いつか見た夢。
 いつか見る夢。


 ただ一つの、願い。
 ただ一つの、想い。




 暗い天空。
 眩い雪華。
 天上都市を急ぎ離れた飛行竜に、閃光が届く。空に浮かんでいたそれらすべてが一瞬のうちに塵となって、風に流れていった。
 都市での別れから泣き出していた三人はその時も泣きやむことはなく――いや、かえって嗚咽は激しくなっていた。
「エミリオ、シャルティエは……?」
 しばらくしてフィリアがやっと落ち着きだした頃、スタンとルーティの側にいたヒューゴが不意に、空の彼方を見つめ続けている息子に訊ねた。
「あの人に預けてきた。それが一番いいんだ、きっと」
 ここには一緒に来なかったある人を指し、エミリオが答える。その声はとてもぎりぎりに抑え込んでいた。
「…大切な人の死を哀しむことを無理に我慢してどうする。それほど自由になるモノではないだろうに」
 泣き崩れているスタンとルーティ、まだしゃくり上げているフィリア、滅多に感情を表に出さないウッドロウでさえ押し隠しきれない涙が浮かんでいた。
 エミリオはゆっくりと周りを見渡して、また、空の――天上都市のあった辺りを見る。ふっとそこから視線を外すと、父親に寄りかかってもう一度泣き濡らした。
「地上に戻ったら、クリスの故郷にも行こう。ボーネセットに、ちゃんと眠らせてやらなくてはな」
「うん……」
 未来との約束。そうでもしなくては潰れてしまいそうなほど、心が痛かった。




 暗い世界。
 眩い欠片。
 闇色から光色が舞い降りる。
 そっと天に手を差し伸ばせば、それは――






終章 夢の彼方






 瞳を閉じれば思い出す。
 歩んできた道。
 駆け抜けた時。
 まるでそれが、夢であるように……




 天上都市は消えたが、粉塵はすぐには沈降せず、未だ世界は黒い雲の下にあった。
 それによって引き起こされた急激な寒冷化は、ベルクラントの砲撃によるそれに、さらなる死者を積み重ねていっていた。そして、このままではじきに訪れるであろう深刻な食糧不足。凶暴化したモンスターの猛威。
 天上都市郡消滅という地上の勝利の喜びも、あっさりと一蹴してしまえるほどの巨大な絶望がそこにはあった。
 いくつもの哀しみと苦しみ――犠牲の上に勝ち得たものは、生きるには困難な、あまりにも過酷な現実でしかなかった。




 ダリルシェイドでもまた、街灯の光が消えることはない。茶色い土混じりの雪の中、くすんだ光が、疲労と絶望の色濃い暗闇をぼんやりと照らしている。
「だいぶ積もったなぁ……」
「でも、あんまり綺麗じゃないよね」
「今はどこもこうだろ」
 しゃくしゃくと音を立て、三つの人影がストリートを抜けていく。その声にはしかし、周りとは違って絶望に沈んだ色はなく。
「積もった雪は好きじゃなかったな」
「どうして?」
「足跡が残るから」
 少年の答えに、訊ねた少女は二人の間で明るく笑い声を立てた。
「私は好きだな。足跡が残るから」
 言いながら、もう一人の、背の高い方の少年――いや、もう青年と呼べるだろうか、その彼の腕に少女が抱きついた。その拍子に、長い金髪がふわりと揺れる。
「ね、お兄ちゃん☆」
「……あの雪の日、足跡たどってコイツを見つけたんだ」
 呆れた声音で、少女をぶら下げたまま青年がつぶやくと、
「なるほど。甘えて育ったな」
 少年は顔にかかった黒髪を払いのけ、ニヤリと笑って言葉を返した。それに少女はむっと眉根を寄せるが、すぐに小悪魔的な笑みにくるりと変わり、青年に回している腕とは反対側の手で少年の腕をとる。
「なっ…?!」
 ぎょっと少年は身を引くが、帰って少女は強く引き寄せてしまう。
「そーよ。だって、幸せ者じゃないかしら、私。だから、その幸せにとことん甘えるの。ね? スタンお兄ちゃん、エミリオお兄ちゃん☆」
 少女が言い含めるように、両側に声をかける。少し前に悩んでいたことなど、もうどうでもいいことだった。
「リリスに逆らうと後が大変だぞ〜」
 青年の上げた無責任な声に、少年は、
「おまえも大概甘やかしすぎたんじゃないか?」
 ほとほと呆れ返った声で、少女の頭越しに言い返した。
「そう…かもしんねぇなぁ……」
 しかし少女は頭上で交わされている会話などお構いなしに、
「あ、あれでしょ、あのお店!」
 二人の腕を容赦なく引っ張ってその貴金属店に入っていった。
 時計の針は、ゆっくりと、確かに、時を刻んでいた。



 そしていつしか、夢は現に還る。



「ルーティ。帰るのね?」
 壮年の女性が、黒髪の少女の背に声をかけた。
 ちょっと出かけてくると言っていったきり、一度の手紙以外なんの音沙汰もなかった少女。やっと帰ってきたときには、自然に笑えるようになっていた。
「まぁね。みんな、待ってるし」
 振り返った少女の、紫の瞳の奥底に、世界にのしかかる陰鬱を寄せつけない輝きが煌めいていた。
「ちょっと…やってみたいことあるし」
「そう…。そうね、あなたがつかみ取った居場所だものね。ここのことはもう気にしなくていいわよ。町長夫人は、もう二度と取り壊わそうといったことはないようにするって約束してくださったわ」
「ユーフ…?」
 淋しげに笑った気がした女性に、少女は怪訝に聞き返す。
「ああ、そうそう」
 何かを思いだしたのか女性が奥に消えて十数秒、また駆け戻ってきたときには、白い花束を持っていた。
「なに、百合――の造花じゃん」
 渡されたそれをしげしげと眺め、少女がつぶやく。透けそうな純白の布で作りあげられた百合の造花は、哀しげだった。
「そうよ。花なんてもう手に入らないもの。それを…ロスマリヌスで、あの人たちのお墓に供えてきてほしいの」
 その言葉に少女が、イタズラがばれて恐る恐るといったように女性を見上げる。女性はその視線には気づかず、少し哀しげな笑みのまま、造花の百合を見つめていた。
「十一年、一度も行けなくて……せめて、ボーネセットには行くつもりだけれど、これからも、ロスマリヌスに行くことはないと思うの。でもね。あんなことになってしまって、…思い出すと辛い記憶になっちゃったけれど、そんなので片づけてしまえるほど、浅くて短いつきあいじゃなかったもの。
 あなたもそうでしょう? 大切な思い出がそうである理由、忘れるわけにはいかない」



 太陽も月も星もなく、ただ凍れる空がどこまでもある。
 無限の空に放たれた神の力は、永い時をかけて、ゆっくりと、渦を描き始めていた。



 鋭い軌跡に断ち割られ、モンスターが霧を撒き、レンズだけが転がる。
「くそ、やってらんねぇな…」
 天上都市の一件の後、モンスターの質が妙に向上してしまっている。モンスター一匹からとれるレンズの量が増えたのは復興に忙しいこの時期いいが、同時に怪我人死人が増えるのは、国軍を預かる身としても頭痛の種だ。
「忙しくなったよな。昔と比べて別の意味で」
 同じ立場の親友の愚痴に、ルートは振り向く。
「人間相手にするより、気は楽だがな。忙しすぎるのがやだ」
 狩る狙いの居場所がはっきりしているので、連れてきた部下は怪我をした村人の治療をさせ、二人だけで来ている。
 このあとは、二手に分かれてそれぞれ次の目的地だ。
「くそ、これだから軍人ってのは損だよな。一番守りたいのが守れねぇ」
「それは聞き飽きた。言い始めてもう七年だぞ。
 ついでに言っとくが、今のおまえがそれを言うと、ただのノロケにしか聞こえない」
「アッシュ、そりゃどういう意味だ?」
 半眼で冷めた視線を送るアッシュに、ルートが思わず聞き返す。
「そのままだよ。知らないとでも思ってるのか? たぶん俺は当分帰れないから、ここで言っておくよ。おめでとう。やったじゃないか」
 ルートの顔がぼっと赤くなり、進む方向に焦って向き直る。
 三十路越えてなに照れてんだなどというからかいがアッシュの脳裏をよぎるが、相手が相手だ、仕方のないことかもしれないと思って、つぐんでやることにする。そのかわり。
「どこで聞いた?!」
 横目でちらりと問うてくるルートに、
「近い将来、おまえの姪になる子から」
 アッシュはニヤリと笑って答えてやった。



 黒い雲の下で世界中が、不安の中、過ぎた時を振り返っていた。
 冷え切った風の中、秘かに確かに、何かが芽生え始める。



「お口に合うかわかりませんが、どうぞ」
 明々と燃える暖炉の側で、フィリアがトレイからソーサーとカップを下ろす。
「ありがとう。すまないね。
 ……今でも…信じられない。私がこうして、自分自身でいられることが」
 安楽椅子の上で、ヒューゴが淋しげに笑った。
「ところで、ルーティは今日帰ってくるんだったね?」
「はい。今日の馬車でクレスタからお戻りになられるはずです。……これからどうされるおつもりですか?」
 穏やかな微笑みを浮かべたまま、フィリアが問いかける。
「君は――確か、ストレイライズの総本山に戻るんだったね」
「ええ。母が…大司教を継ぐことになりまして。私も補佐に就くようにと……」
「そうか、君はフィリス家の御息女だったね。
 ……私は、どうかな。エミリオはロスマリヌスに行きたがっているようだが」
 この数日でだんだん年相応の姿を取り戻してきた息子。優しい思い出が優しい思い出として焼き付けられた理由――捨てかけた過去を、拾い集めたがっている。
「じきに世界規模での復興が始められる。私にも責任はあるからね、オベロン社を放っておくわけにもいかないだろうし」
 と、そのとき。
「総帥」
 部屋の扉が開いて、イレーヌが入ってきた。
「これ、よろしくお願いしますね」
 実に晴れやかな笑顔のまま、一枚の書類をヒューゴの前に差しだす。
「何かね…?」
 渡されるまま受け取って、書面に目を通す。しばらくして、彼の表情が少し翳る。
「君が私の代役を引き受けると、そういうことか?」
 その言葉に、イレーヌはにこりと笑ってすらりとした指を立てる。
「ええ。総帥代理ということで。あとはヒューゴ様の承認で終わりですから。ヒューゴ様、御自分では気づいてらっしゃらないかもしれませんが、老け込んでますよ。これから忙しくなるというのに、それでは困ります。
 それに、責任という点では私だってそうです。そして、これは私が代わりを務められます。ですので、ヒューゴ様は、ヒューゴ様にしかできないことを最優先にしてはいただけませんか?」
 後半の言葉はすっと表情が真剣なものとなって。
 しばらく沈黙が流れ、薪のはぜる音だけが時を刻む。
 ぎしっという音が、不意に背もたれにもたれかかったヒューゴの側から聞こえた。
「二人が戻ってきたら、これからのことを決めよう。そう約束もしてあるしな。
 …しかし、任せてしまっても、いいのかね?」
「もちろんです。女王陛下が全面的に、表から裏から手を回してもくださいます。ね?」
 不敵な笑みを浮かべて、イレーヌはフィリアに頷いてみせる。
「ええ、そうですね」
 口元の手の向こうから、忍んだ笑いがこぼれる。
「そういえば……今日だったな」



 すべてが終わり。
 すべてが始まる。
 そう、ここから――



 セインガルド城の一室。
「これはこれはリラ女王陛下。今日もまた一段とお美しいようで♪」
 その声に笑顔で振り返ったリラは、
「あら、ジョニーではないですか☆
 …あ…アルツールおじ様、お久しぶりです。お元気そうでなによりですわ」
 ジョニーの隣にいた人物に、すぐさま居住まいを正す。
「かしこまる必要は、今はないだろう。それにしても、君が即位したと聞いたときは本当に驚いたよ。これで両国がいがみ合うのを終わりに出来そうだね」
 ジョニーの父親であるアルツールが、苦笑にも似た笑みを浮かべて言った。
「はい。それはもちろん。そのための今日ですもの」
 "昔"と変わらない無邪気な笑みを浮かべてリラが頷く。
「ここに来るまで長かったな……。後のことは若い世代に任せて、私もさっさと引退して"横から口うるさいじじい"にでも収まりたいところだがね」
 シデン領主にして現アクアヴェイル大王の男は、すでに初老の域に達している。ファンダリアに続きセインガルドでも代替わりが行われたことを指して言っているのだろう。
「最近、親父はこればっかなんだぜ。兄貴がしつこい"これ"に根負けするのも時間の問題だぁな」
 横から茶化すようにジョニーが口を挟むと。
「おまえでもかまわんぞ。言うだけ無駄なようだから言っていないだけなのだからな。まあ、どちらが都合がいいかはおまえが決めればいいことだ」
 やり返され、おどけたように肩をすくめてジョニーはすごすごと後ろに下がる。
「ところで、他には誰が?」
「ファンダリア王国のケルヴィン陛下ももういらっしゃっております。それと…」
 リラが奥を振り向く。つられるように二人がそちらに視線を移すと、
「お久しぶりです、アルツールおじ様。
 三国の新しい船出にて立ち会いを務めさせていただきます。ロスマリヌス領主代行、アステル・リーンです」
 会釈をしたアステルの左手薬指には、銀のリングが光っていた。

 その日、セインガルド王国、ファンダリア王国、アクアヴェイル連邦の間で、ついに和平が結ばれた。



 夢が、現へと目覚めて。
 夢の時計は現を告げる。



「チェルシー、どうした? ずっと鬱ぎ込んでいるようだが」
 調印を終えて、セインガルド城の一室。
「ウッドロウ様〜、リリーさんもいなくなってしまったんです。もう、なんにも動いてないんです」
 あの時を境に、リリーも姿を現さなくなった。ファンダリア城とスズリをつなぐ通路はもう通れない。スズリに行くにはゲートを使うしかないのだが、そのゲートシステムも完全に沈黙していたのだ。ゲートだけではない、地下都市の全機能が停止している。
「夢、だったみたいに、なんにも……」
 それこそ、黒い天がなければ、なにもなかったかのように……
「そうか……」
 ウッドロウは少し考えてから、諭すような口調で再び口を開いた。
「忘れてはいけないことだ。忘れ去ったとき、本当に夢になってしまう。本当ならできない出会いだったのだろうが、それでも、出会ったことは確かな真実なのだ。だから、忘れないでいよう。いつまでも」
 出会いの奇跡。決して消えはしない。



 あまりにも辛い現在。
 あまりにも脆い未来。
 けれど、箱の片隅には小さな光。


 終焉の黄昏は、すべての朝に還る。
 始元の有明は、すべての夜に還る。


 静寂の水底で、それは絶え間なく続けられていた。
 墓所の奥底で、それはただ一つの永き夢のために。
 時が来て響いた音は、現を告げた夢の始まり。



 微かに潤んだ藍の瞳が、まず見えた。
「久しぶり、ね」
 微かに震えた喜びの声が、まず聞こえた。
「……………うん……姉さん」
 あふれ出した涙を止められないままで、彼は笑い返した。



「生き残ってしまったな」
「余計なことを…と言いたいが、そうも言ってられんか」
 泣いて喜んでくれた少女の姿を思い出し、老人はのんびりと笑った。
「これからどうする……?」
 昔に見飽きた黒い空を見上げ、
「さてな。せっかくじゃし、久しぶりに自分自身の目で青い空を見てみるのもいいかもしれん。やる気にさえなれば、やれることはあるだろうて」



 土色の雪に埋もれたファンダリア、ハイデルベルク。詰め所の奥から城の正門を見張っていた兵士は、ふと近づいてくる二つの人影を見つけた。
 ただでさえ寒いファンダリアは、半年前からの、伝説の災厄の再来とも言えるこの状況でよりいっそう厳しさを増していた。秩序と居住可能区を保っているのは、もはや首都近郊だけしかない。兵士は嫌々ながらもさらに外套を着込むと、外に出てその二人に歩み寄った。
「ああ、すみません。ウ――…ケルヴィン国王陛下、御在城ですか?」
「は…? 何者だ?」
 すらりと背の高い男を怪訝に見返し、兵士が誰何する。
「えっと…説明するとっても長くなるので、陛下に私たちの名前をお伝えしていただけないかしら。私たちのことは、後は陛下がお決めになってくださるはずだわ」
 男に寄り添うように立つ小柄な女性が、肩までの黒髪を耳に引っかけて笑みを浮かべた。
「私たちの名前は―――」



 ボーネセットの墓地の片隅に、一つの新しい墓がある。
 四人の青年がそこに来て、もう数日経っていた。


 雪深い森の奥。
 ささやかに、曲が奏でられている。
 静かに優しく、曲が奏でられている。
 彼の手のひらに収まった正方形のプレートから。
 彼はそれを胸の前に掲げ持って、その向こうに見える墓石を見つめていた。
 長く紅い髪は冷たく濡れて、緑の瞳は世界の色そのままに翳っていて。
 雪を割る音がして、彼の隣にもう一人立つ。
 同じ色の瞳を同じように翳らせて、その金髪の青年は何かをささやいた。


「――"別れ"はすんだ?」
 少し間をおいてから微かに二人が頷くと、金糸を結い上げた彼女は笑むだけで他には何も言わず、ただ道の先へと向いた。
 前を促した姉に、二人はその場から歩き出す。そして、離れたところで待っていた一人の女性と四人揃って、道を進む。
 一度だけ墓石を振り返ったのは、兄弟二人共だった。



 未来への、それは約束。



「お兄ちゃん、お兄ちゃんってば!」
 書斎の隅っこで何枚もの毛布にくるまっている兄を、リリスは容赦なく振り回す。
「ん…ぁ…?」
 しばらくして、一応目が覚めたらしいスタンが寝ぼけ眼をリリスに向けると、
「ほら! 見て見て!」
 喜色満面に、リリスが植木鉢をスタンの目の前に差しだした。
「ぁ……あぁっ!!」
 それを見て、スタンの眠気が一気に吹っ飛ぶ。
「やった! おい、エミリオ! 起きろよ!」
 興奮した面持ちで、隣で寝ている、本を枕に毛布の中のエミリオを揺り起こした。
「うるさいな……なんだ?」
 目をこすり上体を起こしたエミリオも、それを見て驚愕を浮かべた。
 植木鉢の黒い土の上、久しく見れなかった本当の花。
「他は?」
「あと二つ、咲きかけてるよ。
 ああ、それと。放っておくといつまでも寝てるんだから。夜遅くまで探すのもいいけど、ちゃんと食べてよね! 全っ然片づかないんだから〜」
 リリスは言いながら、側で乱雑に積み上がっている本をぽんと叩いた。
「いや……はは」
 スタンは束ねていた髪を一度解き、もう一度うなじのところで括りなおした。
「今、もう何時だと思ってるのよ。ルーティさんはとっくに、孤児院の子たちと一緒に、ヴェストリの掃除に行ったよ」
 リリスは呆れて、机の上に置かれている懐中時計に顎をしゃくった。
「げ…!」
 開いたままのそれを手に取ってのぞき込むなり、スタンは困ったように顔をしかめ、エミリオを見やる。
「それはいいな。ちょうど終わった頃に着くだろ」
 対するエミリオはひょうひょうとそんなことを言っている。
「…な〜んか、あたられそうだな〜」
 苦く乾いた笑いを立てたスタンが、付箋をいくつも挟んである数冊の本を持ち上げると、
「朝食、食堂に置いてあるから、二人ともさっさと食べちゃってね」
 リリスが植木鉢を持ち直して立ち上がる。そして、目線でエミリオも促した。彼は小さく肩をすくめて、
「わかった」
 周りに散らばっている、乱雑な字がびっしりと書き込まれた何枚もの紙を手際よく拾い集めた。それを紙や本の層が幾本もそびえる書机の一角に積む。そして三人揃って書斎を出ると、ちょうどヒューゴが戻ってきたところだった。
「二人とも、起きたのか」
「父さん」
 湿った外套が、今は雪が降っていることを示していた。
「さすがに、古代の技術レベルは高いよ」
 ヒューゴは笑って、青林檎を一つ、放ってよこした。手のひらで受けると、ぱしっという小気味いい音が響く。
「本来の動力を起動させることができれば、今の間に合わせよりももっと効率的に生産できるだろうな」
 都市遺跡にある、古代の食料生産プラントのことである。動力源の起動方法がまだわからないために、現代の技術力でつくった間に合わせのもので動かし、試験的に生産を始めていた。同じことが、ダリルシェイド地下のノルズリでも始まっている。
 どちらの都市もその全貌はまだ闇に包まれて、ごく一部が利用できるに過ぎない。最深部などへも、今も通じる道はなかった。山中のアウストリ、道が崩されたままのスズリはさらに謎のままだ。
「で、どうかね、そっちの方は?」
「あ…なんとかなる――かもしれません」
 スタンが笑んで、手にしている本を見下ろす。と。
「ちょっとあんたたち!! いつまであたしを待たせるつもり!? いいかげんになさいよねっ!!」
 肩を思いっきり怒らせたルーティが玄関の扉を勢いよく開け放つ。そのままずかずかとスタンとエミリオに詰め寄る彼女の後ろで、ヒューゴが笑って扉を閉める。
「スタンが朝にばっかみたいに弱いのはいつものことだけど、あんたまでなに一緒に寝こけてんのよ!」
「いちいちうるさいな……こっちは寝るのが遅かったんだよ。ヒス女が」
 思いっきり嫌そうな表情で、エミリオがルーティに答えた。
「ぬぁんですって〜っ!!? 誰がヒス女よ、だ・れ・が!!?」
「おまえ以外に誰がいる?」
「このクソガキ! 弟のくせに、おねーさまに対して生意気言ってんじゃないわよ!」
「ふん。姉ならもっと姉らしくしたらどうだ」
 不敵な笑みすら浮かべてルーティとやり合うエミリオの隣から、スタンとリリスがそっと離れる。リリスはヒューゴと一緒に、手にしている鉢を戻すのと世話をするために温室にしてある部屋へさっさと向かっていった。スタンもさっさとその場から逃げ出す。この姉弟のとばっちりを食ってなどいられない。
 騒がしくなったよなと呆れながらも、それほどこの状況を嫌がっているわけでもなくて。ただ、もっと騒がしくなることは、予想もしていなかった。
 ちょうど訪れた来客に、玄関ホールにいたスタンが扉を開く――



 その時、わずかに青がのぞく空を見上げていた。
 黒い空からは、土混じりの茶色い雪が降っていた。
 いつ去るかも知れぬ永い冬のさなか。

 けれど。

 音もなく舞い降りてきたそれは、煌めく白だった。




 終焉の黄昏、其はすべての朝に還る。
 始元の有明、其はすべての夜に還る。
 永遠の流転、其は終わりなき時の物語。
 夢現の回帰、其は契られた運命の物語。




 もう一度描き上げて。
 煌めく未来の記憶。
 いつか見ていた夢。
 これから輝く、夢であるように……




 やわらかな陽光。
 透き通った青空。
 色鮮やかな大地。
 輝き煌めく碧海。
 涯てしなき世界。




 そして、風翔る時。




 新たな夢が始まるそこは、夢の彼方―――












f i n .












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