それは幸せな時間。
それは絶望の瞬間。
忘れえぬ記憶だったもの。
優しい思い出だったもの。
すべて、記憶の中。
それは、稀にみる大雪の時。
ロスマリヌスもなにもかも、静かな雪に包まれていた。
街外れの、小さな森の片隅も。
雪花を咲かす、二本の若木に挟まれた墓石。
その前で、幼い少女が一人、たたずんでいた。
白い中に浮かび上がる少女の金髪は、冷たく濡れていた。
かなり老いた樹の傍らに、少女と同じ髪と瞳の少年が姿を現す。
「リリス……」
少年の呼び声に、瑠璃の瞳に涙をいっぱいにたたえ、少女は振り向いた。
「お兄ちゃん……っ」
少女ははじかれたように少年に駆け寄り、抱きつく。
「どこにも行かないよね?
お兄ちゃんは、私を置いて、いなくいったりしないよね……?」
いつか来ると思っていた日。
いつか"死"に気づくのだから。理解するのだから。
いつまでも、"嘘"は通じないのだから。
少年は泣きじゃくる少女を抱きしめたまま、墓石に目を移す。
ずっと前から刻まれていた、父の名前。
刻まれて一年経っていない、母の名前。
思い出したのは、小さく咲青い花と、涙に濡れた母の笑顔と、約束。
そして、鮮烈な白と赤――
十一章 記憶の目覚め
「お兄ちゃん!!」
ばんっと勢いよく扉を開けて、リリスがスタンの部屋に乗り込む。
案の定寝こけているスタンの脇までつかつかと入り込むと、
「お兄ちゃん! もう起きて!!」
叫ぶが、寝返りを打たれて逃げられてしまう。
「んもう!」
「リリスちゃんでもなかなか起こせないんだ〜」
腕を組んでしみじみ入ってきたルーティは、壁に立てかけられているディムロスに声をかけた。
「さ、れっつごぉ!」
『あのなぁ……』
げんなりとした声を上げるディムロスだが、
「なによ、あんたの日課だったでしょ」
ルーティにそう言われ、なにやらいろいろとうめいた後に、
『――えぇい、さっさと起きんか、このバカ者ぉっ!!!』
怒鳴り声一発。リリスが思わず耳を塞いだほどだ。ルーティは直前にしっかりと耳を塞いでいたが。
「…………………………………………………………ぁん?」
スタンは眠そうな目を瞬かせ、部屋を見回し、そして――
『待て待て! そこで何故また寝る!』
「ほぇ……? ん……」
「ほら、お兄ちゃん」
リリスに腕を引っ張られて、無理矢理上体を起こされる。
『いつまで寝ぼけてるんだ、さっさと起きろ!』
「ぅ〜……わぁったよ、ディムロス……」
やっと頭の一部が覚めたのか、まともな答えが返ってきた。と。
「早くちゃんとして! 片づかないでしょ!!」
なぜだか急にひどくむっとしたリリスの声に、スタンがびっくりして目を開けた。
「えぇ? どしたんだよ、リリス……?」
こわごわと聞いてみるが、
「もう、知らない!!」
つんとそっぽを向いて、部屋を出ていってしまった。
茫然とそれを見送るスタンに、アトワイトは、
『あれは嫉妬じゃないかしらね』
「そうなの?」
ルーティが彼女を見下ろす。
『ええ、絶対にそうよ』
アトワイトは確信のこもった声で言い切った。
ロスマリヌスにて二日目、初めての朝。
朝の光は窓の外。
吹く風はレースのカーテンを揺らす。
肩を落とし、リリスはため息をついた。
スタンが帰ってきたとき。
("しばらくは"……か……)
どこにも行かないよねと、しばらくぶりの兄に少し潤んだ瞳で訴えたとき、苦笑しながらそう返された。
「そろそろ、なのかな……」
不確かな、違和感。かたちがない。不安ばかりかきたてて。
(なんか……ヤかも)
怖くて仕方がないのかもしれない。かたちを持ったら、現実とすり替わるような錯覚と。
「どうしたの、叔母さん?」
確かな、憂い。
「……リリス。あの子、起きたの?」
「うん」
つまらなそうに頷く。
「叔母さん、昨日から変じゃない? なにかあったの?」
「そんなことない…こともない、か。う〜ん、リリスの目は誤魔化せないわね」
無理に苦笑してみせた。
「ん。……"気をつけて"ね。少し…やることができたの」
「え――…うん、わかってる」
微かに頷いて、リリスはその場を離れていく。
それを眺めていて、聞こえはしないだろうと思うと、つい口をついていた。
「…親子揃って……どうして出会うかな……」
聞こえていやしないと、アステルは思っていた。
伏せられた写真立てを、そっと手にとる。
「……お久しぶり、ですね」
我知らず、つぶやいていた。写真の中の――
「あれ、リラ」
不意に後ろからかかった声に、さっと手にしていたものを元に戻す。そして、何事もなかったように振り返ると、
「あら、ルーティさんにフィリアさん。どうされました?」
「…それは?」
「はい?」
「そ・れ。リラの後ろの飾り棚にあるそれ」
慌ててリラが振り返ると、写真立ての足がひょっこと立ち上がっているではないか。
(あ……)
「写真立てですけど」
内心の動揺はおくびにも出さず、悠々と答える。
「それはわかってるわよ」
ルーティは近づくと、ひょいと持ち上げた。フィリアも興味を覚えたのか、さっと寄ってくる。
「誰、これ?」
「どなたでしょう?」
そして、二人揃って写真の人物に誰何する。
写真には、五人の少年少女が写っている。その中の一人――金髪の少年にルーティが目をとめて、
「…これって、スタン?」
「違うよ。それ、俺の親父」
まだ少し眠たそうな声が突然割り込んできた。スタンはルーティの手から写真を抜き取って、表に返すと、
「え〜と、俺の親父とお袋、叔母さんに、ルートさんとそのお姉さん。今から…そうだな、二十六、七年前じゃねぇの」
「あんたのお父さん? 似てるわね〜」
写真の少年の年齢を少し上げるか、目の前の少年の年齢を少し下げるかすれば、双子のようになるのではないだろうか。
「よく言われる」
「あたし、あんたのことは母親似だと思ってたケドね。結構女顔だし」
それにはスタンも肩をこかし、
「そうかなぁ……?」
「シオン様がとてもお母上に似ていらっしゃったと聞いてますわ。だからですわね」
リラがさりげなく言ったそれに、
「……あれ? どうして知ってるんだ?」
驚くよりも先に、スタンが訝しげに聞き返した。
「何を?」
即座の問い返しは、横からだ。
「……シオンって。俺の親父の名前」
問いかける眼差しに、だがリラは曖昧に笑みを浮かべたまま黙していた。
「すっごく綺麗〜☆」
ロスマリヌスの岬に建つ白亜の灯台。その最上階だ。雲はほとんどなく、青空のもと、街が一望できた。
「桜が多いのですね」
風に舞う髪を押さえ、花の名前を持つ街を遠く眺める。
こうしてみると、ロスマリヌスは斜面にある街だと見て取れた。北の方がわずかに高く、南東に行くほど低くなる。西の方には森、そのさらに向こうには山脈が続く。
森は、今ちょうど見事な薄紅に染まりきっていた。昨日に降った雨は静かなもので、桜はさして落とされなかったようだ。
「えっと、あの森のもうちょい南の方にリーネがあるんだ」
「ふぅん。あ、さっきの家、ここからでもちゃんと見えるのね。こうして見ると、ホント大きな家じゃん」
スタンの側に立ってルーティが屋敷を指さす。
「あら、あの建物はなんですの? 普通の邸宅とは違うようですが」
リラが指した先を追うと、三階建ての規則正しく窓が並ぶ四角い建物があった。周りからすれば、趣が違う。街の、大きめの通りに面した中流域だろうか。
「ああ、あれ? …今は孤児院」
「"今は"?」
ちょっと躊躇ってからスタンは答える。
「あれ、オベロン社の支店だったんだ。人もいっぱいだったから、支店と宿舎と倉庫を兼ねて、あんな建物だったんだってさ」
「ってことは、今はどこにあるのよ?」
「オベロン社の支店なんて、この街にないよ」
「えぇ? うっそ」
さも当然に言われた言葉を、にわかには信じられないルーティに、
「嘘じゃないって。七年前…だったかな。畳んでった」
「どうしてなんでしょうか?」
フィリアが当然の質問をする。
「さあ。とにかく、ジェノスまで行かなきゃオベロン社関係はないな」
「変わってるわね〜。
そうだ。変わってるっていえばそもそも、なんでロスマリヌスだったら安全なわけよ?」
この問いには、スタンは困ったように視線をさまよわせる。
「ここの開拓者のリーダーが王家の血を引いてたってのは聞いたけど、アクアヴェイルやノイシュタットとはまた場合が違うみたいでしょ」
アクアヴェイルももとはセインガルドの植民地だったのが、やはり王家に連なるシデン家を長として独立しようとし、戦争になったという歴史を持つ。ノイシュタットの方は商業都市として、セインガルドに属していると言っても間違いではない。
だが、ロスマリヌスは確かノイシュタットと同列のはずである。それなのにセインガルド本国からの干渉に不安がないのは何故なのか。
「え〜と……あの……俺、よく知らないんだわ」
右手だけをぱたぱた振って苦笑いをスタンは返す。
「あら、それでは私がお話しいたしましょうか♪」
リラがずいっと一歩前に出る。
「昔話ですけれど、ローズマリー家は時の王家の傍系となります故に、高位の王位継承権を有しておりました。その当時、後継争いがかなり激しかったらしく、いろいろとあった結果、本国を見限ったローズマリー家当主はフィッツガルド北部開拓移民を援助し、この街を拓きました。そして、子々孫々を含めた、一族すべての王位継承権永久放棄と引き替えにロスマリヌスの完全自治を本国に認めさせたんですの」
だから、この街には領主がいる。
ロスマリヌス地方――フィッツガルド北部を治める、領主がいる。
「それは安息の地の代償としてなら安いものだったのでしょう」
にこりとして、リラが言った。彼女は正真正銘セインガルドの王族である。
「へぇ〜、全然知らなかったや」
茫としたスタンのつぶやきに、ルーティが肩をこかす。
「あんたねぇ、自分の街のことでしょ?」
「んなこと言ったって、昔のことだしさ。そりゃ、まったく無関係ってわけじゃないにしろ――って、そう言うルーティだって自分の住んでる街の歴史知ってるのかよ?」
「こんな特殊なトコじゃないもん、クレスタは」
べっと小さくルーティは舌を出す。
そこに、フィリアのつぶやきがすべり込んだ。
「船ですね」
「え?」
確かに、街から少し離れた岸に中型の船が見えた。
「あ、珍し〜。あれ、レンズのヤツよ。新しいヤツね、大金持ちの道楽用」
レンズ動力を積んだ、小さめのわりにかなり勝手がいい船だ。ここからジェノスぐらいまでの穏やかな海なら十分渡り切れるだろう。
「へぇ……」
この時の"まぁいいか"がなければ、なにが違っていただろう。
旧き時は終わらないまま。
いつまでも謳う、記憶を。
眠り続けている、記憶を。
ピンッと紙の端を指ではじいて、ルートは忌々しげに舌打ちをした。
「どういうこった、これはっ?!」
「どうもこうもない。書いてあることそのままさ」
疲れ切った声で、その向かいに立つアッシュがため息をつく。ルートからぴっと紙を取り上げると、
「ストレイライズ総本山の知識の塔が昨夜、何者かに襲撃を受けた。塔に収められていた蔵書・資料類はほぼ全滅。その他の被害はたいしてなかったところ、狙っているな」
早朝、このジェノスで受け取ってから何度も目を通した字面をまた、追った。
「神の眼の力が実際どれほどのモノかは知らないが、その…彼が言うとおり、現代の技術で扱える代物ではないだろうな。これで一応、こちらは追うための手掛かりを失ったことになる」
そして、わかりきったことを口に出す。
「けど――」
「問題はそれだけじゃないんだ。実は」
低く抑えた声で、アッシュは続ける。
「……確かに、それはまずいな」
それの意味するところを思い、ルートは苦々しく吐き捨てる。
約束を果たすには、どうすればいいのか。
しなくてはいけないことはありすぎるのに、あまり余裕はなさそうだ。
「なぁな、あいつ、どうしてるかな?」
港に続く大通り。
「あいつって?」
人出はそれなりにある。
「リオンだよ。冤罪はかかってないそうだけど、それでもやっぱ厄介なことになってんじゃないかな〜」
どこかからの――ジェノスから以外にも――船が入ってきて、にぎやかになっているのだろう。
「そういえば、そうですね。ウッドロウさんの方にもセインガルドから何かあったかもしれませんし…」
ぱっと見セインガルドやファンダリアとはどこか雰囲気の違う、水夫の一団ともすれ違った。
「他人の心配してる場合? こっちの方こそ心配してもらわなくっちゃ。ま、あいつがあたしたちを心配なんかしないでしょうけどね」
ぱっと身を翻し、ルーティが立てた指を振る。
「たぶん大丈夫ですわ。ファンダリアの方にはアッシュが行きましたし、リオンさんならオベロン社の後ろ盾がありますもの」
含みを露とも感じさせない声音でリラが言った。
『シャルティエとリオン君も来れるといいんだけど……』
ダリルシェイドを出る前に接触しておくべきだったかと、今更ながら思う。
「ま、オベロン社の関係者って知られたら、絶対にいい顔されないからな〜、ここじゃ」
桟橋の近くまで出ると人がかなり多く、ちょっと気を抜くと人混みに呑まれてしまいそうである。
「そういえば、ウッドロウ陛下もこちらに来られるのかしら?」
リラが小首を傾げると、
『今度の騒動がどこまで大きいものか。状況が悪化しておれば、おそらく出てくるのではないかのぅ』
そして、イクティノスが単にショックによる麻痺というだけなら、もう目覚めているはずだとクレメンテが続ける。取り戻したイクティノスは、結局スタンたちがいる間には目覚めなかったのだ。損傷しているのか、単に機能麻痺しているのか、それはよくわからなかった。
「状況なら、かなり悪いですよ」
不意に声が割り込んでくる。スタン、ルーティ、フィリアがびくっとするが、リラは平然としたものだ。
「驚かさないでくださいよ〜」
「七将軍って、人を驚かせるのが趣味なワケ?」
ルートといい、今目の前に出てきたアッシュといい、突然に声をかけてくる。
「昔にさんざ驚かされてきましたからね。つい同じことをやってしまうんですよ。
それはともかく、お迎えどうも。ちょうどよかったですよ。ルートが急ぎで行ってしまって、ほとほと困っていたんです。ここはかなり久しいんで」
アッシュは言うと、促すように後方を振り返る。つられて視線を移したその先には――
「ウッドロウさんに…チェルシー!」
人混みを避けたその隅で、ウッドロウは軽く、チェルシーは元気いっぱいにこちらに手を振っていた。
「来てくださったんですか」
外では他愛ない話をしながら、とにかくリーン邸に入った。
「忙しいんじゃないの? なんたって、新王様なんだし」
「セインガルドから同じ日にまったく別の話が二つ持ち込まれてな。私がいない方がセインガルドは静かになってくれそうだったから、逃げてきたのだよ」
一つはアッシュのことだろう。ということは。
「君たちの捕縛要請を持ってきていてね。匿っていないか疑われたりと、ほとほと対応に困ってしまったよ」
ウッドロウが軽く肩をすくめる。
「そうなんですよぅ。皆さん、はりきって汚名を雪ぎましょう!」
「でもさ、あんたまで来なくてよかったのに」
からかいを含んだ声音でルーティがチェルシーに言った。はたして、
「そんな、わたしだけのけ者ですかぁ?!」
チェルシーはひっくり返った声を上げ、その後しばらくルーティに遊ばれる。
『……イクティノスは?』
憮然とした声音で、ディムロスが問いかけた。
「むろん、一緒だ。だが……」
『だが?』
「いっこうに目覚めないのだ。このままもう二度と目覚めないかと…不安になる」
言って、手にしていた、布でしっかりくるまれた細長いそれを軽く持ち上げてみせた。
『それは損傷の可能性もあるか……。一応コアクリスタルは無事なようじゃ。然るべき技術者がおれば目も覚めるじゃろうが――』
現代の技術レベルを軽く飛び越えたソーディアンを、扱える者などいるはずもない。
「…そうか」
アイスブルーの瞳に、落胆がよぎる。
『そのうち何か手だてが見つかるやもしれん。諦めきるにはまだ早かろうて』
『墓守を叩き起こせればいいんだろうがな』
クレメンテの言葉に、妙なことをディムロスが口走った。
『墓守? なんのお墓よ?』
『……"墓所"のだ』
質問には、ばつが悪そうに、答えになっていない答えが返された。
「"墓所"と"お墓"って同じことじゃないか?」
『なんのことなの、いったい? ちゃんと答えなさいって』
『……別にいいだろ。そんなに知りたかったらシャルティにでも聞け』
しつこく問いかけるうちに、ディムロスがそう言って逃げてしまった。そもそもが彼にとって失言だったらしい。それ以上のことを答えようとはしなかった。
悪い状況を示すのは、アッシュの持ってきた"嬉しくない知らせ"だ。広い居間に思い思いに落ち着くと、彼は話を切り出した。
「まず、一つめなんですが。真犯人が神の眼をどこに持ち去ったかに関して、知識の塔を調べることになったでしょう。ルートはすぐにダリルシェイドに残っている仲間へその旨伝えたらしく、今朝ジェノスで返信を受け取ったんです。
――ストレイライズ総本山が昨夜遅くに、何者かに襲撃を受けました」
フィリアの押さえられた口元から、風が抜けるような声が漏れる。
「幸い死傷者もなかったのですが、知識の塔に収められていた物はほぼすべてが焼かれました。こんな先手を打ってきたということは、向こうが遺跡を利用している可能性が高くなったということなんですが」
『それは、困ったのぅ……知識の塔になら、書類の一つや二つ、保管されとると思ったんじゃがな……』
手掛かりを失ってしまった。
「それ…なんですけど」
アッシュが目だけで、ちらりとスタンを見やる。
「司教殿の話でも、時の大司教の許可を得て、あそこで保管されていた中で、特に――ある意味危険な物の、大半が外に持ち出されているんですよ、二十年以上も前に」
『まさか――、いや…』
クレメンテは思わず否定を口にしながら、その当時は機能を完全に休止していたことを思い出した。
『…あれじゃな、退魔結界の破損を、不完全ながらにも修復した人物ではないか?』
再び目覚めたときには、モンスターの体内のレンズと反発する空間をつくる、退魔の結界が作動していた。眠る前には、壊れてしまっていたはずなのに。
「それと同じ人かは知りません。結界の話は初耳だったので。
ただ、持ち出した人物は――今の司教殿たちは名前までは覚えておられませんでしたが、おそらく間違いないでしょう、心当たりがありますよ」
誰かがそれを聞き返すよりも早く、
「昔、兄が言っていたんです。あの頑固な神殿からよく許しをとったものだと。さすが――」
苦みが広がるのが、言いながらわかっていた。覚悟はしていたけれど。
「……さすが、シオンだと」
「怪しまれてますかしら」
「さて…どうでしょうね。確かに不自然かもしれませんか」
静かになった部屋で。
「しかし、こうするしかもう、ないでしょう」
「望むと望まざると……これしか道がないのなら。
私たちは、ルートやアステル様の方をお手伝いすることにしましょう」
時間が、ない。
「何回見ても、とんでもない量よねぇ……」
屋敷の書斎に入るのは二度目のルーティが、しみじみとつぶやく。初めて見る二人は完全に圧倒され、呆然としていた。普通、ここまでの蔵書は個人ではないものだ。
「どこになるかなぁ〜……」
吹き抜けから見上げていたスタンは、言いながら螺旋階段を駆け上がる。それを追いかけて、
「見当もつかないの?」
階段は見た目よりもしっかりした造りらしく、軋んだ音もない。足場もかなり幅があって、上るのはかなり楽だ。思えば、これだけの書物も運べるのだから当然と言えば当然か。中央にあるところから、支柱の代わりもしているのだろう。
「……スタン?」
三階の、どちらかといえば本より物が目立つ山の影に、金髪がのぞいた。途端。
「ぅわ!?」
盛大な音を立てて、積み上げられた物が崩れ落ちた。もうもうと舞い上がった埃が、射し込む細い光にちらちらと瞬いた。
「あらら〜」
「ちょ、なにやってんのよっ」
「大丈夫ですか?」
顔の前を手で払いながら、四人が駆け寄る。
「平気だけど…」
危うく様々の下敷きになりかけたスタンは、床に手をついて埃にむせかえっていた。
「やっぱ、三階は厄介だな〜」
スタンが周りを見回して、つられて四人も見回す。一階や二階と比べて、三階はどうにも雑然度が高すぎやしないだろうか。箱類がうずたかく積み上がっていたりもしている。
「…ねぇ、それ、何?」
明らかに何か期待したような響きで、ルーティがスタンのすぐ横に落ちている、かなり分厚い表紙を指さした。中のページもやけに厚い。
「ぁん?」
片手で持ち上げようとして、だが一回持ち直す。
「これ…アルバムだ。こんなところにあったんだ……」
「見せて見せて!」
ルーティは答えを待たずにアルバムの横に座り込む。当初の目的そっちのけのその素早い動きに、思わず苦笑しているスタンへ、
「スタンのお父さんも髪長かったんだ」
さっさと表紙をめくったルーティが、親子三人が写った写真を見つけた。取り残されていた他も、上から横からのぞき込む。
リーン邸で見かけた写真からはだいぶ時間が流れている。長く伸ばした髪を首の後ろで束ねているのが見えた。母親の方は緩く上げているので長さはよくわからない。
「ふ〜ん…シオン、ファルン……お父さんとお母さんの名前でしょ?」
下に添えられているキャプションに書かれた名前を読み上げ、スタンに確かめた。
ページを順にめくっていくと、少しずつ写っている子供が成長していく。子供が二人に増えた辺りで、いくつか、四人以外の人物も写っているものもあった。
「これは?」
スタンの父親と並んで写っている、若い女性を指してルーティが訊ねる。
「アステル叔母さんだよ。叔母さんは、親父の妹さんなんだ」
よくは覚えていないが、確か七、八歳は離れていたはずだ。
そういえば、父は金髪に瑠璃の瞳、叔母は黒茶の髪に紅紫の瞳。色彩の点ではまるで同じところがない。父方の祖父母はどうだったか……
「こちらは?」
かなりの人数が写っている写真を指して、フィリアが訊ねてくる。これはどうも、ロスマリヌスではないようだ。父にまとわりつく五歳ぐらいのスタンと、母に抱かれた幼いリリス。アステルの他にも、まだ何人もいた。
「え……っと」
キャプションを見るが、かすれており、読みにくい。
「それはボーネセットで撮ったのよ。ダリルシェイドの西の方、湖の側にあるそこそこ大きな街なんだけど、……さすがにあんたは覚えてないか。
写ってるのは、あんたと兄さん義姉さん、それに、私、ルート、ラティ、フィンにアッシュ。あとは…この女の子がリ――」
「――いつからっ?!」
突然割り込んできたアステルに、皆、驚いたように後ずさっていた。
「ついさっきから」
答えつつ、彼女はアルバムを持ち上げる。思い出したように初見のウッドロウ、チェルシーと挨拶を交わしてから、
「また懐かしいもの、見てるわね〜」
みるみるうちに子供たちが大きくなっていく中、はたとアステルがめくる手を留めた。その、終わりに近いページを開いたままスタンに見せて、
「この子、誰だっけ?」
シオンに抱き上げられている、五歳ぐらいの黒髪の男の子。
「へ……さぁ?」
スタンも首を傾げる。妙な感じだった。見覚えはない。だが、初めて見た気も何故かしなかった。写真のすぐ下にある、母親の筆跡のキャプションに目を落とす。
――シオンとエミリオ ダリルシェイドにて――
十一年前、父親の死ぬ数日前の日付の他に、そう書き込まれていた。
「ところで叔母さん、何かあったのかよ?」
アルバムから目を離し、スタンがふと訊ねる。朝から"お仕事"だと出ていった叔母が突然帰ってきて口を挟んできているのだ。
「アッシュがね、よくない知らせの二つめを言い忘れてたって。
ちょうど今私だけ手が空いたトコだったから、こうして伝えに来たのよ。今回の一件に前後して、行方のわからなくなった人物が判明したんだって」
それから、言いにくそうに小さくため息をついて、
「オベロン社総帥のヒューゴ・ジルクリフト以下、上層連中と……リオン・マグナス」
「リオンがっ!?」
スタンがはじかれたように声を上げる。ルーティやフィリア、チェルシーも目を見開いていた。ウッドロウの表情も硬い。
「ええ。屋敷の者やオベロン社の人間も、大騒ぎして捜しているんだそうよ。急に、揃って消息不明になったらしくて、それがちょうどあの日と同じなのよ」
「それは――」
「はい、終わり終わり。固い話はこれだけ。一度戻ってらっしゃいな。リリスが、もうじきお昼できるんだって」
ついっと視線を外し、アステルはそこで口をつぐむ。
時間はもう、ないというのに。
それ以上は声に出せなかった。
高くなった陽が、小さく射し込む。
旧き時は終わらないまま。
いつまでも謳う、記憶を。
眠り続けていた、記憶を。
奥底から覚まさんがため。
片づけをしながら夕食を考える。
いつも、普通にやっていること。
でも、なんだか気落ちしてしまっている自分が"普通"と違う。
(私……)
今いる家も、"家"とは違う。
リーネの一番奥にある、七年の家。彼女にとっては、そちらの記憶が一番強い。それはそのまま、父の記憶がひどく弱いということにつながってしまうのだけれど。リコリスの家は、澱となってわだかまっているかもしれない。けれど、それが母の記憶そのもの。
誰もいない空虚に、風が抜ける。
(あれ)
居間の片隅に置かれているソーディアン二人が目に止まった。幅広の大剣――確かクレメンテだったかが、ここにはいないようだった。
(フィリアさんの部屋かな)
漠然とそんなことを思う。確か、今は皆、出払っているはずだ。
『だから、そういうことじゃなくて――!』
潜められた女性の声に、ふと気づいた。もどかしそうに問い詰めている。
『ああ、知らん知らん。俺は何も知らない!』
対する男性の声の方はなげやりというか、とにかく話を終わらせたがっている。
『アトワイトの考えすぎだ、とにかく俺は何も知らない!』
『…そうかしら。秘密を隠すときは黙り込んでいて、嘘をつくときは口数が増える、誰でもそうよね』
何の話をしているのだろう。
何にしろ、関係のないことだ、自分には。
そのまま背を向けた。
かつ…
止まった音に、ごく微かなノイズがまじる。
次の瞬間、彼は走り出していた。
慌てたノイズの主が誰もいない路地に入り込んできた時、
「ぅぐ…」
くぐもった声がして、重い音がする。
それを見下ろした人影からは、
「気づかれたか……」
忌々しげな舌打ちが響く。
去った後にはなにも残されていなかった。
「にしてもさ、ここ、ホントにすごいよね」
永すぎる静寂を破った空元気。現実に立ち戻れば、ルーティが一人だけで、床に寝転がっているスタンを逆さにのぞき込んできていた。
埃に汚れた窓ガラスは茜を照り返している。もう、そんなに時が流れていた。
「かなりすごいんじゃない、あんたのお父さんって?」
「よく…知らないけどな」
そうだ。何も、知らない。
「あんたってここに昔から入り浸ってるんだってね。リリスちゃんも愚痴ってたわよ。それってやっぱ……お父さんのことなワケ? 早くに死んじゃったんでしょ?」
知りたいから?
「………考えたこともねーや」
寝ころんだままぐっと伸びをして、一気に上体を起こす。
「でも、確かに……そうかもしれないな」
おぼろげすぎて。
掴みきれなくて。
どうして死んだのかも、知らなかった。
自分はここに、いったい何を捜しに来ているのだろう……?
「ねぇ、親って、どんな感じ?」
彼女の唐突な質問に、またここへ引き戻される。
「え――?」
「あたしは孤児だったの。一歳にもなったかどうかってぐらいの頃にね、捨てられてたんだって。孤児院を引き継いだユーフが育ててくれたから、今こうして生きてるんだ。
気がついたら一緒にいた――ユーフの話では拾われたときから一緒だったアトワイトなら、もしかしたら私の親のこと何か知ってるのかもしれない。どうしてか、ユーフは私の誕生日も知ってるし。けれど、訊く気にもならない。ならなかったの。訊いて、どうかなるってワケでもないしね。
親のことなんてどうでもいいと思ってた。どうせ…私のことを捨てた人たちのことだもの。でも、そういう風にでも思うってのは、やっぱり少しは知りたいからなのかな〜って、ときどき思うんだけど」
他に誰も――アトワイトがいないからこそ、できる話。
「なんで、突然そんな話してきたんだ?」
問われて、ふと首を傾げる。そして小さく笑って、
「なんでかしらね。なんとなく。あんたの親のこと聞いてたから、かな。
最初からいないのと後からいなくなるのって、どっちの方が辛いのかな〜なんてなんとなく、考えてたら。ま、こんなの、比べるようなもんじゃないわよねぇ」
再び沈みかけた雰囲気を振り払うように、ルーティが笑顔をつくる。
不幸自慢などしてなんになるのやら。
今はそうやって笑うしかない。
「……いて、当たり前だったんだ。いなくなるなんて、考えたこともなかった。俺もまだガキだったしな。どっちも突然死んだんだし」
人形のかんばせのように、表情が消えていた。
「本当に、簡単に人って死んじまうんだよな」
「……うん」
「いなくなって、そこで初めて大切なんだって思い出すんだ。そういうもんだよな、なんだって。誰かだって。
…本当に手が届かなくなってから、手を伸ばそうとするんだ」
そのとき、思った。
ずっと、重いものを持っているんだと。
「見事に真っ赤だな……」
空。
こんな緋は、好きじゃない。
まるで、あの日みたいで。
まるで、血の色みたいで。
薄い闇に、橙の灯りが浮かび上がる。
「……、どうすれば…いいのかな………」
沈んだ声。紅紫の瞳に、光が揺れる。
「逃げやしないだろうな。だが、放っておかれもしないだろう。
…なんせ、どちらもあの方たちの子供なんだし」
どこか哀しげな苦笑を交えた声が答える。
「やはり、あの日行かせなければよかったの……?
あの日、行かせなければ。
あの日、出会わなければ……」
悪夢をまた見ているようで、うなだれた頭を両手で支える。
「……すべて、あの時から始まっていたことなの………?」
十一年前の――いや、もっと前。
もっと、ずっとずっと前から。
「アステル様、私たちはいつまでも"ここ"にいてよろしいのでしょうか……?」
すでに、廻り始めていた。
すでに、決められていた。
「……なんで、今度はあの子なの……?」
苦悩のつぶやきは、匂いたつ花の香りにかすれて消えた。
すべて、偶然。
すべて、必然。
すべて、運命――
偶然なんて、因が見えないだけの必然――"運命"なんだ。
いつだったか、彼は言っていた。
遠すぎない昔。
近くもない昔。
ならば、今はその"運命"なんだろうか。
それは、いくら考えたところで答えなど出ない問いかけ。
忘れえぬ記憶だったもの。
今では、棄てたい記憶。
優しい思い出だったもの。
今では、哀しい思い出。