすと、
「フィリア!」
「大丈夫です!」
 祈るように重ねた手が震えるのは、そこにある深い狂気に気づいたから。
 グレバムが再び二人に向けて力を振るおうとしたところに、矢が肩に突き立つ。
「父の仇、とらせてもらうぞ!」
 ウッドロウが矢筒から次の矢を取り出しながら、叫んだ。
「来たか!」
 矢を無造作に引き抜き、グレバムは再び叫んだ。
「こっちにもな!」
 グレバムの視線がフィリアやルーティ、ウッドロウのいる一方に行った隙に、リオンがその死角から深く入り込む。すくい上げるように薙いで、そのまま三人のいる方まで駆け抜けると、
「シャルティ!」
『お任せください!』
「アトワイト!」
『ええ!』
 床の石材がいくつも巻き上がり、グレバムに向けて突進する。同時に、無数の氷刃がその間を抜けて襲いかかる。
「ちぃっ!」
 それらを退けるために、グレバムは右手に持つイクティノスを一閃させた。
「全員まとめて始末してくれるわ!!」
 力を失った瓦礫が落ち行く中で、四人に向かってグレバムが吼える。
 だが。
 長い金糸が揺れて。
 肉を断つ感触。
 血の朱。
 肉を断つ音。
 血の匂い。
 白い神官衣を、血が赤く染めていく。
 両手で握りしめた紅い剣の刀身は、赤い血に塗れていた。
「貴様……?!」
 愕然とグレバムは目を見開く。己の血にまみれた左を力なく垂らし、右は――
「――っ……!?」
 スタンを鋭い切っ先が貫いた。青白く細い刀身に鮮血が滑る。音もなく引き抜かれると、ぽたりとガラスに雫が落ちた。
 誰もが声を失い。
 すべてを手放すように、くらむ視界は闇に引きずり込まれていく。
『スタン!』
 ディムロスの声に、半ば反射的にスタンは倒れるように後ろへ跳び下がった。直後、イクティノスの切っ先が鼻先をかすめる。
 そのまま石の床に崩れ落ちたスタンに、リオンがはじかれたように飛び出す。我に返ったルーティも慌ててそれを追うが、たどりつくよりも早く神の眼が光り、
「残念だったな! 覚えているぞ、二十四年前の貴様の言葉! それが今、貴様を殺そうとしているのだから、運命とは皮肉なものよ!!」
 "運命"は時に悪戯で。
 グレバムの狂気に染まった瞳は、二十四年前にはいない一人を向いていた。
「消え失せろっ!!」
 鈍く輝く刀身がスタンに向けられた刹那、そこの空間自体が爆砕したように床に亀裂が走り、その重圧に耐えきれず崩れ始めた。崩壊は連鎖的に広がり、瓦礫や割れた壁のガラスと共に、スタンの身体が奈落へ沈む。
「くっ!」
 リオンの足下も崩れるが、落ち行く瓦礫を無理矢理足場にして、できるだけ穴の中心の方に飛び込んだ。
「んもう! 仕方ないわねっ」
 ルーティもアトワイトをしっかり握りなおして、二人を追って口を開けた穴に飛び降りる。
「皆さん……!!」
 身を乗り出すフィリアをウッドロウは引き止めて、
「こっちだ!」
 ホールの出口へ走った。
 崩壊は止まり、破片だけが思い出したように下へ引かれていく。
 神の眼に光が灯ると同時に、グレバムの傷が完全に消える。
 グレバムは振り返り、
「――アルメリア。すべてを終わらせよう……」


 気がついたら、そこは暗闇。
 ずっと上に、光の漏れる穴が見えた。
(……そうか、僕は……)
 あそこから落ちた。いや、正確には――
「――っ!」
 打った痛みを抑え込んでなんとか立ち上がり、闇に慣れてきた目で辺りを慌てて見回した。
 ――微かな血の匂い。
「シャルティエ、わかるか?!」
 落ちてくる間にも離さなかった彼に、鋭く訊ねる。寒さで息が白くなる。
『……、すぐそこの瓦礫の山のふもと!』
 一瞬の間を空けてシャルティエが答えると、リオンはすぐさま言われた場所に駆け寄った。
 ――確かな血の匂い。
 失血が多くて、顔が蒼白だ。息も細い。
 触れようとして、思いとどまった。
 手は、すぐそばに落ちていた白銀の光を拾い上げた。それを強く握りしめ、
「……シャルティエ」
『ディムロスも外的ショックによる一時的な機能麻痺。それに…あなたは"あの人"とは違うんですよ? 危険なんですよ?』
「それでもだ。血を止めるだけでいいから」
 言い放ち、リオンはシャルティエを逆手に持ち替える。
『…………わかりました』
 長い沈黙の後、シャルティエは答えた。


 声が聞こえる。
 なにを言っているのかは、理解できなかった。

 あたたかい光。
 夢の中のように浮ついた感覚の中で、鈍い響きだけがつながっていた。


 まるで焦点のあわない視界に、影が見えた。
 ゆっくりと、一度目を閉じ、再び開ける。
(――ルーティ、…じゃない……リオン……?)
 リオンはごく薄く目を開いたスタンに気づき、紫に微かな安堵の色を滲ませた。
「まだ静かにしていろ」
 今になって思い出した脱力感に、身体をゆだねた。
 もう大丈夫――
 二人は揃って目を閉じた。


 あたたかな闇。
 夢の中のように浮ついた感覚の中で、懐かしさを覚えていた。


 目が覚めたのは、唐突だった。
 ふと、スタンの方を見やる。眠っているだけ。呼吸も落ち着いている。
 立ち上がろうとして、大きな脱力感にくずおれる。視界が一瞬で闇に染まり、感覚が消え失せるような、そんな不安定感に襲われて。
 大きく吐いた息は白くならなかった。
(……さすがに、ほど遠いな……)
 治癒にはなんとか成功したが、その負担が大きすぎたようだ。それでも、幼い頃の見よう見まねでここまでできれば上出来か。
 そのときになって、やっと気づいた。
 隣で、ルーティが膝を抱えた態勢で眠っていた。瓦礫と共に落ちてきたときについたリオンの傷も、消えていた。
 ソーディアンは三本とも眠ったように静かだ。ディムロスの復帰が終わっているのかどうかは知らないが、どちらにしてもそのまま"眠り"に入ったはずだ。
 そのときになって、やっと気づく。
 何故、ルーティまでここにいる?
 何故、ルーティだけここにいる?
 答えは疑問と共に現れた。
 簡単なことだ。自分と同じ、穴に落ちたのだ。――穴に、飛び込んだのだ。
 ずっと上に、穴が見える。小さな穴だ。
 とっさのことだった。
 重ねて見たからじゃない。
 重ねて見てないから、だ。
 それは、誤魔化しでもなんでもない。
 ――なりきれないのは、一度でも重ねて見てしまったから。
 それも、紛れもない事実。
 自分は何を望んでいるんだろう?
 自分は何を求めているんだろう?
 思いにふける意識は、突然に呼び戻された。
 蒼い闇の中、光を飲み込む黒が降り立つ。
「――なっ…!!?」
 その微かなうめきに呼ばれるように、一対の紫も光を映す。
「……ぅ……ん………」
 そして、瑠璃がわずかに光をはじいた。


 時を同じくして。
 ホールの階段を駆け下り、ウッドロウとフィリアは時計塔の機械室に入っていた。
「一度下をまわらなくては行けないとは……」
 時計塔の全体像を思い浮かべ、ウッドロウが苦々しくつぶやく。
 イクティノスはやはり奪われていた。
 クレメンテの話によると、彼の意識は完全に眠ってしまっていて、サイフリスによって神の眼の力の発動体とされているらしい。
 それでも、どんな理由があっても、幼いときからずっとそばにいたイクティノスの刀身が血に染まるのは、やりきれない思いがある。
「急ごう。三人が心配だ」
 時計塔の下層から上に続く螺旋階段に踏み入れた足は、すぐに止められた。
「サイフリス…!?」
 数段上に、漆黒の影は立っていた。


 ヤツは、人の身体を乗っ取り心を喰らう。
 わしは、ヤツに連れ合いを奪われたよ…。
 ――クレメンテは、あの時、そう言った。


 長く伸ばされたセピアの髪が、流れなき風になびく。
 どこまでも深い、そして不確かな黒の瞳が、こちらを見た。
 悲痛な想いを訴えかけて。
 ――助けて……
 それは声ではなかったのかもしれない。
 だが、確かにそれは"声"だった。
 黒き少女は夢幻に誘<いざな>う。


 あの日、醒めることのない悪夢が始まった。

 一人の少女が消えて、一つの亡霊が現れた。
 血を吐くような祈り虚しく、少女は消えた。
 血を吐くような祈り虚しく、亡霊は現れた。
 少女の父は絶望し、狂ったように力を求む。
 そして、神の力を得て――復讐が始まった。

 あの日、最も愛する娘がこの世から消えた。


 黒き夢幻は醒める。
 ――助けて……
 消えゆく幻は、訴える。
 それは紛れもなく、いつか聞いた声。


 汝に問う。
 裁きは何れへと下されるべきか?


「来たか」
 時を刻むホールの中央に、葉のない樹に支えられた神の眼。
 それを背に、狂った父親は再び言った。
 かつて娘だった亡霊が、影のように従う。


  こんなことを、私は望んではいません。


「アルメリアさんだって、哀しんでますよ……!」


  そうでなくて、どうして訴えましょう?


「――アルム……?」
 光は唐突に戻った。
 力を手放した手は、愛する娘を求め――


  私は、優しい父が大好きなんですから。


 届く寸前、神の光が哀しき父を飲み込んだ。
 それは一瞬で。


 がらんっ――
 異様に大きく、その音は響いた。
 剣の刀身が床を叩いた音。
 柄に蔦を絡みつかせた、一本の長い細剣――ソーディアン=イクティノス。
 剣の柄に絡みついていた蔦が崩れ落ちる。
「神の眼を掌握しきれなかったのだ、あの者は」
 感情もなにもない、哀しき少女の声が響いた。
 アルメリア。――サイフリス。
 けれど。
 人形のような白いかんばせ。
 ガラスのような黒い瞳。
 そこに心など在りはしない。
 けれど、父の消えた場所を見つめ、"娘"は涙した。

 父を消した光の欠片を、娘は抱きとめる。
「こんな――こんなのってありません……!!」
 燃え上がり、刹那砕けた光の花弁に、フィリアが泣き崩れる。
 自らを包む光の衣で、神の眼は鎮まった。


 "運命"は時に悪戯で。
 "真実"は時に残酷で。


 風が割れた壁から雪を運ぶ。
 白い雪は神の残照と共に溶けた。












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