それは、忘れえぬ記憶。
それは、大切な思い出。
幸せな時間。
絶望の瞬間。
それは――
これは――赤?
光。
朝陽の光。
眩しい朝陽の光。
手。
自分の手。
かざした自分の手。
また、夢を見ていた。
また、覚えていない。
ただ、とても懐かしくて。
ただ、とても切なくて。
ただ、渇ききっていた。
ずっと見ている夢。
目覚めたらほとんど覚えていなくて。
でも、とても大切なことのような気がして。
なんとなく、見つけないといけない気がして。
十章 運命の目覚め
「お兄ちゃん!」
広く薄暗い玄関ホールに、少女の声が響きわたる。その声には、明らかに怒りが含まれている。見れば、顔も不機嫌そのものだ。
ごく微かに光をはじく長い金髪に、宝石のような瑠璃色の瞳。歳は十五、六といったところか。名前は――
「リリス……。いつもより早いなぁ」
二階まで吹き抜けになったホールの奥には、大きな幅広の階段が二階の踊り場へと伸びている。その踊り場の、左端の下にある扉から、少女とよく似た容姿の少年が顔を出した。髪も瞳も揃いだが、少年の方が二、三ほど年上に見える。いうまでもなく、この二人は兄妹である。
「早いなって……もう! これで何度目よ!?」
リリスと呼ばれた少女は、少年の言葉に怒りを倍増してしまう。
その様子に、古めかしい装飾の長剣を振り返った少年は困惑を浮かべる。
「やっべ〜……」
リリスには届かないような小さな声で、ぽつりともらす。
『今日も諦めて叱られてこい、スタン』
「そう言ったってな〜。ディムロスはなんも知らないから、そんな気楽なことが言えるんだよ」
剣の柄に視線を落としてスタンが言い返した。だが、声の調子から察するに、すでに諦めているようだ。
言っても信じてもらえないと思って、ディムロスのことは誰にも言っていない。もちろん、リリスにもだ。
天地戦争時代の最終兵器ソーディアン。
そのもっともわかりやすい特徴は、はっきり言ってしまえば、しゃべる剣であるということだ。だがその声は必ずしも全員に聞こえるわけでもなく、聞こえない者にとっては、聞こえる者とソーディアンの会話はただの危ない独り言にしか見えない。
こちらに帰ってきても、ディムロスはリーネの家には連れていかず、ここ、父の生家だった屋敷に隠している。それもスタン以外は魔境と呼ぶ、父の書斎に。稀に入ってくる叔母もここにだけは滅多なことでは近づかないことを知っているからだ。
一階玄関ホールの奥にいたって普通の扉があるが、その中はこの屋敷の左側五分の二を占拠しているかなり大きな部屋だ。三階分の高さもそのままあり、一階一階吹き抜けになった真ん中で、それぞれの階を螺旋階段がつないでいた。三階すべての壁に書棚が据え付けられ、床にも書物がひしめいている。まさしく本の海だった。
今では誰も住んでいないが、この屋敷はスタンが幼い頃からの遊び場だった。特にこの書斎が。考古学者をやっていたという父の部屋らしく、その手の発掘品らしきものもゴロゴロしている。膨大な量の書物と相まって、ある意味迷宮と化してもいた。
対してリリスはあまりお気に召さないらしく、この屋敷には自分からは近づかない。人が住まなくなって十年以上経つのでほこりっぽいと嫌がるのだ。掃除はきちんと行き届いているのだからさほどほこりっぽいというわけはないのだが、人の住まない屋敷特有のにおいが嫌なのかもしれない。
「お兄ちゃんっ!!」
再び響く聞き慣れた怒声。あまり長くは待ってくれそうにない。
「あ〜! わかった、わかったよ! 帰るから!!」
大きくため息をついて、スタンは散らかした周りを少し積み上げておく。一度外に長いこと出てから、叔母はまだしもリリスの方はえらく監視がきつくなってしまった。今日も今日とて、雨の中を御苦労なことである。
「んじゃ、またな」
『そろそろ、こっそり来るのはやめにしたらどうだ?』
呆れたように、ディムロスが言ってくる。毎日毎日こんな様子なのだ。いいかげん、なんとかしようとは思わないのか。
「それができたらこんな苦労もしないって」
苦笑を浮かべ、冗談めかして言いながらスタンは肩をすくめた。
ある雨の日の昼下がり。
スタンがロスマリヌスに帰ってから、九日経っていた。
ロスマリヌス。
セインガルドからここへ移ってきたのは、セインガルド王国でもかなりの名門であった、王家の血を引くローズマリー家を筆頭とした一団である。彼らは街を興し、その名にローズマリーの名を使った。天然の良港に恵まれた街は、やろうと思えば南のノイシュタットに勝るとも劣らない栄えた街とすることもできたかもしれない。だが実際はとても穏やかで緩やかな時の流れる、落ち着いた街になった。
「――ということだ」
簡単なロスマリヌスの説明を終え、ルートは一つ、大きく息を吐いた。
ロスマリヌスの解説をせがまれたのは、船旅の暇つぶしとも言えるだろう。特に、空模様がよろしくないのがよけいにだ。雨がたまにぱらついてくる。
「どぅだ、これでいいだろ?」
深く机にもたれかかったまま、半眼で向かいの三人を見上げた。長めの細い前髪を鬱陶しそうにかき上げる。
「ルートってば、たまの休みに子供にまとわりつかれて仕方なく遊びに連れていってる父親みたいな声出して♪ おっかし〜」
ルーティがけらけら笑ってくるが、
「あーあー、言ってろ言ってろ」
ルーティとリラの二人は、何かを言い返せば倍以上で返してくるというのはすでに思い知っていた。もう無難に、聞き流すことにしている。
「ところで、向こうに着いたらどうするんですか?」
「まずはスタンと合流することだな。一応、――たぶん確実なアテがある。
ま、勝手な行動だけは慎んでくれよ。何か問題起こしたら責任は負いきれない」
ヤケに"だけは"にアクセントを置き、念を押してきた。
「自分の責任ぐらい自分でもてるわよ」
ルーティが当然のように言い返すが、
「そういう問題じゃないんだ。最悪――はおまえらの場合たぶんなくてすむだろうが、いい気分にはほど遠い」
「はぁ?」
ワケがわからずルーティが代表して説明を求めるが、ルートはふらりとその場を離れ、船室の奥へ消えていった。
それから昼前に、船は無事ロスマリヌスの港に入った。
「雨、止んでるね」
外套のフードをぱっと後ろに落とし、ルーティはしっとりと濡れた港街を見回す。
広々とした港も、先ほどまで雨が降っていても、人出があるとやはり狭く見える。朝っぱらにジェノスから乗ってきた船の他に、見慣れぬ――しかし見覚えはあるのだが――船もいくつか停泊していた。
「あれってどこからの船?」
外套の下からぴっとそれらの船を指さし、ルートに訊ねる。フィリアも首を傾げ、記憶の糸を手繰っていた。
「さてな」
ルートが返した答えはおざなりで、不満げにむくれるルーティを気にもとめず、雨が止んでいるうちにと動き出した街に目を凝らしていた。そしてふと、
「ちょっとここで大人しくしていろ」
言うなり、大慌てでやってきた一人の女性と港の隅に行ってしまった。しばらく、なにやら難しい顔で話し込んでいたようだが、女性は話が終わると急いで港の奥へ消えていった。
ルートもあまり浮かない顔で、こちらに戻ってくる。
「雨がまた降ってこないうちに、落ち着いた方がいいな」
「どちらへ参りますの?」
リラの問いには、心持ち視線を落としていたルートは一瞬目を泳がせたが、
「この時間だったら――まだあそこにいるかな……あいつ」
「あら、昔ふられた女性に会うんですの?」
彼のその言葉に、リラがキラリと目を輝かす。
「え、ふられたって?」
ルーティが聞き返したのに、リラは嬉々として答えを返した。
「はい☆ ルートって、ここの出身なんだそうですの。昔、幼なじみの方に告白して見事に玉砕したそうですのよ♪」
「な、その話はやめろって!」
かなり慌ててさえぎるルートにも、
「あら、よろしいではないですか」
にっこり動じず。
「こっちはよろしくない!」
「人間、諦めが肝心ですわよ」
「なんでだ!」
「……仕方ありませんわねぇ」
なにが仕方ないのやら。
とにかくやっと一息ついたところへ、しかしルーティが、
「ねぇねぇ、ルートをふった人って、どんな人?」
「――ったく、しつこいねぇ…」
「否定しないのは、肯定ととってよろしいのかしら?」
そこへ、ここぞとばかりに再びリラが乗ってくる。
「…黙秘権は?」
「認めな〜い」
「ハイかイイエ、二つに一つですわ」
調子を合わせて、ルーティとリラがとんとん畳みかけてくる。フィリアは苦笑しつつ、しかし止めることもしない。
ルートが大きくため息をつく。
「あのなぁ、ふられたっつぅたって、十年以上前の話なんだ。俺が、おまえらぐらいの頃。苦い青春の思い出。いいか?」
げんなりとして、だがなんとか逃れようとする。が。
「よくないですわ」
「つまんないじゃない」
返ってきた答えは、とてもあっさりとしていた。
ロスマリヌスは入り江に沿う形で、倉庫や船員相手の建物などが港町を形成している。街自体とは、はっきりと別れていた。
整然とした街並みは、のどかな幸せに満ちた街。
雑然とした街並みは、それなりの活気に満ちた港町。
それでも、きちんと整理されて造られた街らしく、港の方もそれほどごみごみとしてはいない。露店が出されていても十分に道は広かった。
そして、港と街を隔てる大通りを北に向かって歩く御一行。
「大人気ないですわ、ルート!」
「そうよ、ちょっとからかわれたぐらいで。大の大人がみっともない!」
仏頂面で足早に男が歩き、彼をきゃんきゃん騒ぎながら追いかける少女が二人に、そのさらに後をおろおろとついていく少女が一人。
かなりの幅広な道で人出もあり、周りの不思議そうな目はしっかり集まっている。後ろで騒いでいる二人はそんなもの眼中にないのだろうが、ルートはそうも言えない。フィリアも気にしているようだが。
はたと立ち止まり、身体ごと二人に向き直る。
「あのなぁ、街中できゃんきゃん吠えないでくれって」
周りを気にして、疲れた声で言い聞かせようとする。昔の知り合いに見られでもしたら指を指して笑われそうだ。
「何言ってるんですの!」
「ルートがあたしたちを無視するからでしょ!」
「その少し前にした自分らの行いは棚の上か?!」
握り締めた拳を震わせ言った言葉も、
「何を今更言っているのです」
「当たり前に決まってるじゃない」
二人は意に介さず、何を言うのやらと顔を見合わせた。
「ああ、ルートさん……ルーティさんにリラさんも………」
どうすればいいのかとおろおろするフィリアがその間にいるが、どうにもなっていない。
「ああ、ああ! いいかげんにしてくれ!
…それとだな、リラ。おまえ、わかっててやってんだろ……?」
「ルートったら、そんなに怒ることもありませんでしょうに。
……確かに予想はついてますわよ。あのお方なんでしょう? かれこれ七年ぶりになりますわね。けれど、意外でしたのよ。ルート、あの方のことがお好きでしたなんて♪」
「だからそれはどーでもいいだろが!!」
可哀想なぐらいにがくーっとルートの肩が落ちる。
もしかしたら、見た目と大違いで結構いい性格してるのかも。
リラにいいようにからかわれているルートを眺めて、ルーティはふとそんなことを思った。単なるお嬢様とは思わない方がいいかもしれない。
「ったく、どこで聞いてきたんだよ、そんな昔のことなんか……」
ルートがこぼした愚痴を聞き逃さず、リラがふっと表情を消した。
「フィンレイ様とアッシュの他に、誰がいるというのです? 他に"あなた方"を本当に知っているような方など、あのダリルシェイドにはもう、おりませんのよ」
二人とも、気まずそうに視線を遠く外した。どこかぎこちなくなった雰囲気に、
「ね、フィンレイって誰?」
ルーティは間を計って口を開いた。
「…アッシュのお兄様です。七年前に――亡くなられましたの」
驚くほど、なにもない声だった。
港から離れると、人でごった返すということはなくなる。ルートはとりわけ人の少ない、北部の閑静な住宅街――屋敷の大きさからすれば高級住宅街とでも言うべきか――を通り抜けていた。
「そういえば、ルートの生家は街のどの辺りにありますの?」
「この辺り」
素っ気ない即答に、だがルーティとフィリアの顔色が変わる。
「「え」」
ということは。
「ルートって、いいトコの子なの…?」
ルーティの質問に、不意に頭をよぎった系譜はひとまず横に片づけて、
「そういう言い方は俺も好きじゃないんだが、そう言っても外れではないんだろうな」
ルートが大きな門の前で立ち止まった。そして、
「これだ」
薄暗い空に悠然と構える大きな邸宅を顎でしゃくった。
「ほぇ〜……」
背伸びをして、ルーティはざっと表側を眺める。
建築様式としてはこの辺りはどれも一世代以上前のものになるが、それがかえって成り上がりではないことを暗に示しており、上流階級の落ち着きを醸し出している。どっしりと構える、どちらかといえば平たく広がった邸宅は、その中でもかなり上のランクに入るのではなかろうか。
ルーティがフィリアとリラを交えて屋敷の外観の批評をしている中、ルートはまったく別の――ちょうど"我が家"からは斜向かいにある大邸宅を見ていた。
周りのそれをさらに上回った感のある瀟洒な屋敷だ。ロスマリヌスで一番古く、かつ一番立派なのではないだろうか。ダリルシェイドの貴族などの屋敷にも見劣りしない――周囲の景観からするとずっといいのではないか――そこに相応しいであろう洒落た門扉はすべてを拒絶するかのように、見える限りの窓と共に固く閉ざされていた。
「"誰もいない屋敷"、か……」
一歩目だけは躊躇いがちに、二歩目からはしっかりと、ルートの足はその大邸宅へ向かう。
門扉を軽く押すと、迎え入れるようにいともあっさりと道を開けた。錆びついた音もほとんどしない。
何も変わってやしない。
どうして?
どうして、――変わってしまったのだろう。
「何をしておりますの?」
突然のリラの声に、はっと我に返った。鈍色からの薄い光に、揺れた銀色はちらちらと輝きをこぼす。
「そこは〜?」
圧倒されたように、だが興味津々に屋敷を眺め回すルーティの問いかけに、どうしても返す言葉に詰まってしまった。
「――…なんて言やぁ、いいのかな……」
どこか自嘲のこめられたつぶやきを答えの代わりとして、ルートはその大邸宅の中庭に回り込んだ。
広い中庭の半ば以上を占める、いくつもの花壇。
"誰もいない"のに、花は変わらず咲き続ける。見る者も皆亡くなって、もう何年経ったろう?
(いや、違うよな……)
紅と白に塗り分けられたスイートピーの花壇を見つめて。
「ここ……人、住んでるの?」
追いついてきたルーティの言葉に、否定しかけて、しかしやめた。
ここには誰もいない。だが、誰かがいつかいる。
「どなたもいらっしゃらないような、生活感の無さは感じるんですけど」
「留守にして長いのかもしれませんわね。違います? ルート」
リラの"確認"には、微妙な苦笑を返す。少しわざとらしい。
そして、こんな――ふと目についただけという些細なきっかけで蘇ってきた、意外にも鮮やかに刻まれている声に、膝を折り、紅い花壇から数本摘み取った。
「それは?」
ルーティに問われて、持たされていたリボンで簡単な花束をつくっていた彼は、
「スイートピーか? 別に珍しいこともないだろ」
「誰かにさしあげるんですか?」
フィリアが、花をまとめる白いリボンに目をとめた。
「……花ってのは、まぁ、たいていは人に贈るもんだよな」
「あ、ルートをふった人に?」
最後の質問にだけはなにも返さず、
「ついでだから、約束、果たしておこうかと思ってな」
紅い花壇の隣で咲き誇る、白い花壇を見つめて。
白い花壇にぽっかり空いた、緑の穴を見つめて。
一面の短い緑。
整然と並ぶ硬い黒。
ロスマリヌスの北西の外れは、一面、手入れの行き届いた共同墓地であった。
墓地全体を囲むように植えられた低木に、淡紫色の花が静かに咲いていた。
「こんなところに――」
何の用?と続けようとしたルーティをさえぎって、
「墓地に来る用といえば二つ。自分が土に埋まるか、もしくは?」
逆に問い返された。
「……お墓参りをしに来ました、ってこと?」
「御名答。どうだ、かなり広いだろう? ロスマリヌスとその近辺に住む人間はたいてい、ここに眠ることになる」
静けさが眠る墓地を手で指し示し、ルートは小さく笑みを浮かべる。
「七年前、ここの石が一気に増えた。黒死病の流行も原因の一つだが、村が一つ、魔物に襲われ全滅した。生き残ったのは、ごく数人。その誰もが、そのとき村を離れていたヤツだ。――たとえば、俺とか、な」
それだけ言い残し、彼はすたすたと石の合間を縫っていく。
「………」
もしかしてと思いながらも、リラはそれを口に出すのをやめる。その代わりに、
「…この花」
膝を折って、花にそっと手を添える。
墓地を囲む低木に咲く花。
其はすべての想い出を映す、永遠の海の雫。
「ルートは七年前に、お姉様以外の家族を亡くしました。そして、そのお姉様も、二ヶ月前に亡くなられたと、連絡がありました。…皆、魔物に殺されたんだそうですの」
人とは、簡単に死んでしまうのですね。
ぽつりとつぶやいた。
「さてと。追いかけさせていただきましょうか」
リラはふと顔を上げて言うなり、お嬢様然とした雰囲気に戻った。
ルートに追いつくのはすぐだった。隣に並んでも、彼は一度ちらっと目を向けてきただけで、すぐに微かに俯いて、墓石の名前を順になぞっていっていく。
「…あたしの街でもいっぱい人が死んだわ。友達連中も、半分以上ね」
ルーティが吐き捨てる。あれから少しずつ嫌なことが増えた。
黒死病の被害が一番ひどかったのはセインガルドだった。陸続きなために、すぐさま国中に広まったのだ。出所不明の薬が出現しなければ、どうなっていたか。
直接にはその惨状を見ていないフィリアは息を呑む。
「あの頃、俺はもう七将軍だった。でも、あのときも仲間にわがまま聞いてもらって帰ってきてたんだ。モンスターがよく見かけられるって聞いて、心配になってな」
いつになく、急き立てられているどこかが。
無口だなんて無縁だが、饒舌とも思っていない。そんなにうまくない。それに、事実を話すだけなら、今までだって何度もやってきた。
「当然の権利だと思うわよ」
黒死病の流行からしばらく、特にセインガルドではモンスターによる村落の襲撃が頻発していた。ロスマリヌス周辺での不自然なほどの目撃件数を聞いて不安を抱くのは当然だったろう。
「それでこっちに帰ってきたら、襲撃を受けた直後だった。慌てて村に――リコリスに行ったよ。そしたら……ひどい有り様だったさ。大人も子供も関係ない。皆殺しだった。
…なにもかも、血塗れだった……」
リコリスで初めて見た自分以外の動くものは、自分と同じように村から離れていて助かった、一人の子供だった。
血塗れの母親だったモノを前に、現実を拒絶した子供だった。
そして、その時から重い咎を背負っている。
「たった一人残ってた姉貴も死んじまったしな……」
七年前から特に言うようになったあの言葉はあながち間違いではなかったと、自嘲気味に思う。あの子にもさんざ言い聞かせておいてよかったと、ふと気づいた。
そして、立ち止まった。
そこに意外な人影を見つけて、四人とも立ち止まる。
冷たく濡れた、黒い墓石の前。
白のスイートピーが供えられた墓石の前。
「あれ………?」
向こうもこちらに気づき、呆然とこちらを見ている。かなり間の抜けた表情ではあるが、おそらく自分も似たようなものだろう。
五人とも呆然としていたのは、はたして一瞬だったのか、長い間だったのか。
その沈黙を破ったのは、ルーティだった。
「ちょっと、なんでスタンがここにいるわけ?!!」
はたして一度破れた沈黙は、次の沈黙を許さない。
「それはこっちが言いたいよ! しかもどうし――…って、ああっ、まさかっ!!?」
スタンは驚愕と共にルートを指さす。
「ルートさんって――あのルートさんだったのかよ……っ!」
「なんか妙にひっかかる言い方だな…?
ってことはだ。おまえ、もしかしなくてもアステルの甥っ子だな。ああ、薄々わかってたことだ、とても信じられやしなかったが」
どこかなげやりになっているルートの問いに、スタンはコクコクと頷く。
「あ。そうか、ルートさん、髪長くなってるから……」
それで気づかなかった。七年前とはかなり雰囲気が違う。斜に構えたような、いつも気怠そうに半眼気味なのも。
「こりゃ、とんでもないことになったよな〜…」
一方のルートは、花束を持っていないほうの手で、大仰に額をおさえている。ふと、真紅の花束を純白の花束のすぐ側にそっと置いた。
外で確かめるなんてそんな物騒な真似はできなかった。その結果が、これか。
「まずいよな、こりゃ。あいつに何言われるか。あ〜あ〜………」
墓石の前でうなだれ、しゃがんでしまったルートはさておき、
「ねぇ、スタン。ディムロスは? 一緒じゃないの?」
「え。あ、ああ、あいつなら家にいるよ。
にしても、何かあったのか? 遊びになんか来るところじゃないだろ、この街は」
曖昧に苦笑を浮かべていたスタンが、はたと振り返る。
「それが……」
フィリアは言い出しておきながら、言いにくそうにルーティをうかがう。
「あのね、神の眼がまた盗まれたの。で、なんでか、その犯人にあたしたちがされちゃったのよ。で、あたしたちはひとまず逃げてきたの」
ルーティはあっさりとした口調で、端的にそれだけ言った。
さすがに返す言葉もなかなか見つからず、しばし呆然としていたスタンは、
「…………………………―――マジ?」
「うん」
がくりと肩が落ちた。
「そうだ! こんな場合じゃない! スタン、アステルはいつもの場所か?」
唐突にルートが復活して、スタンに問いかけた。
「え、そうだけど……叔母さんならたぶんルートさんたちが来たこと、もう知ってるんじゃないかな。港で訊かれたんじゃない、いろいろと」
なんとか持ち直して、スタンが答える。
「七年前のあの後さ、変な噂立ったから」
「あ――あれか。難儀なことだな、どこも。状況が状況だからな、全部話すぞ」
「え…?」
スタンがびくりと後ずさる。
「おおかたろくに話してないんだろ。ま、仕方ないがな」
小さな苦笑いをルートは浮かべる。と。
「覚えてたか、あの女がいつも言ってた言葉」
墓前に供えられた二色の花束に目を落とした。満足げに口の端に笑みが浮かんでいる。
「……あいかわらず…なんですね。
"白"と"赤"、でしたっけ」
苦笑しながら、スタンが答える。
ルートは大きく一度だけ頷いて、墓石に刻まれた姉の名前をなぞる。
花言葉は、
「"思い出"と"門出"だ」
書斎の扉が開けられた途端、ルーティから二度目の感嘆がもれた。
見渡す限り、本、本、本。
「ちょっとちょっと! ここ、すっごいじゃない!」
この屋敷の外観にもすでに驚かされていた。ここはあの花壇があった、大邸宅の中だ。特にルーティのぎょっとした顔を、スタンとルートでさっき笑い飛ばしてきたところである。
「考古学、という点でだけ見れば、総本山よりも多いかもしれませんわ…」
ずり落ちかけた眼鏡もそのままに、フィリアがつぶやいた。
部屋中央の吹き抜けを貫く螺旋階段は三階まで続いている。ここからではよく見えないが、その三階まで本は積み上がっているらしく。
「ここ、何?!」
「あ〜…、ん、ここ、親父の書斎だよ。考古学関係以外にも、なんか医学書や兵術書とかもあるみたいだけど」
服の二の腕辺りを掴まれ振り回されているスタンは、苦笑しながらそう答えた。
「あんたの父親ってもしかしてあんた見てたら全っ然信じられないけどすっごく立派な人だったの?」
「おい…。……まぁ、それなりに有名な考古学者だったらしいけど」
「あの人を"それなり"と言っていいのか?」
呆れた笑いと一緒にルートがつぶやくと、
「そう言ったのは叔母さんだから。俺よく知らないし」
小さく肩をすくめて、よく似ているがまったく別の顔で笑う。
「ここに住んでるの?」
「違う。今は…前にも言ったことあるだろ、リーネだって。ここはもう、十年ぐらい誰も住んでないんだ。――ちょっと、いろいろあってさ」
「いろいろって――?」
さらに訊こうとしたルーティをさえぎるように、
「にしても、この魔境、歩くのも大変だな。……あの人らしい」
書斎の中央から上へ伸びる螺旋階段を懐かしそうに見上げると、ルートは最後だけ誰にも聞こえない声で言った。
スタンはさっさと迷路のような部屋の奥に入り込む。
「ディームーロース〜」
そして本棚の影にしゃがみ込んで、そこにいる相棒に呼びかけた。
『――ん、…なんだ、珍しいな』
一日に二度も来るのは。
「へぇ、こんなところに隠してたのか」
スタンの上から、ひょいと銀髪が流れる。ルートだ。歩くのも大変などと言っておきながら、さすが、慣れた足取りでひっかかることなくここまで来たのだ。
「凄いなぁ……」
『八日ぶりね、ディムロス』
圧倒されたように書斎の一階を見回し、足下を確かめながら歩くルーティの腰から、アトワイトの声も届いた。
『アトワイトもいるのか?』
『すまんがわしもおるぞ』
『…スタン?』
「まずいことになったんだ。ひとまず行かないとなんないようでさ」
『まずいこと? なんだ? 何があった?』
「端的に言いますと――」
「神の眼がまぁた盗られたってことだ」
リラとルートが口を揃えて答えると、スタンがぎょっと振り返る。ルーティとフィリアも目を見開いていた。
「えっと……あの、ルートさんも、リラさんも?」
「はい☆」
「世間なんて、意外と狭いからなぁ」
そんな三人の様子を見て意地悪な笑みを浮かべると、ルートの方はこんなことを言った。
『……確かにな』
動揺を隠しきれないディムロスの声が驚きに固まった空気に響く。
「なら、もっと驚く前に言っておいてやるよ。俺以外にもいるぞ」
意味ありげに、誰に対してか言った。
「そうね。たとえば、私とか」
突然響いた女性の声に、まずひくりとルートが引きつる。ぎこちなく背後を振り返り、
「アステル……」
「叔母さん!」
黒茶の髪をさっと後ろへ流し、心底呆れきった女性がそこにいた。彼女は苦笑いを浮かべているルートに目をやると、
「久しぶりね、ルート。……七年ぶり、になるかしら」
「そうだったかな。どうりで懐かしいわけだ」
「まさか、ここにいるなんて思わなかったわよ。おかげで探しちゃったわ。
…あぁっと、私はアステル・エルロン。スタンの叔母よ。二ヶ月もの間、どうも甥がお世話になったようで」
一転、朗らかな声で初対面に笑顔を送った。
「あ、…え、私ストレイライズ総本山に勤める、フィリア・フィリスと申します。それと…クレメンテです」
「あ、あたしはルーティです。こっちは…アトワイト」
『えっと……私たちの声が聞こえると、そういうことなんですか……?』
「ええ。それにしても、本当に三本あるのね〜」
言って、アステルは無言のディムロスに一瞬だけ視線を走らせた。その視線には気づかず、ルーティが少し得意げに付け足す。話がわかる人が大勢いるというのは、物心ついたときからアトワイトの声を聞ける――理解している人は一人いたが――のが自分だけだったという状況からひどく遠かった。
「あと二人いるのよ。犯人にはされてないし、会ってる暇なかったからここにはいないけど、リオンってクソ生意気なガキと、ファンダリア国王のウッドロウもソーディアン、持ってたから」
「……現存する五本全部、か。よくそこまで揃ったこと。ということは――そうそう。そうよ、ルート。何がどうなってこうなったのか、詳しく話してほしいところね♪」
満面に華やいだ笑顔を張りつかせてはいるが、これは怒っていると直感的に気づいたルートは、引きつった笑みと共に、
「いや、あのな、…まあ、とにかくざっと話すから。
二ヶ月ちょっと前にな、ストレイライズ総本山から神の眼が奪われるって騒動があったんだ。そん時はいろいろあって、ソーディアンマスターの、スタンとこちらのお嬢さん二人とそのもう二人が取り戻して一件落着だったんだがな。
その神の眼が一昨日の夜中、総本山に運ぶ準備をしていた飛行竜ごと盗まれた。しかも、その犯人に――その、三人が仕立て上げられている」
話の途中アステルの細い眉が何度か寄せられたのには気づかないふりをして、さらに、
「それと、これはまだ証拠を掴んだワケじゃないんだが……今回のことも、陛下が一枚噛んでると思った方がいいかもしれない」
とんでもないことをつけ足した。ルートが言う"陛下"といえば、これはもうセインガルド国王しかいない。絶句する三名はひとまず横に置いておかれて、
「あれは"かもしれない"という程度はありませんでしょうね。そう思ってかからないことには、こちらの足下をすくわれかねませんわ」
リラがさらりと告げる。
「だからロスマリヌス、なのね。…わかったわ」
重苦しいものはため息として。
苦みが去来する。
「さて、と。このままここで話し込むわけにはいかないから……そうね。ルートの家、借りましょうか」
「仰せのままに」
冗談めかして答えて、ルートは細い白のリボンが通された鍵をスタンに投げてよこした。
「ちょっと、先に行ってろ」
どこか釈然としないものを覚えながらも、スタンはルーティに引っ張られて書斎の外へと出ていった。扉が完全に閉まり、話し声も遥かに遠ざかった頃。
「どうしてこうなってるの?」
詰めるようににらみつける。
「知らん。俺が城で見たときにはすでに一緒だった」
「スタンに聞くしかないのね……」
「あのことをか? いたずらに刺激しない方が得策だと思うが」
「そうも言ってられないでしょう、この状況なら」
「でもないだろう。知ってるはずなのがもう一人いるんだし。…それほど知らない仲じゃないんだろ?」
重苦しいものはため息として。
「…そうね。けれど……なんだって、今度はあの子なのよ……」
きっかけを憎んでしまうことは容易いが、それはなんの意味もなさない。
絞りだされたつぶやきは、永い苦しみ。
「それにしてもさ〜、何がどうなってるんだよ、いったい?」
勝手知ったるリーン邸の中、居間のカーテンを開き、スタンが問いかけた。
「わかんないわよ。昨日はずっと急いでて、陽が暮れた頃にやっとジェノスに入って、で今朝早く船でこっちに来たんだから。ねぇ?」
早々とソファに落ち着いたルーティが、膝に頬杖をついて、つまらなそうに答える。実際、この事態は気に食わない。
「これから、どうすればいいんでしょう?」
『極秘の神の眼を盗むという輩じゃから、内部犯かもしれんのう』
『ですが、神の眼はそれ単体だけではたいした力を出せませんよ。向こうは……どう出るでしょう?』
アトワイトの疑問の後に、一瞬、間が空いた。
『施設が必要になる。それも、この時代の技術力を大きく逸脱した、"遺物"の』
ざっと、声の主に視線が集まる。ソーディアン二人の意識も向けられる。
『そんなもの……そんな代物、一つしかないじゃないか』
深い苦みから吐き出されたディムロスの言葉に、クレメンテがひどく重いため息をもらした。
『……天上都市、じゃな……』
天上都市。古の天地戦争の、直接の要因に上げられるそれは、文字通り空高くに浮かぶ都市であった。落下した彗星により太陽が閉ざされた後、舞い上げられた粉塵の層の、さらに上に出れば陽の光が得られると、人々が造り上げた希望の大地。
だが、希望は絶望に姿を変える。天上都市の実権を握ったわずかな者らが、一人の科学者――天上都市を造り上げた者の一人を王とし、独裁を始めたのだ。天上に住む者は自らを天上人と呼び、地上に残る者に圧制を敷いた。地上人は凍える世界と天の雷に苦しみ抜いた末、一斉蜂起する。
これが天地戦争の始まりで、結果は、ソーディアンとそのマスターの存在が地上人に自由と陽光を取り戻させた。
その天上都市の動力源にされていたのが神の眼であり、無限にも等しい莫大な力を秘める神の眼を扱いこなす施設など、むろん天上都市をおいて他にない。
だがそんなもの、歴史の中に埋もれた、ただの昔話である。――あった。
『厄介じゃのう。天上都市は海に沈めたんじゃが、その正確な場所がわからんでは、確かめようがない』
『クレメンテ、御存知ではないのですか?』
さも意外そうにアトワイトが聞き返す。彼は地上軍の最高幹部の一人だったのだから、当然知っているものとばかり思っていたのだが。
『わしがおったのは海に沈める決定をしたところまでじゃ。面倒なことこの上ない、具体的な海域決定までは参加しとらんぞ』
最後まで聞かずに、アトワイトが重ねて訊ねる。
『どこかに資料が残されている可能性は?』
『……知識の塔にならあるかもしれん。誰かに頼んでみるかのぅ?』
「よし、頼まれた」
アステルと居間に入ってくるなり、ルートが言い放った。視線が集まった彼は、それをまったく意に介さず、
「さっき話した以上のことは、まだ掴めていない。なんせ、すぐ出てきたんだ。最低限の根回しも手分けしてやっているんだが、時間も人出も足りなくてな」
「根回し?」
そういえば、状況に流されるままここまで来てしまったルーティやフィリアだが。
「ファンダリアにはアッシュが行った。明後日にはこっちに着くだろうから、おまえらも港までぐらいには迎えに出てやれな。
セインガルドの方でも動いてもらってる。手掛かりやらなにやらあれば、連絡が来る。そのさっき言ってたことも、伝えておこう。連絡手段は確保してあるからな」
あんな短い間でさすが、といったところだろうか。
『ということは、今は待つしかないと……』
焦燥を沈める声に、
「この街の中なら、一応は安全だから、自由にしてくれていいわよ。スタン、ちゃんと面倒みなさいね」
和らげるように、アステルが言った。
誰もいない、居間。
飾り棚に並んだ写真立てを、彼はすべて伏せた。
懐かしさは、癒えない傷跡にしみてしまう。
まだ、なにも終わってはいない。
七年とは、長かっただろうか?
十一年とは、長かっただろうか?
「あ〜あ」
気の抜けた声と共に、ルーティがどさっとベッドに仰向けで倒れ込んだ。使われていない匂いがするシーツには微かな不快を、身体が沈むようにやわらかなマットレスには安堵を覚える。
『どうしたの、ルーティ?』
部屋にある小さなテーブルの上に置かれた彼女から、声がかかった。
「ね〜、アトワイト。故郷って、やっぱりいいものなのよね」
のどかという言葉が似合う村で、いくつもの笑顔を見た。
散り始めの、降るような桜の中を歩いた。
スタンが故郷のことを話すときは幸せそうだったのがなんとなくわかる。
確かにあのスタンの故郷らしい、のんびりした世界だ。
『あら、あなたはクレスタが"故郷"でしょう?』
「クレスタを故郷っていうのは、なんか…さ」
微妙に齟齬感がある。
「ま、いいわ。借金は全部返せたし、あれだけの金額があれば当分経営に困っちゃうこともないでしょうし」
『でも、すぐに帰るって言ってきてしまったものね、心配してるんじゃない』
「そりゃ、本格的に手配されたらクレスタにも話が伝わるんだから……また心配かけちゃうね、ユーフには」
『冤罪が晴れたら、ちゃんと帰らないとね』
「……そうね」
よっと勢いをつけて上体を起こす。室内灯の光の中、少し開いたカーテンの向こうに闇色のガラスがのぞいていた。
「――ん?」
ここはルートの実家の客室である。ルーティの他にはフィリアとリラがこちらに世話になり、スタンにアステルはリーネに戻っていた。ルートは、昼の便でジェノスにとんぼ返りしてしまっている。
『どうしたのよ?』
ガラスの向こうを凝視しているルーティにアトワイトが怪訝な声を上げた。
「……ん〜ん。何か動いたと思ったんだけど…気のせいだったみたい」
いまいち釈然としない面持ちで、ルーティはカーテンをしっかり閉め直した。
夜の帳は、深く、静かに街を包む。
幸せな時間は、絶望の瞬間に終わりを告げた。
やわらかな花が、綺麗な棘に姿を変えた瞬間。
闇夜にそびえる、赤光の塔。
騒然としたざわめきから離れたそこで、金色は赤銅の照り返しに輝いた。
これで、もう、導はなくなったはずだ。
これで、もう、会うこともないだろう。
何かが、壊れかけていた。いつからか。
忘れたくても、忘れられない記憶。
思い出が優しすぎて、今が哀しすぎる。
あれは幸せな時間。
あれは絶望の瞬間。
すべて思い出の中。